4 闇と秘密 Ⅰ
僕は、ふわふわと空を飛んでいました。
眼下には王都クラレストの街並みが広がっています。
街の中心にあるのは茶色い煉瓦造りのクラレスト城、もしくはトライゼン国民が親しみを込めて「我らが王宮」と呼ぶコの字型の建物です。
国王陛下や王族の方々がごく普通の家族のように住まわれる王宮を庭園や噴水や広大な緑の敷地が囲み、高い煉瓦塀が街と王宮を隔てています。
王宮を中心として五つの大通りが外に向かって放射状に、七つの通りが同心円状に広がっていて、僕たちが住むリーデンベルク邸やその他の貴族邸は最も内側の同心円内にあります。
街の外側を昔の環濠の名残りである用水路が流れ、その外は地平線まで続く牧草地です。
羊や牛が草を食み、豚や鶏や山羊が放し飼いにされている田園に僕が降り立つや、鶏が襲ってきました。
鶏の奴が大きな羽を伸ばして僕の鼻を撫でるから、鼻がむずがゆくてたまりません。
「おのれ、鶏。成敗してくれる」
甲冑を着込んだ勇者、すなわち僕は言い放ちました。何故か鍋ぶたを盾にしていたけれど、気にしませんでした。
腰に吊るした焼串をすらりと抜き、僕は鶏めをグサリと突き刺した。
「見たか、僕の力を。ハハハハハ」
焼串に貫かれた美味しそうなローストチキンを掲げ、高らかに笑う僕。
何処からかクスクス笑う声が聞こえ、今度は耳がむずがゆくなって来ます。
ぱっちり開いた僕の目の前に透き通るような青い目が二つ、可笑しそうに瞬いていました。
僕の隣にトーニオさんが肘枕をして長々と横たわり、手にした孔雀の羽で僕の顔を撫でています。
「ひっ、ひっ~」
トーニオさんは目で舌なめずりしていて、僕はローストチキンの気持ちがよく分かりました。
勇者の座から転げ落ちた僕は、首だけもたげてずり上がり、ヘッドボードに頭を打ちつけて飛び起きたんです。
「おはよう、メイドくん。鶏との決闘は終わったかい?」
「ここで何してるんですかっ」
僕はガーゼケットを抱きしめ、孔雀の羽とくすくす笑っているトーニオさんの顔を交互に見ました。
「君に愛の羽の実物を見せてあげようと思ってね。ほら、これ」
「孔雀の羽でしょう、それ?」
「見た目はそうだけど、実はこの羽には魔法の力が秘められてるんだよ」
魔法……。剣と魔法は大好きです。さっきまで夢の中で剣豪だったし――――。
「どんな魔法ですか」
僕は、恐る恐る尋ねました。トーニオさんは孔雀の羽でガーゼケットをなぞりながら、爽やかに言うんです。
「服を全部脱いでくれたら、実地で教えられるんだけど」
「服を……?」
脱ぐ? 羽?
トーニオさんの普段の言動とパパの周囲で起きた過去の出来事、酒場や兵士宿舎で聞いた様々な話を総合し、とても口にはできない一つの結論が僕の脳を羞恥の色に染めていきます。
「……無かった事にしてください」
吹き出すトーニオさんを横目で見ながら、僕は魔法話を真に受けた自分を罵っていました。
薄い黄色のワイシャツとサスペンダーの付いたズボンに着替え、ウェストコートと呼ばれるベストを着て階下に降りました。
キッチンに入ると、トーニオさんがベーコンを焼いています。
「すみません。今朝もトーニオさんにおまかせしてしまって」
いつもなら夜明け前に目が覚めるのに、今朝トーニオさんに起こされた時にはすでに夜が明けていたんです。
「いいよー。あ、レオンは勝手にトースト食べて出てったから。俺とメイドくん、二人っきりの朝食だよ。意味深だねえ」
ぎょっとする僕を見て、トーニオさんは可笑しそうに顔をほころばせました。
「全くからかい甲斐があるよ、君は。途方にくれた人形みたいで、何度見ても飽きないなあ、その顔。あ、心配いらない、今後、君に迫ったりしないってレオンと約束したから」
「レオンさんと?」
僕は、トーニオさんの目の下の紫色になった痣に目をやりました。
「トーニオさん。どうしてレオンさんと殴り合いなんかしたんですか?」
「どうして――? うーん、忘れちゃったな」
やっぱり殴り合ったんだ――――。
僕は信じられない思いで、トーニオさんの痣を見ていました。
食事の間中、トーニオさんは饒舌でした。
いつもそうですが、トーニオさんは会話が巧みです。
