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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて3 ~王宮の陰謀篇~
50/78

2  王子様のヴァレット  Ⅰ

 

 刑場に向かって歩いている気分です。

 おとなしく家にいて、春まで待てばよかった。パパ達が言っていたように時間をかけて情報を集め、それから慎重に行動すればよかった。

 

 ほとんどの事は僕の思い通りには行かないのに、あまりに幸せな日々が続いたから、過去の教訓を忘れてしまっていたんです。その上、あの青ガエルの夢。青ガエルには興奮作用でもあるんでしょうか。僕は勇者になりきり、勇ましい自分に酔っていました。


 夢から覚めてみると勇者どころか弱くて情けない奴で、恐怖と不安に震えています。

 

 もしもラインハルト王子を怒らせてしまったら――――僕の失敗のせいで大事な家族が地下牢に入れられたら――――リーデンベルク家の名誉を傷つけてしまったら――――悪いことばかりが頭に浮かび、そのたびにお腹の辺りから冷たい物がせり上がって来ます。


 どんよりと暗い気持ちで赤い絨毯を踏みしめ、しばらく歩くと広い回廊に出ました。彫刻で飾られた列柱の向こうに冬枯れの庭園が広がり、紅い椿だけが鮮やかに咲いています。


 建物に囲まれているせいか風は穏やかで、粉雪がちらちらと庭園に降り落ち、雪の積もった椿が重そうに頭を垂れています。椿は辛いだろうな……。そう思いながら眺めていると、侯爵が振り返りました。


「ここは回廊庭園だ。春になれば、見事な花と噴水が見られるぞ。楽しみにしているといい」


 全然楽しみじゃありません。僕は家に帰りたい。予定では今頃は侯爵と握手し、意気揚々と帰宅しているはずなのに。侯爵と握手はしたけれど、僕が意図していた方向とはまるで違います。


「行くぞ」


 冷たく向けられた侯爵の背中を見つめ、貴婦人ならこんな時どうするだろうと考えました。きっと毅然として、このままじゃ済ませないぞっと思うに違いない。僕だって貴婦人の卵なんだから、失敗したまま引き下がりたくない。できることなら逆転勝利を収めたい。


 逆転勝利――――。その甘い誘惑するような響き。侯爵に向かって怒涛の如く進軍する自分を思い浮かべ、僕はうっとりしました。最新鋭の銃と大砲を備えた精鋭部隊に、高らかに命令を下す僕。


「攻撃目標、ボーデヴィッヒ侯爵! 撃てっっ!」


 雨あられと降り注ぐ銃弾の中、恐怖におののき無様に敗走する侯爵。見たか、僕の猛反撃! ははは! 


 僕との決戦に敗北した侯爵は土下座して号泣し、「エメル様、どうかお許しを」と言うでしょう。無言で冷たく背を向ける僕の足にしがみつき、「私が悪うございました。反省してます」と彼は泣き続けるんです。


 僕は仕方ないなあと溜め息を一つつき、悪辣な彼に「心を入れ替え善人になりなさい」と説教する。「二度と悪さをするんじゃないぞ」と言い含めて許してやり、人々は僕の偉大さと寛大さを褒め称えるんです。


「何を嬉しそうに笑ってるんだ」

「……わ、わ、わ……」


 侯爵の声に飛び上がり、慌てて両手で口を隠しました。空想に浸り、へらへら笑ってたみたい。侯爵が僕の顎をつかんだから、僕はまたもや飛び上がりました。


「ひっ……」

「どうやって私に報復しようかと考えていただろう。笑えるほどいい方法を思いついたのか?」

「えっ、僕、別に……」


 嘘をつこうとすると途端にしどろもどろになる僕を見て、彼はクスッと笑い、親指で僕の顎を撫でています。


「一つ、君のために助言しよう。王子の愛妾になるのが嫌なら、とことん拒絶することだ。彼は女性に無理強いはしない。たぶんな。君が唯一の例外になる可能性も無くはないが」

「そ、そんな……。王子様を怒らせてしまったら、どうしたらいいんですか? その唯一の例外になってしまったら、どうすればいいの?」


 侯爵は笑いながら僕の頭を指で叩き、自分で考えろと言いたそうです。どうしてこうも僕を脅すことばかり言うんだろう。侯爵が僕を脅すなら僕だって……。


 さっきの素晴らしい空想には、一つだけ欠点があります。侯爵に猛反撃する方法がないという致命的な欠点が。もし彼の弱点を見つけることができたら、彼を脅し返し、猛反撃できる。


