7 心をこめて貴方にキスを Ⅲ
いつまでもレオンさんに寄り添っていたかったけど、「戻ろう」とレオンさんが立ち上がったから、夢のような2人の時間は終わってしまったんです。
「俺、男だから」
レオンさんが言い、僕はびっくりして
「はい。女の子には見えません」
と答えました。だってレオンさんは本当に全然女の子に見えないし、改めて言うまでもないのに。
レオンさんが僕を抱いていてくれる時間は、回を追うごとに短くなっている気がします。
片手で僕の頭を自分の肩に乗せてくれるだけで、両手で力一杯抱きしめてくれる事は、馬車でのひと時以来一度もありません。
レオンさんに抱き寄せて貰えると嬉しいけど、片手では物足りないと思ってしまう僕は、変です。
レオンさんに優しくして貰えるだけで充分なはずなのに、両手で力一杯がいいな、なんて望んでしまう。
レオンさんの腕の中は暖かくて安心できて、おかしな言い方だけど僕の寝床のような場所です。
これが他の人だったら逃げ出してしまうのに、レオンさんなら逃げるどころか猫のように咽喉を鳴らしてしまう僕は、やっぱり変です。
トーニオさんが、何か言ってたっけ。悪さをする片手――?
悪さと言えばトーニオさんの専門分野でレオンさんには全く当てはまらない言葉だし、これはやっぱり僕を両手で抱きしめた時の感触が余りにひどくて――――僕の骨がぐりぐりレオンさんに食い込んだとか、硬くて骨ばっていて抱き枕として役に立たなかったとか、二度と御免だと思わせてしまったに違いない。
あれから僕だって少しはふくよかになったし、以前とは違うんだけどな……。
そんな恥ずかしいことを口にできるわけもなく、レオンさんに「朝食にしよう」と言われ、ただ「はい」と答えるばかりでした。
翌日も翌々日もレオンさんは普段と変わりなく学校に行き冗談を言って笑い、緊張したり感情的になっている様子はありませんでした。
どんな時でも平常心でいられるレオンさんは、本当に強い人です。
僕だったら落ち着きなく歩き回ったり、怖くて泣いたり、もしかすると逃げ出すかもしれない。
僕の心に巣食う黒い影は日に日に強くなり、僕は躍起になって蓋をして、レオンさんの為に何か出来ないかと考える事で気をまぎらせていたんです。
試合当日の朝、コックのハンスさんが風邪気味だというので喜んで朝食係を買って出て、レオンさんの好きなスコーンを焼きました。
生地を丸めて鉄板の上で手のひらで押え、この間は10個食べてくれたから20個焼こうかな、この次は30個かなと考えているうちに涙が溢れてきます。
この次は、あるんでしょうか。レオンさんは無事に試合を終えることが出来るんでしょうか。僕の心の影は抑えようもなく膨れ上がり、嫌な想像ばかりを後から後から繰り出します。
最悪の事態を想像してしまい、僕はその場にしゃがみ込んでしまいました。涙が頬をつたい、止まりません。
レオンさんがいなくなったら――――もしもレオンさんが死んでしまったら――――僕は僕でなくなる。
いつの間にか心の中心にレオンさんがいて、レオンさんがいなくなったら、僕の心はぽっかり空いた暗い穴だけになってしまう。
レオンさんが僕の為にしてくれたあれこれを思い出し、僕は感動してばかりで恩返しもしてなくて、何よりも僕がレオンさんを大切に思っていることを伝えてないんです。
もっとレオンさんのことが知りたい。僕にはレオンさんに伝えたい大切なことがある。
でもその大切なことが何なのか。
心の中でもやもやするばかりで形にならなくて、僕は立ち上がり、言葉の代わりに心を込めてスコーンを焼きました。
急いで玉葱を刻んでオムレツを作り、目が赤いと言われたら玉葱のせいにしようと思ったけど、食卓ではレオンさんもトーニオさんも何も言いませんでした。
明日も登校前に3人で朝食を食べられたらいいなと思いながら、馬鹿な僕はレオンさんのいない食卓を想像してしまい、レオンさんの前だというのに泣き出してしまったんです。
「2度と、こんな思い、したくないです……」
僕が泣きながら言うと、レオンさんは神妙な顔つきで僕を見つめ、絞り出すように発した言葉は「ああ」だけでした。
