2 王子様のヴァレット Ⅴ
パッパラパッパラパー! 頭の中で突撃ラッパが鳴り響いています。モップを槍の如く構え、勇者たる僕は突き進む。
ラインハルト王子の部屋は白、金、茶、淡い緑で統一され、どっしりとしたマホガニーの家具が華やかな装飾に男性的な雰囲気を添えているはずですが、厚いカーテンに閉ざされた早朝のサロンは薄暗く、突撃真っ最中の僕に周囲を眺める余裕はありません。
突き当たりの扉をそっと開き、毛足の長い絨毯で足音を消しつつ暗い寝室に忍び込むと、大きなベッドの中央にぼんやりと人影が見えました。
微かに漂うスパイシーで刺激的なコロンの香り。王子は暖かそうな毛皮の敷物にうつ伏せになって横たわり、上半身が裸だということに気づいて、僕の足がピタリと止まってしまいました。
カーテンの隙間からこぼれ落ちた暁光がなめらかな彼の背中を照らし、僕の頭から「突撃」だの「玉砕」だのと言った勇ましい言葉が吹き飛んで行きます。
「王子様。朝ですよ。起きてください」
ベッドから離れた場所でビクビクしながら声をかけたけれど、彼はぴくりとも動きません。
大人の男性の体と香り――――。その圧倒的な存在感と強過ぎる刺激に頭がクラクラします。相手が「大人」というだけで僕なんか立ち入り禁止なのに、そこに「男性」が加わるともう異世界で、しかも裸となれば恐ろしくて恐ろしくて足が震えます。
パパ以外の男性の寝室に入ったこともないのに、勢いだけで乗り込んだ僕が馬鹿だった。パパなら布団を引っ剥がして「早く起きないと仕事に遅れるよ!」と怒鳴ることも出来るけど、王子様をどうやって起こせばいいんでしょうか。
声をかけても駄目だったから、肩を揺り動かす? つまり、さわるの? 裸の肩にさわる――――無理。無理だっ。
撤退です。回廊に立っている衛兵に頼んでみよう。来てくれるかな……。回れ右をした情けない僕の背中に「カーテンを開けてくれ」と低い声が飛び、振り返ると乱れ髪の間から眠そうな両眼が僕を見つめています。
「は、はい!」
ベッドの足元を駆け抜け、濃茶色の布地を力いっぱい開きました。朝の光がレースのカーテン越しに差し込み、気だるげに寝返りを打って肘枕をする上半身裸のラインハルト王子を照らし出します。
僕は慌てて目を逸らし、強い視線を感じて彼をちらっと見ました。仕草はなまめかしいのに、僕を見る薄青い目が鋭くて怖い。
ゆっくりとした動作に大人の男性のゆとりが感じられ、ラインハルト王子に比べれば、あのトーニオさんですら大人になりきっていない少年に思えます。王子は口端にわずかな笑みをたくわえ、面白そうに目を瞬かせ、僕に手を差し出しました。
「起こしてくれ」
「え……?」
手を取ったらどうなるか僕にだって予想できます。腕を引かれ、危険な彼の世界にまっしぐら。「おいで……」と言った彼の声が蘇り、僕の背中がぞくりと震えます。
「いえ、あの、その……」
言いよどんでいる間に彼は起き上がり、僕は唇を噛みました。何て役立たずなのっ。でも、彼の手を取るなんて出来るはずがない。
「すみません。パ……父以外の男性を起こしたことがなくて。父ならぶん殴って……じゃなく肩を叩いて起こすんですけど、王子様にはどう接したらいいのか分からなくて……」
「平民の娘は皆、父親を起こすのか」
王子はそばにあったガウンを羽織り、僕はほっとしました。
「その家の事情によります。僕と父は2人暮らしが多くて、父は朝が苦手で、僕が起こさないと起きてくれないんです」
理由は、はっきりしています。夜遊び。早く寝れば早く起きられるのに、パパときたら夜になると目が爛々と輝き、朝になると死んだ魚のような顔になるんです。
「あ、今は違います。ディリアお母様が起こしてくださるので、僕はお役御免になりました。少し寂しい気もしますけど……」
「父親が好きなのか」
「はい。国王陛下のような立派な方に比べれば、欠点が服を着て歩いてるような人ですけど、大好きです」
「陛下が立派だと、なぜ分かる?」
「なぜって……立派な方でしょう?」
「どうかな」
王子がベッドを下り歩み寄って来たから僕はすくみ上がり、命綱のモップを両手で握り締め、必死に話を続けようとしました。
「えっと、あの、陛下とはよく話をされるんですか?」
「今はね。時々」
「時々?」
国王ともなれば多忙をきわめ、家族団らんの時を持つのは難しいのでしょう。王子はゆったりと腕を組んで僕を見下ろし、羽織ったガウンの間から裸の胸がちらちら見えて、目のやり場に困ってしまいます。
「む、昔は、あまり話をされなかったんですか?」
「子供の頃か? 年に1、2度かな」
「えっ。どうして……」
