8 かがやく未来
レオンさんと一緒に同じ道を歩いて行きたいと願い、レオンさんを見るたびに胸が痛くなり苦しくなり、でも幸せでニマニマする僕。
その感情は突然現れたのではなく、ずっと以前から僕の中にあったのかもしれなくて、気づかないうちにどんどん茎を伸ばし葉を広げ、今では僕の心一面がお花畑です。
どうしよう――――。
だってそれが何なのか、僕にはさっぱり分からないんです。
一つ思い当たる名称があるけれど、僕からすればきらびやかな別世界の宝石のような名称で、僕みたいな地味な子にそんなキラキラしたものが訪れるとは思えなくて、何よりもレオンさんの言う『仲良しの友人』に相応しくない気がしたんです。
秋が駆け足で去り冬の気配が濃くなる頃、レオンさんは無事退院し、フィアの試験シーズンが始まりました。
トライゼンのギムナジウムでは12月初旬に卒業式があり、その前に10月下旬、大学入学資格試験が行われます。
レオンさんはクラレストにある王立医科大学を、トーニオさんはクラレスト大学法科を希望していますが、入学の可否は大学入学資格試験の点数で決まるんです。
同じ頃、進級試験に取り組む僕は、涙と汗をまき散らしていました。
点数次第では落第もあり、苦手なラテン語と数学を抱えた僕は涙目どころではなく、見かねたユリアスさんとリーザさんが勉強を見てくれて、何とか進級試験に合格することが出来たんです。
レオンさんとトーニオさんの大学合格が決まった11月、パパとレオンさんの間で不穏な空気が漂いました。
それまでは本当の親子のように仲が良かったのに、ある日突然レオンさんを見るパパの目つきが厳しくなったんです。
何があったのか――――。不安になり、ダイニングルームで一人昼食を食べていたトーニオさんに尋ねてみると、
「ああ、あれね」
トーニオさんは、意味ありげに僕を見ました。
「父上の宝をレオンが譲って欲しいと頼み、父上は頑として拒んだだけでなく、レオンを敵と見なすようになったって所かな」
「はあ……?」
わけが分かりません。長年貧乏だったパパが、宝なんて持ってたっけ?
仮に持っていたとして、レオンさんが欲しいと言うなら譲ってもいいと思うんです。パパにはディリアお母様という生きた宝があるんですから!
「ところで、エメルちゃん。そろそろ女の子に戻る気はない? 手伝うけど?」
トーニオさんは悩ましく頬杖をつき、青い目を煌めかせて僕を見つめ、僕の頭の中で警戒信号が鳴りました。
こういう悪魔のような表情をした時のトーニオさんほど危険な人はいません。
でもトーニオさんの言うことも、もっともなような。
モップを持って学校に行くことはなくなったけど、僕ときたら相変わらず自分を僕と呼び、男の子の服を着てるんだもの。
「……手伝う?」
すぐに逃げ出せる体勢を整え恐る恐る尋ねてみると、トーニオさんは立ち上がって僕のそばにやって来ました。
「嫌だなあ、そんなにビクビクしないで。俺ほど君のことを考えてる男はいないんだよ。夜な夜な君を想い、眠れぬ夜を過ごしてるんだよ」
「は……?」
夜な夜なトーニオさんは、何処かに出掛けてると思うんですけど。
「女性になるなんて簡単なことだよ。俺にまかせて。一晩で大人の女性にしてあげる」
「ひっ……」
トーニオさんに手を取られ、僕は椅子ごと後ずさりました。
「熱い官能と興奮が君の体型を変えるよ。あっと言う間に痩せっぽちを卒業できるから。騙されたと思って、俺にまかせてごらん」
「け、結構ですっ。ひいぃ――っ」
トーニオさんの手をぶるんぶるん振り回してようやく振りほどくと、トーニオさんはお腹を抱えて笑ったんです。
「あはははは」
「いい加減にしてくださいっ」
僕ははっきりくっきり、唇をわなわな震わせて言い切りました。僕だって、言うべき時には言うんです。トーニオさんには聞こえなかったみたいだけど……。
でもやっぱり、言うべきことは言うべきです。そんな思いを胸に、僕はパパと対峙したんです。
「苦労して生活費をやりくりしていた僕に内緒で、武具か女性に贈る宝石を買ったのかもしれないけど、この際それには目をつぶりますから、レオンさんに渡してあげてください!」
「何言っとるんだおまえ」
パパは呆れ顔で、僕をまじまじと見ました。
「パパの宝をレオンさんが欲しいと言ったんでしょ? トーニオさんから聞きました。パパには、ディリアお母様という宝があるじゃないですか」
「……おまえ、レオンが好きなのか?」
「えっ。……す、好きです……けど」
ただ好きというだけでもないような。
「そうか。……寂しいものだな。しかし、そう簡単には渡せんよ。レオンの人となりをじっくり見せて貰い、それからだ」
パパは僕の頭を撫でながら、厳しい表情を浮かべています。そんなに大事な宝って何?
