2 王子様のヴァレット Ⅷ
煉瓦造りの樽小屋は王宮の裏庭にあり、葉の落ちた木々と雪に囲まれています。小屋を出ると左手に王宮の石壁がそびえ、正面にある厨房まで数十歩の距離です。
紺色のフランネルのスーツを着て赤い蝶ネクタイを結び、その上に白いコック帽とエプロンをつけた僕を、ボーデヴィッヒ侯爵が鋭く冷ややかに見下ろしました。
大人の威厳と危ない空気を纏った彼は、怖い。でも戦わなくては。空になったボールを盾にして抱きしめ、徹底抗戦です。
「何をやっている」
「ザワークラウトの下ごしらえですっ」
「ラインハルトから厨房を手伝えと言われたのか」
「いえ。厨房が忙しそうだったので、その、手伝った方がいいと……」
正直に答えると、侯爵は目を剥きました。
「君の仕事は、王子に褒美をねだる事だ。キャベツと褒美にどんな関係がある」
「えっと、今のところ、関係は無さそうです」
「時間を無駄にしおって。キャベツ臭いぞ。この臭いは嫌いなんだ」
「トライゼン人は皆、ザワークラウトが好きなんだと思ってました」
「子供の頃、毎日キャベツとじゃが芋を食わされたからな。ヴァレットをクビになったのか」
「なってません」
今のところは――。今朝の王子様の不愉快そうな表情から見て、ブルーノさんもマテオさんも僕も全員まとめてクビになりそうだけど。
「侯爵家の御子息が、キャベツとじゃが芋しか食べられなかったんですか? ご病気か何かだったんですか?」
「無い物は食べられないだろう」
「無い……? どうして?」
侯爵は視線をそむけ、苛立たしげに髪をかき上げました。
「15年前、領地のある南トライゼンで3年続けて干ばつが起きた。かなり困窮したが、昔の話さ。現在のボーデヴィッヒ家は、裕福だ」
「辛かったでしょうね。毎日の食卓にキャベツとじゃが芋しかないなんて。僕にも覚えがあります。僕の場合、パパが賭博……深い事情があったんですけど。できるだけお腹を膨らませるために、スープにして食べたりするんですよね。長く続くと見るのも嫌になって、刻んだキャベツやすり潰したじゃが芋をパンに練り込んだり、お団子にして油で揚げたりして何とかしのぎました。今度、キャベツとじゃが芋の料理を作ってみましょうか? コールロラーデン(ロールキャベツ)とかクロケッテ(コロッケ)とか、僕、得意なんです。うまくいけば、あなたのキャベツ嫌いが治るかも知れません」
「今は裕福だと言っただろう。虫じゃあるまいし、何でキャベツなんぞを食わねばならんのだ」
「好き嫌いは、体に良くないです。キャベツが嫌いというのは、昔の辛い思い出が残ってるせいだと思います。キャベツと美味しい記憶がつながれば、キャベツを見るたびにお腹がクーと鳴りますよ。そういうものですよ」
侯爵は腕を組んで首をかしげ、斜め下からきつい目線で僕を見ています。しまった――――偉そうに講釈を垂れてしまった。こいつ何様だと思われてるに違いない。
キャベツのせいで侯爵の怒りを買ったら、僕の方がキャベツ嫌いになりそうです。彼は首を回してコキコキ鳴らし、冷ややかに尋ねました。
「ラインハルトの褒美はどうなった。貰えそうか」
「それは、えっと……」
「取引を持ちかけられなかったか? 彼に抱かれる代わりに、何かを与えようとは言われなかったか」
抱かれる――――それが何を意味するのか、僕にだって判ります。この人、真っ昼間から何言ってるの。
これだから放蕩者は困る。侯爵は暇を持て余して一日中恥ずかしいことを考えてるんだろうけど、僕は違います。真面目に勤勉にキャベツを刻んでるんです。彼も少しは働けばいいのに。僕は、顎をくいっと上げました。
「そういう品性に欠けたことは、仰ってませんでした。僕の奴隷になるとか何とか仰ってた気はしますけど。でも本心じゃないんです。王子様が、僕なんかの奴隷になるわけないもの」
「本心だろうがなかろうが、そんな事はどうでもいい! 当然、『仰せのままに』と返事したんだろうな」
「えっ、だって『仰せのままに』は、『はい』ですよ?」
侯爵は僕の頭を小突き、まるで親の仇を見るみたいに僕を睨みつけています。
「駆け引きという言葉を知らんのか。なびくように見せかけ、逃げればいいんだ。あと少しで手に入ると思えば、向こうは追って来る。切り札の褒美をちらつかせ、君を落そうとするだろう。その気がありそうな素振りを見せ、褒美を先に貰え」
「そんな騙し討ちみたいな振る舞い、僕には……」
私を手に入れろと言ったラインハルト王子の危険な気配を思い出し、あの時「はい」と答えていたらどうなっただろうと想像するのも怖ろしい。きっと逃げ切れなかったでしょう。僕は捕まり、叫んでも許して貰えず、まっすぐ彼のベッドへ連れて行かれ――――。
「ひ――っ! 無理! 逃げるだけで精一杯です。それだってマテオさんとブルーノさんが来てくれなかったら、どうなっていたか……」
「君は、いくつだ? 14になったんだろう。おつかいもロクに出来ない阿呆な子供だな」
彼の言葉には、ムッとしてしまいます。阿呆な子供? こうなったら手段は選ばない。手に入ったばかりのネタを使い、徹底的に脅してやる。
「ところで侯爵、犯罪者をかくまっておられるそうですね」
