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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて3 ~王宮の陰謀篇~
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1  結婚相手は見知らぬ人  Ⅴ

 

 うつ伏せの体勢で侯爵の胸を叩き背中を蹴っ飛ばし、僕は精一杯抵抗したけれど、とうとうベッドのそばまで連れ込まれてしまいました。


「こら、暴れるな。君は、ずい分と軽いな。リーデンベルク家は食糧事情が悪いのか」

「降ろしてっ、降ろしてっ」

「降ろすとも。我が寝室にようこそ、スミレ君」


 侯爵は笑いながら僕を真鍮のベッドにそっと降ろし、僕はふわりと暖かそうな羽毛布団をつかんで、ヘッドボードの端まで逃げました。素早く布団を丸め、周囲を見回すと象牙色の壁に囲まれた瀟洒な小部屋です。


 家具と作りつけのクローゼットは、すべてローズウッド。外套ハンガーに夜会服と昼間用のスーツが1着ずつ掛けられ、床には豪華な絨毯が敷かれています。


 窓が1つあるけど、ここは2階だし、飛び降りたら大怪我するかな……。羽毛布団を盾にしてきょろきょろと逃げ道を探す僕を、侯爵は面白そうに見下ろしました。


「逃げられないよ。あきらめろ」              

「い、いやだっ」

「君の振る舞い一つで、リーデンベルク家の誰かが逆賊として収監されるか、王家の覚えめでたく引き立てられるか、大きく変わってくる」

「その中間でいいです。普通でいいです」


 僕は馬鹿です。侯爵がどんな人かも分からないのにのこのこ出かけて来て、立てた計画はことごとく砕け散るし、本当に馬鹿です。認めますから神様、どうか助けて。

 僕の目にうっすらと涙がにじみ、侯爵の形のいい唇から溜め息が一つ洩れました。


「私の心は氷で出来ているわけじゃない。君がどうしても結婚したくないなら、この結婚を無かったことにしてもいい。条件次第で」


 いた! 神様はいた! 神様は僕の味方だ! ……条件? 

 侯爵は僕の隣に腰をおろし、体を竦ませる僕にはお構いなしに片手をヘッドボードに置き、僕の顔をのぞき込みました。


 蒼い目が、残酷なまでに鋭く僕に突き刺さります。蹴っても叩いてもびくともしなかった体は頑丈そうで、微笑を浮かべた端整な顔は大人の男性のもので、危険な気配と迫力が僕にのしかかって来ます。


「私の言う通りにするなら、結婚を白紙に戻そう。国王陛下には私から詫びを入れておく」

「陛下とそこまで仲良しなんですかっ?」


「多少のつながりはあるが、君が心配することじゃない。君の行動次第でリーデンベルク家は助かり、私も助かる」

「あなたが助かる……?」


 僕の防具とも言うべき羽毛布団を必死に抱きしめ、僕は侯爵を見上げました。


「そう。私には欲しいものがある。それをラインハルト王子から譲り受けて貰いたい」

「ラインハルト王子?! どうやって! ……欲しいものって?」


「それはまだ言うまい。君がラインハルトから褒美を貰える立場になった時、話そう。君はたった今から、王子の近侍ヴァレットになる」

「ヴァレット……」


 愛人ではなくて? 名目はヴァレットだけど、実態はどうなの? 侯爵が僕をラインハルト王子に愛人として差し出そうとしている――――トーニオさんの話が急に現実味を帯び、僕はぞっとしました。


「彼は、働き者の使用人に対して気前がいい。彼のヴァレットは来週、ベネルチアから南の島々を巡る10日間の船旅に出る。費用はラインハルト持ちだ。君なら、もっと豪華な褒美が貰えるだろう」

