2 王子様のヴァレット Ⅵ
「ミュラー公爵から申し入れがあったのは、今年の春だ。母上は喜んでいたようだけど、レオンがどう思ったかは知らない。その頃の俺たちといったら、ろくに口もきかなかったから」
トーニオさんがふと遠い目をし、僕はあの夏の日々を思い出しました。僕という厄介者が転がり込んで来たから話し合いをするようになったけど、それまでのレオンさんとトーニオさんは、兄弟とは名ばかりの冷たい関係にあったんです。
「つい先日、レオンは縁談を断った」
「え……断った?! どうして?」
「俺もそれを知りたい。エメルちゃんとレオンの間で結婚の約束があるの? レオンは、父上にそういう話を持ちかけたようだけど」
「僕、何も聞かされてません。結婚の約束なんて……」
愛してる。レオンさんは、甘い声でそう言ってくれました。4年待つとも言ってくれたけど、それは急がずゆっくり大人になれという意味で、結婚という言葉をレオンさんが口にした事はないはず。
「レオンさんがパパに、僕と結婚したいと言ったんですか?」
「そうみたいだね。父上は激怒され、しばらくレオンとの関係が険悪になった。今は大人の付き合いをされているようだけど」
夏の終わりごろ、パパがレオンさんを睨みつけていたのは、そういう事があったからなのか。レオンさんがパパの宝を欲しがり、パパが怒ったというような話をトーニオさんから聞いたけど、パパの宝とは僕のことだったんだ……。パパの宝と呼ばれるのは嬉しいけれど、僕の知らないところで大事な話し合いやら仲たがいやらが起きていて、複雑な心境です。
「僕、レオンさんから結婚しようと言われたこと、ないです……」
レオンさんは僕に対して優しくて、まるで恋人同士のデートみたいにあちこちへ連れて行ってくれたけど、不思議に思ったことが幾つかあります。大人のキスも「愛してる」の言葉も1回きりで、僕に触れないよう気を遣ってるみたいで、それでいて僕をじっと見つめることが何度かあって……。
どうしてだろうと考え、突然恐ろしい理由が閃き、僕は凍りついてしまいました。もしも「愛してる」という言葉や大人のキスに、僕が思っているほどの深い意味が無かったとしたら――――。愛情表現だと僕は思い込んでいたけど、レオンさんにとっては何の意味もないものだったとしたら――――。
「愛してる」や大人のキスというと、真っ先に思い浮かぶのはレオンさんを除けば、パパとトーニオさんです。ディリアお母様と出会う前、女性に甘く囁くパパの「愛してる」は「こんにちは」と同じ意味で、キスは握手のようなものでした。女性側が結婚を意識するようになると、パパは「真剣に受け止められると困るんだよなあ」と逃げ腰になってたっけ。
暖炉を見やるトーニオさんの綺麗な横顔を、ちらっと見上げました。トーニオさんが王宮の女官たちに人気があるのは、全員に平等に「愛してる」と言って回っているからだと聞いたことがあります。トーニオさんにとって「愛してる」はほんのお遊びか冗談で、女官たちはそのお遊びを楽しんでいるのだとか。
男の人にとって「愛してる」も大人のキスも、冗談か挨拶ほどの意味しかないのかもしれない。僕は、重大で致命的な勘違いをしていたのかも……。僕だけが恋人気分に浸り、レオンさんはそれを見て困っていたのだとしたら、レオンさんの僕に対する微妙な態度の説明がつきます。
「僕、朝食を食べてないので厨房に行って来ます……。それから王子様のお部屋のお片付けをして……お掃除のお手伝いも……」
「一緒に行くよ」
「トーニオさんは、ここでゆっくりしていてください」
よろよろと立ち上がり、床に落ちたモップを拾い上げ、僕は一人部屋を出ました。心配して来てくれたトーニオさんを残して行くなんてひどいと思ったけど、悲しい事実についてじっくり考えたい。ううん、考えなきゃ。
一人になれる場所――――誰にも邪魔されずに考えられる場所を探し、回廊庭園の柱を抜け外に出ると、真紅の椿が雪に埋もれています。庭園を囲む壁の所々に植木鉢や彫像を置くための壁龕が施され、その一つにもぐり込み、乾いた地面に腰を下ろしました。へこみの前には太い樫の木が立ち、外から僕の姿は見えないはず。