 侯爵の弱点――――たとえば彼が欲しがっている物とか? 彼は僕を騙してまで、何を欲しがってるんだろう。


 回廊庭園を過ぎるとさらに広い回廊に――――絵画と彫刻と黄金の世界に入りました。天井も床も柱も壁も、煌めくフレスコ画と黄金の彫刻にびっしり覆われ、目が眩みそうです。


 ここはきっと「王の回廊」です。王族の部屋はこの近くに固まっているはずで、もうすぐラインハルト王子の居室に着くと思うと大声で笑いたくなり、僕はひらめきました。これだっ! 僕が狂ってしまったら、いくら図々しい侯爵だって王子に預けることを躊躇するでしょう。


 王の回廊まで来ると行き来する人の数が増え、みな僕をちらちら見ています。僕は最大限の勇気を出し、恥を忍んで奇っ怪な笑い声をまき散らしました。


「ひひひ……ひゃっはっははは!」

「くだらん芝居はよせ」

「……はい」


 失敗しました。侯爵には軽くあしらわれ、回廊を歩く人たちには笑われ、見事なまでの失敗です。でも、これしきの事ではめげない! 恥も外聞も捨てる覚悟でなければ、逆転勝利は望めない。


 王の回廊の要所要所に衛兵が立っていて、侯爵に会釈をします。3人目の衛兵に、ボーデヴィッヒだと告げると、


「真っ直ぐお進みください。突き当りが殿下の部屋です」


 と返って来て、侯爵は扉を開きました。ラインハルト王子の部屋は庭に面し、広く明るく重厚です。濃茶色の猫脚ソファに座っていた王子が、手にした書類をマホガニーのテーブルに置き、立ち上がりました。


 ダークブロンドの髪も氷のような薄青い瞳も、僕の記憶通りです。白いシャツとグレイのズボンというくだけた服装で、王子は無表情のまま僕たちに歩み寄り、彼の持つ威厳と息が詰まりそうな圧迫感が僕をさらに小さくしてしまいます。

 

「よく来てくれた」


 王子に話しかけられたけれど、僕は足を震わせ、骨がなくなったみたいな首でコクコクとうなずくばかり。


「じゃ、後はよろしく。我が妻よ、しっかりな」


 侯爵が片目をつぶって言い、僕は「我が妻」じゃないぞ永遠に違うぞと頭の片隅で思いながら、侯爵の後ろ姿を見送りました。前に視線を戻すと、王子の冷たい美貌が僕の真上にあります。


「あの、僕、何をすればいいですか? ヴァレットのお仕事は初めてで。家事なら経験あるんですけど」

「君の仕事は、私を楽しませることだ」

「……わっ」


 王子は僕をいきなり抱き上げてすたすた歩き、扉を開けると寝室で、僕は息を呑んで目を見開きました。ま、またベッド?! 僕の部屋にある物の3倍くらいありそうな広いベッドが、部屋の中央に重々しく置かれています。


「あの、あの、あの……」


 彼を怒らせずにこの場から逃れる方法を、一刻も早く考えなければ! ベッドに下ろされた隙をついて逃げようとしたけれど、王子の体に押さえ込まれ、動けなくなりました。


「きゃああああああ――――っ!!」

「静かに。衛兵が驚いて飛んで来る」

「その方がいい……えっと、えっと、あなたを怒らせたくないんですけど……僕、無理……」


 薄氷のような目が僕を見つめ、唇が僕の額から鼻先をたどって行きます。


「ひ――っ。ひ――――っっ」

「君は、オスカーの妻ではないのか。一度も経験がないのか?」

「オスカー? ボーデヴィッヒ侯爵のこと? 違います、今もこれからも全然違いますっ」

「あいつめ。話が違う……」

「話?」


 ラインハルト王子がごろりと仰向けになった瞬間、僕は弾かれたようにベッドの端まで逃げました。こういう心細い時は布団を抱きしめるに限るけれど、彼のベッドに布団はなく、代わりに暖かそうな毛皮が掛けられています。でも肝心の毛皮は王子の下敷きになって、引っ張っても動いてくれません。


「あの、侯爵の話って?」


 震える声で重ねて問うと、彼は顔を覆っていた片腕を下ろし、横たわったまま流れるように僕を見ました。


 ダークブロンドの髪を毛皮に落した姿は悩ましい美神のようで、僕の記憶にある軍人の彼とはまるで異なり、この人は噂通りの放蕩者なんだなと思います。僕を見つめたまま髪に指を突き入れて肘枕をし、軽く首をかしげるさまは遊び慣れた人みたいです。


