4 溶けない氷 Ⅰ
淡いオレンジの壁と白い家具。テラコッタに植えられたオリーブ。部屋は南国風だけど、窓を開けると雪が降り込んで来ます。
下をのぞき、とても飛び降りられないと思いました。積もった雪が衝撃をやわらげてくれるとしても、この高さで飛び降りたら即死です。
エードバッハが僕の縄をほどいて自由にしたのは、どうせ逃げられないと思ったからなんだ。こうなったら何としてもモップを手に入れ、ドアを蹴破り脱出してやる。
振り返ると寝椅子にすわったナタリア夫人は大きな人形を抱き、時折「ラインハルト……」と呟きながら子守唄を歌っています。その異様な姿が気になって窓を閉め、スツールを運んで彼女の前に座りました。
「ラインハルトは、大きくなったかしら」
「はい。もうすぐ24歳になられると聞いています」
「そう。……もう小さな男の子ではないのね。頭を撫でてはいけないかしら」
夫人は哀しい顔で、そっと人形の髪を撫でています。男の子の姿をした人形は五歳児ほどの大きさで、ナタリア夫人によく似てる。輝くばかりの金髪。澄んだ青空のような瞳。
「人形の名前、ラインハルトなんですか?」
「ええ。この子達は、会えない息子の代わりだもの」
「達……?」
壁際の棚に古びた人形が約30体、ずらりと並んでいます。赤ちゃんから、3、4歳児ぐらいまで。夫人の膝に乗っている人形が最も大きくて、どれも金髪碧眼で似た顔立ちです。
「ラインハルト王子様は、あなたの御子息なんですか?」
「もちろんよ。知らないの?」
夫人の美しい眉がひそめられ、僕は慌てて言い繕いました。
「僕、最近トライゼンに来たばかりなんです。トライゼンの歴史とか王家の話とか、一生懸命勉強してるんですけど、あまり知らなくて……」
「あなた、平民でしょう」
「はい。わかりますか」
ナタリア夫人の唇がゆっくりとした動きで笑みを形作り、瞬きしない目は僕を見つめてるようで何も見ていないような。微笑は優美だけど何処か不気味で、僕を不安な気持ちにさせます。
「昔、貴族の立ち居振る舞いや言葉使いを真似ようとしたことがあるわ。努力の甲斐あって国王陛下に見初められ、是非にと乞われて王妃になったの。そのわたくしが、どうして旅をしているのかと思うでしょう?」
「え……はい」
目をぱちくりさせる僕から目をそらし、ナタリア夫人は遠い目をしました。
「国王陛下を愛するがゆえよ。王妃は、そばにいない方がいいのよ。その方が、陛下はのんびり愛妾と遊べるもの。ほほほ。困った浮気性さんだから、あの方は。アンは、いつ捨てられたのかしら? 酷い捨てられ方をしたと聞いているけれど」
どう返事をすればいいんでしょうか。アンって誰? 王妃様の名前がアンだけど……。
「あなたが知るはずもないわね、アンなんて遠い昔の愛妾のことなど。彼女の後、何人が召し抱えられ消えて行ったのかしら。悲しい女たちを見たくないというのも、わたくしが流浪の王妃となった理由の一つよ。でもね、いつか彼はわたくしの元に帰って来る。わたくしを迎えに来てくださる。だって愛妾の代わりはいても、王妃はただ一人だもの。王妃は、わたくしだけ。わたくしは、陛下のおそばにいるべきだと思う?」
「いえ……はい、いいえ、はい」
「どっち? まあいいわ。王妃だって女だもの、意地というものがあるのよ。彼が迎えに来てくれるまで帰らない。わたくしを傷つけたことを、彼が頭を下げて詫びない限り許さない。アンみたいな性悪の外国女を選ぶなんて、馬鹿で愚かな選択をしたと泣いて悔いてもらうわ。そしてわたくしは彼に手を取られ、祖国に戻るのよ」
ナタリア夫人は深くうなずいて幸せそうに微笑み、僕は哀しくなりました。この女性の心は、別世界にあるんだ……。
体だけがこちらの世界にあって、老いるばかり。夫人の目尻にお化粧では隠せない笑いじわを見つけ、ますます悲しくなりました。これほど美しい人なのに、何て不幸な人生を送ってるんだろう――――。
「エードバッハ氏は、何とおっしゃってるんですか? 彼はあなたの、その……どういう立場の方ですか?」
「非難してるのかしら?」
「ええっ、まさか。ただその、エードバッハ氏と一緒に暮らしておられるんですよね?」
「マティアスは、王妃付きの護衛官よ。同時に……そうね、あなたにだけ教えてあげる。愛人でもあるの。だって夫が浮気性なんだもの、妻が愛人を作ってもおかしくないでしょう?」
「はあ……」
トライゼン貴族はそういう習慣だけど、王家は別で、王妃や王子妃に愛人がいるという話は聞いたことがありません。
エードバッハはこの事について、どう思ってるんだろう。ナタリア夫人は出産後におかしくなったそうだけど、エードバッハと結婚した時には既に今と同じ状態だったのかな。それとも、少しずつ変わって行った?
