7 心をこめて貴方にキスを Ⅱ
「これを着て」
トーニオさんがビロードの上着を脱いで僕の肩に掛け、汗が付いてシミになってしまうんじゃないかと気が気じゃない僕の腕を、そっと押さえたんです。
「君の白くて綺麗な肌を、他の男に見せたくないんだよ。つい魔が差して、言い寄る奴が現れないとも限らない」
「それは、おまえだろう」
レオンさんが、僕の腕に添えられたトーニオさんの手を横目で睨みながら低い声で言い、トーニオさんは吹き出しました。
「自分の胸に聞いてみた方がいいぞ」
「花嫁を探してる人達のことを言ってるなら、何処かに行ってしまいましたよ。お母様は僕の結婚相手を探してらっしゃるみたいだけど、僕はフィアを卒業することの方が先だと思うんです」
「まだ時間はあるってことだな。俺の為の時間が」
「おまえの為じゃない」
「トーニオ! レオン! エメル!」
レオンさんの溜め息まじりの声に緊迫した別の声が重なり、振り返ると扉近くにユリアスさんが立っています。
「お母上が倒れられた」
慌てて室内に戻ると、舞踏室と隣のサロンの間に人垣ができていて、床に横たわるお母様をパパが抱き上げようとしています。
「お母様!」
駆け寄る僕にパパは厳しい表情で首を振り、
「貧血だ、心配いらん。トーニオ、後を頼む。エメルは今夜の主役だ、役目を果たせ。レオン、一緒に来てくれ」
ぐったりしたお母様を抱えてレオンさんを連れ、二段飛ばしで階段を駆け上がって行ったんです。
僕の後ろで招待客たちがひそひそ話をしていて、「拳闘」という言葉が洩れ聞こえ、僕ははっとしました。
「ご心配には及びません。どうか引き続きダンスをお楽しみください。音楽を!」
トーニオさんが声を上げると楽団の演奏が始まり、なごやかな舞踏会が再開されたけど、僕の気持ちは晴れません。
学校の合間に王宮女官の仕事を始めたリーザさんが、親しくしている貴婦人たちのグループから離れて傍にやって来て、僕の腕にそっと触れました。
「気を確かにね、エメル。貴女がふさいでいたら、せっかくの舞踏会が台無しになってしまうわ」
「はい。でも……拳闘と何か関係があるんでしょうか」
「お母上は私の近くで、紳士と話をされていたようだが」
ユリアスさんは政界の老人達に可愛がられているようで、サロンで政治談議を楽しむ老紳士達のグループにいたのは僕も見ていましたが、その近くでお母様は拳闘について何かを聞かされたんでしょうか。
まさか、レオンさんが拳闘をしていることを……。
サロンに目を馳せると、トーニオさんが紳士達に尋ねて回っている様子が伺えます。
「僕、トーニオさんに聞いて来ます。ちょっと失礼します」
ユリアスさんとリーザさんにぺこりと頭を下げ、小走りになってトーニオさんに駆け寄りました。
トーニオさんは僕の話を聞いて顔をしかめ、吐き捨てるように言ったんです。
「血の巡りの悪い若い男が、母上に取り入ろうとして告げ口したらしいよ。母上は卒倒してしまった」
「告げ口――――レオンさんが拳闘をしていることを?」
この数か月、お母様の耳に入らなかったのは奇跡と言ってもいいほどで、いつかは知られると思っていたけど。
「それだけじゃなく……。3日後、レオンの拳闘の試合がある。相手は、フォルクだ」
パキンと乾いた音を立て、僕の世界がひび割れました。レオンさんが……試合。3日後……やめたんじゃなかったの? しかも相手は……あのフォルク?
