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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて3 ~王宮の陰謀篇~
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3  王家の愛妾  Ⅲ

 

 ぱちぱちと、暖炉の火のはぜる音が聞こえます。涙に霞む目にレオンさんの唇が降りて来て、瞼から頬、顎へとたどり、反対側の頬、濡れた睫毛へと戻って行きました。


 あの、レオンさん。唇を飛ばしてますよ? 朦朧とした頭の中で渇望し、黒い瞳に見つめられ、はっと我に返りました。うっとりしてばかりはいられない。大切なことを聞かなければ。


「アウレリアさんは、フレデリクさんとご結婚されるんですか?」

「ん?」


 レオンさんは短く瞬きし、不思議そうな顔をしました。


「うまくいけば、今年中に結婚できるだろう。フレデリクは彼女に手綱を握られ、宝石泥棒の趣味を諦めるしかなくなるんだよ」


 指の背で僕の頬を撫でながら、くすりと笑うレオンさん。僕の心は一瞬のうちに春となり、大地の氷が溶け、緑が芽吹きました。マテオさんの言う通りだった。レオンさんは、アウレリアさんと結婚しない! トーニオさんは、どうして教えてくれなかったんだろう。


「今度は俺が尋ねる番だ。ラインハルトの妃になりたいか?」

「まさか。僕、あの、あの、あなたを愛してるんです」


 言ってしまった瞬間、のぼせたみたいに熱くなる僕の顔。レオンさんへの恋心は傷つき涙と悲しみにまみれ、以前のような煌びやかで華やかなものではなくなっています。それでいて冬の嵐にも負けず、毎年春になると野を覆う桜草のように根づき、素朴であでやかです。


 これはきっと、愛――――。僕の恋はいつしか愛へと昇華し、初心者の僕は戸惑うばかりです。ミレーヌさんは愛し過ぎて疲れてしまったようだけど、僕はこれからどうなるんだろう……。レオンさんの表情が真剣なものへと変わり、目が強い光を放ちました。


「一生そばにいてくれるか?」


 一生――――? それって――――。目をぱちくりさせる僕。レオンさんの口元がほころび、明るい微笑が広がって行きます。もしかして――――。  


「どうした? 大きな目がさらに大きくなっているぞ。父上には仇のように睨まれるし母上には学生の分際でと咎められるし、まだ早いのかもしれないが、俺の気持ちを伝えておきたかったんだ。返事は今すぐでなくていい。考えておいてくれ。愛してる」


 愛してる――――。その一言が青い空と白い雲を作り出し、僕は鳥になって大空を飛びました。


 どうして疑ってしまったんだろう。レオンさんは、愛という言葉を冗談や軽い挨拶に使うような人じゃないのに。軽々しく愛を口にするような人じゃないのに、レオンさんを信じられなかった僕は馬鹿です。


「力を合わせて、国王の結婚命令を撤回させよう」

「はい」


 レオンさんに腕を取られ、貴婦人のようにソファへといざなわれました。暖炉の火が燃え盛り、暖められた空気は春の陽だまりのように心地良く、ふわふわと雲の上を歩いている気分です。


 レオンさんに愛されてる。一生そばにいて欲しいという言葉は曖昧ではっきりしないけれど、愛してるの一言だけで満足です。全身が幸福感に満たされ、世界は僕のもの。レオンさんの心も、僕のもの。


「ボーデヴィッヒが何を企んでいるのか色々探ってみたが、手に入ったのは断片的な情報だけだ」


 レオンさんは僕の正面に座って足を組み、僕は気持ちを引き締めました。いつまでもヘラヘラ笑ってはいられません。戦闘は、既に始まっています。


「アメルグの賭博場で、侯爵はエードバッハに多額の借金を作ったらしい。そのせいでエードバッハに脅されているのかどうか、侯爵家の資産状況を調べさせているところだ」

「侯爵は、急いでるみたいでした。返済期日が迫ってるんでしょうか。借金の話は、どなたから聞いたんですか?」


「今朝、ホルツ公爵夫人が教えてくれた。夫人は、エードバッハが親しくしている御婦人から聞いたと言っていたよ。社交界の重鎮の元には、色んなゴシップが集まって来る。もう一つ。エードバッハはラインハルトに面会を求める手紙を出したが、返事は来なかったらしい」