放課後、僕は何処にも寄らず真っ直ぐ家に帰りました。
お母様の計らいでレオンさんとトーニオさんの小さい頃の衣裳をごっそり貰っていた僕が、今夜の為に選んだのはレオンさんの黒のジャケットです。レオンさんの瞳と同じ色。今夜はこれを着て行こうと決め、指にレオンさんが買ってくれた銀の指輪をはめて、また涙ぐんでしまった……。
トーニオさんと一緒にレオンさんの応援に行くことになっているけれど、レオンさんの闘いを直視できるでしょうか。
前回は簡単にケリがついてしまったから良かったけど、今回は……。
レオンさんが血まみれになったら……大怪我をしたら……最悪の事態が起きてしまったら……。
想像すると足が震え、目の前で悲劇が起きたかのように両手で顔を覆ってしまい、これではいけないと思いました。
僕は泣くことで、レオンさんの足を引っ張ってる。僕がレオンさんを元気づけなきゃいけないのに、反対にレオンさんが僕を気遣ってくれてる。心優しいレオンさんは僕を心配して、試合に集中できないかもしれない。
しっかりしろと姿見に映る自分に喝を入れ、大きく深呼吸して階下に降りました。
パパとお母様がレオンさんをお見送りしている最中で、お母様は無理をして微笑んでいる様子で、僕は一生懸命笑顔を見せたんです。
「レオンさん。僕、大声で応援しますから。恥ずかしがらないでくださいね。声がかれるまで応援しますからね」
「ああ。頼む」
レオンさんはにっこりして、一人ネフィリムに乗り、拳闘倶楽部に出掛けて行きました。
パパとお母様は屋敷に残り、トーニオさんと僕が出発したのは日が暮れてからでした。
国立拳闘倶楽部の入り口は貴族用と平民用とに分かれていて、平民用の扉の前には当日チケットを買い求める黒山の人だかりが出来ています。
貴族用の豪華な門をくぐろうとした時、列を作った平民の男たちから歓声が上がり振り返ると、フォルクさんがいたんです。
ジプシーのような浅黒い肌と細面の綺麗な顔立ちは記憶の通りで、羽振りが良くなったのかお洒落なスーツを着て、僕に目を留め歩み寄って来ます。
目を細めて思いっきり睨みつけてやったのに、フォルクさんは可笑しそうに吹き出して、笑いながら僕を見るんです。
「やあ、砂糖菓子ちゃん。また会えて嬉しいよ」
「僕は、全然嬉しくないです」
「辛辣な言葉と声が、懐かしい」
フォルクさんは僕の顔を覗き込み、思わず硬直した僕を見て微笑しました。
「唇も。次は、君の方からキスしてくれ」
真っ白になって停止した僕の脳。キス――――失くしてしまった、僕の大切なファースト・キス。今の今まで忘れてたのに。ひどい――。
「行こう。こんな奴を相手にすることはない」
僕の腕をトーニオさんがつかみ、トーニオさんに引きずられるようにしてアーチ型の門をくぐった所で
「あいつにキスされたのか?」
と小声で聞かれました。僕は泣きそうになってうつむき、トーニオさんはそれ以上何も聞きませんでした。
ロビーを抜け、重厚なオーク材で覆われた酒場のテーブル席にトーニオさんと向かい合って座りお茶を飲んでいると、遠くから聞こえて来る歓声。
コロシアムでは前座試合が行われているようで、トーニオさんは僕を気遣ってレオンさんの試合が始まるまでここにいようと言ってくれたけど、選手を煽る観客の声や心無い罵声に耳を塞ぎたくなります。
僕の周囲では身なりのいい紳士達が談笑していて、賭博禁止法が制定されそうだとか、バウマンの収監が長引きそうだとか話しています。
バウマンの右腕とも言うべき№2が殺され、№3――名前はビズローだそうです――がバウマンの店を切り盛りしているとか。
フォルクはまだ若いのに、ビズローの側近にのし上がったとか。
ビズローはバウマンの側近たちを粛清していて、旧バウマン派と血で血を洗う争いをしているとか。
怖ろしい世界です。これがフォルクさんの言う、ロータスの根っこなんでしょうか。そんな所で花が咲いたって、綺麗とは思えないんだけど。
前座試合が終わり観客の歓声が静まった頃、僕とトーニオさんはガス灯に煌々と照らされたすり鉢型のコロシアムに入り、金の席に座りました。
