2 王子様のヴァレット Ⅳ
カーテンの隙間から、夜明けの淡い光が差しています。
寝室に一人でいることに気づいてしばし瞬きし、飛び起きました。予備ベッドにいたはずなのにっ。きっとレオンさんが、眠っている僕をここまで運んだに違いありません。
昨夜の暖かさと心地良さを思い出すと幸せな気分になり、僕にとってレオンさんの腕の中は安眠できる場所、夢も見ずに熟睡できる居場所だったけど、レオンさんにとっては子供とベッドを共有するなんてつまらなくて窮屈なだけで、邪魔な僕は追い出されてしまったんです。
レオンさんに寝室のベッドを使ってもらう計画だったのに。予備ベッドに移ったレオンさんを起こさないよう、ほんの少し暖まってから寝室に戻るつもりだったのに。
結局豪華なベッドを僕が独り占めし、レオンさんに暖炉と燭台の火の始末と狭い予備ベッドを押し付け、僕を運ぶという手間までかける結果になってしまった……。
はあ……。ため息がこぼれます。そんな目に合ってレオンさんは眠れたんでしょうか。ベッドから下り寝室を出ると、レオンさんがリビングを歩き回っています。
「おはようございます」
「ああ、エメ。おはよう。よく眠れたか?」
優しく気遣ってくれるレオンさんの顔を見るなり、僕は仰天しました。目が――――血走ってる。僕を見つめる目は瞬きすることも動くこともなく、据わってる! 微笑した悪鬼のような顔つきです。ギン、ギンッ。そんな音すら聞こえてきそうで、僕はあんぐりと口を開けました。
「ど、どうしたんですかっっ」
「何が?」
「何がって……目、赤いですよっ」
「ああ、大したことないよ」
眠れなかったんだ――――。理由は分かりきっています。僕は、やってしまった。寝ぼけてレオンさんが眠れなくなるくらい勢いよく、蹴飛ばしてしまったんだ!
「……すみませんでした。本当にすみませんでした」
最悪です。何てことをしたんだろう。レオンさんを布団みたいに蹴落とそうとするなんて。泣きそうになって詫びると、レオンさんは怪訝な顔で僕を見ています。
「何で謝るんだ? 泊まると言い出したのは俺なんだから、おまえは何も悪くない」
「でも……でも……お怪我はありませんか?」
「怪我? 歯を食いしばり過ぎて、少し欠けたかな」
レオンさんはにっこり笑ってくれたけど、僕は自分の顔から血の気が引いていくのを感じました。痛かったんだ――――僕に蹴られ、歯を食いしばるほど痛かったんだ。レオンさんの全身を眺め回しましたが、スーツ姿ではアザが出来ているかどうかは分かりません。
もう二度とレオンさんのそばで眠れないでしょう。馬鹿な足のせいで、僕は居心地のいい居場所を失ってしまったんです。目をごしごしこする僕の頭を、レオンさんは優しく撫でてくれました。
「冗談だぞ。おまえは何一つ悪くない。それより支度しろ。王宮を出て、ホルツ公爵夫人の屋敷に向かう。おまえは公爵夫人の急な呼び出しを受け、出掛けたことにする」
ホルツ公爵夫人――――ディリアお母様が紹介状を書いてくださった、社交界の重鎮の一人です。
「公爵夫人に会われたんですか?」
「トーニオがね。おまえをかくまってもいいと言って貰えたから、さっそく甘えさせてもらう。社交界で発言力の強い夫人には、さすがのラインハルトも強くは言えまい。その間にボーデヴィッヒの弱みをついて、結婚話を無かったことにする」
「侯爵の弱みって?」
レオンさんは髪をかき上げ、考え込むように僕を見ました。リビングは冷え込み、暖炉に火が入っていないのはすぐに出発するからでしょうか。
「昨日のアメルグ人だ。名はエードバッハ。元トライゼン準貴族で、今はアメルグ国有数の資産家だ。問題は彼よりも、彼の夫人の方だ。ナタリア夫人はその昔、現トライゼン国王の愛妾だった」
「えっ、国王陛下に愛妾がいたんですか?」
初耳です。国王陛下は有名な愛妻家で、王妃様一筋だともっぱらの評判なのに。
