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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて2 ~ギムナジウム入学篇~
43/78

7  心をこめて貴方にキスを  Ⅳ

 コロシアムの天井から夥しい数のガラス細工のガス灯が吊り下げられ、リングと客席を仄青く照らしています。


 会場は満席で立ち見の人々もいて、熱い空気が濃厚に渦巻く中、拳闘士らしい5人の屈強な男がリングを囲むようにロープの外に立ちました。


 5人は興奮した観客がリングに雪崩れ込むことがないよう見張る役で、鋭い目で観客席を見渡しています。

 観客の声援はレオンさんが現れると一気に高まり、フォルクさんが出て来ると最高潮に達し、


「殺せ! 殺せ! 殺せ!」


 大合唱がコロシアムに響き渡り、僕は怖くなって目をつぶりました。

 レオンさん――――。


 自分を叱咤し奮い立たせて目を開くと、全身にオイルを塗ったレオンさんの体は照明に照らされてきらきら光り、ロープを背に静かに佇んでいます。


 フォルクさんは銅の席に座る平民の男たちに手を上げて声援に応えたり、軽く飛び跳ねたり首を回したり、驚いたことに金の席を見回して僕を見つけ手を振るんです。


 僕は口を引き結び、二度とフォルクさんと目を合わせるもんかと誓いました。

 レオンさん――――。勝っても負けてもいいから、無事にこの試合を切り抜けてほしい。そんな気持ちで、僕はレオンさんを見つめていたんです。


 銅鑼どらの音が鳴り響き、レオンさんとフォルクさんはロープから離れ、リング中央に寄りました。


 2人とも裸足で、身につけているのはブリーチだけ。間合いを詰めながら円形を描いてゆっくり回る様は、2匹の獣が相手の力量と勝機を推し量っているかのようです。


 レオンさんが先に拳を繰り出し、フォルクさんが軽くよけてレオンさんの腕をつかみ足に足を掛けて投げ飛ばそうとしたけれど、全身にオイルを塗っているせいでフォルクさんの手はすっぽ抜けてしまいました。


 フォルクさんが拳闘をするのはこれが初めてだそうで、もしかすると拳闘に慣れているレオンさんの方が分がいいかもしれない。


 レオンさんの強烈な拳が数発続けてフォルクさんの顔面と腹部に送り込まれ、蹴りが入ってフォルクさんが尻餅をつき、もしかすると簡単にケリがつくかもしれないと思ったけれど、そんな諸々の期待はすぐに砕け散ってしまったんです。


 フォルクさんはすぐに立ち上がり、レオンさんの手と足による立て続けの攻撃をかろうじてかわし、レオンさんの咽喉元に指を突き入れました。

 苦しそうに咳き込み、1歩後ずさるレオンさん。


 すかさずフォルクさんの拳がレオンさんのこめかみを直撃し、ふらついたレオンさんの鳩尾みぞおちに強烈な一撃が打ち込まれ、すぐさま三打目がレオンさんの顎を打ち上げて、レオンさんは後ろに吹っ飛んでしまった。


 平民席から割れんばかりの歓声が轟き、あまりの轟音に僕は耳を両手で塞ぎました。 

 レオンさんが頭を振りながら、意識が朦朧としている様子で立ち上がり、それでも正確にフォルクさんの顎を蹴り上げて、今度はフォルクさんが吹っ飛びました。


 フォルクさんはよろめきながら立ち上がり、レオンさんの素早い攻撃を見切ったとばかり俊敏にかわし、レオンさんもフォルクさんの鋭いパンチをかわしながら手足を繰り出します。

 

 フォルクさんがレオンさんの足を蹴りつけ、足を滑らせて腰を落としたレオンさんの鳩尾に、まるでレオンさんのお腹と地面を串刺しにするかのように、強烈なかかとの一撃を落したんです。


 レオンさんの口から血が勢いよく吐き出され、僕は自分の口を両手で覆い、必死になって叫び声を抑えました。

 レオンさんはもんどり打って苦しみ、


「何てことだ……」


 僕の隣に座るトーニオさんの顔は、血の気を失っています。


「殺せ! 殺せ! 殺せ!」


 大合唱は耳を覆うばかりで、平民席から黒い何かが弧を描き、リングに投げ込まれました。


「……ナックルダスターだ」


 トーニオさんが呟き、僕は地面に落ちた黒い金属に目をやりました。輪が4つ並んでいるのは指を入れるためで、輪には鋭い刃が付いていて、何の為の道具なのか僕にだって分かります。