彼が僕をちらっと見たから、よし行ける!と確信しました。このまま怒涛の如く押して突き崩して、泣くまで脅しまくってやる。……泣かないだろうけど。
「聞きましたよ。ナタリア夫人を屋敷に隠してるって」
「夫人はアメルグにいる。病気療養中だ」
「……は?」
アメルグにいる? 話が違う……ような。
「あなたの屋敷に隠れてると聞きましたけど?」
「いるのは亭主の方。隠れてなどいない。エードバッハはアメルグの特命大使として訪れ、社交界に堂々と顔を出している。アメルグはトライゼンの輸入規制緩和と、両国間の貿易活性化を望んでいるが、そんな話に興味があるのか?」
「いえ、僕が聞きたいのは……その、エードバッハという人をかくまうのは、犯罪じゃないんですか?」
「他国の特命大使に宿を提供することが犯罪なら、客室棟を持つ王宮は犯罪の総本山ということになる。ああ、そうか。君は、私を脅したいのか」
侯爵の顔に凄みのある笑みが浮かび、僕の胸がひやりと冷たくなりました。噂が本当かどうか確かめるべきだった。どうしよう。とにかく話を続けることだ。そのうちボロリと、彼の弱みが落ちて来るかもしれない。
「聞きたいことがあるだけで……あの、ナタリア夫人は何をしたんですか? 国外追放になったと聞きましたけど……」
「何も。国王の愛妾だったというだけさ。王妃に懇願され、国王はナタリア夫人に二度と会わない誓いを立てた。その証として、エードバッハ夫妻を国外退去処分にした」
「それだけ? 誓いを果たすために、わざわざそんな処分をしたの?」
「裏があると言う者もいるし、何かあったんじゃないかという話もあるが、24年も前のことだからな。よく分からん。何故そんなことを聞く?」
「いえ、別に……」
あなたを脅すため。そんな台詞が言えるわけもなく、必死に頭を働かせました。
「エードバッハさんとは、古くからのお知り合いなんですか?」
「アメルグで知り合った。……ラインハルトに色仕掛けができないなら、私が仕込んでやろうか? 結婚すれば、少しは使い走りができるようになるだろう。ボーデヴィッヒ侯爵夫人となった君はラインハルト王子の愛妾になり、ベッドで奉仕して褒美を得る。その方が近道だ」
「あ、あの、僕、今でこそ男爵家の娘だけど、元は平民で雑種で血統関係が滅茶苦茶悪くて、先祖はベネルチアの漁師で代々貧乏人で……王子様の愛妾候補なら、由緒正しい素敵な貴婦人が大勢いるでしょう?」
ご先祖様、ごめんなさい。心の中で詫びる僕の全身を侯爵はじろじろ見て、肩で溜め息をついています。人の体を眺め回して溜め息をつくなんて、失礼な!
「私が質問したいくらいだ。ラインハルトが、わざわざ結婚を手配してまで君を手に入れようとした理由は何だ? 私の推測では、答は一つ。子犬のような顔立ちと、先祖代々ロクに食ってないことがよく分かる幼児体形。分かるだろ? そういう事だ」
「は? 全然分かりませんけど……」
「彼は、大人の女に飽きたのさ」
女に飽きた……? ということはつまり……。
「王子様は、男性が好みなんですかっ」
「誰がそんな事を言った。しかし、うむ、その可能性もあるな。女に嫌気が差し、少年趣味に走ることもあり得ない事ではない。しかし私が言いたいのは、幼女趣味の線だ」
幼女趣味――――少年趣味。どっちにしたって立派な変態です。一国の王子が変態――――しかも僕は、側仕えをしてる。
「ど、どうしたらいいんですか。王子様が変態だなんて、とても信じられない」
「私に言わせれば、正常の範囲内だが?」
「えええっ!」
正常の範囲が広過ぎます。変態から見れば、どんな変態も正常に見えるんでしょう。彼に尋ねたのが間違いだった。
「窮屈で面白味のない貴族社会にいると、色んな趣味に走りたくなるものさ。とにかくラインハルトは、君に執心している。あまり待たせるのもよくない。できるだけ早く結婚し、手取り足取りありとあらゆる手練手管を君に教え込もう。そうしよう。決定だ」
何が決定なのっ。僕の気持ちはどうなるのっ。侯爵はにやりと笑みを浮かべ、僕の背筋を冷たいものが走って行きます。
ラインハルト王子は気まぐれを起こしただけで、僕なんか1日で飽きられて捨てられるのに。労力をつぎ込んでも無駄だということを、どう説明すれば侯爵に納得してもらえるんだろう。
「えっと、春になれば、ご褒美が貰えると思います……」
「そんな悠長なことは言ってられん。3日以内に褒美を貰え。ロイスブルク伯爵夫人を知ってるか?」
「えっ、はい」
「ラインハルトに近づけるな。王子の目を君に引きつけ、他の女に向けさせるな」
「そんな事言われても……どうやって……」
ミレーヌさんは絶世の美女で完璧な貴婦人で、片や僕は貴婦人目ざして頑張ってはいるものの、いまだ底辺をうろうろしてる出来ない子で、何をどうしたってミレーヌさんに目が向くに決まってる。
「やれないなら、今すぐ結婚だ。鞭と蝋燭を磨いておかねば。どうする。さっさと決めろ」
「が、頑張ります。何とかします!」
ラインハルト王子のベッドか、ボーデヴィッヒ侯爵のベッドか。どちらかを選べと言われてるみたいだけど、どちらも嫌だ。とにかく何とかしなければ。でもどうすればいいの――――?