氷のように冷たい空気が、押し寄せて来ます。女子学生にも社交界の貴婦人にも街の女性たちにも人気のあるレオンさんが、フィア女子クラスでも断トツで成績最下位の僕みたいな出来ない子を一人の女性として好きになるなんて、冷静に考えればおかしくて有り得ないことです。
男の人にとって「愛してる」も大人のキスも軽いもので、それを知らない僕はパパ流に言えば「真剣に受け止め」てしまい、舞い上がって恋の告白までして、レオンさんを困った立場に追い詰めてしまったのでは……。
心優しいレオンさんはアウレリアさんと結婚するつもりだったのに、すっかり恋人気分でいる僕を見て真実を告げることが出来ず、これ以上勘違いさせないために僕に触れないよう気を遣いながら、様子をうかがっていたのかも知れない。
馬鹿な僕がレオンさんの苦境に気づくことはなく、レオンさんは家族思いだから同じ屋根の下で暮らす者たちの間でわだかまりを作りたくなくて、思い悩んだ末、僕に勘違いさせた責任は自分にあると考え、僕と結婚することで責任を取ろうと決意した……。
レオンさんは真実をパパに話し、パパは愛情のない結婚がどれだけ不幸か身にしみて知っているから、思い留まるよう説得したでしょう。でも責任感が強くて頑固なレオンさんは意思を変えず、パパはレオンさんを不幸にしたくなくて怒ったんだと思う。
そんな深刻な事態になっているのに、能天気な僕は浮かれているばかりで、レオンさんの悲しい心中を察することも出来なかったんです。レオンさんは僕のせいで、アウレリアさんとの結婚をあきらめるしかなくなったのに……。
涙の溜まった睫毛を、ぱちぱちさせました。レオンさんを怒らせて、良かったのかもしれない。さすがのレオンさんも今度のことで僕に愛想が尽き、僕なんかのために人生を棒に振るのは間違ってると気づいたでしょう。
僕から解放されたレオンさんが生涯の伴侶に選ぶのは、非の打ちどころのない貴婦人です。アウレリアさんのような。これで良かったんだ……。
レオンさんが他の女性と結婚すると思うと、悲しくて涙がぽろぽろこぼれます。でも手遅れになる前に気づいて良かった。今ならまだ間に合う。もっと早く気づいていれば、公爵家との縁談を断らずに済んだのにと申し訳ない気持ちになるけど、全然気づかないよりはずっといい。
「はっくしゅん」
くしゃみが聞こえ、僕は目を見張りました。膝と両手を突いたまま壁龕から顔を出すと、トーニオさんが壁にもたれ寒そうに立っています。
「トーニオさん! いつ、そこに……」
「君が巣穴にもぐり込んだシマリスみたいに出て来なくなって、すぐに。入っていいかな。ここは吹き晒しで、寒くてたまらない」
「もちろんです」
トーニオさんは僕の隣に腰を下ろし、風をさえぎるように背中を壁龕の外に向け、僕をじっと見ました。腕を組んだ体を傾け、コツン。トーニオさんの頭が叱るように僕の頭にぶつかり、さらさらの金髪が僕の頬にこぼれ落ち、僕の視界が青い目で一杯になって行きます。
「……あ、あのっ」
「まったく。いまにも泣き出しそうな君を、俺が一人で行かせると思った?」
頭を離したトーニオさんは、苦笑を浮かべました。
「ずっと外にいたんですか? ここも外ではありますが」
「まあね。君が落ち着くまで待つつもりだったんだけど」
「さっき、くしゃみをしてましたよ? トーニオさんは部屋に戻ってください。風邪をひくと大変ですよ。僕はもう少し頭を冷やして考えたいから、残りますけど……」
「考えるって、何を? レオンの縁談のこと? あれはもう断ったんだよ」
「まだ間に合いますよね? お願いだから、取り返しがつかないとは言わないで」
「言わないけど……」
トーニオさんの瞳が真剣みを帯び、薄寒い空と黒っぽい壁を背景に光って見えます。トーニオさんは僅かに息を吸い込み、かすれた声で尋ねました。
「レオンがアウレリアと結婚することに賛成なのか?」
「はい」
