3 王家の愛妾 Ⅱ
ミレーヌさんがロイスブルク伯爵の求婚を受けたのは、彼が隣国マイセルンの緑豊かな地所に住んでいたからだそうです。
「子供の頃のように、田舎でのんびり暮らしたかったの。出来ればトライゼンから遠く離れた場所で」
美しくも哀しく微笑し、林檎香る紅茶を飲むミレーヌさんは結婚して1年余りになるそうですが、幸せそうには見えません。住んでいる場所だけで結婚を決めたのは、ラインハルト王子から離れたかったからでしょうか。
でも離れられなくて、真夏の温室で王子様と密会した……? 結局別れることにして、さっき別れ話をしていた……? 離れられない馬鹿な女というのは今の心境……? 王家の愛妾は既婚者が普通なのにミレーヌさんの場合は違って、そのせいで苦悩が沢山あったのかもしれない。
恋が喜びと同じだけ苦しみを運んで来ることを、僕はよく知っています。ミレーヌさんの痛みが自分のことのように感じられ、悲しくなって来ました。
「ロイスブルク伯爵は、どんな方ですか?」
「紳士よ。亡くなった奥様との間に、成人したお子様が3人いらっしゃるわ。結婚してすぐ政府の役人になられたから、今はわたくし達、マイセルンの王都で暮らしているのよ」
えっ。田舎住まいがしたくて結婚したのに、王都で暮らしてるの? 話が違うと、ミレーヌさんは怒らなかったのかな。
尋ねようとした時にラインハルト王子の秘書官が呼びに来て、僕は戻らなければならなくなりました。ミレーヌさんはボーデヴィッヒ侯爵と話をしてみると約束してくれ、僕の胸にほっと安堵が広がって行きます。
客室から通路に出ると氷に閉じ込められたような冷たさで、フランネルの暖かいスーツを着ていても体がぶるっと震えます。
「上着をお貸ししましょうか?」
隣を歩く若い秘書官がにこやかに言い、僕は「大丈夫です」と答えつつ長身の彼を見上げました。
彼が着ているのは詰襟でダブルボタンの黒い上着と黒いズボン――――トライゼン陸軍の軍服です。軍帽は無し。上着の上に金のベルトをはめ、ラインハルト王子はサーベルを吊るしていたけれど、秘書官の腰には見当たりません。
肩から下がった金の飾り紐が、将校の身分を表しています。細い一本の飾り紐は、少尉です。大尉のラインハルト王子は、細い三本の金の飾り紐を下げていました。胸に付いた鷲の微章は、陸軍情報部の印です。それにしても、どこかで見た顔だなあ。
「あっ。レオンさんが陸軍情報部に連れて行かれた時、僕をラインハルト王子の部屋まで案内してくれた人ですね」
「覚えていてくださいましたか。光栄です」
秘書官は敬礼ではなくお辞儀をし、その優雅な仕草が彼の出自を物語っています。彼は、貴族なんだ――。
「殿下がお待ちです。急ぎましょう」
「食事、ですか? でもあの、それは……」
「伯爵夫人に遠慮なさることはありませんよ。殿下のお立場で、マイセルン政府要人の奥様と表立って親しくするのは好ましくありません。殿下は、あなたと話をするのを楽しみにされていましたよ。あなたといると肩の力が抜けて、心地いいそうです」
肩の力が抜ける――――。褒められてるみたいだけど、僕の胸中は複雑です。ペットの前で緊張する人はいないでしょう。王子様は、僕を犬だと思ってるんだなっ。
「殿下は、ミレーヌさんと結婚すれば良かったのに」
僕が言うと、秘書官は首をかしげ難しい顔をしました。
「失礼な言い方ですが、没落した貴族のご出身では妃に相応しくないと見なされます。南トライゼンで干ばつさえ起きなければ、殿下の妃になられたかも知れませんが」
「南トライゼン……?」
ボーデヴィッヒ侯爵の領地が、確か南トライゼンにあったはず。そうそう、干ばつで貧乏になり、キャベツとじゃが芋しか食べられなかったと話してたっけ。……僕を脅しながら。
「ミレーヌさんのご実家が貧しくなったのは、干ばつのせい? 干ばつって、そんなにひどかったんですか?」
「それはもう。国王陛下と政府の援助で、破産する貴族こそ出ませんでしたが、大半はいまだに借金を背負っています」
「ボーデヴィッヒ侯爵も?」
「いえ。侯爵は、カード賭博で莫大な財産を築いたと聞いたことがあります。借金の返済は、とうに終わらせているでしょう」
