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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて3 ~王宮の陰謀篇~
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1  結婚相手は見知らぬ人  Ⅳ 

 

 侯爵は立ち止まり、皮肉めいた微笑を浮かべ、僕を見下ろしています。


「君は、初対面の男をぶっ殺して回っているのか?」

「いえ、違いますっ。その、これには色々と事情が……すみませんでした。つい……」

「餌を横取りされまいと必死に唸ってる子犬のような顔では、誰も脅せないよ」


 ひ、ひどい。そんなはずないのに。大の男が震えおののく怖い顔のはずなのに!


「変わった令嬢だということは耳にしていたが、面白い人だな。よく来てくれた、エメル嬢。会えて嬉しいよ。庭の散策をするつもりだったが、あいにくの天気だから、ホクロの散策でもしようか」

「……は?」


 ホクロの散策? 体に付いてる黒くて丸いあのホクロ? それとも王宮で使われる専門用語かなと思ったけど、聞き流しました。


 僕には、もっと大切な話がある。用意周到な計画が突発的事故により吹っ飛ばされた僕は、単刀直入に核心を突きました。


「あの、あなたはまだ結婚したくないでしょう?」

「いや。君とはぜひ結婚したいね。国王陛下に君との結婚を願い出て、ようやく承諾を得たのだから、陛下の命令はありがたく受けるつもりだ」

「願い出た……あなたが?」


 侯爵が願い出たから国王命令が出たの? 初めて聞く話に耳を疑いました。これには何か裏があるんでしょうか。政治には、関わる人の数だけ裏があるとユリアスさんが言ってたけど。


「なぜ願い出たんですか?」

「王宮舞踏会の夜、君に一目惚れしたと言えば信じて貰えるだろうか。スミレの花のような君を見て、君こそ私が探し求めていた女性だと思ったんだ。ベルトラム男爵に申し入れたが、一蹴されてしまってね」

「トーニオさんが……?」


 トーニオさんは何も言ってなかったけど。僕に一目ぼれ? あの時の僕といえば、鬘がずれないようステップを間違えないようガチガチに固くなっていて、スミレより石像に近かったと思うんだけど。


「そうだったんですか。兄が失礼なことをしてすみませんでした。でも、僕からもお願いします。その、フィアを卒業するまで結婚したくない……んです」

「男の部屋に一人で来た以上、結婚を承諾したものと思ったが?」


「えっ、それは違います。誤解させてしまったなら、お詫びします。どうか、この話は無かったことにしてください」

「私が承知すると思うか?」


 侯爵の目がきらりと光り、僕はぞくっとしました。見かけは退廃的で乱れた雰囲気だけど、知的な顔立ちと鋭い目がただの放蕩者ではないと告げています。


 ゆったりと腕を組んで立つ姿は優雅だけど何処か毅然として軍人っぽくて、でも遊び人っぽくて、上手く言えないけど得体の知れない人です。


「宝石や豊かな資産に興味はないか?」

「すみません。ありません」


 正直に答えると侯爵は笑ったように見え、笑みはすぐに消えて行きました。


「栗色の綿帽子のような髪。潤んだ琥珀の瞳。天使のような顔。君は美しく愛らしくとても魅力的だよ、エメル君。ドレス姿も素晴らしいが、男の子の恰好もなかなかのものだ。君を前にして私がどう感じるか、判るかい?」

「いえ」


 侯爵がにやりと悪魔的に微笑したから、僕の背中はますます冷たくなって行きました。僕の働かないけど臆病な脳が、この先には危険が待っていると警鐘を鳴らしています。


「いじめたい……」

「は?」


 侯爵は指をぽきぽき鳴らし、僕の唇が反射的にわなわな震え始めました。いじめっ子――――ボーデヴィッヒ侯爵は、いじめっ子なんだ。


 僕の頭を小突いたり髪を引っ張ったりした初等学校の男の子たちを思い出し、大人の侯爵があんな幼稚な振る舞いをするとは思えないけど、もっとひどい事をされるんじゃないかと唇の震えが止まりません。


「いじめると言っても、子供と大人では違う。どう違うか、判るか?」

「い、いえ、全然……」

「カーネル!」


 奥の部屋の扉が開き、カーネルさんが出て来るのを見た瞬間、僕の手からモップが消えました。侯爵は僕を嘲笑うかのようにモップを手でもて遊び、唯一の武器を取り上げられた僕の全身から血の気が引いていきます。


