1 結婚相手は見知らぬ人 Ⅱ
ゲコゲコゲコ。
僕の隣で、カエルが鳴いています。ごく普通の青ガエルのくせにふんぞり返り、やたらと態度が大きくて偉そうです。
彼こそは、ボーデヴィッヒ侯爵。僕は、カエルと結婚することになったんです。
暗い池に月光が落ち、僕とカエルめは、お祝いに駆けつけた大勢の人たちに囲まれています。
「エメル嬢、おめでとうございます」
人々が口々に言うけど、めでたくないっ。カエルと結婚する事の、どこがめでたいの。
目でレオンさんを探したけれど、どこにもいません。トーニオさんやパパやお母様の姿もなく、僕は青カエルめをキッと睨みつけました。カエルの分際で、僕と結婚しようなんて不届きな奴め!
でも国王陛下の命令で、結婚しなければいけないんです。もしも逆らったら、リーデンベルク家が処罰されてしまいます。僕は絶対に絶対に、青ガエルを許さない。絶対に――――絶対に――――。
「青ガエル……青ガエル……」
重い瞼を開くと、薄暗い部屋と水色の天井が見えました。金箔で華やかに描かれた草花が天井全体を彩り、柱をつたって床までつづいています。水色の壁。ベージュの家具。薔薇模様のソファ。毎日見慣れた僕の部屋です。
(夢だった……)
ほっとしたものの、不安なことがあると悪夢を見る悪い癖が復活したんだと思い、胸を撫で下ろすまでは行きませんでした。ここの所ずっと、朝まで夢も見ず熟睡できたのに。
深呼吸し、男の子のパジャマを着たままベッドから下りました。部屋の隅に立て掛けたモップを手に取り、久しぶりに構える棒術の基本所作。グリップを右手でつかみ、ハンドルの先をやや下げる。
僕の目に、床でふんぞり返るにっくき青ガエルが映ります。臨戦体勢のまま、僕は鋭くきっぱりと言い放ちました。
「やい、カエル。僕は絶対に絶対におまえなんかと結婚しない。青カエルは――っ、絶滅しろ――っ。……ん?」
はたと気がつきました。カエルだって可愛い女の子ガエルと結婚したいに違いなくて、人間との結婚なんか迷惑でしょう。
悪いのはカエルではなく、結婚を命じた国王陛下です。床でふんぞり返る国王陛下を思い浮かべ、僕はこんこんと言い聞かせました。
「御存知ないようなので教えて差し上げますが、女の子にとって結婚はすごく大事なことなんです。一生好きな人のそばにいて、同じ道を歩いて行こうということなんです。それを一方的に勝手に相手を決めるなんて、人でなしでロクでなしの所業です! ……え? 国のため? そんな事言われても……。言う通りにしないとリーデンベルク家を処罰する? 脅しですかっ。そっちがそう出るなら、こっちにも覚悟がある。やい、国王! よくも僕の大事な大事な結婚をそっちの都合だけで決めてくれたなっ。ぶん殴って……やる……」
国王陛下に向かって言ってるんだと思うと足が震え、言葉は尻すぼみになって行き、そんな僕は悲しいくらいに平民です。床に立てたモップに顎を乗せ、ふうっと息を吐き出す僕。
こんな事ではいけないと思いました。いくら心根が平民でも相手が国王陛下でも、戦うべき時がある。
結婚は好きな人と――――。レオンさんの面影をうっとりと思い出し、慌ててかき消しました。
とにかく、結婚の自由を勝ち取らなくては。理不尽な命令とは徹底抗戦あるのみ! レオンさんとの薔薇色の未来がかかってるんだと思うと心の底から力が湧いて来て、僕は再び国王陛下と対峙しました。
「僕は――っ、好きな人と――っ、結婚するーっ」
同じ台詞を何度も繰り返し、ようやく足も唇も震えることなく言い切れるようになった時、何とか機会を作って国王陛下に直訴したいと思いました。口に出して言わなければ、向こうの思う壺だ。
窓辺に仄かな明かりが差し込み、朝が来たと告げています。パパとお母様は早朝立つと言ってたっけ――――。慌てて部屋の隅に置かれた洗面キャビネットまで走り、陶器の壺に入った水を洗面器に注ぎました。
