1 結婚相手は見知らぬ人 Ⅰ
リーデンベルク家に来て早や3か月。エメルは相変わらず男の子の格好で自分を「僕」と呼びつつ、レオンと幸せな毎日を過ごしていた。そこに届けられた国王の命令書。ボーデヴィッヒ侯爵と結婚すべし? 僕の幸せを邪魔する者は許しません! 勢いあまって王宮に乗り込んだ彼女の前に、王、王妃、王子を巻き込む陰謀劇が待ち受ける。
トライゼンは、すっかり冬です。リーデンベルク邸の庭園ではエリカとクレマチスの花が咲き、うっすらと積もった雪景色に紫の彩りを添えています。
レオンさんとトーニオさんの卒業式が終わり、フィアが冬休みに入った11月末。僕は幸せな、夢のような毎日を過ごしています。
お医者様になろうと決めたレオンさんは大学入学前にも関わらず勉学を始め、時間を見つけては僕をレストランやカフェ、劇場や美術館に連れて行ってくれます。
僕ときたら相変わらず男の子の恰好で、まるでレオンさんが男の子を連れ回してるみたいに見えるだろうなあと思いますが、レオンさんは少しも気にならない様子です。それどころか、ドレス姿でない方がいいと言います。トーニオさんはドレスを見ると脱がせたくなるからねと言いますが、トーニオさんはそうかもしれないけど、レオンさんに限ってそんなわけない。
トーニオさんはいつもの如く夜のお出かけが多く、どこで何をしているのかさっぱり分かりません。聞くところによると舞踏会や晩餐会など夜の社交界に出入りして、男爵の務めを果たしているらしいんですけど……怪しい。
今日はこれからダイニングルームで、トーニオさんのお誕生日会があります。トーニオさんの希望で招待客は無し、家族だけでお祝いです。社交疲れし始めたパパはほっとした様子で、盛大なパーティーを開くつもりだったディリアお母様は不満そうで、僕はドキドキしています。
レオンさんが、部屋まで迎えに来てくれることになっているから。今、僕はドキドキしながら鏡の前に立っています。
仕立て上がったばかりの金色のドレスは今流行のハイウェストで、胸が強調されるデザインです。致命的に寂しい僕の胸を補うために、これでもかっというくらい詰め物が詰め込まれていますが、少しも変には見えません。胸から足元までゆったりと流れ落ちる金紗が、僕の貧相な体型をふくよかに見せてくれています。
肩の辺りが丸くふくらんで、ぴったりとした袖の先には純白のレースが広がり、ドレス全体に散りばめられた小さな花とリボン。ようやく肩まで伸びた髪を結い上げ、白い花で覆われた金のネットをかぶった僕は、花のお姫様みたいです。香水はトーニオさんから贈られたバニラで子供っぽいけど、指にはレオンさんが買ってくれた銀の指輪が輝いています。
仕度を手伝ってくれたアンナさんはよくお似合いですよと言ってくれたし、僕も花のお姫様になりきって踊り出したい気分だけど、レオンさんの目にはどう映るんだろう。ちょっと不安。ドアをノックする音が聞こえ「どうぞ」と返事をすると、紙包みを抱えたレオンさんが顔をのぞかせました。
「入っていいか?」
「はい。用意、できました。いつでも出られます」
後ろ手にドアを閉め、僕をしげしげと眺めるレオンさん。黒のフロック・コートに身を包み、赤ワイン色のアスコット・タイを締め、前髪を後ろに流し、大人びた装いのレオンさんは本当に素敵です。僕はうっとりと見惚れ、感嘆の溜め息をつきました。
「綺麗だよ、エメ」
レオンさんが僕の手を取って軽く唇をつけ、たったそれだけの事なのに僕の顔がかーっと熱くなっていきます。
「では参りましょうか、姫君」
悪戯っぽい口調でレオンさんが言った途端、がっかりする僕。……手だけ? 大人のキスは? 物足りないと思う僕は、変な奴です。
幸福な毎日の中で一つだけ気がかりな事があるとしたら、それはレオンさんの僕に対する微妙な接し方です。