レオンさんには幸せになってほしい。端整で落ち着いた大人の魅力を持つレオンさんと、麗しく知的なアウレリアさん。お似合いです。にっこり笑おうとしたけれど、口角がひくひく引きつって泣きそうです。トーニオさんは僕の目にそっと触れ、人差し指の先で丸くなって揺れている僕の涙を見つめました。
「どうしてレオンがアウレリアを選ぶと思うの? つまり……適齢期の令嬢は他にもいるわけだし、エメルちゃんだって結婚できる年齢に達してるよ」
「アウレリアさんが、理想的な貴婦人だから。他の令嬢についてはよく分からないけど、僕が全然駄目ってことは分かります。貴族社会では家柄はもちろん、知性ある女性が妻として望まれると聞きました。ラテン語と数学が落第点だと結婚できないってこと、ありますか? それだと僕、一生結婚できないみたいなんです。相手が平民なら学校の成績は関係ないと思うけど、お母様はいい顔をなさらないでしょうね……。ドレスを着ることについても、努力してるんです。なぜかドレスを着ると不安な気持ちになるけど、いつまでも男の子の恰好でいるわけにもいかないし……。言葉使いについても何とか改めようと頑張ってるんですけど、何年何十年かかるか……。やっと立派な貴婦人になれたと思ったら、お婆さんになってるかもしれない。お婆さんじゃ誰からも申し込まれませんよね? 僕、一生結婚できない……」
生まれた時から淑女として育った貴族の令嬢と、平民の馬の骨。成績優秀でスポーツ万能な優等生と、絵に描いたような劣等生の僕。差が歴然として諦めるしかないのに、哀しくて涙が止まりません。
「君は、そうやって俺の心を乱すんだ」
トーニオさんの両腕が伸び、僕を抱きすくめました。トーニオさんの腕と胸に挟まれた僕は、ぺちゃんこになりそうです。中性的な柑橘系の香りがふわりと漂い、トーニオさんは僕の髪を梳くように撫で、唇で僕の耳を甘噛みしています。
や、やっぱり、気さくで親しみやすいお兄さんじゃない。危険な人だっ。じたばたと僕はもがきました。
「じっとして。結婚しよう、エメル。一生君を一人にしない。約束する」
結婚?! 聞き間違ったんだと思いました。トーニオさんの口から結婚という言葉が飛び出すなんて、天変地異です。雪と一緒に牛が降って来たようなものです。
「君を独り占めしたい。レオンやラインハルトにちょっかいを出されるのは、もううんざりだ。他の男どもを追い払うには、結婚して堂々と権利を主張するのが一番いい」
「ちょっかい?! ……結婚?!」
僕の耳がおかしくなったのでなければ、トーニオさんは風邪をひいて熱を出しているに違いない。顔をほんの少し浮かして見上げると、真剣な顔が僕を見下ろしています。
「あの、トーニオさんには、恋人がいるでしょう?」
「君に嘘をつきたくないから白状するけど、恋人はいない。愛人なら、10人ほどいるけどね」
10人! その怖ろしい数字については、考えないことにしました。
「えっと、恋人と愛人は違うんですか?」
「俺の感覚的には、恋人は恋愛の相手で愛人は体だけ、かな。詳しく知りたい?」
「いえ、いいです」
「愛人たちについては清算するから、君は心配しなくていいよ」
清算……。おそらく10人全員が貴婦人で、清算するということは別れるということなのでしょう。……僕のせいで。
扇を捨て髪を振り乱し、手にカマや包丁を握った10人の貴婦人たちに襲われ、生皮をひん剥かれる僕。
「ひーっ。そのっ、僕が一人ぼっちで寂しい一生を送らないよう結婚まで考えてくださって、本当にありがたいと思ってます。でもトーニオさんは、結婚しない方が世界平和に貢献できると思います」
「何を想像してるんだか」
「10人の女性が、悲しい思いをするんですよ。想う人から想われないことが、どんなに悲しいか……。複数の愛人を持つのがいい事なのかどうか分からないけど、でもどうかその人たちを悲しませないで」
「悲しまないと思うけど、悲しい思いをしてくれるとしても、10人じゃないよ。俺が清算するのは、5人だから」
「……はい?」
半分を精算して……残り半分は?