水壺も洗面器も、僕の大好きなスズランが描かれています。いつもはメイドさんがお湯を運んでくれますが、今朝は時間が早いせいか、まだ来ていません。待ちきれない僕は水で顔を洗い歯を磨き、クローゼットに顔を突っ込みました。
ドレスを着ればお母様が喜んでくれるけれど、今朝の気分は戦闘服です。こういう高揚した気分の時は、男の子の服に限ります。
パジャマを脱いでパパが買ってくれた黄色のシャツを頭からかぶり、サスペンダーのついたズボンとウェストコートを身に付け、仕上げは蝶ネクタイとグレイの上着。トーニオさんから貰ったヘアネットは威力十分で、すっかり大人しくなった髪をブラシでささっと整え、僕は階下に下りました。
使用人たちが出発の準備に右往左往している中で、レオンさんとトーニオさんがトーストと紅茶だけの軽い朝食を食べています。
「おはようございます。パパとお母様は?」
「おはよう、エメ。さっき父上を見かけたが、母上はまだ下りて来ていないと思う」
レオンさんが言い、トーニオさんは紅茶カップをソーサに戻しながら、あでやかに微笑しました。
「これからエメルちゃんを起こしに行こうと思ったのに。楽しみがなくなってしまったよ」
「僕、子供じゃないから一人でちゃんと起きられます」
トーニオさんに起こされなくてよかったと思いつつ、僕はレオンさんとトーニオさんをまじまじと見ました。
もしかしたら2人には、僕の結婚を阻止するための計画があるかもしれない。もしあるなら、僕も仲間に入れてほしい。だって僕の未来がかかってるんだもの、僕自身が頑張らないと。
「ボーデヴィッヒ侯爵について教えてください」
単刀直入に尋ねました。昨夜はあれから2人とも出かけてしまい。尋ねる機会が無かったんです。
「あまり詳しくは知らないんだが……」
レオンさんが言いながらちらっとトーニオさんを見て、僕の鋭い目はそれを見逃しませんでした。兄弟として長く暮らしている2人には目で会話をする、僕から見れば魔法のような離れ業があるんです。
でも、僕の目は誤魔化されません。僕が一人で暴走することを案じて、余計な情報を与えるなとレオンさんはトーニオさんに伝えたに違いない。
「僕、暴走したりしませんよ。御心配なく」
自信たっぷりに言うと、レオンさんの端整な顔に笑みが浮かびます。
「年は24。フィア在学中は、あまり目立つ人ではなかったよ。爵位を継いだこと、学業が優秀だったこと以外、俺の記憶に残っていない」
「問題はフィアを卒業した後だね。大学には進まず外国を巡り、数々の高名な女性と浮名を流した。今の彼は、放蕩者として有名だよ」
トーニオさんの言葉に、僕はぎょっとしました。放蕩者! 僕に言わせれば、カエルの方がマシです。
「ボーデヴィッヒが何を企んでいるのか知りたいから、これから御婦人方に探りを入れて来るよ。エメルを利用してラインハルトに取り入ろうとしているのかな、なんてね」
「考え過ぎだろう。先走るなよ、トーニィ」
レオンさんがたしなめ、突然降って湧いたラインハルト王子の名に、僕はまたもやぎょっとしました。
「あのう……どうして僕と結婚することが、王子様に取り入ることになるんですか?」
僕をペットの犬みたいに扱った王子も、僕のことなんかとっくに忘れたでしょう。自分に断りなく結婚しないようにと王子が言ったことを思い出し、あれはあの時の成行き、言葉のあやだと思いました。決して本気で言ったんじゃない。
トーニオさんはゆったりと頬杖をつき、悩ましい目で僕を見ています。
「王族の愛妾は、貴族で既婚の貴婦人に限られているからだよ。平民の女性や未婚の娘が愛妾になった例は過去に無くはないけど、周囲の好感は得られなかった。今の王家は国内外での評判を重要視しているから、もしラインハルトが貴族の未婚女性を愛妾にしようと思うなら、まず結婚させるだろうね。そこに付け込んだボーデヴィッヒが君を妻にし、愛人として王子に差し出す魂胆なのかなってね」
