2 王子様のヴァレット Ⅲ
客室はシックな色彩に統一され、柔らかなグリーンのカーテンが目を惹きます。
暖炉の火が赤々と燃え、上着を脱いだレオンさんはベージュの猫脚ソファにゆったりと背をあずけ、グラスに入ったホットワインを口に含んでいます。フィアを卒業してから前髪を上げて後ろに流すことが多くなり、秀でた額と鋭い目が大人っぽくて印象的で素敵です。
僕は向かいの椅子に座り、レオンさんを真似てホットミルクを少しずつ飲み、喉から下に広がっていく温もりを楽しみながら幸せを噛みしめていました。
レオンさんと2人きりでいると胸が高鳴るけれど、安心感があります。沈黙すら心地よく、何だか紅茶をすする老夫婦みたいです。
「リーザに頼んで泊まってもらおうと思ったが、今夜は次席女官のお供で出かけるらしい。だから俺が番犬をやるよ」
「はい」
あの夏の日、レオンさんとトーニオさんが僕の部屋に泊まり込んだ時のことを思い出しました。あの時レオンさんは扉の前にマットレスを敷いて眠り、その姿が僕を守る美しくも強い怪獣に見えて、僕は安心して眠ることができたんです。
今度もきっとぐっすり眠れる。でもこんなに心臓がドキドキしていたら、眠れないかも。ううん、レオンさんは信頼できる人だし、きっと僕を守ってくれる。
入口の扉脇に置かれた予備のベッドを、ちらっと見ました。今夜レオンさんは、使用人たちが運び入れたそのベッドで休むと言うんだけど……。木製のシングルべッドは、寝室の大きくて豪華なベッドに比べると粗末で見劣りがします。
それにしても、王宮で押し込み強盗を働く人がいるんでしょうか。レオンさんが言うには、客室の鍵には予備があっていつ誰が押し入って来るか分からないそうだけど、鍵は侍従さん達がきちんと管理しているだろうし、衛兵が真夜中でも見回りをするし、そんな中で押し入るほど王宮の使用人たちは困窮しているんでしょうか。
いや、怪しいのは使用人ではなく、職探しと称し王宮で寝泊りしながら遊び呆けている貴族の子弟たちだ。働かないからお金に困っているに違いない。あっ、違う。
「どうした。やけに深刻な顔をしているな」
レオンさんが言い、僕ははっと顔を上げました。貴族の子弟たちの狙いは金品じゃない。女の子だ! 美人の女官が大勢いるのにわざわざ僕のところに来るわけないと思ったけど、レオンさんが心配してくれたのが嬉しくてにっこりしました。
「今度は何だ? 面白いことでも思いついたか?」
「大人の貴婦人になろうと思ってますけど、僕はまだまだ子供だから、心配することないですよ」
「俺の目から見ても子供に見えるから、おまえの方こそ心配しなくていいぞ。安心して寝ろ」
はいと答えたものの、ちょっと悲しい。大人の男性であるレオンさんを前にして僕の心臓は跳ね上がっているのに、レオンさんから見れば僕は女性ではなく子供なんです。大人になるための努力はしてるんだけど……。
まずは、自立です。大人の貴婦人は自分の意見を持ち、精神的に自立しています。次に、気遣い。僕は、ここぞとばかりに胸を張りました。
「予備のベッドは、僕が使いますね」
「何を言ってる。それじゃ番犬の役目が果たせないだろう」
そうか……。強盗、あるいは遊び目的で押し入った貴族の子弟にとって、ドア脇で寝ている僕は格好の餌でしょう。そんな時こそ武器です。僕は、部屋の隅に立て掛けられたモップを指さしました。給仕さんに頼んで新品のモップを持って来てもらったんです。
「あれを持って寝ますから、大丈夫です。クレヴィング卿ともあろう方が予備のベッドだなんて、駄目ですよ」
「俺が泊まる意味がなくなるだろ? ライ……誰が夜中にやって来るか分からないんだから、おまえは寝室に隠れていろ」
「シングルベッドは、レオンさんには窮屈ですよ。僕にはぴったりです」
「一晩だけだ。明日には、一緒に家に帰るんだから」
「えっ、そうなんですか。ラインハルト王子の許可が下りたんですか?」
