3 王家の愛妾 Ⅰ
僕がダイニング・テーブルに白いクロスを掛けている間、ラインハルト王子とミレーヌさんは無言でした。ラインハルト王子は頬杖をついて外の雪景色を見やり、ミレーヌさんは立ったまま遠くに視線を馳せています。
気まずい、ぴりぴりした空気。僕みたいなお邪魔虫がいるせいでしょうか。急いで食事を並べながら、沈黙が辛くなった僕は、ミレーヌさんに精一杯の笑顔を向けました。
「どうぞお座りください。すぐに仕度しますので」
「席をはずしてくれ、ミレーヌ。エメルと食事をする」
王子様の声はさり気なかったけれど、刃のように胸に突き刺さります。ミレーヌさんがいるのに、僕と食事? わざわざ来てくれたミレーヌさんを追い返して、僕と?
仰天した僕とは裏腹にミレーヌさんは無表情で、ドレスをつまんでラインハルト王子にお辞儀をしました。薄紅色のドレスの裾を翻し、何事も無かったかのような優雅な足取りで去って行く美女。
でも僕は、見てしまったんです。王子様に背を向けた一瞬後、ミレーヌさんの目に涙が浮かぶのを。
「ひどい……」
こんなの、ひどい。2人の間で何があったか知らないけど、何があったとしても、女性を泣かせるような酷いやり方で追い返すのはひど過ぎる。
「何がひどいのだ」
「だって……」
他人事とは思えません。ミレーヌさんの哀しい涙に、僕の未来が重なります。レオンさんとお喋りしている時にアウレリアさんが現れたら、僕は席をはずさないといけない。2人の邪魔にならないよう、気をきかせないといけないんです。
そしてレオンさんが他の女性に愛を向けるのを、遠くから羨ましそうに見ることになる。想像するだけで心が痛み、涙がじんわりと滲んで来ます。
「……大切な人の視線が自分を素通りして、別の人に向けられるだけでも心が死んでしまうのに、その上残酷な言葉を投げつけられたら……お願いだから傷つけないで」
どんなに願っても、いつか傷つく日が来る。仲良く腕を組み、見つめ合うレオンさんとアウレリアさん。僕は妹として結婚式に参列し、2人の誓いのキスを見なければならないんです。2人が永遠の愛を約束し、僕の心が死んでしまう日が来る――――。
レオンさんのことは、思い出さないようにしてたのに。こんな時に思い出すなんて――――。僕の目から、涙がぽろぽろ流れ落ちました。
「君が泣くことはないだろう。ミレーヌは、こういう場合の対応に慣れている。よく心得たいい愛妾だ」
「いい」という部分が、僕には「都合のいい」に聞こえます。彼にとっては「いい」だろうけど、ミレーヌさんにとってはどうなんだろう。少なくとも、彼女の涙は本物でした。
「今だけは、ミレーヌさんと食事してください。僕は使用人だから、いつでもあなたとお喋りできます」
「それ以上言うな。無駄だ」
「でも……あの、僕は今日、あなたと食事しません。そんなこと出来ません。ミレーヌさんを呼びに行かせてください。お願いします」
足音が聞こえ、振り返るとマテオさんが息を弾ませ立っています。顔が真っ赤で、拳を握っているところを見ると怒ってるみたい。
「……めえ! よくも倉庫に閉じ込めてくれたな!」
冷ややかな王子の横目がマテオさんを貫き、マテオさんは小刻みに息を吐き出しました。
「し・つ・れ・い」
「マテオさん、いいところに来てくれました。食事の支度をお願いします。僕、急用が出来たので」
何か言いたそうなマテオさんを残し、王子様にぺこりと頭を下げ、僕は部屋から走り出ました。ミレーヌさんの部屋は、きっと客室棟の何処かにある。大体の目星をつけ、目も眩む黄金色の回廊を駆け抜ける僕を、衛兵が奇妙な目で見ています。
タペストリーに覆われた石壁と赤い絨毯。客室棟に入る頃には僕の頭も冷静になり、ミレーヌさんは王子様との食事を望まないんじゃないかと考えるようになっていました。
ラインハルト王子が「慣れている」と言ったように、ミレーヌさんは愛妾の立場や彼のやり方を充分理解していて、何もかも承知しているかも知れない。
王宮舞踏会の夜、「輝く物」――――恐らく宝石を貰うことで引き下がったミレーヌさんの振る舞いを思い出し、今回も後で王子様からご褒美を貰うのかも知れない。彼女にとっては、よくある何でもない事なのかも。
