3 王家の愛妾 Ⅴ
天井画は、例の如く山賊の戦闘場面。トライゼン人は、血みどろ御先祖様が大好きです。
柱と壁は純白と黄金の彫刻に彩られ、床は樫の寄木細工。高い天井から吊り下がる豪華なシャンデリアと、古代兵士の彫像が掲げ持つ燭台の灯りに照らされ、王の回廊は夜にもかかわらず黄金色に輝いています。
先に食事を始めてくださいとリーザさんにお願いし、衛兵に見つからないよう柱の陰に身をひそめ、夕食を終え執務室に戻られるはずの国王陛下を待ちました。勇気を出し、陛下に直訴するんです。これが僕の人生の分岐点になるかも――――。
15年近く生きて来て、分岐点だったと思えるのは一度だけです。パパとママのどちらが好きかと、ママに尋ねられた時。パパと答えてしまい、ママと離れ離れになる羽目に陥って、僕の人生はガラリと変わりました。以来何をするにも自信がなくビクビクしながら生きて来たけど、そろそろ変わらなければ。
国王陛下に堂々と気持ちを伝えられたら、変われるかもしれない。そんな勇気が僕の中にあるなら、きっと自信が持てる。胸の辺りで、心臓が音高く跳ねています。
陛下に会ったら何て言おう。率直に端的に、僕の気持ちと主張を伝えよう。結婚は、好きな人としたい。陛下の結婚命令を撤回してください。貴族の方々のような回りくどい言い方ではなく、平民らしく簡単に分かりやすく一気に言ってしまおう。
微かな足音が聞こえ、柱から顔だけを出した僕の目に国王陛下と2人の侍従の姿が映りました。いよいよ正念場。人生の分岐点がやって来る。どうか上手く行きますように。リーデンベルク家やレオンさん達に迷惑が掛かりませんように。
(結婚は、好きな人としたい。陛下の結婚命令を撤回してください)
何度も口の中で同じ言葉を唱えて練習し、言う事を聞かない足を引きずり陛下の前に飛び出しました。
「あの、国王陛下。先ほどお目に掛かりました、エメル・リーデンベルクです。あの、あの……」
2人の侍従に挟まれた陛下は、訝しげに僕を見おろしておられます。その威厳と厳格な表情に圧倒され、一瞬のうちに凍りついてしまった僕の舌。こんな事をしでかして、只では済まないかも。罰を受けるかも。恐怖心に苛まれながら、もつれる舌を駆り立て一気に声を吐き出しました。
「結婚、してくださいっ。……あ」
あああっ。真ん中をすっ飛ばしてしまったああっっ! どうしよう、どうしよう。慌てふためくにつれ、真っ白になっていく頭の中。陛下の黒っぽい茶色の瞳が瞬き、口角がゆっくりと上がって行きます。
「喜んで。と言いたいところだが、私には妻がいる」
「ああの、間違いです。あっ、陛下との結婚が間違いということではなく……もちろん陛下は素敵な方ですが、ええっと、えっと、陛下は素敵な方だと思うんですけど、僕が言いたいのは……」
「若い娘さんに求愛されるとは嬉しいね。愛妾になりたいのかな?」
「ええっ!」
何でそうなるの? 陛下は愉快そうに笑っておられ、僕の舌はますますもつれてしまいます。陛下を怒らせないよう話を運ぶには、どう言えばいいの?
「あの、あの、光栄ですけど……そうではなく……」
「私の愛妾になりたいなら、王妃を通してくれ。愛妾を持つ時は彼女の許可を得る約束を、24年も前にしてしまってね」
「24年前……?」
「私にも若い頃があったのだよ」
陛下は振り返り、回廊の彼方から走って来る人影が僕の目に入りました。レオンさん! 駆け寄るなり胸に手を当て、陛下にお辞儀をするレオンさんの髪が僅かに乱れています。
「妹の声が聞こえましたので。お引き止めし、申し訳ありません」
「クレヴィング。明朝ベルトラム男爵に会って欲しいと王妃に頼まれたが、彼も君と同じ話をするんだろうな。私の返答は変わらない。……考えておく」
「どうか善処をお願い致します」
深々と礼をするレオンさんを真似て、僕も頭を下げました。レオンさんは僕より先に、陛下に窮状を訴えてくれたんだ。そして、とっくに返事を貰っていたんだ!――――考えておく。立ち去る国王陛下から視線を剥がし、僕はにっこりとレオンさんを見上げました。
「やりましたね。陛下が考えてくださるんだから、もう大丈夫ですよね?」
「そうでもないんだよ。陛下の『考えておく』は、『却下』と同じ意味だ」
「そんな……」
「危ないことをするお姫様だな。陛下の機嫌を損ねたら、どうするつもりだったんだ。これだから、おまえは目が離せない」