「返してっ、返してっ」

「明日の朝、君が帰る時に返そう。ああ、カーネル。令嬢がお帰りになるまで荷物をお預かりしてくれ」

「かしこまりました」


 丁重な手つきで侯爵からモップを受け取り、取り返そうと飛びついた僕を軽くかわすカーネルさんは、見かけによらず動きが敏捷です。


「それから、縄と鞭を持って来てくれ」

「縄と鞭……。承知いたしました」


 カーネルさんは一瞬だけ驚いた顔をし、仰天する僕をちらっと見て、奥の部屋に戻って行きました。

 縄と鞭? 僕が家に帰るのは明日の朝? 14年間の人生経験が、怖ろしい推測を導き出しています。いじめっ子――――縄と鞭――――まさか。


 おぞましい想像が脳内を走り、武器を奪われた心もとなさも手伝って、僕の足までカクカク震えます。

 来るんじゃなかった。ここに来たのは間違いだった。そう思いながら、ささやかな脳を懸命に働かせました。


 侯爵ともあろう人が、よりによって王宮で、初対面の淑女――モドキではありますが――に失礼や乱暴を働くでしょうか。きっとこれには、僕の想像とは別の意味があるに違いない。確かめなければ、また恥をかく事になる。


「縄と鞭を何に使うんですかっ」

「何に? 誰にと問うべきだな。君はどっちだ? M? それとも見かけによらずSか?」

「え?」


 SとM――――? 

 僕ははっとして、侯爵の着心地の良さそうなスーツを見やりました。仕立て具合と生地の品質から見てレディメイドではなさそうだけど、それはこの際置いておいて、アメルグ国のレディメイドにはサイズ表があるんです。


 Sは小さい、Mは中間、Lは大きい体型を表すのだとか。アメルグ帰りの侯爵は、僕の世界的知識を試しているに違いない。


 僕だって、レディメイドのサイズ表ぐらい知っています。きっと縄と鞭にもサイズがあるに違いない。僕のサイズといったら――――。


「どちらでもありません。僕、SSです。子供サイズなんです」

「ほう。サイズの話か」

 

 侯爵の黒い目がまたもやキラリと光り、彼は肩頬を上げて笑いました。


「サイズは大事だな。私は人並み以上だと思うが、君が子供サイズでも問題ない。人体とは不思議なもので、どんなサイズでもぴったり収まるよう出来ている。まずは脱いで貰おうか」

「……はあ?」


 また訳の分からないことを――――。

 「脱ぐ」には危険なイメージがつきまとうけど、侯爵がそんな露骨な言い方をするでしょうか。


 社交界に集う紳士や貴婦人たちは、決してそのものズバリを口にしたりはしません。言葉を使う際には、隠喩を駆使するんです。たとえばベッドは「さくろの実」、愛人との逢引きは「雪の小道」と言うそうです。


 社交界慣れしてない僕にはよく分からないけど、「脱ぐ」に「人並み以上」と「人体」と「ぴったり収まる」が加わると、別の意味になるのかも。


 ここは冷静に考えなくては。これ以上僕が恥を重ねれば、リーデンベルク家の名に泥を塗ることになる。侯爵の手が伸び、僕のシャツの襟をつかんだ瞬間、僕ははっと気がつきました。


 侯爵の目当ては、シャツ。何のお遊びか知らないけど、侯爵は僕のシャツをはぎ取り、それから――――着るつもりなんだっ! 


 子供サイズの僕のシャツが、人並み以上に大きな自分の人体にぴったり収まるなんて彼は言ってるけど、そんなわけない。パパに買って貰った一張羅のシャツを守るべく、僕は必死に侯爵に立ち向かいました。


「無茶です! そんなことすると、破れてしまいますっ」

「破るのは夫の特権だが?」

「駄目です。僕、1枚しか持ってないんですよっ」


「当たり前だ。2枚も3枚もあったら化け物、というより詐欺だな。娼婦たちは20枚も30枚も持ち、そのたびに高額な料金を請求するが……失礼」

「は?」


 娼婦がシャツを大量に持ってる? いつも華やかなドレスを着ている印象しかないけど、彼女たちは家に帰るとシャツを着るんでしょうか。高額な料金? シャツに? どんなシャツなの?


 まるで謎かけです。でもその謎かけに、リーデンベルク家の名誉が掛かっています。リーデンベルク家が田舎者扱いされるか洗練された貴族として認められるか、僕の返答一つに掛かっているんです。


 くすくす笑っている侯爵の端整な横顔を見ながら、僕はパズルを解く気分で、必死に脳みそを絞りました。


「さあ、脱ぐのか脱がないのか。それとも脱がせて差し上げようか?」


 この人はどうしてシャツにこだわるんだろうと思い、僕はとうとう気づいてしまいました。僕のシャツを脱がせようとしているのは、着るためじゃない。目的は着ることではなく――――匂いだっ!