「24年前、そうだったらしい。昔のことだから俺も詳しくは知らないが。その後、愛妾は手切れ金と夫を得てアメルグに渡り、夫の方は先日トライゼンに戻って来た。わざわざ王宮までやって来て、ボーデヴィッヒとつるんでいるところを見せつけるとは、何か魂胆があると思うよ」
「見せつける……」
ボーデヴィッヒ侯爵と口論していたように見えたけど……。元愛妾とその夫と僕が、どうつながるんでしょうか。
「エメは何も心配しなくていい。すべて俺たちにまかせ、ホルツ邸にいろ。公爵夫人は少々気難しい人のようだが、おまえなら上手くやれる」
「でも、あの、僕、手伝います。ボーデヴィッヒ侯爵は、ラインハルト王子が持ってる何かを欲しがってるようでした。それについて、僕なら調べられると思うんです」
「何を欲しがってるんだ?」
「分かりません……」
「俺とトーニオで調べよう。ブルーノとマテオも手伝ってくれる。おまえは安全な所にいろ」
「でも、その、僕……」
僕だけが何もしないで安全な場所にいる――――? ブルーノさんとマテオさんは僕を助けるために、あんな恥ずかしい格好までしてくれたのに。レオンさんは、ラインハルト王子を殺しかねない勢いだし。ホルツ邸にいても、心配でじっとしていられなくなるに決まってる。
それに大人の貴婦人ならこういう時、毅然と優雅に且つ大胆に格好よく、自力で何とかするでしょう。いつまでも子供ではいられない。大人の貴婦人を目ざす僕としては、ここは自力で頑張って少しでも目標に近づかなくては。きっとこれは、僕に与えられたチャンスなんです。
「お願いです。僕、王宮に残りたい。できるだけ自分の力で頑張りたい」
「おまえは何も分かってない。昨夜は賊が押し入って来ることもなかったが、ここは狼の巣だ。歯の欠けた狼は、滅多にいないんだぞ」
「歯の欠けた狼は、見たことがないんですけど」
「目の前にいるだろう」
レオンさんは背筋が凍るような恐ろしい微笑を浮かべ、僕は「ひっ」と叫びそうになったけど、問題は歯の欠けた狼とは何かということです。
歯を食いしばり過ぎたとレオンさんは言ったけど、それは僕に蹴飛ばされたせいで、つまり歯の欠けた狼とは寝相の悪い人間に関わってしまった不運な男性のこと? 僕は、恐る恐る尋ねました。
「どうしてレオンさんが歯の欠けた狼なんですか?」
「我慢に我慢を重ねたからだ」
そんなに痛かったの? 僕は何度も何度もレオンさんをボコボコ蹴ったの? そう思うとまた涙ぐみそうになったけど、今は泣いてる時じゃない。目の前の難問に集中しなければ。
「僕には、モップがあります」
ボーデヴィッヒ侯爵に簡単に取り上げられてしまったけど、二度とあんな失態は繰り返すまいと心に決め、精一杯胸を張りました。モップは絶対に手放さない。そうすることで、歯の生え揃った狼が来ても撃退できるでしょう。
「モップで戦います」
「王宮に残るということは、ラインハルトの身の回りの世話をするということだぞ。その意味が判っているのか?」
「王子様は理不尽なことはしないというか、悪い人じゃなさそうというか……だから大丈夫」
僕を襲いかけたけど侯爵の妻じゃないと話すと判ってくれたし、彼の言葉の端々に何か引っかかるものがあって、もしかすると冷たい容貌の下に隠された別の姿があるかもしれない。
「悪い人じゃない……?」
レオンさんの表情がこわばり、声が氷のように冷たくなって、僕はぎくりとしました。しまった。レオンさんとラインハルト王子は、犬猿の仲だった。僕は、慌てて言いつくろいました。
「悪い人です。凄く悪い奴です。ただ、えっと、その、寂しい人でもあるのかなって……」
愛人を手軽で便利な物扱いする王子。冷酷非道な仮面の下に、誰も愛せない孤独な人がひそんでいるような気がします。気の毒な人なのかも。視線を上げると、レオンさんが冷ややかに僕を見つめていました。