ボーデヴィッヒ侯爵はカード賭博の常習者だと、ミレーヌさんも言ってたっけ。彼が賭博で財産を築いたということは、お金を巻き上げられ貧乏になった犠牲者がいるということです。ボーデヴィッヒ、どこまで悪党なんだ。
ラインハルト王子の部屋に戻ると彼の姿はなく、ウィンター・ガーデンの食卓は手つかずのままです。
「殿下なら、ダレフ殿下に呼ばれて出かけましたよ」
暇そうに壁にもたれかかっていたマテオさんが言い、秘書官は怪訝な顔をしました。ダレフ殿下は国王陛下の弟君で、普段は北トライゼンにあるお城に住んでおられます。
「どちらに向かわれました?」
「海の間だそうです。ダレフ殿下はアーデンに向かう途中でクラレストに寄ったらしく、昼食を一緒にどうかと使いの者が来たんです」
アーデンは南トライゼンにある有名な温泉地で、冬の一大社交場です。ほとんどの貴族は雪が降り始める前に馬車を連ね、アーデンに向け出発します。パパとディリアお母様も家族そろって出かける計画を立てたけれど、大学入学準備のあるレオンさんとトーニオさんに配慮して、来年に延期したのでした。
王子様の秘書官は海の間に向かい、食事を片付けようとした僕の手をマテオさんが止めました。
「駄目駄目。トライゼン式の片付け方があるんだよ。今から僕が教えるから」
マテオさんは僕の肩を押して椅子に座らせ、ラインハルト王子の席に腰を下ろしてスーツの袖をめくり、
「いいかい? まず、腕まくりをする。それから骨付き肉をつかみ……」
「えっ……はい」
僕は言われた通りに服の袖をまくり、トマトとレンズ豆に埋もれた牛肉の骨を指先でつまみました。
「食う!」
「えええっ!」
勢いよく肉にかぶりつくマテオさん。唖然とする僕。手づかみ……。いや、そういう問題じゃない。
「食べてもいいんでしょうか」
「もちろん。王家と僕らの先祖は同じ釜の飯を食い、一つ椀で酒を回し飲みした仲間だったんだから。時代は変わっても、精神は変わらない。文句を言う奴がいたら、先祖が泣くぞと言い返せばいいんだよ。さ、急いで。腹ごしらえをしたら、ラインハルトとダレフ殿下の密談を聞きに行かなきゃ」
「密談……」
「こんな冬場に急にアーデンへ行くなんて、変だろ?」
「はあ……」
そう言われれば変な気もするけど、急に思い立つということもあるでしょう。
視線を落とすと、骨付き牛肉がプルンと揺れながら誘っています。かぷりと噛みついた僕の口の中に、トマトソースの沁み込んだ肉汁が広がり、何とも言えず甘味があって美味です。
「美味しい!」
ボウルの水で指先を洗い、マテオさんにならってスプーンを手に取りました。カトラリーはすべて顔が映りそうな程ぴかぴかに磨かれた銀製品で、僕が使ってもいいんでしょうか。いいよね? マテオさんは白パンをちぎって口に放り込み、ハーブティーでせっせと流し込んでいます。僕も……いいよね?
レンズ豆の入ったトマトソースは、素朴な味がしました。まるで、トライゼンのように。
外国に住んでいた頃、トライゼン人のイメージは「閉鎖的で頑固な田舎者」でした。実際に住んでみるとクラレストは洗練された都会で、トライゼン人は流行を追うような事はしないものの、お洒落です。
トライゼン人には強い仲間意識があり、国王陛下は今でも「俺たちのお頭」で、国民は陛下がなさる公共事業を「手下への分け前」感覚で受け取っています。
「これでエメルちゃんも山賊の仲間入りだね。同じ釜の飯を食った仲ってわけだ」
片目をつぶるマテオさんに、僕は口一杯に牛肉を頬張ったまま、にっこり笑いかけました。マテオさんは澄んだ目を煌めかせ、じっと僕を見つめています。
「ねえ、エメルちゃん。もしもレオンと上手く行かなくなったら、いつでも僕のところにおいでよ。僕は、いつだって君を待ってるからね」
「上手く行かないも何も……僕はレオンさんの妹で、レオンさんはアウレリアさんと結婚するんだし……」
「レオンがアウレリアと結婚?! それが本当なら、レオンはフレデリクに殺されるな」
僕は手を止め、目をぱちくりさせました。フレデリク……って、レオンさんの先輩で友人のフレデリクさん?