ボーデヴィッヒ侯爵は僕を威嚇するように真上から見下ろし、片頬を上げて笑いました。目は少しも笑っていなくて、彼の顔つきを見ると先祖がどんな人だったか一目瞭然です。――――山賊。
身代金を絞り取ろうか売り飛ばそうか、それとも手元に置いて奴隷としてこき使おうかと考えている山賊。縄で縛りあげられた僕はなすすべもなく、彼の言いなりになって首をカクカク振るばかり。
脅すつもりが反対に脅され、僕はボールを抱きしめたまま、しょんぼりと厨房に向かって歩きました。振り返ると侯爵の姿はどこにもなく、再び僕の鋭い全身感覚が警鐘を鳴らしています。
見られてる――――。誰かが僕を見てる。見回したけれど裏庭の木々が雪を乗せて立っているだけで、人の姿はどこにも見当たりません。やっぱり気のせいか――――僕は疲れているのかも。
厨房に戻ると、カラクさんがカウンターの向こうで手招きしています。隣に侍従のスミスさんが立ち、僕の全身を眺め回して溜め息をつきました。
またですか。いい加減、僕を見て溜め息をつくのはやめてほしい。僕だって一生懸命生きてるんです。
「殿下がお戻りになりました。ウィンターガーデンまで昼食を運んでください」
「はい」
ウィンターガーデンとは室内に作られた温室のような部屋で、サンルームと呼ぶ国もありますが、トライゼンではウィンターガーデンが一般的な名称です。
マテオさんは、どうしたんだろう。尋ねかけた口が、スミスさんのしかめっ面を見て止まってしまいました。
「牛骨の香りは、ヴァレットに相応しくありません」
キャベツの次は、牛骨ですか。牛骨スープの匂いが厨房に充満してるのは、僕のせいじゃない。コックさん達のお手伝いをするのはいい事だと思ったのに、スミスさんは渋い顔です。王宮ではそれぞれの職務がきっちり決められ、規定から逸脱するのは歓迎されないのかも知れない。
コック帽とエプロンをカラクさんに返し、銀のワゴンを押しました。ワゴンに乗っているのは、レンズ豆と牛肉のトマト煮込み、アスパラガスのサラダ、ハムの盛り合わせ、白パン、ハーブティーです。朝も思ったけれど、ラインハルト王子の食事は想像していたほど豪華ではありません。
王宮は豪華だけど、王家の暮らしは質素なのかもしれない。昼食は2人分あり、王子様は客人と昼食を楽しまれるようです。
部屋の前まで来るとスミスさんは去ってしまい、僕は一人でワゴンを押し、中に入りました。ドアを開くとサロンがあり、左に曲がると突き当りに寝室があります。
曲がらず真っ直ぐ進むようにとスミスさんから言われていたので、その通りにしました。獅子の紋章が描かれた扉を開けると、太陽のサロン――――ウィンターガーデンです。
木目の美しい柱と天井以外は、総ガラス張り。雪に包まれた木々と庭が、ガラス1枚隔てた向こうで白く輝いています。
座り心地の良さそうなソファと椅子は青で統一され、丸いティーテーブルとどっしりした四角いダイニング・テーブルはローズウッド。アーチ型の天窓がいくつもあり、薄曇りの空から壁ガラスと天窓のガラスを経て、眩しい光が降り注いでいます。
ダイニング・テーブルの正面にラインハルト王子が座り、脇に立っていた貴婦人が僕を見ました。優美な薄紅色のドレス。フリルとレースに包まれた、白く細い首と麗しい顔。赤みがかった金茶色の髪を緩やかに結い上げた美女。――――ミレーヌさん!
「先日はきちんと御挨拶もできなくて、すみませんでした」
僕がガチガチに固くなって挨拶すると、ミレーヌさんは視線を僕から窓の外に移し、紅い唇の奥で「いいえ」と小さく呟きました。