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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて2 ~ギムナジウム入学篇~
40/78

7  心をこめて貴方にキスを  Ⅰ

「リーデンベルク」


 僕は、はっと顔を上げました。今は授業中。ラテン語の書き取り試験の真っ最中です。

 

 先生が黒板にチョークで「10番 リーデンベルク」と書き、クラスメイト達はくすくす笑っていて、僕は目をぱちくりさせました。「1番 青空」から始まり「9番 大地」まで来て、何ゆえ最後に「10番 リーデンベルク」なんでしょうか。


 先週の書き取り試験の結果は、惨憺たるものでした。夏休みの間トーニオさんから教わったにも関わらず、平民の学校でラテン語を習った事のなかった僕は、0点を取ってしまったんです。


 これはきっと僕に0点を取らせまいとする先生の温情だと気づき、心優しい先生に笑顔を送って、喜び勇んで「リーデンベルク」とラテン語で綴りました。僕だって、自分の名前くらいは書けるんです。

 

 授業終了の音と共に隣に座るユリアスさんの答案を覗き込み、


「げっ……」


 思わず下品な言葉を発してしまいました。リーデンベルクの綴りが違う……。

 ユリアスさんは成績優秀で書き取り試験は毎回満点だから、ユリアスさんが間違っているとは思えない。


 がっくり肩を落とした僕。自分の名前すら書けないなんて――――ひど過ぎる。

 のろのろと教科書とノートをカバンにつめ、溜め息をついていると、反対側の隣からゲルタさんが言いました。


「今日は急いで帰るんじゃなかった?」


 そうでした。今日は授業が終わったらディリアお母様と一緒に、僕のお披露目舞踏会用のドレスを受け取りに行くことになっていたんです。


 王宮舞踏会で僕はお披露目されたけど、リーデンベルク邸で改めて僕を社交界の皆さまに紹介することになり、屋敷は慌ただしい雰囲気に包まれています。


 飾りつけやお客様達への招待状、使用人への指示などすべてお母様がなさっていて、忙しい時間を割いて僕に付き合ってくださるんだから、お待たせするわけにはいきません。


 ひと月前、お母様が見立ててくださった淡いオレンジ色のドレス。

 どんな風に仕上がっているんでしょうか。僕なんかに似合うかどうか、不安と期待でドキドキします。


「それじゃ僕、先に帰ります」

「ああ、ドレスを受け取りに行くんだったね。終わったら……分かってるね?」

「はいっ」


 今日は月に一度ユリアスさん達が浴場を使う日で、僕はラーデン侯爵邸に泊まることになっているんです。

 

 ユリアスさんとリーザさんに挨拶してドアまで走り、振り返るとゲルタさんが僕の席に座ってユリアスさんに話しかけています。

 ゲルタさん、悪い人じゃないんだけど……。


 何となくですが、僕を追い出してユリアスさんの隣に座りたがっているような……。気のせいかな。

 僕と友達になってくれればいいのにと思うけれど、ゲルタさんは僕なんかとは仲良くしたくないみたいで、僕は嫌われてると思うと哀しくなってきます。





 秋は深まり冬がすぐそこまでやって来て、葉を落とした校庭の木々が寒そうに立っています。

 フィアの本館脇の薔薇園は茶色っぽい色彩に変わり、所々に残る赤やピンクの花びらも、よく見ると乾燥してドライフラワーになっています。


 僕がリーデンベルク邸に住むようになって、早や2か月。

 パパとお母様はいつも仲良しだし、トーニオさんは相変わらずだし、使用人達はみんないい人だし、何よりもレオンさんが優しくて――――。


 時々ですが、放課後僕をネフィリムに乗せ、あちこちのレストランに連れて行ってくれるんです。

 これ、デート? そんな夢みたいなことを考える自分を叱りつけながら、レオンさんと他愛のないお喋りをしてランチを楽しみ、僕がドレス姿だったらレオンさんはどう思うかなあなんて思ってしまいます。


 僕がモップを持って学校に行くことは、なくなりました。

 カミーラさんは王宮で会って以来、僕を用水路に沈める計画を中止したようで、陰でリーザさんがさんざんカミーラさんを脅したらしい事もあり、とにかく当面の脅威はなくなったから僕はモップなしで登校するようになっていたんです。


 男の子の恰好もやめようかと思ったけれど、男装のユリアスさんを見ていると華麗で素敵で、でもやっぱりドレスも着てみたいし――――。


 レオンさんが宝箱の話をしてくれたことや、レオンさんの宝箱は好きな女性を意味してるんじゃないかと考えたことを思い出し、それにしてもレオンさんには浮いた話がないなあとか、僕がドレスを着たらレオンさんの宝の欠片ぐらいにはなれるかなあとか。