「いや」
レオンさんは、渋い顔でホットワインを一口飲みました。
「許可なしで王宮を出る。エメは心配しなくていい」
王子の使用人を許可なく連れ出したら、レオンさんが罰を受けることになります。王宮地下牢を思い浮かべ、僕はぞっとしました。レオンさんが閉じ込められてしまったら――――食事も与えられず餓死したら――――レオンさんが死んでしまったら――――僕は生きていけない。
恐ろしい想像を、力ずくで打ち消しました。ラインハルト王子の許可についてはひとまず置いて、まずはベッドの問題です。レオンさんに豪華なベッドを使ってもらうには、どうすればいいんだろう。
「そうだ。レオンさんと僕が、寝室のベッドを一緒に使えばいいんですよ」
レオンさんは鋭い目を見開き、僕は我ながら名案だと思いました。レオンさんは、子供に襲いかかるような人じゃない。
子供だけでなく女性を襲うような人じゃないけど、もし襲いたくなったとしてもフィアにはレオンさん命の美少女が何人もいるし、舞踏会に出れば貴婦人たちが色目を使ってくるし、その中でとびっきり子供っぽい僕を選んで襲うことは決してないでしょう。
そう思うと悲しくなったけど、僕は毅然と顔を上げました。
「僕と寝てください」
レオンさんは飲みかけたホットワインを喉に詰まらせて咳き込み、僕は目まぐるしく頭を働かせました。あれほど広いベッドなら、いくら寝相の悪い僕でもレオンさんに迷惑をかけることはないでしょう。夜中にこっそり予備のベッドに移れば、レオンさんは朝まで広いベッドでゆっくり休めます。
「……俺は、予備のベッドを使うよ」
「じゃ、僕も」
「どうしたんだ。ホットミルクに酒でも入っていたか?」
「いいえ。2人で予備のベッドを使うと、問題が起こると思うんです」
「……どんな?」
「狭くて動きにくいでしょう?」
レオンさんは眠った僕に蹴飛ばされ、逃げようにもシングルベッドでは逃げ場がなく、結果として僕に蹴り落とされることになるんです。そうならなければいいけど、毎朝僕の部屋の羽毛布団がベッド下に落ちている頻度から考えて、そうなる可能性が高い。
レオンさんは奇妙な顔つきで僕をまじまじと見つめ、瞬きしています。
「……広いベッドがいいのか?」
「はい。その方がレオンさんも僕も、動きやすくていいと思います」
レオンさんは僕の魔の足から逃げられるし、僕もできるだけ隅っこで寝るつもりだし。
「いずれは、そうするつもりだったんだ」
な~んだ。レオンさんも広いベッドで休みたかったんだ。それなのに僕に遠慮して、謙虚なんだからもう!
「時間をかけるつもりだった。準備が必要だから」
「僕の準備は、すっかりできてます」
準備と言っても、昼間着ていた服をパジャマ代わりにするだけなんだけど。
僕はホットミルクを一気に飲み干し、シャツとサスペンダー付きのズボン、ウェストコート姿で立ち上がりました。今夜はこのまま寝て、明日の朝ラインハルト王子の侍従が、僕に合う服を持って来てくれることになっています。
寝室に入り、燭台の蝋燭に照らされたふんわりと暖かそうな羽毛布団をめくりました。暖炉の火も蝋燭も予備のベッドに移る時に消せばいいかなと思い、ベッドに座ってレオンさんを待ったけれど、いつまでたっても来てくれず待ちくたびれてしまいました。
僕の脳ときたら働きが悪いくせに、睡眠不足だと動かなくなるシロモノです。朝にはラインハルト王子の許可をどうやって貰うのか、無い知恵を絞らないといけないから今夜は早く眠らなければ。
「レオンさん、早く」
声を掛けるとレオンさんは戸口に立ち、装飾に興味があるかのように天井を見上げ壁を見やり、瞬きしながら僕を見ています。
「ここにどうぞ」
僕がシーツを叩くと、レオンさんはなぜか深呼吸してベッドに入って来ました。レオンさんの全身が熱を発散していて、寝室もシーツもひやりと冷たいのにレオンさんの周囲だけが暖かい。レオンさんの温もりが、僕の記憶を刺激します。