「僕が? どうしてですか? 働き者の使用人なら、他にいるんじゃないですか?」


「ラインハルトは、君が気に入っているのだよ。彼は君を結婚させようと、ある男に結婚の意志を打診した。その男というのが私の親戚でね。私が横取りしたというわけだ」

「僕を気に入ってるなら、どうして他の人と結婚させるんですか? まさか……」


 侯爵は片方の口角を上げてならず者みたいに笑い、僕の胸がひやりと冷たくなります。


「君の想像は、当たっていると思うよ。王子の愛妾は、既婚のレディでなければならない」

「愛妾?! 僕には無理ですっ……て言ったらどうなりますかっ」

「今すぐこの場で私と結婚してもらう。私としては、それでもかまわないが。王宮舞踏会で君が気に入ったというのは、本当だ」


 蝋燭の芯が、僕の頬を撫でて行きます。これは脅しだ、そんな手に乗るものかっと思いつつ、僕の馬鹿な唇がわなわな震えてしまいます。


「手塩にかけて立派な愛妾に育てた君を、王子に譲り渡すのは残念だが、代償として私は欲しいものを手に入れる。君は王子のそばで、楽しく優雅に暮らせばいい」


 結局、僕は王子に差し出されるんじゃないですかっ。早いか遅いかの違いだけです。

 楽しく優雅……? どこが? 


 僕は、美しきミレーヌさんを思い浮かべました。すらりとした長身でスタイル抜群で、同じ女性でさえうっとりと見惚れる美貌のレディ。王子の愛妾としてミレーヌさんの隣に立つ、胸ぺったんこの僕。社交界のサメの如き貴婦人たちが、開いた扇の陰で言うでしょう。


「まーあ、王子ったら趣味がお悪くなられて。気でも狂ったのかしら」

「しっ、あまり言わないでさしあげて。一番みじめな思いをなさってるのは、当のエメル嬢なんだもの」


 これのどこが楽しく優雅なのっ!!


 それに、僕には好きな人がいます。何をどう言われたって、どんなに脅されたって、レオンさん以外の人とは嫌です。レオンさんを思い出すと涙ぐみそうになり、僕は目をぱちぱちさせました。


 今日は夕方まで大学の図書館にいると言っていたから、レオンさんは僕がここにいることすら知らないでしょう。無駄だと分かっていても祈ってしまいます。レオンさん、助けて……。


「好きな男でもいるのかい?」


 侯爵にいきなり尋ねられ、はっとしました。レオンさんの名前は、決して出せません。そんなことをしたら、いじめっ子の侯爵のことだから、レオンさんに何をするか分からない。


「いいえ」


 僕は答え、奥歯を噛みしめました。こうなったら自力で切り抜けるしかない。僕は勇気を振り絞り、きっぱりと言い切りました。


「僕、王子様の愛妾にはなりたくありません」

「君に選択権はないが、まあいい。君が望まない限り、ラインハルトも無理強いはしないだろう。プライドの高い男だからね。女性に無理強いする野暮な男だと悪評が立てば、彼の高過ぎるプライドに傷がつく。だから君はただヴァレットとして、懸命に働けばそれでいい」

「本当に、ただ働くだけでいいんですか?」


 侯爵の端整な顔に笑みが広がって行き、笑うと優しそうに見えると思ったけど、もう僕は騙されません。一目惚れだのスミレだのと軽い言葉を並べ立て、実は欲しいものを手に入れるため僕を利用しようとしているんです。


 金輪際、侯爵の言葉は信用するまいと心に決め、僕は白一色の脳を懸命に鞭打ちました。とにかくこの場から――――このベッドから逃れることが先決です。王子のヴァレットとして働き、隙を見て逃げ出そう。そう思い、うなずくことにしました。


「わかりました。僕、王子様のお世話をして頑張ります」

「言っておくが、逃げれば君の父上や兄上が王宮地下牢に放り込まれることになるよ」

「えっ……王宮地下牢って、今でも使われてるんですか」


「もちろん。さすがの私も、あそこには行きたくないな。あれは牢の中でも最悪だ。囚人を幽閉する場所ではなく、餓死させる場所だ」


 侯爵の薄ら寒い表情を見上げる僕の背筋に、冷たいものが走ります。餓死! 王宮地下牢の囚人は、食事を与えられないんだ……。


 そのうえ拷問されると聞いたことがあり、僕は震え上がりました。そんな所にパパやレオンさんやトーニオさんが入れられたら――――それだけは避けなくては。


「ぼ、僕、本気で頑張ります。どうか、パパや兄たちを牢獄送りにしないで」

「いい子だ」


 王宮地下牢――――。僕が逃げたら、リーデンベルク家の誰かが入れられる。家族を守りながら自分の身をも守り、国王陛下に結婚命令を撤回してもらうにはどうすればいいんだろう。