 そんな事をあれこれ考えながら、カバンを抱えて小道を急ぎ足で歩く僕の耳に飛び込んで来た言葉。


「レオンの拳闘……次の試合が……」


 どきっとして周囲を見回すと、本館1階の窓辺に男子学生2人の頭が見えます。聞き耳を立てたけれど、学生は廊下を歩きながら話しているようで、よく聞き取れません。


 まさかレオンさん、また拳闘の試合をやるんじゃ……。やめるみたいな事を言ってたのに。

 走って本館に入り廊下を探す頃には、学生2人はどこかに行ってしまっていて、僕は唇を噛みました。


 きっとレオンさんが拳闘をやめる話、次の試合はないという話です。そうに決まってる。懸命に自分を納得させていると、ふいに肩を叩かれ、僕は飛び上がったんです。 


「やあ、エメルくん。いい所で会った」

「ナサニエル先生……」


 先生は狼が牙を剥いたような、笑顔とは言えない怖ろしい表情で笑っていて、僕は一歩二歩と後ずさりました。


「俺の君に対する気持ちなんだが、苦情が半分、残り半分が期待で埋まっている」

「は?」


 どうして僕が先生の気持ちを聞かなきゃならないの? ナサニエル先生は三歩目の後ずさりをしかけた僕の腕をつかみ、さらに怖ろしい表情でにやりとしたんです。


「苦情と言うのは、レオンの声楽の試験のことでね。あの後、一度も受けてないんだよ。ということは、テスト分を君が体で払うということになるわけだ。俺の期待は、ぱんぱんに膨れ上がっている」

「はあ?」


「さあ、保健室へ行こう。今ならベッドが空いている。気分が悪いと寝ていた学生も、放課後になると何故か元気になるんだよね」

「あの、あの、あの……」


 僕は先生に腕を引っ張られ、腰を落として踏ん張りました。屠殺場に連れて行かれる牛になった気分です。綱を引っ張られて踏ん張る牛の気持ちが、今ならもの凄くよく分かります。


「声を立てるな。人さらいかと思われるだろう」

「ひ――――」


 ひ、ひとさらいじゃないですかっ。


「エメルちゃん!! この野郎っ!!」


 何処からか飛んで来て先生に体当たりしたのは、マテオさんです。


「おお、痛え。ピアノが弾けなくなったら、どうしてくれる」

「知るかっ」


 マテオさんが先生と僕の間に割って入り、


「不肖マクシミリアン・アリステオ・フォン・ザイエルン、命に代えても姫をお守りします」

「つまり、支払いをおまえが肩代わりするということだな」


 ナサニエル先生は、今度はマテオさんの腕をつかみました。


「俺は男の子でも女の子でも、どっちでもいいぞ」

「何しやがる、このド変態」

「来る者は拒まずだ」

「誰も来てねえっ」


 小柄なマテオさんは抵抗したけれど、先生に引きずられて行きました。


「エメルちゃん、逃げろ。僕にかまわず、早く逃げろ」

 叫ぶマテオさんの周りに、何だ何だと男子学生たちが集まって来ます。これだけ大勢いれば、先生だって横暴なことは出来ないだろうと思ったけど……。


「誰か、レオンを呼んで来い。来ないならそれでもいいんだがな。レオンが来ないなら、こいつをホル!」


 先生が言うなり、割れんばかりに轟いた男子学生たちの大歓声。ええっ……。ホルってまさか……。僕はなけなしの知識を総動員し、とても口には出来ない結論に達しました。


 どういう所なんでしょうか、男子クラスは。マテオさんがひどい目に合わされるっていうのに、みんな楽しそうで、お祭り騒ぎで。


 どうしよう。僕だけ逃げるわけにはいかない。あたふたしていると、ナサニエル先生が振り返って僕を見て、手で「早く帰れ」と合図したんです。


 先生の顔も目も笑っていて、これはきっと前回と同様、レオンさんに試験を受けさせるための策略だなと思いました。


 ナサニエル先生は口では悪そうなことを言ってるけど、本心じゃないんです。

 トライゼン人らしく山賊の子孫らしく人質をとり、身代金代わりにレオンさんに歌を歌わせるつもりなんです。


 男子学生集団の後からこそこそついて行くと、マテオさんを見捨てるはずのないレオンさんがやって来て、僕は廊下の隅でレオンさんの歌声を聞きました。


 僕の耳に届くレオンさんのややかすれた声は、魅力的です。でも男子学生たちの笑い声は情け容赦なく、これだからレオンさんは人前で歌わないんだろうなあと思ってしまいます。