 フィアの女子クラスで、匂いフェチという言葉を知りました。紳士の中には汗や蒸れた靴の臭いを好む変わった嗜好の人がいるらしいという話を、女子クラスの女の子たちがひそひそ話していたんです。ボーデヴィッヒ侯爵は、匂いフェチなんだっ。


 勝った――――。 

 僕は、勝利を確信しました。匂いフェチなどという性癖を暴露されれば、侯爵は恥ずかしくて社交界に顔を出せなくなるでしょう。こんな手段は使いたくないけど、侯爵を脅し、言う事を聞かせる絶好のチャンスです。


「あなたの正体が分かりました。あなたは――――」


 ようやく優位に立てた僕は毅然と胸を反らし、彼に人指し指を突きつけてやりました。


「あなたはシャツに滲み込んだ汗の匂いが好きで、娼婦たちからシャツを20枚も30枚も買い上げ、僕からはタダで巻き上げようとしているんです。あなたの正体は――――変態だっ!」


 侯爵はくるりと僕に背を向け、片手で額を押さえています。肩が小刻みに震えているところを見ると、泣いているのでしょう。


 僕みたいな子に変態呼ばわりされて、侯爵としての誇りが傷ついたに違いない。見かけによらず繊細な人なんだなと、罪悪感にかられてしまいます。


「あなたの秘密は誰にも言いません。僕の胸だけに収めておきますから、泣かないで」


 僕が神妙に言うと、侯爵の口から堪え切れない笑い声が飛び出し、彼は声を上げて笑い出しました。


「未婚の令嬢と……こんな危ない会話を交わしたのは……生まれて初めてだ。あははは」

「泣いてたんじゃないのっ」


 僕だって、紳士を変態呼ばわりしたのは生まれて初めてです。心の中で思っていても、面と向かっては言えません。


 侯爵は恥ずかしくないんだろうかと不思議です。匂いフェチだの変態だのと言われたら、僕なら恥ずかしくて死にたくなるのに。

 ボーデヴィッヒ侯爵は笑いながら僕に向き直り、僕の顔をのぞき込みました。


「いいことを教えてあげよう。世の中の男は、一人残らず変態なんだよ」

「えっ、違いますよ。レオ……僕の兄は、全然違いますよ」

「ああ、トーニオとレオンね。私が知っているあの2人は、3年生で12歳くらいだったかな。年端のいかない少年を好む貴婦人を取っ替え引っ替えして、2人で競争していたよ」


 貴婦人を取っ替え引っ替え……? 12歳で? トーニオさんはともかくレオンさんが? 何かの間違いです。


 顔を引きつらせる僕を侯爵は横目で見て、奥の部屋からカーネルさんが出て来ました。カーネルさんは後ろ手を組み、深刻な表情です。


「旦那様。縄と鞭についてですが。未婚のレディに鞭をお使いになるのは、やはりどうかと思います。跡が残りますので……」


 僕は、ぱっと目を見開きました。跡が残る――――やっぱりいじめっ子の侯爵は、僕を鞭で叩く気なんだ。そして心優しいカーネルさんは、それを止めようとしている。僕は、カーネルさんに感謝の目を向けました。


「カーネルさん、ありが……」

「蝋燭の方がよろしいのでは?」 


 忠実な侍従が背中から前に回した手には、1本の蝋燭が握られています。蝋の部分に繊細な彫刻が施された、高価な蜜蝋みつろうです。


「こちらの方が跡が少なくて済みますし、多少の火傷なら消えるでしょう」


 火傷――――! 僕は叫び声を呑み込み、侯爵とカーネルさんを交互に見ました。僕を焼くの? 燃やすの? 唯一の頼みの綱であるモップはないし、侯爵は変態だし、もう僕の手には負えない。


「あの、あの、あの、僕、急用を思い出しましたので、失礼させて頂きます」


 扉に向かって駆け出そうとした僕の両腕を侯爵が捕え、必死にもがいても離してくれません。


「離してっ、離してっ」

「帰すわけにはいかないな」

「お気の毒なレディのお可哀相な絶叫を聞く勇気は御座いませんので、私は厨房に行って参ります。どうかレディ、お達者で」

「ああ、カーネル。外から鍵を掛けておいてくれ」

「もちろんで御座いますよ、旦那様」


 お達者で? 何言ってるのっ、蝋燭で焼かれて達者でいられるわけがない! カーネルさんは部屋から出て行き、僕は侯爵にいきなり担ぎ上げられて叫びました。


「ひ――っ! ぼ、僕にひどい事したら、紳士の体面に傷がつきますよっっ!」

「君はトライゼンの紳士と貴族について、何も知らないんだな。気に入った女はその場で自分の物にする。その習慣は、山賊だった昔から変わっていない」


「リーデンベルク家が黙ってません! 僕のパパや兄たちが怒りますよっ!」

「私は国王陛下の命令に従っただけ、君の父上や兄上たちはさしずめ逆賊ということになるな」


 肩の上で暴れる僕を侯爵は楽々と押さえつけ、奥の部屋の扉を開くと目の前に大きなベッドが現れて、僕は死物狂いでもがきました。




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