パパと僕とバネッサさんが一緒に暮らしていた頃、僕は8歳ぐらいだったと思う。バネッサさんが酒場の切り盛りに出掛けた後、パパは暗闇を怖がる僕のために添い寝をしてくれたんです。シャツ越しに見えるレオンさんの腕は逞しそうで、傭兵だったパパの力強い腕に似ています。
「あの、レオンさん。腕をお借りしていいですか?」
僕が頼むと、レオンさんは不思議そうな顔で腕を伸ばしました。そっと触れると硬くて暖かくて、鋭く息を吸い込むレオンさんにもかまわず僕は腕を抱きしめ、目を閉じて8歳児に返りました。
パパの腕枕、好きだったなあ。バネッサさんが子守より酒場の用心棒をやってほしいと言ったから、パパは添い寝をしてくれなくなったけど……。そんな記憶が、レオンさんの腕から伝わる温もりに溶かされ、消えていきます。
今夜は、悪夢を見ることなく眠れそうです。レオンさんもそうだったらいいな。レオンさんの腕はますます硬くなり、僕は上腕に頬を乗せ、うっとりして言いました。
「お休みなさい、レオンさん。よい夢を」
かすれた声が返って来て、うっすら瞼を開くとレオンさんは片腕で目を隠し、声を立てずに笑っています。
「……どうしたんですか?」
「自分を笑ってるんだ。早く寝ろ。今すぐ寝ろ。でないと……」
でないと? 考える余裕もなく、僕はすとんと眠りの淵に落ちてしまいました。
眠りの底は寒くて冷たくて、黒い石壁に囲まれています。ボーデヴィッヒ公爵が鞭を振るい、叩かれているのは――――レオンさん? まさかここ、王宮地下牢――――? 助けに行こうとしたけど体が凍えて動かず、叫ぼうとして目が覚めました。
真っ暗で冷たい寝室。隣にいるはずのレオンさんの姿はどこにもなく、僕は飛び起きました。まさか、レオンさんは捕えられてしまったんじゃ……。
手探りでカーテンを開け、月明かりを頼りにスリッパを探したけれど見つけられず、裸足で寝室を出ました。暖炉の火が消え、リビングは氷のように冷え冷えとしています。
客室棟の貴族の方々は、ボーデヴィッヒ侯爵のように使用人を連れているのでしょう。従僕やメイドさんが、熱した煉瓦を毛布でくるんで布団を暖めてくれたり、暖炉やランプの準備をしてくれたり。
メイドさんのいる暮らしにすっかり慣れてしまった僕は、暗さと冷たさに途方に暮れながら薄暗いリビングを突き進み、予備のベッドでうつ伏せになって眠るレオンさんを見つけ胸を撫で下ろしました。
良かった。レオンさんは捕えられていなかった。でもこれでは、あべこべです。僕が予備のベッドを使うはずだったのに……。
小さくため息をつき、レオンさんの気持ちはありがたく受け取って、おとなしく寝室に戻ろうと思いました。
でも戻る前に、少しだけ暖まってもいいかな。僕は寒さにガタガタ震えながら、狭いベッドに窮屈そうに体を押し込んだレオンさんを見下ろしました。暖まったら、あの冷たくて寂しい寝室に戻ろう。ほんの少しだけ。レオンさんを起こさず少し暖まるだけなら、いいよね?
わずかな隙間に滑り込み、毛布と布団をかぶって、レオンさんが発する熱を飢えたように吸収しました。レオンさんのそばは暖かくて安心できて、凍りついた体が溶けていくようです。
ここが僕の居場所。僕の家。僕の居心地のいい寝床です。あまりの心地良さに頭の中まで蕩けてしまい、睡魔に襲われながら夢見心地でとろんと目を開くと、レオンさんが見つめています。
力強い腕が僕を抱き寄せ、僕はレオンさんにすっぽりくるまれてしまいました。レオンさんの体は硬くて力強くて、外から何が来ても守ってくれそうです。それでいて滑らかで、毛布のような温もりと安らぎを与えてくれます。
レオンさんの唇が僕の唇に触れ、腕が僕を力一杯抱きしめました。息ができないと思いつつレオンさんの首に顔をうずめ、僕は再び深い眠りに落ちてしまったんです。