「愛人を5人に減らす。リストを書くよ。結婚した後、俺の居場所が分からなくなると困るだろうから、彼女たちの住所と名前を書いておく」
「僕、トーニオさんの華麗すぎる私生活について、知りたくないです」
「5人というのは、勿論エメルちゃんを含めてないよ。君は、別格。5人を従えて頂点に立つ女性だからね」
「下から槍で突かれるか、よじ登って来た誰かに蹴落とされる未来が見えるんですけど……。個人的な意見ですが」
「5人でも多いと言いたいの? 誰かのために愛人を減らしたことは、一度もないんだけど」
「あの、トーニオさんには幸せになってほしいので、僕なんかのために無理をしないでください」
トーニオさんは深い溜め息をつき、真剣な青い目で真っ直ぐ見つめたかと思うと、僕の頭を力一杯抱きしめ、髪に顔をうずめました
「……3人。これが限界だ。俺が俺でなくなってしまう」
「数多くの愛人を持つことが、トーニオさんらしいんですか?」
「俺に、他に何がある? 周囲に女たちを侍らせ、何事も皮肉にとらえ冷たく冷静に対応する男。それが俺。そうでなくなったら、何も残らない。いや、中身空っぽの男が一人残るかな」
彼の声が僕の髪を巡り、何だかいつもとは違って聞こえます。
「トーニオさんが空っぽ……? まさか」
「本当さ。何もないんだ。愛も夢も欲しい物も、願望すらない。だが君といると、欲しいものがあるような気分になれる。空っぽの俺の中に何かが確かに在って、それを育ててみたくなる。ラテン語や数学なんか、どうでもいい。君は、ただいるだけでいいんだよ。君がそばにいてくれるだけで、俺は幸せになれる」
トーニオさんは、僕の目ををのぞき込みました。
「初めて会った時、天使が降りて来たと本気で思ったよ。綺麗で可愛いらしくて、清楚で純情そうで生意気で、ふわふわした捉えどころのない天使。君が笑うと俺は今まで経験したことのない暖かい気持ちになり、君が悲しそうな顔をすると、どうしたんだろうと気になって他のことが手につかなくなる。時々君を抱きしめたくなるけど、手を伸ばすと逃げて行ってしまうんだよな。決して俺のものにはならない、俺の天使」
「トーニオさん……」
凍りついて硬くなった僕の心が、溶けていきます。空っぽの人なんかじゃない。トーニオさんには春の水のような潤いと温もりが在って、話をするだけで僕の方こそ幸せな気分になれる。
「君のために愛人を3人にとどめる。だから、結婚してくれ」
幸せな気分、砕け散りました。でも、トーニオさんらしい。彼は彼らしいやり方で、僕をなぐさめてくれているんだと思います。僕はようやくにっこり笑えるようになり、上着のポケットからハンカチを引っ張り出しました。
「まだ貴婦人になりきれてない僕は、誰とも結婚できそうにないです。僕が立派な貴婦人になる日と、トーニオさんの愛人が一人もいなくなる日と、どちらが早く来るでしょうか」
ハンカチで涙を拭きながら僕は尋ね、トーニオさんはフフンと笑っています。
「決まってるだろ。俺に言わせれば、エメルちゃんはもう立派な貴婦人だよ」
「愛人全員に逃げられて寂しくなったら、言ってください。僕が精一杯お喋りして、トーニオさんを慰めますから」
「お喋りだけ?」
トーニオさんの手がついと伸び、僕の髪を楽しそうに撫でたり指で弄んだりしています。口もとには悪魔めいた微笑が浮かび、すっかりいつものトーニオさんです。
「今日のところは、ここまでかな。かなり君から譲歩を引き出せたし、もうひと押しだな」
えっ。譲歩……してませんけど。僕は瞳をきらきら輝かせたトーニオさんを見上げ、彼の中には魅惑的な悪魔がたくさん住んでるんだろうなと思いました。