2 王子様のヴァレット Ⅶ
トーニオさんと一緒にラインハルト王子の部屋に入ると、2人の若いメイドさんが忙しそうに働いていました。1人はサロンの窓を拭き、もう1人はオレンジの香りのするオイルで家具を磨いています。
メイドさん達が着ている黒いお仕着せは、王宮から支給された物です。各部メイド長や総メイド長は支給品ではなく誂えた物を身に付け、王宮で黒以外の衣服を着たメイドさんがいれば、地位ある人というわけです。
女官は貴族の子女に限られ、華やかなドレスと優美な雰囲気で王宮に花を添えています。王妃様付きの女官は貴族の夫人たちなので、とりわけ豪華できらびやかです。
余談ですが、王都クラレストの各貴族邸ではそれぞれ独自のメイド服を支給していて、買い物や所用で街を歩くメイドさんの衣服を見ると、どの貴族邸で働いているのか一目で分かります。
メイド希望の若い女の子の間では、淡いピンクや水色のメイド服が人気のようで、メイド服で勤め先を決めるという話もよく耳にします。ちなみにリーデンベルク家のメイド服は渋い茶色で、若いメイドさんには人気がないけれど、年配のメイドさんには好評だそうです。
サロンの窓は開け放たれ、冷たい風が入って来ます。絨毯の中央に立っていたブルーノさんが振り返り、僕は彼の足もとにある物を見て目を見張りました。形は小型の荷車といったところですが、持ち手の先にあるのは荷台ではなく、箱です。
にやりと笑ったブルーノさんがポケットから羽毛を取り出し、絨毯の上に落としました。箱を押すとカタカタと車輪の回る音がして、羽毛は箱の下敷きになり、箱を引き戻した時には消えていました。
「あっ……! 箱の中に入ったんですか?」
「当たり」
ブルーノさんが箱の上蓋を開くと、中にはぎっしりとブラシが詰まっています。箱を動かすことで内蔵されたブラシが回転し、絨毯に付いた塵をかき取る仕組みになっているみたい。
「カーペット・スィーパーというらしい。珍しいから使ってみたが、なかなか面白い」
「僕にもやらせて!」
「おいおい、エメル」
トーニオさんの制止を軽く振り切り、わくわくしながらスィーパーのグリップを握って押しました。絨毯掃除は通常、膝をつきブラシを使って手で埃や塵を取る、時間も手間もかかる重労働です。この機械を使えば……。
箱は手押し車のように動き、ブラシが絨毯の長い毛足を絡め取る様子が手に伝わって来ます。でも、重い。ハンドルも箱も金属で出来ていて、車輪が絨毯に埋もれ、押すだけでもかなりの力が必要です。
「そこまで。君に怪我でもされたら、レオンの奴がまた不機嫌になる。今朝みたいな嵐はごめんだ」
ブルーノさんは僕からスィーパーを取り返し、レオンという言葉に僕の心臓がドキッ。
「レオンさんに……会ったんですか?」
「朝寝を楽しんでいた俺を叩き起こし、マテオの部屋のドアを蹴り開けた。マテオの悲鳴が聞こえたところを見ると、布団を引っ剥がしたんだろう。リーザを君の部屋に泊まらせろだの君から目を離すなだの、目一杯言い散らして出て行ったよ。機嫌が悪いのなんのって。何かあったのか?」
「えっと……」
僕の頭の中はレオンさんに心配してもらえた喜びで一杯になり、僕が妹だからだと気づいて急激に萎んで行きました。レオンさんの妹というだけでも有り難いことなのに、それだけでは満足できない僕は、何て贅沢になってしまったんだろう。
「まあいい。牛乳とパンを詰め込んでたら、ラインハルトの侍従がやって来て、スミスとか言ったかな、しかめっ面で言うんだ。早く王子の部屋に行かないと君の身が危ないってね。急いで駆け付けたつもりだが、遅くなって悪かった」
「御心配をおかけしました。ありがとうございました。でもいいんですか? 大学入学前の勉強とか準備とか、忙しいんじゃないですか?」
「王宮で働くなんて滅多にない機会だからね。探検気分で楽しませて貰うよ」