大人のキスは旅立つフォルクさんをお見送りしたあの日っきりで、ポケットに手を入れていることが多くて、まるで僕に触れまいとしているかのようで、少しだけ落ち込んでしまいます。
僕みたいな見るからに子供っぽい奴を相手にキスはできないだろうと諦めるとしても、頭を撫でられることは好きなんだけどな。それすらして貰えなくて悲しくなる僕は、ますます変な奴です。
そんな事を考えているうちに、知らず知らず唇を突き出していることに気がつき、僕は慌てて引っ込めました。な、何やってるんだ、僕はっ。レオンさんは、少し困った顔で咳払いしています。
「あと4年。いや3年半か。待つのはなかなか大変なんだ。俺を狼にしないでくれ」
「え……あ、はい」
狼? レオンさんが僕を襲うってこと? レオンさんに限って、まさか。
きっと大人のキスには、僕みたいな子でも大人の女性に見せる魔力があるんです。レオンさんほどの人でも、魔力にはかなわない。大人の女性――――そのうっとりするような響きに、僕は酔いしれました。
実を言うと、僕は密かに貴婦人を目ざしています。ついこの間までリーデンベルク三兄弟の末っ子に憧れていた僕ですが、今はレオンさんの隣にいても可笑しくない素敵な貴婦人になりたいと真面目に真剣に考えています。
そのためには男の子の服装をやめ、ドレスに慣れなければいけないけれど、それは後回しにして、まず内面を磨かなければ。
貴婦人のように凛と背筋を伸ばし、僕はにっこりしました。左手でトーニオさんへのプレゼントを持ち、右手をレオンさんの腕にからませ、上品な足取りで歩く僕。3階から1階ホールに下りると、階段下でトーニオさんが立って待っています。
ダーク・グレイのフロック・コートに青のクラバットを合わせたトーニオさんは、いつものようにさらさらの金髪を肩に垂らし、はっとするほど艶やかで華やかです。でも表情は悪い奴みたいで、ニヤリと笑ってレオンさんを見上げ、
「お疲れ、お父さん」
「誰がお父さんだ」
気色ばむレオンさんの腕から僕の腕をもぎ取り、僕の指に口づけました。
「俺の花嫁は、こんなにも美しい。さあ、結婚式を始めよう」
「結婚したいなら、まず自分の女を探せ。今日は誕生会だ。俺からのプレゼントの一部。残りはダイニング・ルームにある」
レオンさんは僕の手を力ずくで取り戻し、代わりに紙包みを突き出しています。
「やれやれ、この屋敷は邪魔者が多過ぎるよ。エメル、駆け落ちしよう。2人っきりになれる無人島に行って、裸で暮らそう」
「は?」
僕がトーニオさんと駆け落ち? 何で? 裸で暮らす? 誰がっ!
目が吊り上がったらしい僕の顔を見て、トーニオさんはクスクス笑いながら紙包みを開け、手に取ってぱらぱらとめくりました。
「なになに、『禁欲のすゝめ』? こんな下品な本、よく見つけたな」
「おまえにぴったりだろう。早寝早起き、バランスのいい食事、欲を張らず満足と感謝を知る。長生きの秘訣がとくとくと書いてある。健康に気をつけて長生きしろよ、トーニオ」
レオンさんの言葉にトーニオさんは黙り込み、唇を固く閉じたまま横目でレオンさんを見やります。
「おまえって、やっぱりお父さんだな」
軽口を叩いているけど、僕の目にトーニオさんは嬉しそうに見えました。レオンさんは健康的な生活をしているとは言えないトーニオさんを気遣いつつ、長い一生をかけて仲良くしようと言いたいに違いない。そしてトーニオさんは、レオンさんからのメッセージをきちんと受け取ったんです。
「あの、僕からの贈り物です」
僕は、おずおずと紙包みを差し出しました。中に入っているのは、アスコット・タイです。黒みがかった蒼色が大人っぽくて素敵だと思ったけど、トーニオさんに気に入って貰えるかどうか……。
「センスいいね、エメルちゃん。いい色だ」
褒められ、満面の笑顔で胸を撫で下ろす僕。トーニオさんは綺麗な青い目を煌めかせて僕をレオンさんから奪い取り、さらさらの金髪を僕の頬にはらりと落とし、耳元で囁くんです。