レオンさんの拳がコツンと僕の頭を叩き、黒い瞳が優しく降りて来ます。お姫様って言った? 僕のこと? ふいにレオンさんは真剣な表情になり、僕の背中を押して、歩くよう促しました。
「結婚命令について、陛下は御存知なかったんじゃないかと思うよ。はっきりとは仰らなかったが、そんな感触を受けた。陛下は、何かの命令を侍従長に出したんだろう。その命令を実行するために、侍従長がおまえを利用したんじゃないかな。侍従長は国王の信頼厚く、切れ者だが腹黒いと言われている」
やっと僕の脳がのろのろと動き始め、侍従長とボーデヴィッヒ侯爵の共通点を弾き出しました。腹黒い――――。似た者同士が手を組み、後ろ暗いことを企んでいるのでは……。
「侍従長は、カード賭博をなさらないんでしょうか」
「聞いたことはないな。長年国王付きの侍従を勤めた、厳格で真面目な人物だそうだよ」
真面目な人物が腹黒い……? 何だか矛盾しているようだけど、国王陛下のためなら何でもやる人なのかな。
「あの、陛下の命令って何でしょう? その命令と僕が、どうつながるの?」
「今はまだ分からない。この陰謀の中心にいるのはボーデヴィッヒとエードバッハだろうから、連中について探ってみるよ。明日、探偵を一人アメルグにやるつもりだ。詳しいことは明日話そう。今夜は、早く休め」
部屋の前でレオンさんは立ち止まり、しげしげと僕を眺めました。
「朝まで部屋から出ないと約束してくれ。でないと俺は、おまえが心配で動きが取れなくなる」
「あ、はい」
「約束だぞ」
「はい」
レオンさんは微笑し、くるりと背を向け去って行きました。その広い背中を見つめながら、僕の胸にしみじみと幸福感が広がっていきます。レオンさんが、僕を案じてくれた――――。国王陛下の前で困り果てていた僕のために飛んで来てくれ、僕を「お姫様」と呼んでくれた。
「きゃっ!」
小さく叫び、拳を握る僕。やった! 自分でも分かるくらい締まりの無い笑みを浮かべ、部屋に入りました。深いグリーンのカーテンとベージュの淡い花柄の壁を背景に、ユリアスさんとリーザさんがテーブルに並んで座り、夕食の真っ最中です。
ウェスト部分を絞った流行最先端のスーツを着こなすユリアスさんは、プラチナブロンドと青紫の瞳が美しい王子様のよう。リーザさんは艶やかな黒髪を結い上げ、レモンイエローのドレスがよく似合うお姫様に見えます。
2人の向かい側に腰かける僕は、さしずめ小姓でしょうか。そんな事には、すっかり慣れてしまったけれど。ううん、僕だって捨てたものじゃないはず。目の肥えたトーニオさんに「天使」と言って貰えたし、何よりレオンさんに「お姫様」と呼ばれたんです。
僕だって、きっと見栄えは悪くないはず。……たぶん。……もしかしたら。ユリアスさんとリーザさんが、ぎょっとした顔で僕を見ています。
「ニヤニヤして、どうしたの? とうとう……頭、大丈夫?」
「大丈夫です。夕食、美味しそうですね」
「先に食べ始めたよ。転んだのか? 頭の打ちどころが悪かったんじゃないか?」
「本当に大丈夫です」
夕食のメインは国王ご一家と同じで、シュバイネブラーテン黒ビールソースです。付け合わせにクヌーデル(じゃがいも団子)が添えられ、僕は喜々としてナイフとフォークを手に取りました。
一口大に切った豚肉に黒ビールソースを付け、口に入れると豚肉の皮がパリッと弾け、赤身の部分はとろけるほど柔らかい。トマトの酸味とデミグラスソースの甘味と黒ビールの仄かな苦みが混じり合い、一つの美味となって溶けていきます。ああ……幸せ。
「何かいい事があったのか?」
「レオンさんに部屋まで送って貰えたので、嬉しくて」
僕が答えると、ユリアスさんは「ああ」と納得した様子で苦笑しました。
「女の子の扱いが酷くて有名だったのに、変われば変わるものだ」
「レオンが一人の女の子と頻繁にデートしてるって、王宮の女官たちも驚いてるわよ。女官の中にはレオン狙いの人もいたから」
レオンさんが頻繁にデートする女の子――――僕のこと? 僕がレオンさんとデートする唯一の女の子! 自分の事とは思えなくて、嬉しくて恥ずかしくて胸の辺りが熱くなって来ます。
「人のことは言えないな。ブルーノはリーザ目当てで王宮に来てると、女官の間で噂になっているそうだよ」
「ブルーノ!」
リーザさんは手にしたフォークを横に揺らし、顔をしかめました。
「『獅子の間』に居座って、お茶ばかり飲んでるわよ。情報集めに来たとか言ってたけど、座ってたら集められないじゃない。きっと馬鹿なのよ」