「ところで、君のその飛び跳ねた髪を整えさせて貰ってもいいかな。さっきから気になって仕方がないんだが」

「髪……?」


 回廊の鏡を見ながら整えたはずだけど……。頭に手を置くと、確かに髪が跳ねている感触が返って来ます。


「あ、あの、自分でやります」

「やらせてくれ。君の髪が見た目通りに柔らかいのか、それとも意外と硬いのか、触って確かめたい」

「えっと、結構です」


 僕の返事を無視し、侯爵は僕の髪を撫でました。


「ふわふわだな。子供の頃、タンポポの綿帽子を飛ばして遊んだのを思い出すよ」


 侯爵は赤銅色の髪をかき上げ、ふいに遠い目をしました。蒼い瞳が影を帯び、黒く見えます。


「例の欲しいものだが……。盗み出す方法もなくはないが、発覚して返せと言われては困る。未来永劫、堂々と所有したいんだ」


 侯爵の欲しいものって何だろう。宝石? 王家の宝物? 何かの証書? 

 そんなに欲しいなら直接王子に言えばいいのにと思ったけど、抜け目のなさそうな侯爵のことだから、王子への直談判はとっくに済ませたに違いない。それで駄目だったから、こんな卑劣な手段に出たんです。


「うーん、甘い生クリームの匂いがする」


 侯爵が僕の首筋に顔を近づけ鼻をひくひくさせたから、僕は慌てて横に飛びのきました。香水なんか付けて来るんじゃなかった。出かける直前、僕の唯一の香水であるバニラの香りをシュッと一吹きしてしまったんです。


 侯爵は、僕に手を差し出しました。今度は何? もしや手汗の匂い? 匂いフェチの侯爵はバニラの香りでは飽き足らず、犬みたいに僕の手の匂いを嗅ぎたがってるんだっ。


 どうしよう。どうしよう。手汗なんかかいてないのに。恥知らずな変態めと思ったけど、侯爵の大きな手を見下ろし、あきらめました。こんな事でじたばたしたって仕方がない。嫌だけど、少しの間だけ我慢しよう。しぶしぶ手を出すと、侯爵は僕の手をぐっと握って大きく振り、僕は口をぽかんと開けました。


「契約成立だ」


 ……ただの握手だったの? 契約? 何言ってるのっ。これは契約ではなく恐喝です。侯爵が僕を脅し、言うことを聞かせただけ。口惜しくて腹立たしくて、僕は彼を睨みつけました。


「可愛い顔をして私を見つめるな、スミレ君。私は男だぞ」


 侯爵は笑いながら僕の手を引いてベッドから降ろし、僕の大事な羽毛布団を剥ぎ取ってしまいました。さっきまで僕を暖め、知恵と勇気を与えてくれた布団はもう僕の腕の中にありません。


 心もとなくて寒くて泣きそうです。侯爵は僕のシャツの襟や上着の裾を引っ張って身なりを整えてくれ、急に真顔になりました。


「さあ、行こう。王子が待っている」

「あの、あの、王子様にご褒美を貰うって、具体的にどんなことをすればいいんですか? 掃除ですか? 衣服のお手入れですか?」


 大切なことです。王子の愛妾まっしぐらの道を避け、働き者のヴァレットとして認められるにはどうすればいいの? 必死の思いで食い下がる僕の頭を、指で小突く侯爵。


「ここを使え」


 自分で考えろということ? 僕が立てた計画は、ことごとく砕け散るというのに。

 ラインハルト王子に事情を話して泣きつくことも考えたけど、王子の冷酷で無慈悲な顔を思い出すと、僕なんかの涙が通じるとはとても思えません。


「あの、あの、やっぱりやめた方がいいんじゃないですか。無謀ですよ。失敗したら痛い目に合いますよ」

「失敗して痛い目に合うのは、君だけだ。私は痛くも痒くもない」

「僕、痛い目に合いたくないです」

「ラインハルトを喜ばせ、褒美が貰えるよう仕向けることだな。君ならできる」


 無責任なこと言って。ラインハルト王子を喜ばせる? あの冷徹な王子が喜ぶなんて事があるんでしょうか。


 がっくりとうなだれた僕は、侯爵の後から部屋を出て、とぼとぼと廊下を歩きました。




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