女の子にモテるだろうなあと、僕は惚れ惚れとトーニオさんを眺めました。
遠くから見ているだけなら、トーニオさんという人はとても魅力的です。
近くに来られると、逃げ出したくなりますけど――――。
それでもトーニオさんの話があんまり面白くて、僕は自分でもわかるくらい満面の笑顔で笑いました。
「あ、いいねえ、その笑顔。メイドくん、笑ってる方がいいよ。ますます可愛いよ」
そう言われて顔が熱くなったけれど、少しずつトーニオさんという人がわかって来て、この家でびくびくしている僕を力づけてくれているんだと思えるようになっていたんです。
「フィアの学生っていつもそんな風に、ささやかな喧嘩をしてるんですか?」
「まあね。単なる貴族・王族の学校というだけでなくて、王都で最も強い学校という名誉が欲しいんだよ。だから他校に挑戦されると、受けて立つんだよねえ」
トーニオさんは魅惑的な微笑を浮かべ、オムレツを一さじすくいました。
フィアはレオンさんとトーニオさんが通っている王立ギムナジウムの通称です。
国王陛下のフィア――四番目の離宮――を改築してギムナジウムを創設したため、今でもフィアと呼ばれているそうです。
トライゼンにはギムナジウムが全部で20校ありますが、王都クラレストにあるのはフィアとロイム・ギムナジウムの2校だけです。
ギムナジウムでは10歳から18歳の男女の学生が通い――――ギムナジウムの在校生は生徒ではなく学生と呼ばれています――――、あるいは寄宿舎生活を送っていますが、各ギムナジウムで特色が大きく違うんです。
フィアは王族・貴族の子弟のみが入学を許可され、ロイムは私立で授業料が高額なため、必然的に平民の富裕層――大商人あるいは大地主の子弟などが入学します。
僕はどちらでもない平民の子だから、他の平民の子と同じく初等学校と中等学校に通って来たし、出来れば高等学校を18歳で卒業して、きちんとした会社に就職したいと考えています。
「ところでメイドくんさ、レオンのこと怖がってるよね?」
突然レオンさんの話になり、僕は返事に困りました。
「……優しい人だと、今は思っています」
昨夜ガーゼケットをかけ直してくれたことは、一生忘れません。
「最初の頃の印象は、少し残っているかもしれませんけど……」
「最初の頃って、ああ、メイドくんって命名された時のこと? あいつ、どうしてあんなに不機嫌だったと思う?」
「……わかりません」
僕は思わず小さくなりました。何か自分では気づかないことで、レオンさんの気分を害してしまったのかもしれない。
トーニオさんはサラダをつつきながら、興味深そうに僕を見ています。
「理由は三通りほど考えられるよ。精神年齢の低い順にね。一つ目。好きな女の子には意地悪したくなる。この場合、精神年齢は幼児並みだな」
レオンさんの精神年齢が幼児並み――――あり得ない、と僕は思いました。
「二つ目。自分の居場所がわからない女の子がいて、やっとその子が見つけた居場所というのが全然その子にふさわしくない場所で、その事を言ってやりたいが声をかけ辛くて、そんな自分のもやもやした心理状態に苛立って不機嫌になってしまった」
居場所がわからない女の子って、もしかして、僕――――?
「あの……もやもやした心理状態って?」
「へえ。メイドくん、男の心理に興味あるんだ」
「えっ。そんな……」
トーニオさんはにやりとし、僕は眠っている狼を起こしてしまったような気分になりました。
「言ってくれれば、いつでも心を込めて教えてあげるよ。この場合の精神年齢は10歳ってところかな。……三つ目。その女の子に、かつての自分の姿を見てしまった」
「かつて……?」
トーニオさんはつついていたサラダを押しのけ、僕の顔をのぞき込みました。
「レオンの父親と俺の母親はギムナジウム時代、恋人同士だったんだ。その頃レオンの父親は金持ちの息子だったんだけど、事業の失敗が原因で一家は没落してしまった。レオンの父親は、ロイムを退学して職に就いた。二人は結婚するつもりだったらしいけど、周りに反対されてね。結局母上は最低のろくでなしと政略結婚したんだ」
最低のろくでなしって――――トーニオさんのお父さんのこと?