「タイより君が欲しい」
「おい、やめろよ」
レオンさんは怒った声で僕を引き戻し、トーニオさんが何か言い返そうとした時、ホールの奥からパパとディリアお母様が現れました。
パパは黒の正装で、お母様は鮮やかな真紅のオーガンジーのドレス。素敵ですと言おうとしたけれど、2人の様子がおかしくて、僕は口を閉じました。パパは今にも気を失いそうなお母様の肩を抱き寄せ、もう片方の手で紙をひらひらと振っています。
「大変なことになった。こんな事になってすまない、エメル」
パパの顔があまりに悲壮で深刻で、僕は縮み上がりました。すまないって……パパ、何をやったの。パパが王宮兵士だった頃、数多くの女性たちと浮名を流したことは僕も知っています。
きっと、その中のとんでもない事がバレたんだ。大問題になってるんだ。もしかしてリーデンベルク家を出て行かなければならないの? 僕は、泣きそうになりました。
「さっき国王陛下からの使者が来て、書状が届けられた。……エメルの結婚が決まった」
国王陛下からの使者――? 結婚――?! 目をぱちくりさせる僕の前で、パパはトライゼン国の獅子の紋章が入った書面を読み上げました。
「エメル・フォン・リーデンベルク嬢と、オスカー・セバスチャン・フォン・ボーデヴィッヒ侯爵の結婚をここに命じる。……命じるとは何だ。私の娘の結婚を、何で他人に命じられなきゃならんのだ」
「あなた。命じたのは、国王陛下よ」
「分かってる」
パパは怒って髪をかきむしり、僕は茫然としていました。オスカー・ボーデヴィッヒ……? って誰? 聞いたこともない名前です。
レオンさんとトーニオさんが目配せし合っているように見えたのは、気のせいでしょうか。
トーニオさんのお誕生会は、暗く陰鬱なものになってしまいました。トーニオさんが主賓席に座り、パパの隣にディリアお母様、僕の隣にはレオンさんが座っています。
暖炉の火が赤々と燃えるダイニングルームは暖かく、次々と運ばれる料理は豪華だけど、すっかり食欲を失くした僕は溜め息をつくばかり。
「王家が結婚を命じた例は、過去にもあるわ。敵国にトライゼン貴族の娘を嫁がせるとか、王家に批判的な有力貴族に王家の娘を嫁がせて懐柔するとか。国益上必要な場合に限られる、いわゆる政略結婚だけれど」
お母様が沈痛な面持ちで言い、パパは目を剥きました。
「エメルの結婚が何で国益になるんだ。第一、ボーデヴィッヒとは何者だ?」
「ゲオルグ一世陛下の副官を先祖に持つ家柄よ。先代は貴族議会議員だったけれど、ずい分前に亡くなられて、ご子息がフィア在学中に爵位を継がれたはず。確か、トーニオやレオンより5つ6つ年上だったと思うの」
「そいつが若き侯爵か。何でエメルなんだ。どう思う?」
パパはレオンさんとトーニオさんに向かって尋ね、それまで無言だったレオンさんが重い口を開きました。
「わかりませんね」
トーニオさんは、何事かを考え込むように指でテーブルを叩いています。どんよりした重い空気と沈黙が降り、パパとお母様は困った顔を見合わせ、僕は涙に曇る目をぱちぱちさせていました。王家の命令は絶対で、国王陛下に結婚しろと言われたらしないといけないんです。
顔も知らない人と結婚するんだと思うと、目の奥から涙が吹き出しそうです。どうしてこんな事になったんだろう。侯爵様ならお相手は選り取り見取りのはずなのに、どうして僕なの? レオンさんが僕をちらっと見て、言いました。
「王家の命令といえども、結婚には法的にリーデンベルク家の同意が必要です。冬の間は、王家も同意を急かすようなことはしないと思いますが」
「冬と言えば……父上は、バウムガルトで問題が起きたと仰ってましたね」
トーニオさんが言い、パパの顔に怪訝そうな表情が浮かびます。
「バウムガルトで問題……?」
「リーデンベルク家の領地の中で最も南にありますから、まだ雪は積もっていないでしょうが、いったん積もればお帰りは春になってしまうでしょう」