僕に隠れて、へそくりを貯めてたとか? パパの宝と言ったら女性が思い浮かぶけど、まさか……。
僕は頭をがつんと殴られたかのように足もとをふらつかせ、パパを詰問しようとして思い留まりました。
浮気してるの――――? そんな質問をぶつけられ、隙を見せるようなパパじゃないことは僕が一番よく知っています。
浮気に関しては、百戦錬磨の強者なんですから、パパは。
下手に騒ぐと家庭騒動になるし、色々考えた末、ディリアお母様に少しだけ探りを入れてみることにしたんです。
「ダニエルの最近の様子? うふふ……」
お母様は寝室で髪を梳かしながら何やら思い出し笑いをし、僕に流し目をくれました。
「娘と女同士の話ができるなんて、嬉しいわ。そうね、ダニエルったら、激しいの」
「は?」
「毎晩求められて、身がもたないわ。どうしようかしら」
「……」
………………
……そんな話を振られても。
僕が聞きたいのはそういうのじゃなくて、パパの様子がおかしいとか気もそぞろになってるとか怪しい振る舞いがあるとかで、決して居心地が悪くなるようなノロケ話じゃないんです。
こんな恰好をしてるけど、僕、お嫁入り前の娘なんだけど。
早々にお母様の部屋から逃げ出して、ため息をつきました。仕方がない。しばらく様子を見るしかない。
僕が鋭い目つきでパパを観察し、やましいことでもあるのかパパがこそこそ隠れるようになった頃、1通の手紙が僕のもとに届けられました。
差し出し人は女性名だけど、僕の知らない名前です。中を見ると――――。
アップルケーキ、美味しかったよ。
最後にもう一度会いたい。
11月10日正午、北の船着き場で待つ。 フォルク
フォルクさん、無事だったんだ――――。手紙を読んで最初に感じたのは、安堵でした。
レオンさんとの試合以降フォルクさんは行方不明で、ビズローに消されたという噂を聞いていたんです。
試合中レオンさんに止めを刺せと大声を張り上げた平民の男がビズローで、殺人武器を投げ込ませたのも彼の仕業だとか。
2度もフォルクさんに無視され、面子を潰されたビズローが怒ってフォルクさんを殺したとか。
フォルクさんがビズローの指示を無視し正々堂々と闘ってくれたお蔭でレオンさんは無事でいられたとも言え、そういう意味ではフォルクさんは恩人です。
フォルクさんが無事で良かった。それに一緒に作ったアップルケーキ、食べてくれたんだ……。
『最後』という言葉が、僕の不安を煽ります。もう二度と会えないような状況に、フォルクさんは置かれているんでしょうか。
まさか……殺されようとしてる?
北の船着き場は、クラレストの周囲を流れる用水路を使って荷物を運ぶ小型船の発着場です。
用水路――――。カミーラさんが僕を沈めようとしたことを思い出し、さらに時々死体が浮くことを思い起こし、僕はますます不安になりました。
フォルクさんは、殺されようとしているんでしょうか。
でも正午の船着き場といったら人目も多いし――――頭のいいフォルクさんは僕に会う事を口実にして、脱出を試みようとしているんでしょうか。
レオンさんに相談しようとして、ふと思いました。これはもしかしてレオンさんをおびき出そうとする、ビズローの策略なんじゃないか……。
拳闘の試合でフォルクさんに大金を賭けていたビズローは、レオンさんのせいで大損したはずなんです。
その上、レオンさんがバウマンの裏帳簿を盗んだせいで賭博禁止法があっと言う間に制定され、賭博業界は立ちいかなくなってしまったんです。
レオンさんは恨まれてる。レオンさんを巻き込むわけにはいかない。
でもフォルクさんは危機に直面していて、僕に助けを求めているのかもしれない。
11月10日といえば、今日です。正午まで、あとわずか。どうしよう……。
ささやかな脳を駆使して考えに考え、まずは北の船着き場の状況を確かめてからだと、カムタンに乗って出かけることにしました。
もしもフォルクさんが危険な状況にあったら警察に駆け込もうと、警察部隊出張所の位置を確かめ、船着き場に着くと人夫たちが忙しそうに働いています。
水路脇の木にカムタンをつなぎ、倉庫の陰から用水路を見ていた僕は、背後から肩を叩かれ飛び上がってしまいました。
「ひっ」
「やあ、砂糖菓子ちゃん」
びくびくしながら振り替えると、フォルクさんがにやりと笑っています。
「隠れ方が下手だね。船着き場から丸見えだよ」
「えっと、あの……」
フォルクさんは大きな布を頭からすっぽり被り全身に巻きつけていて、まるで布でぐるぐる巻きにされてこれから用水路に投げ込まれるかのような格好で、僕は目を見開きました。
「こ、殺されそうなんですか? 僕、警察に知らせて来ます」
「……殺される?」
フォルクさんは声を出して笑い、僕のボワッと膨らんだ髪を愛しそうに撫でるんです。