「情報集めは口実じゃないかな」
獅子の銅像が置かれていることから「獅子の間」と呼ばれるサロンは、国王陛下に謁見する客人の控えの間です。リーザさんは客人のお世話をするのが仕事で、「獅子の間」を担当しています。
それにしても、ブルーノさんがリーザさんを……? 初耳ですが、言われてみればブルーノさんは、僕やユリアスさんよりリーザさんに話しかける事の方が多かったような。
「でもブルーノさん、ちゃんと情報集めをしてるみたいですよ。ナタリア夫人が……その、ラインハルト王子が生まれた頃に……」
何て話題を出してしまったんだろう。いい話題と思えなくて僕の声は尻すぼみになり、ユリアスさんがさり気なく言いました。
「ラインハルト王子の母親は王妃ではなく、ナタリア夫人ではないかという疑惑?」
「ええっ。どうして、そんな……」
「昔から、そういう噂があったんだよ。ラインハルト王子の髪の色目の色が、トライゼン王家では異質だから。不思議なことに、国内より外国で噂になることが多かった。国王夫妻は、敵対する他国の陰謀として無視されているけどね」
「わたしも聞いたことがあるわ」
リーザさんはグラスの水を一口飲み、唇を湿らせています。
「ラインハルト王子御誕生に立ち会った看護婦も医師も、コレラが流行した時に皆亡くなってしまったそうよ。証言する人がいないのをいいことに、他国はトライゼン王家にスキャンダルを起こそうとしてるのよ」
「スキャンダルが起こると、どうなるんですか?」
「国民に、王家に対する不信感が芽生える。国王不要論を唱える一部の思想家や敵対する諸外国が民衆を煽り、国内が不穏になる。マイセルンはトライゼンを併合しようと動き出し、フェルキアはトライゼンを占領しようと画策するだろう。ベネルチアやアメルグのような大国が調停に入るだろうが、見返りとして親ベネルチア、親アメルグ政策を要求される。あるいはフェルキアやマイセルンと歩調を合わせ、トライゼンの分割統治に乗り出すか。いずれにしても、トライゼンの未来は暗いものになる」
「そんなに大きな影響があるんですか」
僕は言葉を失い、美味しいはずの食事の味がしなくなりました。
「トライゼンは、王家に対する信頼の厚い国だからね。政府では王家の代わりにならないし、国王のいないトライゼンは船長のいない船みたいなものだよ。簡単に沈んでしまう。王家は、トライゼンになくてはならないものだ。それが判っているから、陰謀の首謀者は王家を狙う。あるいは……」
フォークでクヌーデルを潰しながら、考え込むように瞬きするユリアスさん。
「噂の出所は、王族という線もあるね。諸外国と密約を交わした王族の誰かが現国王一家を追放し、自ら即位しようと謀る。昔のダレフ殿下のように」
「えっ。ダレフ殿下って、国王陛下の弟君ですよね」
すっかり食べることを忘れてしまった僕は、目をぱちくりさせるばかりです。代々政治家を輩出したラーデン家の現当主は、驚くほど過去の政治に詳しい。
「そう。国王が外国の下級貴族出身の王妃を迎えた時、異議を唱える貴族達をダレフ殿下が扇動したんだ。だが王妃は平民の間で人気があったから、殿下の思惑通りには運ばなかった。そこで稀代の美女を国王に紹介し、国王の信頼を失墜させようとした。殿下の背後には大物貴族がいて、殿下は操られたんじゃないかという説もある。大物貴族とは、例えば我が親愛なる父上のような人物だ。すべては噂の域を出ないから、ダレフ殿下も殿下に味方した貴族も、証拠不十分でお咎めなしだった」
「え……」
まさか、ユリアスさんのお父様がダレフ殿下を操った……?
「昔の話だよ。国王とダレフ殿下の兄弟仲は、今では極めて良好だ」
「さっきの話ですけど、ユリアスさんは、ラインハルト王子のお母様は王妃様だと思いますか?」
「そうだね。……ただの直感だけど」
「兄弟に対する王妃様の接し方に、差があり過ぎると言う女官もいるわ。皇太子殿下は大切にされてるけど、次男はそうでもないとか。将来国王になる者とそうでない者とでは、待遇に差があるのは当然かもしれないけど」
ラインハルト王子は、これについてどう思っているんでしょうか。小さい頃から庶子であるかのような噂を耳にして、傷ついたりしなかったのかな。誇り高く気性の強い人だから、気にも留めなかったかもしれない。傷ついても顔に出さないかもしれないけど。……どうなんだろ。
再び夕食を食べ始めた僕の脳裏に、氷の棘に刺し貫かれたラインハルト王子の姿が浮かび、儚く消えて行きました。