「それが当たり前だからだ。大人と子供ははっきり区別され、王と王妃が属する大人の世界に子供は参加できない。フィア入学と同時に両陛下と晩餐をご一緒するようになったが、それまでは食事も生活も別々だった。そういうものだ」
フィア女子クラスの級友たちは、小さい頃両親よりも乳母や家庭教師と過ごす時間の方が長かったと言ってたっけ。トーニオさんは、父親と話をした記憶がないと言っていたし。貴族や王族って、そういうものなんでしょうか。
「寂しくないですか?」
尋ねると王子の指が僕の顎先をつかみ、僕はぎくりとしました。
「なぜ寂しがらねばならない? 両親がどうだろうと私には無関係だ。君が会った侍従のスミスが父親代わり、乳母が母親代わり、両親役がいれば子供は育つ」
代わりはあくまでも代わりで、本当の両親じゃないのに。ラインハルト王子の口調が冷たくてはっとしたけれど、それより彼の指先が気になります。彼の指が僕の顎をクイと上げ、唇が降りて来て、僕は慌てふためいて後ろに飛び退きました。
「ひーっ」
「手を取れ、エメル。私は君のものだ。君は勇敢な子だろう? 私を手に入れるといい」
「でも、あの、僕……」
「私をひざまずかせたくはないか? 君がこの手に触れた時、ひざまずいて誓おう。生涯、私は君の奴隷になる」
生涯? 僕を愛人にするということ? 誇り高い王子が愛人の奴隷? 意味が分からないような分かるような。王子は言葉巧みに僕を手なづけ、忠実なペットにしようとしているに違いない。
ペットは嫌です。僕にだっていつかは好きな人と結婚したいという、ささやかな夢があるんです。
王子が手を差し伸ばし、窓枠から壁へとカニのように横ばいになって逃げる僕。彼の苦笑まじりの視線が追って来て、寝室の扉が音高く押し開かれ、僕は愛剣モップにつまずいて転びそうになりました。
「お待たせしましたああああ――――」
飛び込んで来たのは、マテオさんとブルーノさんです。途端に王子の目つきが険しくなり、刺のような視線が2人に突き刺さります。
「待ってなどいない。クビだと言っただろう」
「またまたご冗談を。ささっ、お召し替えを致しましょう。エメル君、殿下が起床されたと厨房に伝えに行ってくれ給え」
ブルーノさんが言い、マテオさんが僕を見てウィンクしています。2人は僕を助けに来てくれたんだ! 笑顔でうなずき、僕は脱兎の如く寝室を飛び出しました。
そのまま回廊まで一気に走り、厨房ってどこにあるんだっけと思ったけれど、誰に尋ねるまでもありません。辺りにはいい匂いが漂って、僕の鋭い鼻が「牛骨を煮込んだスープだ!」と告げています。鼻をくんくんさせ、匂いの元へと急ぎました。
着いた先は、広々とした厨房です。カウンターの向こう側でコック達が忙しく立ち働き、手前では黒いお仕着せに丈の短いサロンエプロンを身に付けた給仕が3人、ワゴンに朝食を乗せています。
ワゴンの隣には貴族付きのメイドらしい女性が立っていて、どうやら客室棟に宿泊している主の朝食を取りに来たようです。
「ラインハルト殿下が起床されましたので、お食事をお願いします」
僕が言うと給仕の方々は怪訝そうな顔をし、うち1人が「殿下の臨時雇いのヴァレットか?」と聞いたので、僕は「はい」と答えました。
僕に尋ねた人はカラクさんと言い、年齢は20歳。ラインハルト王子の部屋までワゴンを押してくれ、部屋の入口で僕が丁寧にお礼を言ってワゴンを受け取ると、「頑張れよ、坊主」と励ましてくれました。
しかし……坊主ですか。大人の貴婦人への道は遠く険しい。
部屋に入るとサロンのカーテンは開かれ、明るい日差しが射し込んでいます。窓辺のテーブルにシャツとズボン姿の王子が座り、王子を挟むようにマテオさんとブルーノさんが立っています。
「急げ。今朝はいつもより起床が遅かった」
不機嫌そうな王子の言葉に、僕は慌ててテーブルに食事を並べました。スライスした黒パンとヴルスト(ソーセージ)、コンソメスープ、グリーンサラダ。グラスに入っているのは、新鮮な牛乳とアップルジュースです。
「責任はエメルではなく、出勤が遅れた僕らにあります。特にブルーノは出勤途中で美女とお喋りを楽しみ、罪が重い」
マテオさんは王子の首の後ろでナプキンを結び、サラダにドレッシングをかけていたブルーノさんは目を剥きました。
「美女?! リーザのことか? 今後のこともあるから、ちょっと挨拶しただけだ。大体おまえが朝っぱらからコモるのが悪い。そのせいで遅れたんだ」
「そう来るのか。毎朝シャガむ習慣なんだよ。おまえこそ先に行っておいて、途中でお喋りしてたんじゃ意味ないよ」
マテオさんが顔を赤らめて反論し、僕はマテオさんの恥ずかしい姿を想像してしまいました。……コモる? シャガむ?