トーニオさんは、優雅に頬杖をつきました。
「何年か我慢して、めでたく離婚。そうしてやっと、かつての恋人と再婚したんだ。ところが父親は金持ちの息子だったけど、レオンは貧乏暮らししか知らない。初めてここに来た時のあいつときたら……」
笑いを含んだ目を遠くに馳せて、
「妙にびくびくして、何か失敗をやらかすんじゃないか、でも変にプライドの高い奴だから、失敗なんかしたくないってコチコチでさ。あいつを見てるとこっちも苛立って来て殴りつけてやったら、あいつ、思いっきり殴り返してきやがった。いまだに俺とレオンのそういう関係って、変わらないんだけどね」
ふっと笑い、再び僕を覗き込みます。
「あの頃の自分を見てるみたいで嫌だったのかもしれない。そういう感情を、不機嫌さや冷たい表情で隠そうとしたのかもね――ってとこかな。この場合の精神年齢、13歳程度」
僕はレオンさんに嫌な思いをさせてしまったんだと悲しくなったけれど、それ以上にトーニオさんの心の奥をのぞいてしまったような気持ちになりました。
トーニオさんは、どんな幼少時代を送ったのでしょうか。
実の父親を最低のろくでなしと呼ぶトーニオさん。……何があったのか。
ディリアさんがレオンさんのお父さんと再婚した時、トーニオさんはどう思ったでしょう。
僕から見たディリアさんはおおらかで、愛情表現の豊かな人です。
レオンさんのお父さんに対するディリアさんの愛情は、トーニオさんにも伝わったでしょう。
自分の父親以外の男性を愛する母親――――そばで見ていることしかできない自分。
トーニオさんの複雑な気持ちが、僕には分かるような気がします。
でも、再婚相手の子供を殴りつけるって……。
華やかで優美で冗談好きで明るいトーニオさん。その心の中に別のトーニオさんがいる。
「君は健気でいじらしくて、ついついからかいたくなる。その一方で、守ってあげたい気持ちにもなるよ」
トーニオさんの顔が真剣で、僕はどきりとしました。青い瞳が妖しく心に沁み通ってきます。
「……僕、健気とはほど遠いです。このお屋敷が落ち着かなくて……。お嬢様ってアンナさんは呼んでくれるけど、お嬢様って何をすればいいんでしょうか。何もしないのはやっぱり落ち着かないし、毎日何をしたらいいのか分からないんです」
「君のそういう所が魅力だね。俺はメイドくんに、とっても心惹かれてるよ。この気持ちをどうすればいいかなあ。とりあえず、伝えておく。俺は、君に惹かれてる」
トーニオさんはそう言って、高貴な人のように微笑みました。
君に惹かれてる――――。そんな大切なことを、さらりと言ってのけることができるものなんでしょうか。
トーニオさんの心の奥には暗い闇があり、でも普段のトーニオさんは輝くばかりに魅力的で、やっぱりこの人は美しい悪魔なんだと思いました。
朝食の後片づけをすませ、僕はアンナさんを手伝って邸内のゴミ箱のゴミを集めて回りました。
野菜くずや残飯などは毎日回収されて、家畜の餌や肥料にされます。
裏口にあるゴミ置き場で仕分けをしている時、捨てられた物の中に血のついたブルーのワイシャツを見つけ、僕ははっとしました。
夕べ、レオンさんが着ていたシャツです。
そろそろと持ち上げると肩の辺りが破けていて、腕の部分に血がべっとりと付いています。
レオンさんが夜中に現れた時、シャツの肩が破けていたことを僕は思い出しました。
どうしたんだろうと一瞬思ったけれど、自分のことで頭が一杯になって、すっかり忘れてしまっていたんです。
腕の血は――――僕を部屋まで運ぶために持ち上げた時、一昨日の夜の傷口が開いたに違いありません。
僕ときたら自分の事ばかりにかまけて、レオンさんを思いやる余裕もなかったんです。
レオンさんは泣き言一つ言わず、僕に付き添ってくれたのに。
自分が情けなくなって涙ぐみそうになり、そんな事をしている場合じゃないと叱りつけました。
怪我といい破れたシャツといい、レオンさんは二日続けて誰かと喧嘩をしたのでしょうか。
相手の女性の元恋人がしつこく復縁を迫っていて、レオンさんが怒ったとか?