「想像がたくまし過ぎるぞ。エメルに歪んだ先入観を与えるな」
レオンさんが厳しい声音で言い、僕は唇を震わせました。結婚したばかりの妻を愛人として差し出し、王子に取り入る――――? 気分が悪くなるような話だけど、どこか変です。
僕なんかを愛人として差し出しても、誰も見向きもしないと思うけど。とりわけラインハルト王子にはミレーヌさんという絶世の美女がいて、他にも複数の愛人がいるという噂だし、僕を差し出しても突き返されるだけです。
女神のように美しいミレーヌさんに並び立つ、痩せっぽちの僕。同じ女性でありながらあまりに違い過ぎて、想像するだけで恥ずかしくなります。
あり得ない。誰かが僕を愛妾にするとか、それがラインハルト王子だとか、どう考えてもあり得ない。トーニオさんは愛人だの愛妾だのと非日常的な言葉が普通に飛び交う世界にどっぷり浸かり過ぎて、日常的な考え方が出来なくなっているんです。とはいえ……。
「僕、侯爵と結婚したくない」
「心配するな。トーニオは、話を大袈裟にしているだけだ。俺が思うに、これは王宮官房室の間違いだろう」
王宮官房室。国王陛下の側近たちの総称です。まだ議会が無かった頃、大臣たちが集まり国王を中心に国事を話し合った小部屋を王宮官房室と呼んでいました。今は主に、王家の私事を司る侍従たちによって構成されています。
「僕の結婚話は、王宮官房室から出たんですか?」
「書状には、侍従長の印が押してあった。国王陛下の意志が、侍従長を通して当家に伝えられたということになるんだけど」
首をかしげるトーニオさんに、僕の期待は膨らんでいきます。間違い――――そうだったらどんなにいいか。
「書状が本物かどうか、陛下の意志に間違いはないか、どういう目的でリーデンベルクとボーデヴィッヒを結びつけようとしているのか、ゆっくり一つ一つ確かめなければね」
「僕も手伝います!」
今朝の僕は、やる気まんまんです。ところがレオンさんとトーニオさんが僕に向けたのは、曖昧な微笑でした。
「エメは何もしなくていいんだよ。侍従長の勘違いだと分かったら、まっ先に知らせるから」
「冬の間、トライゼン人は思考が停止するからね。間違いなんてよくあることさ」
「でも……あの……」
国王陛下に直訴する勢いだったのに拍子抜けしてしまい、僕は不承不承うなずきました。本当に間違いなのかなあ。もしも間違いでなかったら、どうするんだろう。
執事のニクラスさんが運んでくれた温かい紅茶を飲んでいるうちに出発の時刻になり、僕たちは玄関に立ちました。旅装に身を包んだパパとお母様を見ると、申し訳ない気持ちで一杯になります。
「春になれば問題は良い方向で解決するから、何も心配いらん。パパに任せなさい」
そう言って僕を抱きしめてくれるパパ。懐かしいパパの香水――樹木と革の香りが僕を包み、隣ではディリアお母様がトーニオさんに手紙の束を渡しています。
「1通は内務省に務める親戚、残り2通はホルツ公爵夫人とネルリッツ伯爵夫人宛てです。夫人たちは、お年のせいか気難しいから気をつけてね」
「わかっていますよ、母上」
どうやら手紙は親戚と、社交界の重鎮とも言うべき老婦人たちへの紹介状のようです。
「集めた情報は逐一、レイホルムまで伝えてね。レオンとトーニオには情報集めをお願いするけれど、わたし達が帰って来るまで勝手な行動は慎むこと。この間のスパイ事件のような無謀な振る舞いは許しませんよ」
「承知致しました、母上」
レオンさんが優雅な仕草で礼をし、僕も真似て頭を軽く下げ、そうしてパパとお母様の乗る馬車は旅立って行きました。門を出て行く馬車が見えなくなると、レオンさんが両手を上げて伸びをします。
「さあて。俺はこれから大学の図書館で調べ物をして来るよ」
「調べ物……?」
「どの病気にどんな薬が効くか、一覧表を作っておきたいんだ」