ブルーノさんはにっこりし、僕も笑い返しました。ブルーノさんもマテオさんも、本当にいい人です。
ラインハルト王子の侍従のスミスさんも。いつもしかめっ面で忙しそうだけど、僕を案じてブルーノさん達を起こしに行ってくれたんだ。胸の中がほんわかと暖かくなり、「それにしても」とスィーパーに未練の目を向けました。
「もっと軽かったらいいのに」
「重いお蔭で、わたし達は助かってるんですよ」
家具を磨いていたメイドさんが恥ずかしそうに言い、全員の目が彼女に向いて、純朴そうな頬が赤らんで見えます。
「スィーパーが重いので、絨毯掃除は男性使用人の仕事になりました。わたし達は、スィーパーの届かない椅子の下や狭い場所をブラシでこするだけで済みます」
「絨毯掃除は大変ですものね。僕にも覚えがあります」
僕の言葉にメイドさんは驚いた様子で、窓を拭いていたもう一人のメイドさんが言葉を挟みました。
「王宮内に1台だけアメルグ製のカーペット・スィーパーがあるんですけど、こう言っては何なんですけど、すごく軽くて性能がいいんです。ここにあるスィーパーは純国産製で、これから量産されると聞いています」
「重いのをたくさん作るより、軽くて性能のいいアメルグ製を輸入した方がいいのに」
「簡単には輸入できないんだよ、エメル。トライゼンでは、国内産業を保護するために輸入規制をしているからね」
トーニオさんが言い、僕は懸命に頭を働かせました。
「性能のいいアメルグ製と同じ物を作って量産すればいいんですよ」
「それも無理だ。トライゼンは先年、他国と歩調を合わせ、特許法協定に調印したから。アメルグ製と同じ商品を作るなら、多額の特許料を支払わなければならない」
「そうなんですか……」
特許法――――特許料。簡単に言ってしまえば、「真似するなら金払え」ということだと授業で習ったような。
「トライゼンが、アメルグなんぞに負けるわけがない。産業庁は国内のギルドを会社組織化し、商品開発しろと尻を叩いている。近いうちに、アメルグを越える新商品が出て来るだろう」
そうか。愛国心の強いトライゼン人が、アメルグ製品に飛びつくわけないんです。ブルーノさんが言うように、いつか自国の技術がアメルグを越えると信じ、重くても使いづらくても純国産品を我慢して使うでしょう。いい物を輸入して使えばいいと考えてしまう僕は、トライゼン人になりきれていないのかも知れない。
「お喋りは、そこまでにして頂きますよ」
入り口ドア付近から声が聞こえ、振り向くと年配の女性が立っています。黒髪をひっつめ、1本の乱れ髪もなく、背筋はまっすぐ伸びて厳格そうです。ベージュの木綿のドレス姿。きっと地位あるメイドさんに違いない。
「総メイド長だ」とトーニオさんが耳もとで囁き、僕は直立不動になってしまいました。
総メイド長――――王宮メイドの頂点に立つ女性です。
「紳士方、お嬢様。客室に戻ってお喋りをお続けになるか、お仕事をなさるか、どちらかにして頂きませんと他の使用人に対ししめしがつきません」
「申し訳ない。エメルは朝食を食べ損ねたようだから、厨房に連れて行きますよ」
トーニオさんの言葉に、総メイド長は僅かに眉を上げました。
「エメルさま。今後、朝食は仕事前にお取りになりますように。それからシュバイツ卿、絨毯掃除はヴァレットの職務に含まれておりません。絨毯は絨毯夫にまかせ、あなた様はヴァレット規定の職務に専念してくださいませ。殿下が軍庁舎に行っておられる間は、衣服や靴その他持ち物のお手入れ、室内の整頓、やるべき事は多々ございます。分からない点がございましたら、侍従のスミスが詳しくお答え致します」
総メイド長の朗々とした言い回しと威厳に圧倒され、僕たちはあたふたと王子様の部屋から退散しました。
「マテオさんは、どうされたんですか?」
通路に出て尋ねると、ブルーノさんの顔ににやりと笑みが浮かびます。