「なるほど。何ごとも『春になれば』だな」
パパの顔がぱっと明るくなり、お母様の青ざめた顔に笑みがこぼれました。
『春になれば』というのはトライゼン人がよく口にする言葉で、雪に閉ざされるこの国では、冬に何かをしようとしても立ち行かないことが多いんです。
今では街道を除雪する専門の職人さんがいるけど、昔は冬になると雪と氷で行き来できなくなり、巡回裁判所が来ないから裁判は『春になれば』、物資が届かないから結婚式も『春になれば』、そんな事を続けているうちに何でも春まで先延ばしにする習慣が出来てしまったんです。
今でもクラレストの住民は冬場の食糧を地下に備蓄し、学校は11月末から2月末まで冬休み、お店も役所も天候次第で突然休業になったりして、冬の間は誰も何も期待しない風習が根づいています。
「領地に一大事が発生し、急きょ向かわなければならなくなった。明日出発する。春まで戻って来れないと予測されるので、結婚についての当家の承諾は、春まで待ってほしいと王宮に伝えましょう」
「名案だ、ディリア。というより、それしかない。後のことは男爵とクレヴィング卿に頼んでもいいかな」
「喜んで」「もちろん」
パパの言葉にレオンさんとトーニオさんはうなずき、パパは笑顔を僕に向けました。
「そういうことだ、エメル。春まで結婚の事は忘れろ」
ええっ!! 忘れられるわけないのに。知らない人との結婚話なんて、今すぐ無かったことにしてほしいのに。春まで待てなんてあんまりです。
「パパ。僕、知らない人と結婚するのは嫌です……」
涙まじりに訴えると、パパは大きくうなずきました。
「当たり前だ。『春になれば』では問題解決にならんが、時間稼ぎにはなるだろう。その間に情報を集め、対策を練るんだ。パパだって、この結婚に反対だからな。侯爵だろうが誰だろうが、おまえを嫁にはやらん」
誰だろうが嫁にはやらん――――という部分は困るけど、パパの言葉は嬉しい。
「お帰りになるまでに、俺とレオンで情報を集め対応策を考えておきます」
トーニオさんが威厳ある口調で言い、僕は目を見張りました。悪い冗談ばかりを口にするトーニオさんに慣れているせいか、威厳あるトーニオさんには驚いてしまいます。
「そうするしかないわね。ごめんなさいね、エメルちゃん。大丈夫? 春まで耐えられる?」
「はい。大丈夫です。僕の方こそごめんなさい。冬場に領地に行ってもらう事になってしまって……。どうかご無事で戻って来てください」
僕のことよりも、馬車で雪道を走らなければならなくなったパパとお母様が心配です。お母様はにっこり笑い、悪戯っ子のような顔でウィンクしました。
「わたし達はバウムガルトに行こうとして馬車で半日走り、雪と氷のためにレイホルムで足止めされるの。仕方なく春までレイホルムで過ごすことになるのよ。ね、あなた」
「レイホルムか。大型バスタブのある、過ごしやすい屋敷だ。雪と氷のために部屋から出られなかったことにしよう」
え……何だか話が違う方向に進んでいるような。幸せそうに見つめ合うパパとお母様の間には、お花畑が広がり蝶々が飛んでいます。
お母様は嬉しそうにフォークを取り上げ、パパは精をつけなければとばかりに魚のマリネと野菜の乗ったカナッペをせっせと口に運び始め、こうして僕は中途半端なもやもやした気分を春まで持ち越すことになりました。
牛肉のパイ包みもデザートのマロン・ケーキも味がしなくて、しょんぼりする僕に向けられたレオンさんの優しい目。レオンさんの手が僕の肩にそっと置かれ、すぐに離れて行きます。
レオンさんは「心配するな。何とかする」と言ってくれている――――。最初に冬場の話を始めたのはレオンさんだったし、きっといい考えがあるんだ。レオンさんなら、きっと助けてくれる。
そう思うと少し元気が出て、僕は濃厚なマロン・ケーキをほおばるのでした。