昔、パパにそういう出来事がありました。
昨夜レオンさんが屋敷に戻ったのは、夜中だっただろうと思います。
そんな遅い時間まで、レオンさんは何処にいたんでしょうか。
トーニオさんなら何か知っているかもしれないと大急ぎで邸内に戻り、2階にあるトーニオさんの部屋の扉をノックしました。
「どうぞ」
トーニオさんは出かける直前だったようで、鏡を見ながら器用な手つきで首元のクラバットを結んでいます。
僕はトーニオさんに、自分の疑念を残さず話しました。
「レオンさんはきっと、危険な状況にいると思うんです。レオンさんとトーニオさんに助けてもらったから、今度は僕がお二人を助けたい。まずは、レオンさんを」
「気持ちはわかるけどねえ。レオンが三角関係って、ちょっと想像できないなあ」
トーニオさんが珍しく真面目な顔つきで言い、僕ははっと気づきました。
レオンさんの喧嘩の相手は男性じゃない。
レオンさんに怪我をさせたのもシャツを破いたのも、女性なんです。
レオンさんの大切な恋人は、暴力的で危険な女性なんです。
僕の推理を聞いたトーニオさんは、口の端に笑みを浮かべました。
「危険な女性ねえ……。危険は合ってるけど、レオンの相手はごつい男だよ」
「えっ」
ごつい男……。僕は、言葉を失いました。相手は男性……。つまりレオンさんはつまり……。
重い衝撃が、僕の心に食い込んできます。僕は息を大きく吸い、心を立て直しました。
「どう危険なんですか?」
「そうだねえ……」
トーニオさんは複雑に結ばれたクラバットをダイヤのピンで留めながら、思案している様子です。
「俺が話すより、君自身の目で確かめた方がいいかもしれないね。メイドくんが男の子になりきれるなら、連れて行ってあげるよ。レオンの行き先へ。レディは入れない場所だからね」
女性が入れない場所――――ごつい男だけの場所。どんな所なのか想像もつかなくて、想像もできない場所へ行くのは怖い。
でも、レオンさんは困ってるに違いないんです。僕なんかには話してくれないけれど。
傷口から出血しているのに痛そうな素振りも見せないように、困っていても口にはしない人なんじゃないかと思います。
「行きます。でも僕、男の子になりきれるでしょうか」
「俺の子供の頃の服を貸すよ。母上は倹約家で古着を捨てたがらないから、まだあるはずだ。あとはメイドくんのやる気かな」
「はい」
僕が拳を握って見せると、トーニオさんは柔らかく笑いました。
日中を落ち着かなく過ごし、夕刻になって屋敷に戻ったトーニオさんに手招きされて、僕は最上階にある屋根裏部屋に入りました。
誰かが定期的に掃除をしているらしく、想像していたより綺麗に整頓されていて、トーニオさんの子供の頃の衣装は簡単に見つかりました。
上着、ズボン、ウェストコートは黒一色で、白いクラバットをトーニオさんが華やかに結んでくれ、準備は万端。
僕の気持ちをのぞいては――――。
今になって、僕はもしかして余計なことをしてるんじゃないかと鬱々と考えてしまいます。
レオンさんは、怒るかもしれない。
僕なんかがレオンさんのする事に口を出したり、顔を突っ込んでいいわけがないんです。
でも――――。僕はレオンさんの腕の怪我を思い出し、自分を奮い立たせました。
レオンさんが、あんな怪我をしていいわけがない。
レオンさんが血を流さなくてすむなら、その一助ができるなら、僕は嫌われたって構わない。
たとえレオンさんに嫌われても、何もしないで黙って見ているより、自分が好きになれそうな気がします。
トーニオさんが辻馬車を呼び、僕たちは出発しました。
馬車の窓のカーテンをほんの少し開き外を眺めると、オレンジの空が暗紫の宵闇に呑まれていきます。
馬車は貴族邸が立ち並ぶ一画から大通りを進み、明かりの消えた商店街を抜け、夜だというのに人通りが多く賑やかな裏通りに入りました。
古びた煉瓦造りの建物の前で馬車は止まり、僕たちは降りました。
見上げると建物は二階建てで、入り口の両側に松明が赤々と燃え盛っています。
アーチ型の入り口の上部に掲げられた看板を見て、僕は茫然としました。