「王子様に会って、どうするつもりだったんでしょう」


「わからないな。24年前、表向きは国外追放だが、エードバッハは国王から多額の資金を与えられアメルグに渡った。国王の愛妾ナタリアと結婚し、生涯トライゼンに戻らないという条件付きで。今頃戻って来たのは単なる気まぐれか、特別な狙いがあるのか、アメルグがどう関わっているのか……」


「エードバッハさんはアメルグの特命大使だと、侯爵は言ってました」

「保護貿易を掲げているからね、トライゼンは。アメルグはそれを撤廃させようと、トライゼンの有力者や著名な芸術家を特命大使に仕立て、あの手この手を使って来る。近隣諸国は自由貿易に傾きつつあるから、トライゼンもかなり譲歩しているんだが……」


 ラインハルト王子の部屋で見た、カーペット・スィーパーを思い出しました。他国の品を輸入しながら自国の産業を育成するのは舵取りが難しそうで、レオンさんは苦い笑みを浮かべています。


「貿易が、エメルやボーデヴィッヒとどうつながるんだろうな」

「あの、全然関係ない話かもしれませんけど、ダレフ殿下がラインハルト王子と昼食をご一緒されています。マテオさんは、密談があるに違いないと言ってましたけど……」


「国王の弟殿下は、ナタリア夫人とつながりがあるんだよ。地方の町娘で有名な美少女だった彼女を、国王に紹介したのはダレフ殿下だ」

「えっ。どうしてそんな事を……」


 妻のいる兄に、弟が愛人を紹介する? レオンさんが、トーニオさんに愛人を紹介するようなものでしょうか。トーニオさんなら喜んで受け取りそうだけど。


「当時、外国の下級貴族出身の王妃を迎えることには反対意見が多かったらしい。王妃の立場は弱く、味方も少なかった。外国人の王妃を追い出し、トライゼン上級貴族の娘を王妃に立てようとする動きがあったそうだ。ナタリア夫人の一件は、王妃追い落としの一部だったんだろう。だが国王は王妃を選び、ナタリアは国外追放になった。見せしめだったのかも知れないな」


「ナタリアさんは、どんな人だったんですか?」

「トライゼンの薔薇と呼ばれた美女だ。明るいブロンド、青い目、肖像画で見た限りでは確かに美人だった。朗らかで開放的な人だったらしいよ」


 でも気の毒な犠牲者かもしれない……。悪いのは王妃様を追い出そうとした一派なのに、二度と故郷に帰れなくなるなんて、何だか釈然としません。


「ラインハルトがおまえを結婚させようとした相手だが、調べてみたが、ボーデヴィッヒとは何の接点も無かった」

「侯爵は親戚だと言ってたけど、嘘だったんですね」


「家系図を見る限り、親戚ではないな。ボーデヴィッヒは、どこかでおまえの結婚話を耳にしたんだろう。その時期と、彼がエードバッハにカード賭博で負けた時期と、どちらが先かで状況は変わって来るが……」


 状況――――決まってます。悪運尽きたボーデヴィッヒは賭博の運も尽き、それまで貯め込んだ財産を失うほどの借金を負ったに違いありません。


 金策に窮した彼は僕の結婚話を聞き込み、僕をラインハルト王子に愛妾として突き出すことを思いついた。愛妾に贈られる高価な宝石やら豪華なドレスやらを売り払って借金の利息を払いつつ、王家が有する高価な財宝で一括返済を目論んだんです。


 彼が僕を脅し、王子様からせしめようとしている御褒美は、王家が有する高価な財宝だっ。何と卑劣な悪党だろう! でも待てよ、王家の次男が財宝を愛妾へのご褒美にするなんて事が出来るのかな。


「どうした? ひどく怖い顔をしているぞ」

「怒ってるんです。この一件の黒幕は、ボーデヴィッヒです。借金返済のためなら、何だってやる奴なんです」

「決めつけるのは、まだ早いと思うよ。もっと多くの情報が必要だ。自力で解決したいか?」


 レオンさんに尋ねられ、僕は躊躇しました。自力で解決――――出来るでしょうか。いやそれより、レオンさんはどう思うだろう。


「頑張りたいと言ったら、怒りますか?」

「怒らないよ。俺が短気を起こしたのは、そういう理由じゃない。ラインハルトに嫉妬……身勝手な理由さ。おまえには選ぶ権利があるし、誰を選ぼうとも俺はおまえから目が離せないんだから、どうしようもない」