「王子を見張ってるよ。出来るだけ長く王宮から遠ざけるために。俺は夜の担当になったから、これから王宮を散策しながら情報収集だ。エメルちゃんは、何もしなくていいからね。ここはロクでもない男どもと美女の巣窟だから、客室でじっとしてるんだよ」
ブルーノさんは言い残し、楽しそうにいそいそと去って行きました。彼の向かう方角から、芳しい香水の匂いがするのは気のせいでしょうか。
厨房近くまで来ると「約束があるから」とトーニオさんは言い、僕の額にキスをします。
「ボーデヴィッヒとの結婚命令に従う必要はないよ。きっと裏があるはずだし、必ず撤回させる。俺と結婚する気になったら、言ってくれ。いつだって待ってるから」
「はい」
僕は笑顔でうなずき、トーニオさんの背中を見送りました。トーニオさんが最後まで残そうとした3人の愛人は、さぞ素敵な女性なんだろうなあ。トーニオさんの好みから考えて、年上。もちろん貴婦人で、とびっきりの美女。
トーニオさんは3人の中の誰かと結婚すればいいのにと思うけれど、相手の女性は既婚者かもしれない……。
貴族の結婚の多くは政略結婚で、妻は跡継ぎが生まれるまで夫に縛られますが、役目を果たせば自由に恋愛していいそうです。男性は結婚前も後も複数の愛人を抱え、つまり夫妻は互いに愛人を持っているわけで、それに異を唱えれば野暮な人として社交界の笑い者になるらしい。
怖ろしい習慣です。社交界が、遥か彼方にある異世界に思えます。僕は一人の男性だけを一生愛し続けたいし、一生僕だけを愛してくれる男性と結婚したい。贅沢かなあ。
リーデンベルク邸のキッチンの3倍くらいありそうな厨房では、10人のコックと5人のキッチンメイドが忙しそうに働いていました。
貴族の方々は夜遅くまで舞踏会や各種パーティーに出掛けるため、お昼近くになって朝食を取られることが多く、今は午前中で最も忙しい時間帯です。
コックの半数は女性で、黒いお仕着せの上に白い胸当てエプロンを付けています。男性コックは白いコートのようなコック服の下にズボンを穿き、エプロンは無し。男女ともに白く平たいコック帽を被っています。
壁際に備えられた窯でパンやデザートのケーキを焼く人、フライパンでヴルストや野菜を炒める人、スープや煮物を作る人、盛り付ける人など、コックはそれぞれ役割が決まっています。
3台ある長テーブルで野菜やハムを切り、お皿を並べ、コックを手伝いながら雑務をこなすのはキッチンメイドです。黒いお仕着せに白い胸当てエプロンを付け、白いキャップに髪をたくし込んでいます。
焼けたパンとスパイスの匂い。焦げた肉汁の香り。スープはもうもうと湯気を立て、クーと鳴る僕のお腹。
パンとスープを貰い、邪魔にならないよう隅っこで急いで食べ、食べ終わった僕は下働きのお手伝いをすることになりました。
白いエプロンを借りて首から下げ、白いコック帽に髪を押し込み、袖をまくって敢然とキャベツに立ち向かう僕。
トライゼンのキャベツは、ものすごく硬い。ベネルチアのような南方産のキャベツに比べると石のような硬さですが、そんな事で怖気ずく僕ではありません。
磨き抜かれた刃を楽々と操り、慣れた手つきでザワークラウト用のキャベツを刻んでいると、初老のコックさんが僕の手元をのぞき込みました。
「坊主、いい手つきだな。どこで仕込まれた? 臨時のヴァレットだそうだが、どこの屋敷で働いてたんだ?」
坊主――。正直に話し方がいいでしょうか。でも女の子が王子様のそば近くに仕えてると知れたら、誤解されるかもしれないし……。元平民で今は貴族の女の子が、王子様の古着を着てキャベツを刻んでるのも、考えてみれば変な状況です。
「えっと、どう説明すればいいのか……」
見上げると、彼は首に白いスカーフを巻いています――――コック長だ! 王宮でも貴族邸でも冷蔵室に入れるのはコック長のみで、コック長は寒さよけのスカーフを首に巻いているものなんです。
「あの、リーデンベルク邸です」
「男爵家か。待遇はどうだった?」