「俺かラインハルトか、どちらかを選べ」
「ええっ、どうしてですか」
「どうしてもだ。どっちつかずは好まない。俺を選ぶなら、王宮を出ろ。ラインハルトを選ぶなら残っていいが、俺は手を引く」
そんな! どうしてそうなるんですか! 僕にはレオンさんの考え方が理解できない。レオンさんは僕の大切な人でラインハルト王子は気の毒な人で、レオンさんとは離れたくないし王子様は見捨てづらいし……。
「比べられません。立つ位置が違うんだもの、比べる方法がありません」
「そんなにラインハルトが気になるのか」
「可哀想な人なんじゃないかと思うんです。きっと心に影があると思うんです」
影を人に見せまいと堅固な壁を張り巡らし、砦の中で小さくなって懸命に自分を守ってる。そんな姿が僕自身に重なって、ますます気の毒な人に思えて来ます。王子様と僕なんかに似た部分があるわけないし、ほんの少し話しただけで深い部分まで判るわけないとも思うけど、気になって仕方がありません。
「同情は、心惹かれているということだぞ」
「えっ、違いますよ。同情は憐れみで惹かれるは恋愛感情で、全然別ものですよ」
「そうでもないんだよ」
レオンさんは冷たい表情のまま、僕を見据えています。その表情が初めて会った頃のレオンさんを思い出させ、レオンさんが遠くに行ってしまったみたいで、僕の背中が凍りついてしまいます。
「ラインハルトが気になる、自力で頑張りたい、だから王宮に残る、そういうことか」
「え……ええ。ものすごく簡単に言ってしまえば……そうなり……ます」
「勝手にしろっ!!」
レオンさんの怒鳴り声に、僕は飛び上がってしまいました。くるりと背を向け、客室から出て行ってしまったレオンさん。ドアが音高く閉まり、僕はまたもや飛び上がりました。
怒ってる――――レオンさんは、もの凄く怒ってる。慌ててドアに飛びつき廊下に出たけれど、レオンさんの後ろ姿がどんどん遠ざかって行き、僕は大声で叫びました。
「レオンさん! ごめんなさい! レ……」
廊下を歩いていた貴婦人が不審そうに僕を見て、レオンさんは振り返りもせずに歩き去ってしまい、貴婦人のもの問いたげな視線に耐え切れなくなった僕はドアを閉めました。
レオンさんを怒らせてしまった――――。ドアにもたれその場に崩れ折れると、涙がぽろぽろこぼれます。最初に逆戻りです。レオンさんが怖かったあの頃に。僕なんか眼中になくて冷たかったレオンさんに。何もかも僕のせいだ。
よろめきながら立ち上がり、部屋の隅の洗面台で顔を洗っているうちに、もう一度レオンさんとよく話し合おうと思いました。僕の言葉が足りなかったから、レオンさんは僕がラインハルト王子に恋愛感情を持っていると誤解してしまったに違いない。よりによって、レオンさんの宿敵とも言うべきラインハルト王子に!
一人勝手に暴走した僕を助けようと駆けつけ、目を赤くしてまで僕を守り、その挙句自分よりあのラインハルト王子を選ぶと言われたら――――僕がレオンさんの立場なら、やっぱり怒ると思う。僕は王子様を選んだつもりはないけど、レオンさんはそう思い込んでいるんです。
僕の王子様に対する気持ちは同情、彼の心の影が何なのか気になるだけ。それをレオンさんにきちんと話し、レオンさんの理解と了解をもらってから王宮で働こう。
上着を羽織って廊下に飛び出し、昨日カーネルさんと歩いた回廊を抜け、正面玄関に出ると大型馬車がとまっています。荷物を馬車から下ろす使用人たちを見ていた貴婦人が振り返り、その美貌に僕の口がぽかんと開いてしまいました。
すらりとした細身の長身に最新流行のドレスをまとい、エメラルドの如き緑の瞳が興味深そうに僕を見ています。ゆるく結い上げた美しい金茶色の髪はわずかに赤みがかって、紅葉したメイプルの森みたいです。絵画に描かれた女神のような白く美しい顔に、僕は見とれてしまいました。……ミレーヌさん!