彼は、なぜナタリア夫人と結婚したんだろう。最悪の場合、24年間も妻に愛人扱いされたことになるけど、離婚しようとは思わなかったのかな。何か目的があるの?
扉を叩く音が聞こえ、僕は「あっ」と叫び、勢いよく立ち上がりました。入って来たのは、ボーデヴィッヒ!
「侯爵! よくも僕をこんな目に合わせたなっ。後悔させてやる!」
「静かにしろ、チビ」
一喝され「チビ」なんて言われ、すごすごと引き下がる僕じゃありません。口元をキッと引き結び、親の仇のように睨みつけてやりました。
ボーデヴィッヒ侯爵は鼻で笑って僕を押しのけ、ナタリア夫人に深々と礼をしながら僕が座っていたスツールを足でどかし、彼女の手を取ってうやうやしく口づけています。
「いつも変わらずお美しい、ナタリア王妃様。粗末な拙宅に逗留してくださり、光栄至極にございます。御不満な点がございましたら、貴女様のしもべである私に何なりとお申し付けください」
何て調子のいいことを。呆れつつ、僕の頭が目まぐるしく働きました。
ここは、ボーデヴィッヒ侯爵邸なんだ。やっぱり侯爵は嘘つきで、国外追放の犯罪者を匿っていた。僕が王宮に戻って報告すれば、奴の監獄行きは決定だ。
「いいえ、ボーデヴィッヒ。静かな部屋で、くつろがせて頂いているわ。ところで、マティアスはどうしたのかしら?」
「玄関でラインハルト王子の到着を待っていますよ」
「まあ! あの子に会えるのね?」
夫人の表情が花開くように明るくなり、紅い唇の間から白い歯が見えます。
「殿下はお忙しい方ですが、急いで駆けつけるそうですよ。待っている間、旅の話をお聞かせ願えませんか? 先日聞かせてくださった遠国の王族の話は、実に愉快でした。貴女様は、楽しい話し手でいらっしゃる。フェルキアに行かれたことはありますか?」
「もちろん。フェルキア王家の方々は、わたくしを歓待してくださったわ」
本当かな……。ナタリア夫人の話のどこまでが本当で、どこからが想像と別世界の産物なのか区別がつきません。
厚かましい侯爵は夫人の隣に腰かけ、僕に険しい一瞥をくれたかと思うと、別人のような笑顔で夫人に微笑みかけています。
わかりましたよ、視界から消えればいいんでしょっ。
侯爵を一睨みして扉を確かめに行ったけど、鍵が掛かって出られそうにありません。
フェルキアの公爵がどうの前国王の妹がどうのとナタリア夫人は話し、ボーデヴィッヒは目をきらきらさせて彼女の話に聞き入っています。
考えてみると不本意で形だけとはいえ、僕はボーデヴィッヒ侯爵の婚約者なんです。その僕を追い払い、目の前で別の女性といちゃいちゃするなんて、やっぱり最低の放蕩者だっ。
いきなり扉を叩く音がして、鍵を開ける音の後で侯爵の侍従カーネルさんが入って来ました。銀の盆に紅茶セットを乗せているけど、僕の視線は彼を通り抜け、廊下に釘付けです。
カーネルさんの後ろに屈強な使用人が立っていて、その後ろをメイドさんが通り過ぎて行くのが一瞬だけ見えたんです。白いエプロンをつけたメイドさんは、モップを持っていた!
僕は目にも留まらぬ早さでカーネルさんに襲いかかり、無防備な向う脛を思いっきり蹴飛ばしました。
「うわあっ」
カーネルさんが叫び、銀の盆が宙を飛ぶのが見えたけど、気にしてはいられない。僕を捕まえようとする使用人の腕を子ネズミのようにすり抜け、驚いた顔で振り返るメイドさんから力まかせにもぎ取った戦利品。
やった! とうとうモップを手に入れた! 侯爵をぶっ叩きたいけど、それは次の機会にして、まずは逃げなきゃ。
気の毒なメイドさんの悲鳴を背中で聞き、僕は猛烈な速さで階段を駆け下りました。背後から迫って来る足音に、心臓が口から飛び出しそうです。
手すりを滑り降り、一階まで一気に下って誰もいないホールを抜けると、外から馬のいななきが聞こえます。大きく開かれた玄関扉の向こうに騎馬部隊がいて、騎乗したままのラインハルト王子が見えました。
ただ一人スーツ姿で馬から降り、エードバッハと話している若者がいます。――レオンさん!
僕の目は自分でもわかるほど見開かれ、足はレオンさんに向かって一直線。レオンさんが助けに来てくれた!
「レオンさん! レオンさん!」
大声で名前を呼びながら、僕はモップを片手に全速力で走りました。