顔からさあっと血の気が引いて行くのが、自分でも分かりました。指先まで冷たくなり、僕はごくりと唾を呑み込んだんです。
「どうして……」
「あいつはレオンに、2つの事を要求した。1つ、フィアの愚連隊が解散すること。つまり平民の高等学校生がフィアの学生を殴ろうが金ヅルにしようが、黙って見てろというわけだ。2つ目、あいつは君と付き合いたいと言ってる」
「えっ……」
「ふざけた野郎だよ、まったく。レオンはもちろん、突っぱねた。そしたらあいつ、拳闘で片を付けようと言い出したんだ。ああ、自分のせいだとは思わないことだよ。あいつにとって君は戦利品。レオンを叩きのめして大切なものを取り上げ、クラレストで名をあげるのが目的だ」
「……フォルクさんって強いんですか」
血まみれのレオンさんの姿が浮かび、僕の体が震えます。
「どうかな。もの凄く強いという噂もあれば、喧嘩を避けて逃げているという話もある。はっきりとした事は分からないが、心配いらないよ。レオンは闘い慣れてる」
でも……そんな保証がどこにあるんでしょうか。よく分からない相手なのに。
僕の目の前は真っ暗になり、卒倒しそうになる自分を抑えることで精一杯で、何も考えられなくなってしまったんです。
翌日は休日で、朝早くダイニングルームに降りて行くと、パパとお母様が紅茶を飲んでいました。
昨夜はあれからお母様にもレオンさんにも会えず、舞踏会が終わりお客様をお見送りした後、パパから部屋で休むようにと言われたんです。
「お加減はいかがですか」
僕がお母様の前に座って尋ねると、お母様は弱々しく微笑み「大丈夫。ありがとう」と答えました。
「情けない母親よね。息子が危険なことに首を突っ込んでいるというのに、何も知らなかったなんて」
「自分を責めるものではないよ、ディリア。男の子はそういうものだ。レオンだけじゃない」
涙ぐむお母様の背中をさすりながら、パパが懸命に慰めています。
「その試合を中止できないのかしら。何とかならないの?」
「今となっては遅過ぎると、昨夜も説明したと思うが。既にレオンの試合は国立倶楽部で公示され、チケットも売られている。公示前なら手を回すこともできただろうが、公示して皆に知れ渡った今、中止したら敵を前にして逃げたと見なされる。そんな事になったら、レオンはトライゼンで生きていけなくなる」
「どうして?」
僕も中止してほしいと、願いを込めてパパを見上げました。
「この国では、腰抜けや臆病者は他国以上に蔑まれるんだよ。そういう伝統なんだ。試合の相手が平民だということも、問題を複雑にしている。貴族対平民という図式が出来上がっていて、中止したらレオンは貴族の男たちから相手にされなくなるだろう。当然、平民からは嘲られる。彼をそんな目に合わせたいか? 解決方法は一つだけ、闘って勝つことだ。幸いにもこれが最後の試合だと、レオンは言っている。もしも彼が拳闘を続けると言うなら何としてでもやめさせるが、この試合を中止することは出来ない」
お母様の美しい目からぽろぽろと涙が溢れ出し、パパの顔がくしゃっと歪みます。
「泣かないでくれ、私のディリア。頼むから」
「どうして拳闘なんかがあるのかしら。そんなもの、無ければいいのに」
「他国にも拳闘はあるよ。国家ぐるみという点でトライゼンは特異だが。男のサガだな。無性に闘いたくなる時が、男にはあるんだよ」
私もそうだったと、パパの顔が雄弁に語っています。今もそうかもしれない。お母様の手前、言えないだけで。
「レオンさんは、部屋にいますか?」
僕はのろのろと立ち上がり、パパの胸に顔をうずめて泣くお母様と、お母様をしっかり抱きしめるパパを交互に見ました。
「どうだろう。今朝はまだ姿を見ていないが」
2階に上がろうとして思い直し、僕は厩へ行ってみることにしたんです。
レオンさんの避難場所――――独りになりたい時に行く、厩の2階へ。
馬房のはずれから梯子をのぼり顔だけ出すと、うず高く積まれた藁の間に人間の足が見えました。
レオンさんがいる――――。そう思った途端、どくどく鳴り出す僕の心臓。
レオンさんとは仲良くしてるのに、声を掛けていいものかどうか躊躇してしまいます。
僕はやっぱり、初めて会った時と同様、レオンさんが怖い。
レオンさんのちょっとした仕草や言葉で、僕の心は舞い上がったり傷ついたり、乱高下するんです。
レオンさんが優しく微笑みかけてくれると僕は舞い上がり、でも僕みたいな情けない奴のことなんか、いくら優しいレオンさんでもいつか呆れて愛想尽かしするだろうと思うとすごく落ち込みます。
僕を綺麗だと言ってくれた時は嬉しくて心が爆発しそうになったけど、僕より綺麗な女性は大勢いて――と言うより世の中の女性の大半は僕なんかより遥かに綺麗で、レオンさんは綺麗な女性の方が好きだろうなと思うと立ち直れないくらいに傷つくんです。