中央のリングで、数人の男たちがローラーのような道具を使って地面をならしています。
赤黒くなった地面――――血が沁みこんでる。僕は顔をそむけ、苦しくなった呼吸を整えました。
すり鉢型のコロシアムの最上部にある銅色の席で、労働者風の男たちが「レオンを殺せ! 貴族野郎を殺せ! フォルクは俺達の英雄だ!」と声を合わせて叫び、華やかなドレスに身を包んだ娼婦らしい女性たちが振り返って笑っています。
レオンさんは元は平民で、同じ平民を大切にする人なのに。レオンさんのことを何も知らない人が、日頃の憂さ晴らしをしようとしてる。
貴族の紳士達は表情を変えずに労働者達の声を無視しているけれど、心の中ではレオンさんが貴族の威信を見せつけてくれる事を期待してるんです。
信義とか信念とかフィアの名誉とか、レオンさんが大切にしていてその為に闘う諸々のものが、ここでは顧みられることなく地に落ちています。
これが、レオンさんの望んだ闘いなんでしょうか。レオンさんの気持ちとはかけ離れた場所でチケットは売り切れ、これでは闘いでなく見世物です。
「命を賭ける価値があるんでしょうか……」
僕が呟くと、トーニオさんはリングを見つめながら静かに答えました。
「闘い方による。絵や彫刻で表現するように、闘い方で表現できるものがあるんだよ」
「レオンさんは、今どこに?」
「多分、控室だ。試合前、あいつは独りになりたがる」
「控室って、どんな所ですか?」
トーニオさんは僕に顔を向け、そこに笑みはありませんでした。
「この建物は古くてね。コロシアムは何度か補修されたけど、控室は昔のままだ。黒ずんだ木の壁と床。ベッドと机と椅子とランプが1つずつ。大の男が4、5人も入れば一杯になるような、暗くて狭い部屋だよ。試合前の精神統一にはいいらしいけどね」
暗い部屋で精神統一――――想像も出来ません。
僕の目に浮かぶのは、床にうずくまるレオンさんの孤独な姿です。リングに立てば一人だけど……でも独りじゃない。
「レオンさんに会えませんか? ちょっと挨拶するだけです。僕たち来ました、応援してますって伝えるだけ。駄目ですか?」
「駄目じゃないけど……。まあ、いいか」
トーニオさんは少しだけ笑い、立ち上がりました。
ロビーを抜け、所々にガス灯が灯る暗い通路を歩きながら耳を澄ませると、前方から観客のざわめきが聞こえます。
「まっすぐ行くとリングに出る。控室は、こっちだよ」
通路を曲がると木の扉がずらりと並び、まるで牢屋みたいだと僕の足が止まってしまいました。
酔っ払って喧嘩をしたパパを迎えに行った時、マイセルンの牢屋はこんな風に独房が並んでいたっけ。
「手前から三つ目の部屋だ。俺はここにいるから、早く戻っておいで」
トーニオさんに言われ、再び歩き出した僕。振り返るとトーニオさんはリングにつながる通路に戻ったようで、姿が見えません。
三つ目の扉をノックしようとして手を止め、この期に及んで躊躇してしまいました。
僕は、レオンさんの精神統一の邪魔をしようとしてるんじゃないでしょうか。扉に耳を当てると静かで、物音がしません。
レオンさん、眠ってるのかな……。
ドアノブを握ると緩やかに回り、鍵は掛かっていないようです。もしも眠っていたら声を掛けずに帰ろうと思い、静かに扉を開きました。
室内は暗闇に閉ざされて、机の上にぽつんと置かれたランプの灯りが古びた木のベッドと黒ずんだ壁を照らしています。
壁際に立つ人影があり、その人は固く腕を組み額だけを壁に当て、肩が震えてる。レオンさん――――。
シャツを羽織り粗い麻でできたブリーチと呼ばれる膝丈の短ズボンを穿き、ランプのぼんやりとした光に照らし出されたレオンさんの肩が、微かに小刻みに震えています。
扉から顔だけを覗かせた僕を、レオンさんが振り返って見ました。薄暗い中でもはっきりと分かる、青ざめた顔。レオンさんの強張った顔に浮かぶのは恐怖の表情だと感じたけれど、でもまさか。
「どうした?」
静かな口調には抑揚がなく、いつものレオンさんらしからぬ弱々しい声で、僕は思い切って部屋に飛び込んだんです。
「僕、応援に来ました。あの……」
レオンさんは片方の口角を僅かに上げ、僕から目を逸らし、壁にもたれました。