 あんな物で殴られたら、レオンさんは……。でもこんなの反則なんじゃ……。


 リングで何が起きても処罰されないと、パパは言っていました。例え対戦相手が死に至ろうとも、処罰された例はないと。


 死ぬ覚悟がなければリングには立たないと思われてるんです。死の危険があるから高報酬なんだと。レオンさんは、報酬目当てじゃないのに。


 僕は思わず立ち上がり、黒い殺人武器を拾い上げたフォルクさんを罵ろうと息を吸い、フォルクさんが平民席に武器を投げ返したから息を止めました。


「余計なことをするなっ!!」


 フォルクさんは観客を怒鳴りつけ、血まみれの口元を拭いながら立ち上がろうとするレオンさんを、冷たく見下ろしたんです。

 ぐったり座った僕に、トーニオさんの非情な声が突き刺さります。


「フォルクは俺の知ってる限り、人を一人殺してる」

「えっ……」

「第二高等学校のリーダーだった奴を、殴り殺した。その後フォルクは喧嘩を避けるようになったらしいが、他にも何人か殺したという噂もある」

「そんな……」

 

 人殺し……。そんな人を相手にレオンさんは闘ってるの? 僕の心臓が嫌な音を立てて不規則に鳴り、咽喉が乾き、息苦しくてたまりません。

 引きつった呼吸をし、涙で滲む目をこすり、僕は祈りを込めてレオンさんを見つめたんです。


 端整な顔を苦痛に歪め、お腹を押さえてレオンさんは立ち上がり、鋭い目でフォルクさんを射抜きました。


 レオンさんの顔つきが変わってる。殺気立ったレオンさんの空気は怖いほどで、冷徹な意志が僕の席まで伝わって来ます。


 その後に続く2人の殴り合いは凄惨で目を覆うばかりで、僕は最後まで見なきゃ、レオンさんが闘ってるのに逃げるわけにはいかないと自分に言い聞かせながらも、知らないうちに涙を流していました。


 どうしてこうまでして闘うの? 何のために? 他に方法はないの?


 聡明なレオンさんが何故こんな方法を選んだのか僕には想像もつかなくて、ただ涙を何度も拭い懸命にリングを見つめるばかりでした。


 レオンさんもフォルクさんも顔が紫色に腫れ上がり全身に赤黒い痣ができて、いつ終わるとも知れない闘いを続け、とうとうレオンさんが血を吐いて倒れ伏してしまったんです。


 動かなくなったら、レオンさんの負けです。闘う意志を失ったと観客の大半が判断したら、気を失ったら、有り得ないことだけどレオンさんが降参すると言ったら、試合終了です。


 僕は、負けてもいいと思いました。レオンさんさえ無事なら、生きていてくれるなら、この試合に負けてもいい。


「終了だ!」


 平民席から声が飛び、


「馬鹿言うな。よく見ろ」


 貴族たちが言い返します。


 体をぴくぴく引きつらせながら、痛みと苦しみに全身が悲鳴を上げているはずなのに、レオンさんはよろよろと立ち上がりました。

 レオンさんは――――負けるつもりはないんだ。諦めずに闘い、勝つつもりなんだ。


 レオンさんの目にはもうフォルクさんも観客も見えていないんじゃないかと、僕は思いました。

 レオンさんが闘っているのは、自分自身。負けてもいいから無事に終わらせようとか楽な道を選ぼうとか、そんな弱い自分が敵で、僕はレオンさんの敵になってしまってる。


 レオンさんと一緒に闘うって約束したのに、僕はレオンさんが無事なら負けてもいいなんて考えてる――――。

 両手を握り締め、レオンさんの勝利を一心に祈りました。レオンさんの力になりたいけど、できる事といったら祈ることしかない。


 祈りの力がレオンさんを助けますようにと願いながら、闘うレオンさんを見つめつつ、夢中で祈り続けたんです。

 レオンさん、勝って――――。ここまで来たんだから、絶対に勝って――――。

 

 傷ついたレオンさんに俊敏なフォルクさんは捕え難く、フォルクさんの方はレオンさんの弱った攻撃を難なくかわし、レオンさんをじわじわと痛めつけて行きます。


 再び鳩尾に拳を受けたレオンさんがもんどり打って倒れ、地面を転がってのたうち回り、僕は拳で口元を押えぽろぽろ涙をこぼしながら、心の中で叫びました。

 

 レオンさん――――! レオンさん――――!


「終了だ!」「まだだ!」


 声が飛び交い、後ろの席から観客がリングに押し寄せて、


「エメル、一緒に来い」


 トーニオさんが立ち上がり、僕の手を引きました。リングの周囲に詰めかける観客を押しのけて前に進み、トーニオさんは僕の耳元で言ったんです。


「レオンを勝たせろ。君ならできる」


 どうやって……という疑問を挟む余地もなく、押し寄せる観客たちを押し返すトーニオさんを残し、僕は夢中でリングに向かいました。

 