でも――――でも、ミレーヌさんは泣いていた。彼女の辛い思いが、自分のことのように感じられます。いくら愛妾だからって、あの扱いはひどい。誰にだって失いたくないプライドはあるはずです。
だからと言って、面と向かって「貴女があんまり可哀相なので追いかけて来ました」と言えるはずもなく、僕の足が止まってしまいました。どうしよう。ミレーヌさんに会って何を話そう。彼女は、僕なんかに会いたくないかもしれない。
もしそうだとしても、せめて僕の気持ちだけは伝えたい。色々あって王子様の使用人になったけど愛妾になるつもりは微塵もなく、ボーデヴィッヒ侯爵を退治して結婚命令を撤回させたいという事を、ミレーヌさんに伝えたい。
うまく行けば、彼女は味方になってくれるかも知れない。味方は一人でも多い方がいい。ミレーヌさんに協力をお願いしよう。
「すみません。ロイスブルク伯爵夫人のお部屋は、どちらでしょうか」
通路を歩いていた使用人をつかまえ、案内して貰いました。ミレーヌさんの部屋は僕が泊っている部屋とは別の棟にあり、扉を叩き名前を名乗ると、メイドさんが中に入れてくれました。
薄い青紫で統一された、シックな部屋です。僕が泊っている部屋より遥かに広く、奥からミレーヌさんが現れ、僕の緊張が高まって行きます。
「あの、どうか、誤解しないで下さい。色々事情があってヴァレットになったんですけど、貴女と張り合おうなんて気持ち、これっぽっちも無いんです。それを分かって頂きたくて……その、出来れば王子様と食事をして頂けませんか?」
僕が一気に言い切るとミレーヌさんは驚いた顔をし、すぐに艶然と微笑してソファに座るよう指し示しました。
さわさわと衣擦れの音がして、ミレーヌさんの動きは風に揺れる花びらのようで、ドレスの裾裁き、歩き方、座り方――――そのすべてが美しい。どうしたらこんな風になれるんだろう。
メイドさんがお茶を出してくれ、奥の部屋に消えて行きました。ミレーヌさんの背後に小さな窓があり、雪がちらちら降っています。彼女の真正面に座った僕は緊張し、目を見開くばかり。
「冷めないうちに、どうぞ」
「あ、はい」
紅茶カップを持ち上げ、一口飲みました。林檎の香りが口の中に広がり、鼻へと抜けて行きます。アップル・ティーだ――――美味しい!
「殿下が下がるよう仰ったら、わたくしの立場では下がるしかないわ。貴女のお気持ちは嬉しいけれど、殿下のお気持ちが変わらない限り、お食事は無理よ」
「そうなんですか……」
やっぱり――――。
ミレーヌさんはクリーム色の手袋をはずし、その手の美しさに僕の目は釘づけになりました。細い指。真っ白に輝く手。自分の手を見下ろし、長年家事をやって来た働き者の手だと自負していたけれど、何だか恥ずかしい気分です。
僕の手も、頑張れば貴婦人の手になるかな。もう手遅れかな。ディリアお母様から貰ったクリームをせっせと塗ろうと心に決め、優美な仕草で紅茶を飲むミレーヌさんを見て、感嘆の溜め息をつきました。
「どうかして?」
「どうすれば貴女のようになれますか? 僕、貴婦人を目ざしてるんですけど、上品にも優雅にも全然なれなくて。平民出身だと駄目でしょうか」
「わたくしの生家は準貴族で、平民と変わらないわ。子供の頃はずっと領地にいて、男の子と野山を駆け回るお転婆娘だったの。いつも真っ黒に日焼けして、手足はすり傷だらけ。よく母に叱られたわ」
ミレーヌさんは懐かしむように遠い目をし、エメラルドの瞳がきらきら輝いています。
「想像もできません。お転婆なお嬢様から、自然に貴婦人になられたんですか? あの、歩き方とかドレスの着こなし方とか、すごく綺麗なので……」
「ありがとう。もしも綺麗に見えるとしたら、努力の賜物ね。フィアに入学してすぐに恋をして、彼の目に留まりたくて、歩き方から何から毎日懸命に練習したの」
「そうだったんですか。恋の力は偉大ですね。少し元気が出ました。恋の力なら、僕にもありそうです」
「恋をしているの?」
「……はい。……片思いですけど。その人、他の女性と結婚するんです。でももし僕が立派な貴婦人になれて、その人に褒めて貰えたら、やっぱり嬉しいし……」
せめてレオンさんの自慢の妹になりたい。そう思えば思うほど、目の奥が熱くなって来ます。ミレーヌさんは哀しげな顔で僕を見て、小さな花のような紅い唇を開きました。