「怖いんですか……?」
「見られたくなかったなあ、こんな姿」
両手で両頬をぱしっと叩き、深呼吸するレオンさん。
「試合前、怖くなかったことなんて一度もないよ」
そう言って大股で歩き、ベッドにどさりと座ったんです。前かがみになり、指を固く合わせて握り、レオンさんは下から僕を見上げました。
「……がっかりしたか?」
「いいえ。レオンさんがあんまり強いと、僕なんか近寄れなくなるもの。雲の上の人じゃないと分かって、ほっとしています」
怖くて当然です。何が起こるか分からなくて、レオンさんは17歳の若者に過ぎなくて、怖くないはずがない。人前で怖がっている素振りを見せなかっただけでも、レオンさんは尊敬に値する人です。
僕がにっこりすると、レオンさんは手を差し出しました。怪訝に思いながら手を伸ばすと、僕の手を握りそっと額に当てたんです。
「おまえの力を俺にくれ」
レオンさんの額はひんやりと冷たく、目を閉じた姿はまるで僕の手から力を汲み取っているかのようで、もしも僕に力があるなら全部まとめてレオンさんに贈るのにと思いました。
力だけじゃなく、心も。レオンさんが生きて怪我もなく帰って来てくれるなら、僕は何だってひとつ残らず差し出します。
そのことを口にしたかったけれど言葉が浮かばなくて、行動で示すしかないと思いました。
レオンさんの為になるなら、何もかもあげる。僕の中にある、すべてをあげる。そんな思いを込め、僕は空いた方の手をレオンさんの肩に置きました。
レオンさんの肩からシャツ越しに伝わって来る冷たさ。僕のささやかな温もりも、貴方にあげる。レオンさんが瞼を開き、僕を見ています。
僕は震えながら、レオンさんに顔を近づけました。
誰かに心をこめてキスをしようと思ったのは、生まれて初めてです。自分の意志で、心から望んで贈る初めてのキス。
驚愕に目を見開くレオンさんの唇に僕の震える唇が触れ、僕は恥ずかしさに耳まで熱くして体を起こし、素早くレオンさんから離れました。
「ご、ごめんなさい。力だけじゃなくて、心を貴方に贈ろうと思って。僕の心なんか、試合の役には立たないんだけど。でも、僕、レオンさんが好きだから……」
言ってしまいました。レオンさんが僕を好きだと言ってくれた時は天にも昇る心地だったけど、逆の場合はどうなんでしょうか。
もしも迷惑だったらどうしようとビクビクする僕の前で、レオンさんの顔がぱっと明るくなり、両腕が伸びて来て僕を抱きすくめたんです。
僕はレオンさんの膝の上に座り、幸せそうに見えるレオンさんの綺麗な顔を見上げました。
レオンさんの唇が降りてきて、僕の唇をたどるように何度も触れたり離れたりして、そうしてレオンさんは僕を両手で力一杯抱きしめてくれたんです。
僕の心臓が胸から飛び出しそうな勢いで動き、僕の体温がレオンさんの冷えた体を温めてあげられたらいいなと願いつつ、両腕をレオンさんの背中に回しました。
「必ず戻るよ、エメル。俺には戻る場所があるんだから、必ずおまえの元に戻る」
レオンさんが囁いて僕は何度もうなずき、幸福感が恐怖や不安を凌駕しそうになった時、聞こえて来たノックの音。
「レオン。オイル係が来てる。開けるよ」
トーニオさんの声が聞こえ、僕が慌てて立ち上がってレオンさんから離れると同時に扉が開き、オイル壺と布きれを持った男が一人入って来ました。拳闘の闘士たちは、体にオイルを塗って試合に臨むんです。
「僕は客席にいるけど、レオンさんと一緒に闘いますからねっ」
と拳を握る僕にレオンさんは笑いながら「おう」と応えてくれ、戸口にもたれて微笑するトーニオさんと連れ立って、僕は部屋を出ました。
これが、僕のファースト・キスです。
フォルクさんとのあれは、事故だった。間違って顔を柱にぶつけたとか、枯れ葉が落ちて来て唇に当たってしまったとか、それと似たような事が起きただけ。
僕が心から望み、自分の意志で成し遂げた偉業こそが、本物のファースト・キスなんです。――――レオンさんと。
僕の顔は自分でも分かるくらいに緩み、ふくふくと幸せな笑みがこぼれ出し、きっと試合も無事に終わると根拠の無い予測で安心しきっていました。