他の人が相手だと、こんな風にはならないのに。
どうしてレオンさんだけが特別なのか、どう特別なのか、よく分からないけど……。
拳闘について尋ねたいと思うのに、レオンさんの姿が目に入ると足が震えて言う事を聞きません。
何やってるんだろう、僕……。以前から臆病者だったけど、この臆病風ときたら病的です。
逃げ出そうかとも考えました。でもレオンさんと話がしたい。できれば微笑みかけてほしい。そう思いながらレオンさんの足を見ていると、レオンさんが起き上がって僕を見たんです。
レオンさんの口角が美しい曲線を描いて上がりました。
笑ってる――――レオンさんの長い指が折れ、『こっちにおいで』と手招きしてる。
僕は急いで梯子を上がり、駆け出しました。多分、満面の笑顔で。心の中でキャンキャン嬉しそうに鳴きながら。尻尾があれば、ぶんぶん振り回していたに違いない。
レオンさんの隣に滑り込み、優しい微笑に見惚れました。
「拳闘の試合のことで、俺に説教しに来たのか?」
尋ねられ、僕の目が見開かれます。
「説教?!」
「父上と母上からさんざん食らったよ。これが最後の試合だから勘弁してくれ。フォルクとは、いずれ決着をつけなければならなかったんだ」
「どうして……覇権争いみたいなものですか?」
「かもな」
レオンさんは僕を食い入るように見つめていて、まるで僕の顔を忘れないよう、目に焼きつけておこうとしているかのようです。
どうしてそんな事するの? そんなに危険な試合なの? 僕の胸に不安が込み上げて来ます。
「怪我したら……嫌ですよ」
もっと悪いことは、もっと嫌です。最悪の想像が脳裏を走って僕は泣きそうになり、目をぱちぱちさせました。
「試合、やめられませんか?」
「必ず戻るよ、おまえの元に」
レオンさんは僕の飛び跳ねているに違いない髪をそっと撫で、一房つかんで感触を楽しんだりしています。
「春になったら、今度こそ2人でクレヴィングへ行こう」
「はい」
僕は、頑張って微笑みました。2人でクレヴィングに行く計画は、世間体が悪いからとお母様に強硬に反対され、結局家族全員で出掛けたんです。
9月でちょうど端境期だったから、クレヴィングの広大な小麦畑は冬小麦に備え耕したばかりで、見渡す限りの肥沃な茶色い大地が印象的でした。
僕はてっきり掃除が必要なんだと思い新品のモップを持って行ったけれど、屋敷はこじんまりとして清潔で、留守を預かる家政婦も管理人もとてもいい人達でした。
「その前に俺たちの関係を、兄と妹ではなく別の名称に変えたい」
「別の名称?」
まさか……他人とか? 赤の他人とか。とうとうレオンさんは、僕に愛想を尽かしてしまったんでしょうか。そんな……。
怖くて不安で僕は目を見開き、唇が震え始め、レオンさんが慌てた様子で付け加えました。
「兄妹よりもっと親密な名称がいいんだ。しかしそれは俺の勝手な願望で……。おまえが怯えないよう色々考えてはみたんだが、いい名称が思いつかない。兄妹以外に、どんな関係がいいと思う?」
兄妹以外――――他人以外なら兄妹だって嬉しいけど。
僕の頭にユリアスさんとリーザさんが浮かびました。2人は僕の愛人で、でも男子クラスのレオンさんに『愛人』などという言葉を適用できるわけもなく、首をひねりました。
「友達、とか?」
「他人行儀だな」
「親友?」
「俺に言わせれば、男同士のイメージが強いよ」
最近ブルーノさんとマテオさんを中心として『男嫌いを根絶する会』なるものが発足し、ユリアスさんとリーザさんをヤークトに誘ってちょっとしたパーティーを催していることを思い出しました。
何故か僕は誘われず、ブルーノさんとマテオさんによると僕は男嫌いじゃないかららしいんだけど、それだけでもなさそうなんです。
「僕も連れて行ってください」と言うと2人は怯えた顔をして、「そんな事したら殺される……」ってわけの分からない事を言うし。
ユリアスさんとリーザさんが誘われてヤークトに行く時は、レオンさんが僕を別のレストランに連れて行ってくれるから、それはそれで嬉しいんだけど。
「仲間は?」
ブルーノさんが好んで使う言葉を口にしてみました。
「大勢で楽しむって感じだな」
「じゃ、仲良し?」
「仲良しか……」
レオンさんは笑いながら暫し考え、やっとうなずいてくれたんです。
「その辺りで妥協しよう。俺達は、仲良しの友人だ」
レオンさんの手が僕を抱き寄せて、いつもするように優しく髪を撫でてくれました。
レオンさんの肩に頬を乗せ幸福感で一杯になりながら、心の奥底から湧き上がってくる黒い影と、僕は必死に闘っていました。