 最前列に出た僕の前でリングは僕の膝ほどの高さに盛り土され、リングの中央にはうつ伏せになって横たわるレオンさんがいます。


「レオンさん、立って! レオンさん! ――――レオンさん!」


 声を限りに叫び、ぴくりと動いたレオンさんの肩。


「動いてるぞ! まだ終了ではない!」


 貴族らしい観客が言い、平民らしい男の一人が声を張り上げました。


「フォルク! くたばり損ないの貴族野郎に止めを刺せ!」


 とどめとどめと連呼されても、フォルクさんは立って腕を組んだまま、微動だにしません。

 レオンさんは血まみれだけど、フォルクさんだって無傷じゃない――――。僕は、ちらっとフォルクさんを見上げました。

 顔は紫と土気色のまだら模様で、瞼は腫れ上がり、額から血がぽたぽた滴り落ちています。


「レオンさん、立って! レオンさん! ――――レオンさん!」


 涙まじりの僕の声が届いたのかどうか。レオンさんの頭がゆっくりと動き、僕に向けられたんです。黒い瞳に光はなく、僕が見えているかどうかも分からない。


「レオンさん、負けないで。負けないで!」


 レオンさんの腕が動いて上体を支え、足が動いて立ち上がろうとし、そんなレオンさんをフォルクさんが見下ろしています。

 フォルクさんは、レオンさんが立ち上がるまで手を出さないつもりなんだ……。

 

 とうとうレオンさんが立ち上がり、闘いが再開され、でもそれは壮絶な地獄の始まりでした。

 フォルクさんの拳は情け容赦なくレオンさんの顔面と腹部を強打し、レオンさんはまるで砂袋のように打たれ、フォルクさんが止めを刺そうと大きく腕を振り上げた時、それは起きたんです。


 突然2人の動きが止まり、時間までが止まってしまったかのように見えました。

 レオンさんの狙いすましたような一撃がフォルクさんのお腹を深く深くえぐり、フォルクさんは目を見開いて、口から血を吹き出したんです。


 よろめくレオンさんの肩を掴もうとして掴めず、フォルクさんはお腹をかばうように崩れ落ち、仰向けに倒れて動かなくなりました。


 コロシアムはしーんと静まり観客たちは固唾を呑み、レオンさんは荒い呼吸に肩を上下させ、フォルクさんを見つめています。


 フォルクさんが動く気配はなく、とうとうロープを守っていた拳闘士2人がリングに上がり、フォルクさんの呼吸がある事と意識がない事を確かめ、高らかに宣言したんです。


「勝者、レオン!!」


 大歓声がコロシアムを包み、両手で涙をごしごし拭う僕を突き飛ばして、観客たちがリングに雪崩れ込みます。


 レオンさんは押し寄せる観客をかき分け、足を引きずりながら僕に歩み寄ろうとして、僕はロープをくぐりレオンさんに駆け寄りました。


「レオンさん!」


 レオンさんの体は血とオイルにまみれていたけれど、僕はそんな些細な事には構わず、両手を回してレオンさんを抱きしめたんです。

 レオンさんはふらつきながら僕を抱き返してくれ、僕の耳に届いた声。


「ありがとう、エメル……」


 レオンさんの端整な顔は見る陰もなく腫れ上がり、唇は切れて血がこびり付いていて、苦しいはずなのに微笑を浮かべようとして、目が優しく瞬いていて――――。


 僕はこの時、一生レオンさんと一緒にいたいと思いました。レオンさんのそばにいて、永遠の時を一緒に歩いて行きたい。


 人々のどよめきが聞こえ、見ると仰向けに横たわったフォルクさんが起き上がろうとしています。

 レオンさんが僕から離れ、フォルクさんに歩み寄り手を差しのべたけれど、フォルクさんは払いのけました。


 誰の手も借りずフォルクさんは独りで立ち上がり、何かを伝える大柄な拳闘士の言葉を聞き、レオンさんと僕をちらっと見て引き揚げて行ったんです。


 決して卑怯な手段を使わなかったフォルクさんは、誇り高い人です。

 よろめきながら一人去って行くフォルクさんの背中を見ながら、悪い人ではないかもしれないと思いました。……悪党ではあるんだけれど。


 レオンさんは片手で僕を抱き寄せ、片手で観客に手を振りながらぐるりと回り、身振りで人々に謝意を伝えています。

 改めて湧き起こる大歓声の中で、僕は誇らしい気持ちになりました。


 僕もレオンさんと一緒に観客の皆さんにご挨拶しなきゃと思ったけれど、僕の目はレオンさんに釘づけで、レオンさんを見上げる僕の心は感動と誇らしさと、心の奥底から湧き上がる何とも言えない感情ではち切れそうになっていました。


 何だろう、この気持ち。

 腫れ上がったレオンさんの顔も傷だらけの体も僕にはたとえようもなく美しく思え、ぼろぼろになってしまった姿だからこそ奥にあるレオンさんの魂が光り輝いて見え、そんなレオンさんを見上げる僕の心は特別な何かに満たされています。


 かつて一度も感じたことのない、熱くて歓びに満ちていて苦しいほど胸が一杯になるこの感情。


 戸惑う僕の前でレオンさんの体がぐらりと揺れ、僕は自分の気持ちどころじゃなくなり、必死にレオンさんを支えました。


 レオンさんは病院に運び込まれ、ほっとしたことに命に別状はなく、2週間入院することになったんです。






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