2 王子様のヴァレット Ⅱ
ダークグレイのスーツに濃紺のタイ。朝出かけた時と同じ服装で、レオンさんが端然と立っています。アンナさんが知らせてくれたに違いない。レオンさんは僕が王宮に出かけたことを知り、大学図書館から駆けつけてくれたんだ!
「レオンさん! ……レオンさん!」
嬉しくて思わず駆け出した僕をレオンさんはしっかりと受け止め、背後に隠しました。片腕を後ろに回して僕の背中を押さえ、離れるなよと言っているかのようです。
「新しいヴァレットが追加された。もうすぐ王妃様の指示書が届くはずだ」
何のことか判らないけれど、レオンさんの声があまりに険悪で尖ったナイフのようで、僕はぎょっとしました。見上げると端整な横顔は血の気を失い、黒い瞳がまっすぐラインハルト王子を射すくめています。
怒ってる――――レオンさんは、もの凄く怒ってる。ここまで怒ったレオンさんを見るのは初めてです。
「母上を巻き込むとはな。身の程を知れ」
王子は椅子から立ち上がり、悠然と腕を組みました。
「こっちは妹が巻き込まれてるんだ。お互い様だろう」
「国王命令が出た以上、エメルはボーデヴィッヒの監督下にある。貴様の出る幕ではない」
「一つ聞かせて頂きたい。これは、あなたが仕組んだことなのか」
「本気で言っているのか」
王子の顔から表情が消え、細められた目が殺気を伴ってレオンさんに突き刺さります。全身から凍りつきそうな威圧感が放たれ、ラインハルト王子は生まれながらにして人を圧する王の力を持ってるんだと僕は思いました。
でもレオンさんは少しも動じることなく、まるで拳闘場でこれから殺し合いを始めるかのように睨み返しています。ラインハルト王子が生来の王なら、レオンさんは誇り高き蛮族の戦士です。決して誇りを手放さない、相手が何者であれ理不尽は許さないと、レオンさんは無言で告げています。
王と戦士。2つの誇りが熱くぶつかり合い、目には見えない火花が飛び散って、僕はおろおろした挙句2人の間に飛び込みました。
「あのっ、悪いのは僕なんですっ。ボーデヴィッヒ侯爵から使いが来て、のこのこ出かけた僕が馬鹿で、何か企んでるみたいな侯爵が僕の次ぐらいに悪くて、王子様はたぶん侯爵の企みを御存知ないんです」
「企みとは何だ」
王子の刃のような視線が僕に移り、ひやりと冷たいものが僕の胸を走ります。
「わ、分かりません」
「口を出すな、エメ。後でおまえに話がある」
僕をちらっと見たレオンさんの目が厳しくて、僕はぎくりとしました。怒ってる――――レオンさんは、僕に対しても怒ってる。当然です。家にいるようにとあれほど言われたのに僕は一人で暴走し、問題をここまで大きくしてしまったんだもの。急に目の奥が熱く湿っぽくなり、僕は目をぱちぱちさせました。
「縁組について、ボーデヴィッヒとリーデンベルクで話し合え。私のところに持ち込むな。追加のヴァレットとやらは、どうした」
「……俺だ」
一瞬の沈黙が走り、王子の唇が薄ら寒い笑みを形作って行きます。レオンさんがヴァレット……どうして?
「ならば働いて貰おうか。役に立たなければクビだ」
王子は冷笑を残してクローゼットに向かい、レオンさんは僕を扉に押しやりました。
「出ていろ」
言われた通りに部屋を出て、僕はすぐ壁に張り付きました。目の前には最初に入って来たサロンがあるけれど、僕の目には入りません。片目だけで2人がいる部屋をのぞき、王子の裸の背中が見え慌てて目を逸らし、何事も起きませんようにと祈りながら必死に耳をすませました。
うぐぐ……と奇妙な声が聞こえた気がして、見るとレオンさんがアスコット・タイで王子の首を締め上げています。
「レオンさん! 駄目っ」
僕が叫ぶとタイは緩められ、レオンさんはにやりと笑いました。
「失礼。きちんと結ぼうと思うあまり、つい力が入り過ぎたようだ」
口では詫びているものの、もしかしたら本気でラインハルト王子を絞め殺す気だったのかもと思わせる不穏な気配があります。
王子は左手で首を撫でながら右手をわずかに引き、あっと思う間もなくレオンさんの腹部に拳を送り込み、体をくの字に折り曲げたレオンさんの口から低い呻き声が洩れました。
「くっ……」
「失せろ。不敬罪を問わないだけでも有り難いと思え」
「……追い払われてやってもいいが、エメルは連れて帰るぞ」
「エメルの監督権は、ボーデヴィッヒから私に移っている。少しは法律を勉強しろ」