絶対に違う! そういう意味じゃない! 殿下が食事をされている横で、そんな話をするわけないんです。マテオさんもブルーノさんも貴族だから、これは何かの隠喩に違いない。
「話題を変えろ」
ヴルストにナイフを入れていた王子がしかめっ面で言葉を挟み、マテオさんは僕をちらっと見て、優雅に頭を下げます。
「レディの前でしたね」
「私が食事中なんだ!」
ラインハルト王子はこんがり焼けたヴルスト(ソーセージ)をじっと見つめ、思いっきり嫌そうにナイフとフォークを置きました。ブルーノさんは顔をそむけ、咳払いしています。
「前任ヴァレットは働き者で、1人で殿下のお世話をしていたそうですが、我々5人――――レオンはクビになったとして、4人が時間帯を分けてお仕えした方が良さそうです」
「3人だよ。トーニオが働くわけないんだから」
「王妃様は、トーニオを筆頭とした我々が殿下を支えることをお望みだが……そうだな、トーニオが使用人の仕事をするわけないか。訂正、私が早朝の職務を果たし、エメル嬢が昼間、マテオが夜間にお仕え致します」
「朝は僕がやるよ。ブルーノは朝が苦手で、今朝だって起こすのに苦労したんだから」
「おまえは今朝、クダったろう。毎朝クダられては困るんだよ」
「クダったのは、今朝だけだよ。朝一で牛乳を飲んだのが悪かったらしい。……その牛乳は大丈夫だと思います」
牛乳の入ったグラスに口を付けていた王子の手がピタリと止まり、険悪な薄青い眼がマテオさんに向かって一直線。
「これは嫌がらせか? 貴様ら、母上の名を借りて私に嫌がらせをしに来たのか!」
「とんでもない。毎朝コモってシャガむ習慣も、牛乳を飲むとクダる腹も、すべてザイエルン家先祖伝来のもので、決して悪意はありません」
屈託のない笑顔のマテオさんに向けられた王子の顔は、これ以上ないくらいに凶悪です。ラインハルト王子はグラスを置き、ナプキンを首からむしり取ってテーブルに投げました。
「出掛ける」
「お食事をなさった方がいいですよ。お昼までに、おなかが空きますよ」
僕は必死に言いすがったけれど、彼は聞く耳を持ちません。クローゼットのある部屋に向かって激怒したように大股で歩き、ブルーノさんが後を追って行きます。
「どこまでもお供致します」
「来るな。軍本部には秘書がいる」
「一言ズボンを下ろせと言っていただけましたら、いつでも踊らせていただきます。ズボンの下は準備万端、じゃが芋も持参しております」
「貴様……私に恥をかかせるつもりかっ」
王子の全身から怒りが発散されているのに、ブルーノさんは飄々と受け流しています。そうか。相手が怒っていても、ああやって受け流せばいいんだ。感心してしまった僕にマテオさんが耳打ちしました。
「彼のことは僕らにまかせて、エメルちゃんは客室にいるんだよ」
「はい」
「それからさっきの話、真に受けないでね。僕らは、彼を早く王宮から追い出そうとしてるだけだからね。僕を嫌いにならないで」
「マテオさんを嫌いになるわけないじゃないですか」
にっこりすると、マテオさんは少し顔を赤らめ、笑みを返してくれます。マテオさん達が使った隠喩について、どういう意味なのか落ち着いたら聞いてみよう。
「エメルちゃん、やっぱり可愛いなあ。レオンの彼女でなければ良かったのに。残念だよ」
マテオさんはそう言うと、王子とブルーノさんを追って行きました。可愛いと褒められて嬉しいけれど、レオンさんの彼女――――。
マテオさんは知らないんです。僕がレオンさんに見離されてしまったことを。レオンさんを思い出すと涙ぐみそうになり、慌てて気持ちを切り替えて食事の後片付けに専念しました。
「ホッホー! ヘンデ・ホッホー!」
「やめんか! 牢獄にぶち込むぞっ」
扉の向こうで王子が怒鳴っています。マテオさんとブルーノさんのあられもない姿を思い出し、思わず笑ってしまいました。
ドロワーズは基本的に白かクリーム色だから、当時の7年生はわざわざ特注してチューリップ柄やウサギ柄に刺繍して貰ったに違いありません。ラインハルト王子は、どんなドロワーズを穿いて踊ったんでしょうか。
客室にいるようにと言われたけれど、ボーデヴィッヒ侯爵の欲しい物が何なのかを知るには王子様のご褒美が必要で、働かないとご褒美は貰えません。どうしようかと考えながらワゴンを押して厨房に着くと、カラクさんが深刻な顔をしています。