「世の男たち――とりわけ王族の愛妾がなぜ既婚婦人に限られると思う?」


 しっとりとした、くすぐるような声に僕は驚きました。ベッドにいる王子は、軍人姿でいる時とは声まで違う。


「未婚のレディとかだと、野暮だからですか?」


 侯爵が、確かそんなことを言ってたっけ。


「男は忙しいからだよ。手っ取り早く楽しみ、飽きたら夫の元に帰せる既婚女性は手軽でいい。一から教える気も時間もない者には便利だ」


 手軽――――便利。愛情はないの? 王子は体を起こし、気だるげで真剣な顔を僕に向けました。


「一から教えてやろうか?」

「えっ……」

「君の知らない世界がある。君がよく知っている世界とは、まったく別の世界だ。君は、一歩踏み出すだけでいい。私がめくるめく世界を案内しよう。……おいで」


 差しのべられた彼の手を見下ろし、僕は硬直しました。美神が誘惑してる……。理性とはうらはらに、僕の心臓が激しく拍動しています。


 僕の知らない、めくるめく世界。その言葉が妖しく華麗に僕を苛み、沈黙が降りました。王子の薄青い目が陰って見え、この怖ろしい沈黙を破るには喋り続けるしかない。


「あの、あの、ヴァレットとして働かせてください。僕、掃除が得意です。自分で言うのも変ですが、けっこう綺麗好きです。料理も得意です。庶民的なものしが作れませんが。お夜食がお入用の時は言ってください。栄養たっぷりの牛乳ポリッジとか、友達に好評でした」

「何をした後の夜食?」

「え……」


 しまった!! 夜食だなんて、寝た虎を起こすようなことを何で言ってしまったんだと自分を責める僕を見て、王子はぱたりと手を落とし苦笑しました。


「耳まで赤くなっているぞ。掃除と料理? 以前もそんなことを口走っていたな。何のために使用人がいると思っている。……もういい。軍本部に出かけるから用意しろ」

「はいっ」


 もういい? 僕に興味がなくなったということ? そうだったらいいのに。とりあえず危機は脱したのかなと、ほっとした安堵が僕の胸に広がっていきます。


 ベッドを離れた途端、彼は冷たい軍人の雰囲気をまとい、ちらっと横目で僕を見て隣の部屋に入って行きました。

 軍人の彼とベッドの上での彼。どちらが本物のラインハルト王子なのか分かりません。どちらも仮面なのかな。本物の彼は、どんな人なんだろう。


「愚図愚図するな」


 軍人口調の命令が飛び、寝室から飛び出した僕はシャツのボタンをすべてはずしたあられもない姿を目の当たりにして、回れ右をしました。必死に悲鳴を呑み込み、両手で顔を覆う僕に、王子の非情な声が飛びます。


「髪をとかしてくれ」


 髪をとかす……?! 恐る恐る振り返ると、シャツを羽織った彼は鏡台の前に悠然と座っています。手にした櫛がふらふら揺れ、彼の苛立ちを表しているかのようです。怒らせるのはまずい。僕はぎくしゃくと木工細工の人形のように歩き、王子から櫛を受け取りました。


 泣きそうです。生まれてこの方、パパ以外の男性の髪をとかした事なんて一度もないのに……。でも僕は王子様の近侍ヴァレットなんだから、やるしかない。


 椅子に座った王子の背後に回り、目をぱちぱちさせながら、ダークブロンドの髪に櫛を入れました。王子様の髪だと思わなければいい。思わなければ、早春の草原に萌え出たばかりの柔らかな金色の草に見えなくもない。見えなくもないんだっ。


 ぎこちなく櫛を動かす僕の手に、ふいに王子の手が重なりました。鏡に映った彼は鏡台に置かれた香水瓶を眺めているようで、つと視線を上げて僕を見つめ、その目が鋭くて怖くて僕は震えました。


 僕のとかし方が気に入らないのかな。なにか失敗してしまったのかな。びくびくする僕を見て彼は手を離し、苦笑を浮かべています。


「そんなに私が怖いのか」

「それは、その……」


 扉を叩く音が聞こえ見知った若い紳士が入って来て、その姿を見た瞬間、僕の手から櫛がぽとりと落ちました。




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