「片思いは辛いと思っていた時期が、わたくしにもあったわ。恋する人のそばにいると、もっと辛いと知ってからは、時々昔に戻りたくなるけれど」
「恋する人のそば……? ミレーヌさんが恋した相手って……ラインハルト殿下?」
「他の人だと思った?」
クスリと笑う美女を、僕はまじまじと見ました。ミレーヌさんの生家は借金のために領地も貴族籍も失いかけ、ラインハルト王子の援助によって救われたと聞いたことがあります。王子の援助と引き換えに、彼女は愛妾になったと聞いたけど――――。
「わたくしが殿下のおそばに上がったのは、家族のためだと巷では言われているわね。それも理由の一つではあるけれど。最も大きな理由は、彼に恋していたから。彼のそばにいられるなら、愛して貰えるなら、愛人でも何でも良かったの」
「どうしてですか? 貴女ほどの人なら、お妃様にだってなれるのに」
「そういう願望を持てる立場ではなかったし、今となってはもう遅いわ。愛人上がりの女を、王家は家族として迎えないもの。そういうしきたりなの。それでもいいの、愛してさえ貰えたなら……でもそれすら……」
哀しい顔のままミレーヌさんはついと視線を逸らし、すぐさま僕に戻しました。
「殿下の愛妾になるつもりがないなら、なぜヴァレットになったの? 女の子の貴女が、ヴァレットというのも変だけど……」
ミレーヌさんの表情が僕に同情するかのように優しくなり、僕はここぞとばかりに背筋を伸ばし、ミレーヌさんを仲間に引き入れるべく気合を入れました。
「人の悪口は言いたくないんですけど、何もかもボーデヴィッヒ侯爵が悪いんです。策を弄して国王陛下の結婚命令書を手に入れ、僕を脅して王子様に突き出そうとしてるんです。王子様の宝物をぶんどるのが目的みたいで、ひどい悪党なんです」
「まあ。オスカーが貴女を脅したの?」
「はい。……え? オスカー? 侯爵とお知り合いなんですか?」
「まあね。放蕩者でカード賭博の常習者だとは聞いていたけど、悪党になってしまったのね」
ミレーヌさんが首をかしげると、優美な顔を取り巻く金茶色の髪が揺れます。美しい人は髪1本にいたるまで美しく、うっとりと見惚れてしまいます。
「貴女、おいくつ?」
「年ですか? 14です。春になったら、15になります」
「そう。わたくしが殿下の愛人になったのは、15の時だったわ。ずい分昔のような気がするけれど、7年前なのね。長い長い7年だった」
小さな溜め息を洩らし、ミレーヌさんは悲しく首を振りました。何となく様子が変で、僕の頭にピンと響くものがあります。
「あの、ミレーヌさん。もしかして、殿下と別れるおつもりなんですか?」
「そのためにトライゼンに戻ったんですもの。さっきも別れ話をしていたのよ」
「えっ。殿下は、何と……?」
「そうか、と一言だけ。そういう人よ。相手が何を望もうと、彼にとってはどうでもいい事なの。わたくしが別れたいと言っても、彼は気が向けばきっとまた誘って来るわ。わたくしの気持ちなど、お構いなしに。気まぐれに声をかけ、誘い、冷たく見放す人」
ミレーヌさんは立ち上がり、窓辺に歩み寄りました。舞い降る雪を見上げる麗しい横顔を、複雑に入り混じった哀しみと憧れと渇望がよぎり、儚く消えて行きます。
「そんな彼に、女たちはいつかは変わってくれると期待して、裏切られるの。何人もの愛人たちが彼を愛し、失望して去って行ったわ。愛妾という地位を望んで近づく女を、彼は好まないの。彼が欲しいのは、愛。愛されることを望み、彼自身は誰も愛さない。それでもいいと思っていたのよ。そばにいられるだけでいいと思っていたの。でもね、年をとったのかしら。……疲れてしまったわ。本当に疲れた……」
ミレーヌさんは、いくつだろう。22歳? その若さで疲れたとか年をとったとか、愛はそれほどまでに消耗する感情なんでしょうか。レオンさんに恋をし、悲しい思いはしたけれど、疲れたとは思いません。僕はまだ、大人の入り口に立っているに過ぎないのかもしれない。
自分をすり減らしても、一人の男性を愛し続ける――――僕の目にミレーヌさんは、勇者に見えました。
「貴女は、立派です」
「そうかしら? 愛して貰えないと分かっているのに離れられない、馬鹿な女よ」
ミレーヌさんは振り返り、はっとするほど美しい微笑を浮かべました。