こほんと咳払いが聞こえ、振り返ると初老の侍従らしき男性が居心地悪そうに立っています。黒の燕尾服に白の蝶ネクタイ。レオンさんとラインハルト王子のただならぬ様子に顔を強張らせ、やや曲がった背中をぴんと伸ばしました。
「申し訳ありません、殿下。ノックを致しましたが、お返事がなかったものですから。ベルトラム男爵が、王妃様の書状をお持ちになりまして……」
「破り捨てていい」
王子の返答に侍従は困惑顔で、トーニオさんが優雅な足取りで部屋に入って来ました。
「新米ヴァレットに休憩を与えてやって頂けませんか。代わりのヴァレットを2名ばかり、用意してあります」
トーニオさんの後ろからマテオさんとブルーノさんが顔を出し、僕にうなずきかけています。2人はレオンさんと僕を守るように前に出て、ラインハルト王子に深々と礼をしました。
「誠心誠意、御奉公させて頂きます」
「ザイエルン伯爵家の名にかけて」
「では、さっそく」
「侍従が殿下の着替えを手伝う間に、僕らはほんの面汚し……ではなく、お目汚しの余興をやらせて頂きます」
マテオさんとブルーノさんはそそくさとズボンを脱ぎ、呆気にとられた僕には目を逸らす余裕もありませんでした。慌てて背を向けたけれど、2人がズボンの下に穿いていたドロワーズが、僕の頭にくっきりしっかり刻まれてしまっています。
ドロワーズは、スカートの下にはく女性用の下着です。2人がはいていたのは膝丈の物で、カボチャのようにふっくらと臀部を覆い、マテオさんのドロワーズには赤や黄色のチューリップ、ブルーノさんのには青いウサギが全面に刺繍されていました。
きっと特注したに違いない。上半身がスーツ、下半身が女性の下着だなんて、恥ずかしくないんでしょうか。というか、どうして女性の下着をはいてるの?
「何の真似だ」
ラインハルト王子の叱責が飛び、ブルーノさんが真面目な声を返しました。
「王立ギムナジウム男子クラス恒例、じゃが芋踊りをやらせて頂きます! 殿下にとっても、さぞやお懐かしいでしょう」
「やめんか!」
「いえいえ御遠慮なく」
「遠慮しているように見えるのか!!」
横を見るとレオンさんとトーニオさんは口元を引きつらせ、侍従はしきりに咳払いをし、笑いを堪えているみたいです。……じゃが芋踊りって何?
気になって恐る恐る振り返って見ると、2人は上着のポケットから取り出したじゃが芋を両手に握って高々と掲げ、「ヘンデ・ホッホ! ヘンデ・ホッホ!」と叫んでいます。ヘンデ・ホッホとは「降参しろ」、あるいは軍隊用語で「手を上げろ」という意味ですが……。
「女子禁制だからね」
トーニオさんが僕を抱き寄せ、僕はトーニオさんの胸に顔をうずめた格好で部屋から連れ出されました。背後から聞こえて来る、ラインハルト王子の怒声。
「出て行け!!」
「ヘンデ・ホッホ! ヘンデ・ホッホ!」
「お言葉に甘えて」
レオンさんが言い、僕たち3人は王子の部屋から廊下に出ました。扉の向こうで「ホッホ~!」と威勢のいい掛け声が響き、「やめろと言ってるだろう!」と王子の罵声が続きます。
歩きながらもトーニオさんは僕をぎゅっと抱きしめたままで、廊下に立つ衛兵が不審そうに見ています。男同士で抱き合ってるように見えるんだなっと思い、僕はトーニオさんの腕の中から顔を出して訴えました。
「あの、トーニオさん。僕、一人で歩けます」
「エメルちゃんを抱くの、久しぶりだなあ」
「そういう言い方やめろよ」
気色ばむレオンさんの言葉を軽く聞き流し、トーニオさんは僕の髪に頬ずりを始めました。
「この滑らかで柔らかな肌に指を這わせたい」
「だから、やめろって!」
僕の髪に指を入れ、地肌を撫でさするトーニオさん。どうしてこうも刺激の強い言葉ばかり選ぶのかなあ。僕が下から睨みつけると、トーニオさんはにやりと笑い、レオンさんは溜め息をつきました。
「ラインハルトの気が変わらないうちに、急いで家に帰ろう」
「それが、帰れないんだよ」
ようやく僕を解放したトーニオさんの表情は、厳しく引き締まっています。
「エメルちゃんの名前が、王宮の使用人名簿にラインハルトの近侍として記載されているんだ。王宮から出るには、主であるラインハルトの許可がいる。王妃様の書状では近侍の追加が精一杯だし、明日までに対策を考えてみるけど、今夜は王宮に泊まるしかないよ」
「誰が使用人名簿に載せたんだ」
「ボーデヴィッヒ」
トーニオさんが答えるなりレオンさんは舌打ちし、僕は週3日王宮で働いているリーザさんを思い出しました。王宮で働く使用人は機密保持のため外出を制限されるそうで、働きながら学校に通おうと何十通も申請書を書いたと彼女はぼやいていたんです。