「ここ数日、客室棟に宿泊するお客人が増えたのに、給仕が2人風邪で寝込んでしまったんだ。今夜もし手があくようなら、厨房を手伝って貰えないかな。殿下のヴァレットなら作法は仕込まれてるだろうから、国王陛下御一家の晩餐の給仕を頼みたい。ラインハルト殿下も出席される」
「えっ、あ、はい……」
作法――――仕込まれてません。しかし、チャンスです。御一家水入らずの席で立派に給仕を勤めれば、王子様の覚えもめでたく、ご褒美が貰えるかも。
「是非やらせてください」
夕刻には厨房に行くことを約束し、僕は胸を躍らせて客室に向かいました。すっかり雪景色となった回廊庭園を通り過ぎる間に、踊っていた胸は踊りをやめ、赤い絨毯の客室棟に入る頃にはどんよりと重くなり、溜め息をつきながら客室の扉を開きました。
レオンさん――――。忙しく働いている間は忘れていられたけど、冷え切った部屋に戻ると思い出してしまいます。レオンさんを怒らせたこと。僕が馬鹿で、レオンさんに見捨てられたこと。
……ん? 部屋が暖かい。暖炉の火が燃えてる。そう思った瞬間、
「お帰り」
ソファから声が聞こえ、「ひっ」と飛び上がった僕の手からモップがぽとりと落ちました。
「トーニオさん?! 何してるんですか?」
「ひどいなあ。エメルちゃんが心配で待っていたんだよ」
ソファから立ち上がったトーニオさんは最新流行のスーツに身を包み、胸元には見覚えのあるアスコット・タイが結ばれています。僕がお誕生日プレゼントに贈った蒼いタイ――――。僕の視線に気づいたトーニオさんは、アスコット・タイにすっと指を走らせました。
「これ、気に入ってるよ。ありがとう、エメルちゃん」
トーニオさんの声が優しくて、僕の胸がじんと熱くなります。不覚にも目に涙が滲み、トーニオさんはたった三歩で歩み寄り、僕の肩にそっと手を置きました。
「どうした? ラインハルトに嫌なことをされた?」
「いえ。マテオさんとブルーノさんが来てくれて……王子様は大人だから僕なんか相手には……問題は僕にあるんです」
目をごしごしこする僕をソファに座らせ、隣に腰掛けて片腕をソファの背にかけ、僕の顔をのぞき込むトーニオさん。刺激の塊のようなラインハルト王子に会った後だからか、トーニオさんが親しみやすく気さくに何でも話せるお兄さんに見えます。
「話してごらん。きっと力になれるから」
そう言われ、ぽつりぽつりとたどたどしく、レオンさんを怒らせてしまった経緯を話しました。辛抱強く聞いていたトーニオさんの表情が少しずつ厳しくなり、僕の胸は絶望感で一杯になっていきます。
やっぱり――――やっぱり、レオンさんと仲直りする方法は無いんだ。頭のいいトーニオさんの頭脳をもってしても、僕がしでかした取り返しのつかない失敗を消し去ることは出来ないんだ。トーニオさんは、真剣で心配そうな顔を僕に向けました。
「レオンに少し時間を与えてやってくれないか。あいつにも、色々考えなくてはならない将来がある。医師という職業と領地経営が両立するのか、ミュラー公爵家との縁談をどうするのか」
「えっ! 縁談……?」
「エメルちゃんには言わないつもりだったけど、家族なんだから知っておいた方がいいだろう。ミュラー公爵はレオンが気に入っていて、令嬢を嫁がせたいと言ってるんだ」
「ミュラー……」
聞き覚えのある名です。懸命に記憶を探り、ユリアスさんに連れられ初めてフィア女子クラスの建物に入った時、階段に上級生達が立っていたことを思い出しました。中央にひときわ美しい最上級生がいて、ユリアスさんに2人目の愛人を持つ許可を与えたっけ。
「その令嬢は、もしかして先日フィアを卒業した……?」
「そう。女子クラスの総代表を務めておられた、アウレリア嬢だ」
やっぱりあの人だ。きりりとした知的な美貌。明るい金髪。意志の強そうな緑の瞳。直接話をしたことはないけれど、総代表の噂は耳にしたことがあります。成績優秀でスポーツ万能、人望も厚く、文句のつけようがないと先生方が言ったとか。
レオンさんに才色兼備の美女との縁談が来てる――――。僕は、衝撃に言葉を失ってしまいました。