「はい。優しくして頂きました」
「職場に恵まれたな。ここは規則に厳しいが、いい仕事場だ。しっかり働けよ」
「はい」
コック長は僕の前に紅茶の入ったカップを置き、見回すと休憩時間のようで、コックさんも下働きのキッチンメイド達もお茶を飲んでいます。
「アイヒホルン卿が乗り込んで来たな。ゲオルグ殿下は、いよいよ正念場か?」
「無理でしょう。騎士階級で離婚歴のある娘が王妃になった例はないわ」
「しかし、父親としては必死だろうな。娘が王妃ともなれば……」
どこからともなくヒソヒソ声が聞こえて来て、紅茶を飲む僕の手が止まってしまいました。アイヒホルン卿って誰? 僕の知らない名前です。
騎士階級は準貴族の下、平民の上に位置する階級で、富裕な商人や地方の豪農に多く、「卿」と呼ばれるけれど貴族と認められていません。ゲオルグ殿下……? 王妃になる令嬢? 厨房の隅で、コック達がカップを片手に小声で話をしています。
「アイヒホルンの娘、ロイスブルク伯爵夫人。ボーデヴィッヒ侯爵邸にはナタリア夫人が舞い戻って隠れてるって噂だし、今冬のクラレストは王家の愛妾だらけだ。どうなってるんだか」
「その中で正妃になるのは……」
「ないない。愛妾は愛妾止まり。正妃になった例は、過去に一つもない」
「正妃どころか、ナタリア夫人は国外追放の身よ。クラレストに戻るなんて犯罪行為、下手すると牢獄行きだわ」
ナタリア夫人は、どんな罪をおかしたんでしょうか。
牢獄行き――――ナタリア夫人を邸内に隠しているらしいボーデヴィッヒ侯爵も? やった! 侯爵めの弱みをつかんだかも! コックさん達に気づかれないよう懸命に耳を澄ませたけれど、カラクさんの一声で噂話は終わってしまいました。
「アルマーニ公爵夫妻及び御付きの方7人分の朝食、入りました」
「うおーい」
低い掛け声と共に休憩時間は終了し、コック達はそれぞれの持ち場に戻って行きます。カラクさんがノートをめくり、卵の調理法、サラダはザワークラウトかグリーンサラダか、パンは白パンか黒パンかなどを読み上げました。あらかじめ客人の好みを聞き取り、書き記してあるようです。
僕は紅茶を急いで飲み干し、キャベツを千切りにする作業に戻ったけれど、考え事をするたびに手が止まってしまいます。さっきの話によると、アイヒホルン卿の令嬢はゲオルグ皇太子殿下の愛妾のようで、だとするとカミーラさんはどうなるの?
あの真面目そうなゲオルグ殿下に愛妾がいるというのは衝撃的で、その上カミーラさんにまで手を伸ばしたんだと思うと何だか腹が立って来ます。カミーラさんは知ってるのかな。どうするつもりなんだろう……。
キャベツ10個を千切りにして大きなボールに入れ、さすがに手がしびれ、ふうっと息をつきました。刻んだキャベツは、外にある樽小屋まで運ぶことになっています。キッチンメイドから小屋のある場所を聞き、ボールを抱えて勝手口から外に出て、歩く途中で足を止めました。
誰かに見られている気がする――――。僕の鋭い全身感覚が、視線を敏感に感じ取っています。周囲を見回したけれど人影はなく、気のせいかなあと再び歩き出しました。朝から緊張の連続だったから、さすがの僕の鋭い全身感覚も疲れて鈍くなったのかもしれない。
樽小屋に入るとザワークラウトの入った樽がずらりと並び、その一つにボールの中身をあけて蓋を閉じました。1ヶ月も経てば、ほどよい酸味に漬かるはずです。
外に出ると、髪の赤い紳士が前から近づいて来ます。……ボーデヴィッヒ侯爵! 怖い顔をして、何だか怒ってるみたい。
鞭と蝋燭をちらつかせた時みたいに、また僕を脅すつもりなんでしょうか。僕だって負けてはいられない。ナタリア夫人をかくまっているという仕入れたばかりのネタがあるんだから、脅し返してやる!
うまくすると彼の欲しい物が何かを聞き出せ、結婚を白紙に戻すことが出来るかもしれない。僕は精一杯胸を張り、ボーデヴィッヒ侯爵と対決しました。