「手回しがいいな。すべて計画通りというわけか」
「あっ……」
何気なく目をやった回廊の隅にボーデヴィッヒ侯爵めを見つけ、僕は声を上げました。連れの紳士と何やら話しているようですが、紳士は横顔しか見えず、誰なのか分かりません。僕たちは柱に身を隠し、侯爵の様子をうかがいました。
「見かけない顔だ。知ってるか、トーニオ?」
「いや、知らないな」
「アメルグ人じゃないですか? だって、あのスーツ」
アメルグ製のスーツは、遠目にもすぐに分かります。トライゼン製と違ってウェスト部分が絞られていない寸胴型で、肩パットが無いせいか柔らかく見えるんです。
「アメルグ人……?」
レオンさんの顔が曇り、よく見るとボーデヴィッヒ侯爵は連れの紳士と言い争いをしているみたい。2人は僕たちに背を向けたまま、回廊の先に消えて行きました。
「女官たちの休憩室に顔を出して来るよ。彼女たちなら何か知ってるかもしれない。エメルのために客室を借りておいたから。これ、鍵」
トーニオさんは銀の鍵をレオンさんに渡し、僕の頬にキスをして行ってしまい、僕とレオンさんは柱から出て並んで歩きました。回廊庭園まで戻ると陽はすでに傾いて、寒々とした夜が迫っています。午前中に家を出て、もう夜。
お腹が空いたなあと思いながら、幾つかある客室棟の一つに入りました。ボーデヴィッヒ侯爵の部屋と同じ作りで、客室はほぼすべて同じ作りなのかもしれません。
給仕専門の使用人たちが部屋まで食事を運んでくれ、僕はレオンさんと2人きりの夕食を楽しみました。
レオンさんからきつく叱られると泣きそうになっていた僕ですが、レオンさんはもう怒っていないようで、面白い話を次々と聞かせてくれます。レオンさんのことだから、僕が泣きそうになっているのを見て、叱らないことにしたに違いない。
食事をしながら、フィアの男子クラスに所属する者は全員一度はじゃが芋踊りを披露することになっていると聞かされ、家鴨のオレンジソースを切り分けていた僕の手が止まってしまいました。
「えっ。ということは、レオンさんもトーニオさんも踊ったんですか?」
「ああ」
レオンさんは、困ったように笑っています。
じゃが芋踊りは大昔、農民たちが酒盛りする山賊の前で踊って楽しませたのが始まりだそうです。王立ギムナジウムが創立されて間もない頃、学内の雰囲気は山賊の子孫らしく下剋上で、怒った当時の最上級生が下級生にじゃが芋踊りを躍らせ、体で上下関係を教え込んだのだとか。
当初は腰布1枚で踊っていたのが、時代と共に恥ずかしくもド派手なドロワーズへと変遷し、踊るのも入学したばかりの1年生に限られるようになりました。10歳の血気盛んな山賊の子孫たちは、鼻息荒くフィアに入学すると同時に先輩たち全員の前で恥を晒し、上下関係の洗礼を受けるというわけです。
「……恥ずかしい踊りなんですか?」
「じゃが芋を握って踊るというのが、貴族にとってはね。しかも、あの恰好だからね。はき物は7年生が用意するんだが、柄が年々派手になっているし、わざと数枚だけ地味な物を混ぜるんだよ。1年生は黒無地や地味な柄の物を取り合って、壮絶な殴り合いをするというわけだ」
「殴り合い……レオンさんとトーニオさんも?」
「まあね。俺たちは殴り合いには慣れていたけど、上には上がいるものさ。結局俺は紅い薔薇、トーニオは黄色いタンポポ柄をはく羽目になった。今では笑い話だけどね」
紅薔薇柄の女性下着をはいたレオンさんを想像し、僕の哀れな脳は破裂寸前になりました。
「ゲ、ゲオルグ皇太子殿下も? ラインハルト王子も?」
「もちろん。王族だろうが誰だろうが、例外はいっさい無し。親たちも、欲しい物は力で奪い取れと息子にハッパをかける。ラインハルトの年代は力自慢が多かったから、彼はひどい屈辱を味わったらしいよ。後に1年生の儀式を廃止させようとしたが、年配の卒業生から反対されて叶わなかった。年をとると、馬鹿騒ぎもいい思い出になるみたいだな。ああ、この話は内緒だよ。じゃが芋踊りは女子禁制、男子だけのイベントだからね」
「はい」
レオンさんの愉快な話を聞きながら楽しい夜はふけて行き、食事が下げられそろそろ休もうかなと思った時、レオンさんがおもむろに切り出したんです。
「今夜、俺はここに泊まるから」
えっ……。泊まる……? 僕は、凍りついてしまいました。