「試合の後、しばらくベネルチアにいたんだ。商船会社を興すことになってね。金はビズローが出す。賭博が禁止されて、あいつも俺も新しい商売を始めなきゃならなくなったからさ。しばらくぶりに帰って来たら俺は死んだことになってて……心配してくれたのか?」
大きな手が僕の顎をとらえ、僕の体がびくりと跳ねます。
「俺が心配で来たのか? 俺に会いたくて来たんじゃなくて?」
「最後って手紙に書かれてたから、不安になったんです。助けを求めてるのかなって」
僕を見下ろすフォルクさんの顔に苦笑が浮かび手が僕の頬を包んで、僕の体は硬直し口だけを必死に動かしました。
「無事で良かったです。それじゃ、お元気で」
「一緒にベネルチアへ行かないか」
真剣な顔つきでフォルクさんは言い、僕はびっくりして目を丸め、フォルクさんは掃除や料理をしてくれるメイドを募集してるのかなと思いました。
「あの、えっと……フォルクさんには恩があると思ってます。フォルクさんが正々堂々と闘ってくれたお蔭で、レオンさんは無事でいられたし、でも感謝してるから一緒に行けるというわけでもなくて、僕には大切な家族がいますし」
「レオンの野郎が好きなのか?」
「えっ……」
どうしてそんな答えられない質問をするの? パパの前では『好きです』と言えたけど、フォルクさんの前で言えるわけないのに。
フォルクさんの顔から表情が無くなり僕から1歩離れ、冷たい視線を用水路に向けふいに視線を僕に戻し、フォルクさんらしい悪党らしい顔つきに変わっていきました。
「俺はいつか王都に帰って来る。その時また会おう。俺みたいな底辺にいる男は、諦めたら何も手に入れられねえ。だから俺は、決して諦めないことにしてる。いつかきっと砂糖菓子を手に入れる」
フォルクさんはそう言って微笑し、寂しい微笑に見えたけれどきっといつかこの人は、言葉通りに砂糖菓子のような女性に巡り合えるだろうと思いました。
でもそれは、僕じゃない。もっと素敵でもっとフォルクさんに相応しい、別の女性です。
フォルクさんは頭巾を目深に被り、つないであった馬に乗り、旅立って行きました。
ほうっと息を吐き出す僕の背後で深いため息が聞こえ、振り返ると――――。
「レオンさん?!」
驚愕したことにレオンさんが倉庫の壁にもたれ、腕組みをして僕を見ているんです。
フォルクさんと僕の話を聞いていたに違いなくて、立ち聞きしていたことを責めるべきか迎えに来てくれたことに感謝すべきか、僕は迷いました。
「慌てふためいた様子で馬で出かけるのを見かけて、おかしいと思い後をつけて来たんだ」
手早くネフィリムとカムタンの手綱をつなぎ、僕を抱いてネフィリムに乗せ、馬にまたがるレオンさんはどこか嬉しそうです。
すっかり慣れてしまったネフィリムのリズム。レオンさんの温もり。
「僕がフォルクさんと行くって言ったら、どうしてました?」
「おまえが俺や家族を置いて行くわけがない。信じていたよ」
レオンさんは落ち着いた様子で答え、ややあって気まずそうに髪をかき上げました。
「フォルクがおまえを口説くのを見ていると――――あいつを殴って用水路に放り込みたい衝動を抑えるのに苦労した」
乱暴な言い方に僕が笑い、見上げるとレオンさんの端整な顔は言葉とは裏腹に静かで真剣で、深く黒い瞳が真っ直ぐ僕に向けられて、レオンさんの唇が奇跡のような言葉を紡いだんです。
「――愛してる」
聞き間違いかと目をぱちくりさせる僕の前で、レオンさんの微笑が優しく穏やかに広がっていきます。
「愛してるよ、エメ」
「僕……わたし、貴方に恋してます」
恋――――余りにきらびやかで半信半疑だった言葉が、口をついて飛び出すととても自然に感じられ、僕の世界を宝石のような煌めきで包みました。
僕はレオンさんに恋してる――――。
そしてレオンさんが、僕を愛してると言ってくれた――――。
「でも、僕、半人前で。まだ自分を僕って言ってるし、男の子の恰好もやめられないし、敬語はもっとやめられないし、どうしていいのか……」
「待つさ。ゆっくり大人になればいいよ、エメ。俺は待つから」
レオンさんは優美に笑っていて、僕の胸に言葉にはならない歓びが湧き上がってきます。
奇跡が幾重にも重なり、信じられない思いで目を見張る僕の唇に、そっと降りてきたレオンさんの唇。
目を閉じ夢うつつに輝く未来を感じながら、僕はレオンさんと大人のキスをしました。
完
如何でしたでしょうか。
少しずつ花開いた恋ですが、続編では国王の結婚命令によって摘み取られそうになり、エメルは何とかしようと単身王宮に乗り込みます。
「アップルケーキに愛をこめて3 ~王宮の陰謀篇~」――――本作品の完結篇を、引き続きご愛読頂けましたら幸いです。(作者)