 レオンさんは肩をすくめ、微笑しました。僕の心臓がドキリとするような優しい微笑です。


「一緒に解決しよう。トーニオもブルーノもマテオも、おまえの味方だ」

「はい」


 僕は一人じゃない。そう思うと何でもやれそうな気がして、何よりもレオンさんに愛されてる僕は無敵です。どんな敵とだって戦ってみせる! たとえ相手が国王陛下でも、あの尊大で悪辣なボーデヴィッヒでも。


 アフタヌーン・ティーの時間が近づき、レオンさんと僕は部屋を出ました。赤い絨毯を踏みしめながら歩いていると、前からボーデヴィッヒ侯爵がやって来ます。僕の部屋とは別の客室棟に向かうようで、きっとミレーヌさんに呼び出されたに違いない。


 侯爵の顔を見上げ、僕は「あっ」と呟きました。鼻の周囲が、紫色に腫れています。殴られたんだな……。


「お加減は如何ですか、侯爵?」


 さりげなくレオンさんが尋ね、ボーデヴィッヒ侯爵の顔に殺気立った微笑が浮かびました。


「何ともない。ハエが1匹うるさくまとわりついて来たので、叩き落としてやった。腹の具合はどうだ、クレヴィング?」

「ハエが1匹腹にとまったので、叩き潰しておきました。ハエには困ったものです」

「まったくだ」


 こんな真冬にハエ? 叩き潰した? 顔に笑みを貼り付けた2人は、一見友好的で紳士的な会話をしているように見えますが、目から火花が飛び散っています。


「ハエには今後、私の大切な家族に近づかないよう願いたいものです。脅迫など、もってのほかだ。しつこいと、後悔することになりますからね」

「まったくもって同感だ。しつこいと後悔するぞ。身の程を知るだけの知恵が、ハエにあるといいんだが」


 この2人、何で熱心にハエの話をしてるの? 呆気にとられる僕をちらっと見ることもなく、侯爵は苦虫を潰したような顔つきで足早に去って行きました。


「……もしかして、侯爵を殴りました?」


 ボーデヴィッヒ侯爵の背中を睨んでいたレオンさんは、視線を僕に戻し苦笑しています。


「言い訳になるが、向こうが先に手を出したんだ。キャベツとじゃが芋は子供の人格を歪めるのかと尋ねた俺も悪かったが」

「え……侯爵とキャベツとじゃが芋の話を知ってるの?」

「あ、いや、まあ、な」


 まあな? レオンさんらしくない歯切れの悪い言い方に、僕の頭の中で「あっ」と弾けるものがありました。


「あの時、聞いていたんですね?」


 あの小屋の前。ボーデヴィッヒ侯爵と対決する僕を、レオンさんは寒いのに木の陰から見守ってくれていたんです。あの時感じた視線は、レオンさんのものだった。


 レオンさんは僕の力を信じてくれたのに、僕ときたら侯爵の撃退に失敗し、すごすごと戻って行く情けない姿を晒してしまったんだ――――。みっともなくて恥ずかしくて顔が熱くなり、感謝が先かお詫びが先かと思いあぐね、やっとの思いで言葉を絞り出しました。


「……お腹、痛みます?」

「いや。慣れてるから」

「その、ありがとうございました。僕のせいで侯爵と喧嘩になってしまって、すみませんでした」


「怒らないのか? おまえの後をつけ、会話を盗み聞きした俺を。怒られると分かっていても、おまえから目が離せないんだが」

「全然怒ってません」


 怒ることは選択肢に入ってません。思いつきもしませんでした。どうして僕が怒るの? 


「俺の方こそ、ありがとうと言うべきだな。あんな犯罪者気分は、もう御免だ。堂々とおまえを手伝うよ」


 厨房に着き、給仕として働く僕を手伝うとレオンさんが申し出て、カラクさんは目を丸くしました。


「よろしいのですか、クレヴィング卿?」

「もちろんだ」


 にっこり微笑むレオンさんは魅惑的で、黒いスーツがよく似合います。客室の低いテーブルに優雅な手つきで紅茶やケーキやお菓子を並べるレオンさんを、貴婦人たちがうっとりと眺め溜め息をついています。


 僕のレオンさんだぞっ。と思う反面、誇らしくて複雑な心境です。


 厨房と客室を何往復もする間に冬の太陽は早々と傾き、夜の帳が迫って来ました。点灯夫が回廊を巡って蝋燭を灯して回り、ガラス窓に揺らめく光が映ります。


 アフタヌーン・ティーの時間が終わり、カラクさんに国王陛下のダイニング・ルームを案内して貰って厨房に戻ると、ハイ・ティーの始まりです。


「侍従長の面会を取り付けたんだ。何だかんだと理由をつけて逃げられたけど、ようやく会って貰えることになった。出来るだけ早く戻るつもりだが、俺がいない間、あまり無茶をするなよ」