当然です。お医者さまを目ざしているレオンさんの勉強は大変そうで、時間がいくらあっても足り無さそうです。
「家から出るなよ、エメ。おまえを誘拐したエーリクのような真似を侯爵がするとは思えないが、用心に越したことはない。夕方には帰るから、一緒に夕食を食べよう」
レオンさんがにっこりし、僕も笑顔でうなずきました。
「邪魔者のいなくなった屋敷でエメルちゃんと2人っきりを楽しみたいけど、今朝はさるご婦人と遠乗りに出かける約束をしてしまったんだ。後ろ髪引かれる思いで、行ってくるよ」
トーニオさんは残念そうに僕を見やり、僕の中で安堵の気持ちが広がっていきます。トーニオさんと2人っきり――――何て怖ろしい。トーニオさんがレオンさんに目配せしたように見えたのは、きっと僕の気のせいです。
2人は馬に乗って出かけ、僕は一人残されました。勝手な行動を慎むようにとお母様に釘を刺された以上、僕たちに出来ることは情報集めだけです。
レオンさんとトーニオさんは、忙しい合間を見つけて内務省や老婦人の屋敷に出かけるつもりらしく、僕の出る幕はありません。十分過ぎる気合の持って行き場を失い、何だか肩透かしを食らった気分です。
仕方がない。大量の宿題を抱えてる身だから、気合は宿題に向けよう。
そう思ったものの落ち着かなくて、宿題は少しも進みません。気分転換に庭の散歩でもと思ったけれど、雪がちらついて来てあきらめました。部屋の中をうろうろしていると、ドアを叩く音が聞こえ、入って来たのはアンナさん。
「ボーデヴィッヒ侯爵の使者を名乗る方が見えてるんですけれど、どうしましょうか」
「あ、えっと、僕が会ってみます」
1階に下りると、威厳ある初老の男性がホールに立っていました。僕が「エメル・フォン・リーデンベルクです」と名乗ると、少しだけ目を見開き、すぐに慇懃な顔つきで深々と礼をします。
「オスカー・セバスチャン・フォン・ボーデヴィッヒ侯爵の使いで参りました。あるじは国王陛下より王宮の1室を与えられており、もし宜しければご一緒に王宮の素晴らしい庭園の散策をいかがですかと申しております。申し遅れました。侯爵の侍従を務めております、カーネルと申します」
「あの、その、そうですね……」
どうしよう。アンナさんによると、カーネルさんが乗って来た馬車にはボーデヴィッヒ侯爵家の家紋が描かれているらしい。馬車は本物みたいだし、カーネルさんは侍従らしい真面目そうな人だし、誘拐の気配は無さそうだけど。
「着替えてきますので、サロンでくつろいでお待ちください」
「とんでも御座いません。お嬢様の御仕度が終わるまで、ここで待たせて頂きます」
侍従は生真面目な顔で、僕に頭を下げるや背筋をぴんと伸ばしました。僕は急いで部屋に戻り、必死に考えました。どうしよう。家から出るなと言われてるけど……。
でも、これはチャンスかもしれない。ボーデヴィッヒ侯爵――――24歳の男性なら、好きな女性の1人くらいいるでしょう。もしいなくても、放蕩者らしいからまだ結婚したくないと考えていて、国王陛下の命令を迷惑に思っているかも知れない。
もしかすると侯爵とは利害が一致して、共同でこの結婚を阻むことが出来るかもしれない。侯爵は、僕の味方になるかもしれない!
顔も知らない人との結婚を無理強いされたら、誰だって嫌な気分になるに決まっています。侯爵が僕を招待するのは、何とかこの結婚を無かったことにしたいと、僕に相談するためかも知れない。
期待はどんどん高まっていき、モップをつかんで一目散に1階まで駆けおりました。男の子の服を着ていて良かった。やっぱり今日は勝負の日だ。
引き止めるアンナさんをなだめ、僕はボーデヴィッヒ侯爵家の馬車に乗りました。モップを馬車に押し込む僕を見て、カーネルさんの目がまたもや僅かに見開かれたけれど、気にしてはいられません。自分を守るため、武器は必需品です。
きっと上手く行く、上手く行かせなければ。そんな気持ちで、僕は王宮へと向かいました。