「アウレリアは、フレデリクの恋人だからさ。でもアウレリアの父親は、フレデリクが気に入らないんだ。貴族邸から宝石を盗み出し、また侵入して元に戻しておくっていう、ふざけた性格が嫌いらしい。フレデリクのお遊びの手伝いをしていたレオンの事は気に入ってるみたいで、変な話だよね。ミュラー公爵から娘を貰ってくれと話があった時、レオンは保留にしたんだ。断ったら公爵のことだから、別の誰かに婚姻を申し入れるかもしれない。フレデリクが留学してる間にアウレリアの結婚が決まってしまわないよう、自分のところで留めたわけ。この春フレデリクが戻って来ることになって、レオンは正式に婚姻を断ったはずだけど、結婚するって誰から聞いたの?」
「え、あの、何となく耳に入って……。アウレリアさんは、フレデリクさんと無事に結婚できるでしょうか」
「公爵は頑固な人だけど、アウレリアも鉄並みの意志を持ってるからね。父親の言いなりになって結婚するような女性じゃないから、大丈夫だと思うよ」
僕の早合点だったんだ――――。お腹の底から笑いがこみ上げ、僕の口が自分でも分かるほど弓型に上がって行きます。
アウレリアさんは、レオンさんの恋人じゃなかった――――。大声で笑い出したい気分です。レオンさんは結婚しない! それがこれほど嬉しいことだなんて!
「エメルちゃんって、分かりやすいなあ」
「そうですか?」
「うん。でも良かった。どことなく元気が無さそうで、心配だったんだ」
「僕は、いつだって元気ですよ」
僕の食欲は倍増し、目を丸めるマテオさんを前にして、猛烈な早さで食べました。新鮮なアスパラガスとハムをフォークで突き刺し、口の中へ。白パンをちぎり、お皿がピカピカになるまでトマトソースを拭って口の中へ。あっと言う間に食事をすべて平らげ、幸福感で一杯です。
ご馳走さま~~! 美味しかった~~っ!
満腹になった僕の全身に、力がみなぎっています。俄然、やる気が出て来ました。さて働くぞっ。次の仕事は、国王陛下ご一家の夕食の給仕です。うまく行けば、ご褒美が貰えるかも。国王陛下に直訴できるかも。陛下にこんこんと言い聞かせる練習をしたことが、役に立つかも!
銀のワゴンを押し、マテオさんと一緒に通路に出ると、衛兵と使用人が立ち話をしていました。
「リーデンベルク家の使者が、客室で待っているそうですよ」
衛兵が言い、伝言を伝えに来た使用人がうなずいています。僕は厳しい顔つきの衛兵にお礼を言い、使用人には、使者にもう少し待っていて貰えるよう伝言をお願いしました。海の間に向かうマテオさんを見送った後、大急ぎで厨房へ。
「3時には来て欲しい。アフタヌーン・ティーの人手が足りないんだ」
アフタヌーン・ティーは、午後3時か4時頃に食べる軽食のことです。貴族の方々はその後、午後6時頃に「ハイ・ティー」と呼ばれる一回目の夕食を取り、夜の社交界から戻った午後9時か10時頃に「晩餐」――――二回目の夕食を取ります。
早寝早起きの習慣を続けておられる国王ご夫妻は、貴族の方々とは異なり「ハイ・ティー」は無く、午後8時頃に晩餐を召し上がります。早い時間にお休みになり、朝早く起きて仕事をされるそうです。
カラクさんに頼まれ、もちろん二つ返事で承諾です。王子様のヴァレットとしては失格っぽいけど、厨房のお手伝いなら何とかなりそう。
客室に急いで戻り、扉を開くと懐かしい人が迎えてくれて、僕の目がじんわり湿っぽくなりました。
「アンナさん!」
リーデンベルク邸を出たのが随分昔のことに思え、思わずアンナさんの胸に飛びつく僕。
「まあまあ。お元気でいらっしゃいましたか? お着替えや身の回りのお品をクローゼットに収めておきましたよ。お嬢様、抱きつく相手が違っておりませんか?」
顔を上げ窓際に目を向けると、黒いベルベットの上着と黒のズボンに身を包んだ若い紳士が暖炉脇に立っています。襟足を流れる黒髪。深く黒い瞳。
「レオンさん……」
もう何十年も会っていなかった気がして、僕は涙ぐみながらレオンさんの胸に飛び込みました。レオンさんは僕を力一杯抱きしめてくれ、温もりと夏の草原のような香りに包まれた僕の心が素直になって行きます。
やっぱり僕は、レオンさんが好き。どこが好きとかこういう理由で好きになったとか理屈なんか全然なくて、レオンさんの全部が好き。大勢の人がいても僕の目にはレオンさんだけが輝いて見え、僕の全身全霊がレオンさんに惹き寄せられて行くんです。
「それでは、わたくしはこれで……」
「ありがとう、アンナ。気をつけて帰ってくれ」
扉の閉まる音がして、僕はレオンさんを見上げました。レオンさんの目は優しくて、それでいて悲しそうで、じっと僕を見つめています。
「短気を起こして悪かった。一人にして、すまなかった」
囁くようなレオンさんの言葉に、僕は笑顔でうなずきました。