「はい」


 レオンさんは僕の頭を軽く撫でて行ってしまい、入れ違うように給仕さんが怒った顔つきで帰って来ました。


「アイヒホルン卿から苦情があった。スープの味が薄いと、すごい剣幕だ」

「王宮には王宮の味付けがある。平民用の味付けはできんと言ってやれ」


 厨房にいたコック長が言い、しわ深い顔の中で目がギラッと光っています。


「娘が皇太子妃になるとでも思っていやがるのか。望みはスープより薄いと言ってやれ」

「まあまあ」


 カラクさんがなだめる一方で、コック長はコックたちに「アイヒホルンのスープに、ありったけの塩をぶち込め」と言い放っています。……こわっ。


 午後八時前。僕はドキドキしながら、出来上がった料理がカウンターに並ぶのを待っていました。料理は煌びやかな黄金のワゴン2台に乗せ、カラクさんと二人で王家のダイニング・ルームまで運ぶことになっています。


「上がったぞー」


 コック長の声が響き、僕はぎくしゃくと手を伸ばしました。カウンターには、白地に小さな青い花が描かれたお皿が8枚並んでいます。


 カラクさんのワゴンに乗せられた横長のお皿には、魚の酢漬け、野菜のテリーヌ、生ハムサラダが美しく盛り付けられ、僕が運ぶお皿に乗っているのは、焼いてマリネし菊花模様に広げた茄子。上にアーモンドと松の実が散らされ、これらすべてが本日の前菜です。


「いいか、坊主。これは何かと尋ねられたら、きちんと答えるんだぞ。これは、ナスの焼きナスだ」

「はい! ……ナス以外の焼きナスがあるんですか?」


 焼いたナスだから、焼きナスなんじゃないの……? 僕が尋ねると、コック長は怖い顔をしました。


「これだから素人は困る。早く持って行け」

「はいっ」


 お皿を落としたら大変です。震える手で慎重にワゴンに乗せ、銀のクロッシュをかぶせました。そろそろとワゴンを押し、カラクさんの後から回廊を進む僕の心臓は、今にも口から飛び出しそうです。


 これから国王陛下の前に出るんです。きちんと給仕できるでしょうか。カラクさんが言っていたように、静かに流れるようにお皿を置くことが出来るかなあ。


 「王の回廊」の角に立つ衛兵の視線を感じたけど、顔を上げる余裕もありません。料理が崩れないよう静かにワゴンを操り、国王陛下のダイニング・ルーム入り口で止まりました。


 陛下付きの侍従さんが食事のチェックをし、僕がコチコチに緊張して「こちらの前菜は、ナスの焼きナスです」と言うと、厳しい顔のまま僅かに眉を上げました。


 ダイニング・ルームでは、黒のタキシードを纏った老紳士が窓辺に立ち、しんしんと降り続く雪を眺めています。恰幅のいい姿。鷲鼻と眼光鋭い目。陛下だ――――。カクカク震え始めた足を、僕は心の中で罵りました。


 先ほどの侍従さんが入り口そばに立ち、室内には給仕さんが2人います。テーブルについているのは華やかなドレスに身を包んだ王妃様と、黒のタキシードのゲオルグ皇太子殿下、そして陸軍の軍服を纏ったラインハルト王子です。

 

 王妃様とゲオルグ殿下は容貌がよく似て、2人とも同じ色合いの黒っぽい焦げ茶色の髪をお持ちです。ゲオルグ殿下の灰色の目は国王陛下と同じ色で、王妃様は美しい琥珀色の目を煌めかせ、2人の王子と談笑しておられます。


 国王陛下が席に着かれるのを待つ間、王家のご家族を一眺めして、僕は不思議な思いに捕らわれました。陛下と皇太子殿下は体格がよく似ていて、さほど背は高くなく、がっちりとした体躯で肩幅が広い。王妃様はふくよかで、皇太子殿下を挟んだ3人はどこから見ても親子です。


 ラインハルト王子だけが違う。金髪で青い目で長身で細身のラインハルト王子は、他の3人に比べると異質で、誰にも似ていません。


 アヒルの群れに紛れ込んだ白鳥みたい――――。そんな不謹慎な思いを、僕は慌ててかき消しました。




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