「あのっ。またお目にかかれて光栄ですっ」
「そう言えば、どこかでお会いしましたわね」
ミレーヌさんは記憶通りに艶然としてたおやかで、気品があって麗しい。こういう人こそ貴婦人の理想像です。僕は緊張してしまい、口をぱくぱくさせました。
「は、はい。舞踏会の夜、温室でお会いしました。あの節はご迷惑をおかけしましたが、あの後兄たちに助け出されて、その、王子様から助け出されたという意味では決してなく、色々と事情があったものですから……」
しどろもどろになっていく僕の口に比例し、顔が熱くなっていきます。
「やっと思い出しましたわ。殿下のペットでしたわね。わたくしは、ミレーヌ・フォン・ロイスブルク。しばらく王宮にとどまるつもりですの。またお会いできるといいですわね」
ペット? 何だか見下されてるみたいだけど、気にせず自己紹介をしなければ。
「僕、エメル・フォン・リーデンベルクです。えっと……」
ラインハルト王子のヴァレットになったと言っていいものかどうか。ミレーヌさんに誤解されないよう説明するには時間がかかり、今の僕はとても急いでいます。
「詳しくは、後ほどご説明します。では、これで」
不思議そうなミレーヌさんにぺこりと頭を下げ、全速力で馬車置き場まで走りました。屋根のついた馬車置き場は広く、何十台も馬車がとまっています。リーデンベルク家の紋章の付いた馬車を探したけれど見当たらず、近くにいた使用人に駆け寄り、荒い息のまま尋ねました。
「クレヴィング卿を見かけませんでした? リーデンベルク家の馬車は来ていませんか?」
「クレヴィング卿ならつい今しがた、ご自分で馬車を駆って行かれましたよ。貴族の旦那にしては、いい腕をなさってる」
「どちらに向かって?!」
「どちらって、普通は正門から出るもんですが? 今頃はもう大通りに出てらっしゃるでしょうが」
間に合わなかった……。レオンさんを怒らせたまま、話し合いもできないまま行かせてしまった。しかも――――歴然とした事実にぶち当たってしまいました。
僕は、レオンさんに見捨てられたんです。あまりにも恩知らずだから。助けに来てくれ、僕を守るために色々考えてくれたレオンさんに感謝するどころか、一人前に理屈を並べて反抗したから。どうしよう――――。
号泣しそうな自分を懸命に抑え、正面玄関まで戻るとミレーヌさんの姿はどこにもありません。こちらも間に合わなかった……。きちんとご挨拶すべきなのに、僕ときたら急ぐあまり省略してしまい、何て失礼な子だろうと思われたに違いない。
今日はひどい日です。やる事すべてが裏目に出て、うまく行かないことばかり。僕はうなだれて、とぼとぼと客室に戻って行きました。
溜め息を繰り返し、部屋の扉を開くと王子の侍従が渋い顔で立っています。しまった。僕の服を持って来てくれたのに、お待たせしてしまったんだ。
「すみません。遅くなりました」
「あなた様のご衣装は、そちらに」
侍従が指差す先には、ソファの背に掛けられたスーツがあります。
「それから早速ですが、ラインハルト殿下を起こしに行って頂きたい」
「起こす……って?」
「そのままの意味ですよ。そろそろ殿下の起床時刻ですから寝室まで出向き、お起こしするのがヴァレットの務めです」
「えっ、僕が……? 寝室……?」
青くなっているに違いない僕の顔を渋い表情で見つめ、侍従は首を振りました。
「本来ならヴァレットは殿下のお部屋の隣室に寝泊りし、常に殿下のお世話をするものですが、あなた様が女性であるという理由で特別に客室をお取りしたのです。これは例外中の例外で、これ以外の例外は認められません。あなた様のご身分及び性別に関わらず、殿下のヴァレットとして使用人名簿に名を連ねた以上、ヴァレットとして当然の職務を果たしていただきます」
「あの……はい」
仕方がありません。レオンさんに反抗してまで王宮に残ったのだから、にっくきボーデヴィッヒめの弱みをつかむまで、黙々と働くしかありません。
寝室に駆け込み、侍従が持って来たスーツに着替えるとサイズはぴったりで、ウェストコートもサスペンダー付きのズボンも誂えたみたいです。リビングに戻ると侍従は立ったまま待っていて、僕の全身をざっと眺め、目尻を下げました。
「殿下がお小さい頃に着ておられた古着です。懐かしい」
「殿下……ラインハルト王子の?!」
使用人は主の古着を貰ってお仕着せにするので、当然と言えば当然だけど。レオンさんとトーニオさんの昔の晴れ着を貰った時は嬉しかったのに、今回はあまり嬉しくないのが不思議です。
僕はモップを握り締め、苦虫を潰したような侍従の表情は無視して、いざ戦場へとばかりに歩き出しました。王子様の部屋近くに立つ衛兵は昨日とは別の人で、軽く挨拶すると侍従が立ち止まり、「では私はここで」と言います。
「えっ! 僕一人で殿下を起こすんですか?」
「当然でしょう。私は忙しいんですよ。くれぐれも失礼なきように」
「あの、僕以外にもヴァレットがいるでしょう? 来週から船旅に出られる方とか……」
「彼は、昨日から休暇に入りました」
「マテオさんとブルーノさんは?」
「客室で眠っておられるんでしょう。彼らまで起こしに行きませんよ。何度も言うようですが、私は忙しい身なんですから」
そう言うと侍従は回れ右をして去って行き、僕は呆然と立ちすくみました。一人で王子様を起こす……? 何でそうなるの? これは何かの罰でしょうか。衛兵が、同情するように僕を見ています。
こうなったら、破れかぶれだ。死に物狂いで戦ってやる! 玉砕だ! すっかり自暴自棄になって、愛剣モップを握り締め、僕はラインハルト王子の部屋に突撃しました。