 ずっとレオンさんの歌を聞いていたかったけれど、お母様をいつまでも待たせるわけには行かず、レオンさんの歌の途中で僕はその場を離れたんです。


 マダム・ポワティエの店で、仕上がったばかりのドレスを試着しました。

 鏡の中の僕は少し伸びた髪をバレッタで結い上げ、純白のレースをふんだんに重ねた淡いオレンジ色のドレスに包まれて、緊張して立っています。


「少し、ふくよかになられたんじゃございません? お胸の辺りなど特に……」


 マダム・ポワティエに言われ、にっこりした僕。


「そうね。詰め物を減らしてもいいんじゃないかしら」


 お母様が言い、僕のぺったんこの胸を補う詰め物が、ほんのちょっぴりだけ減らされることになったんです。――やった! 






 そうして訪れた、お披露目舞踏会の日。


 僕はパパとお母様に挟まれ、リーデンベルク邸の入り口に立ち、お客様をお出迎えしました。

 社交界の高名なお歴々や政財界の重鎮たちに混じり、ユリアスさんとリーザさんも来てくれ、何故かカミーラさんも招待されてやって来たんです。


「エメル様の社交界デビュー、おめでとうございます。素晴らしいパーティーですわね。わたくしも見習いたいですわ。今夜は楽しませて頂くと同時に、勉強させて頂きますわ」


 あでやかに微笑み優雅にお辞儀をするカミーラさんは、初々しい表情で礼儀作法は完璧で、まるで年配の貴婦人たちのウケを狙ったかのような態度です。


 いつものカミーラさんとは別人――――。

 ユリアスさんとリーザさんのことをカミーラさんは陰で『腹黒コンビ』と言っているそうだけど、カミーラさんの方が腹黒いんじゃないかと思ってしまいます。


 大勢のお客様で舞踏室は一杯になり、中でも目につくのは若い男性客の多さです。

 招待客リストを作ったのはお母様で、どうして若い男性が多いのかすぐに分かりました。男性たちは、花嫁募集中なんです。


「気に入った人がいたら、教えて頂戴ね」


 お母様に耳打ちされウィンクまでされて、僕は困ってしまいました。

 お母様のお気持ちは嬉しいけれど、僕にとって目下の大問題は来週早々にあるラテン語の書き取り試験で、結婚どころじゃないんです。


しかしながら僕のダンス・カードは花嫁募集中の男性で一杯になり、最初にパパと踊り、次にトーニオさん、そしてレオンさんと踊りました。


 黒の夜会服に包まれたレオンさんは優雅で、胸元を飾る華やかなアスコット・タイが端整な顔立ちを引き立てていて、僕の胸がずきんと鳴ります。


 レオンさんは僕を宝物のようにそっと抱き寄せ、優しい目が何かを語っているようで、僕の胸はずきずき鳴りっぱなしで、そうして無言のまま僕たちのワルツは終わってしまったんです。


 壁際に戻るとレオンさんの表情は一変し、僕とダンスを踊る予定の若い男性たちを睨みつける顔は猛獣のようで、


「つ、次は私と踊って頂けますか」

 気の毒な若い紳士が怪訝そうにレオンさんを見て、びくびくしながら僕の手を取ります。


「どうぞ」

 レオンさんの口調は冷たくて、ダンスが終わり紳士は僕とお喋りしようとしたんですが、レオンさんに睨まれそそくさと逃げて行ってしまいました。


 中にはレオンさんの凶暴な空気にも負けず、僕に話しかけてくれる紳士もいたんです。


「エメル嬢。今度、私の領地に遊びに来ませんか?」

「申し訳ないが、遠過ぎて無理ですね」

「馬車で2日の距離ですよ。途中素晴らしい宿があり、食事がまた素晴らしく……」

「妹は、枕が変わると熱を出す体質なんですよ」


 ええっ。いつ僕の体質が変わったの?


「エメル嬢。結婚のご予定はいつごろ……」

「そんな立ち入った質問をする失礼な輩を、妹に近づけるわけにはいきませんね。早々にお引き取りを」

「予定を尋ねただけなんだが」

「結婚しません。お引き取りを」


 結婚しないんじゃなくて、フィアをきちんと卒業してからと僕は考えていて……。


 あっ、そういう事なんだと僕はやっと納得しました。

 レオンさんは僕の気持ちを汲んでくれて、まだ結婚は早いと考える僕の意思を、花嫁募集中の男性たちにそれとなく知らせてくれているんです。……ちょっと乱暴なやり方ではあるけれど。

  

 気がつくと男性たちは一人残らずいなくなり、レオンさんと僕の2人っきりになっていました。


「熱くないか?」


 レオンさんに尋ねられ、うなずく僕。舞踏室は人いきれで熱気がこもり、立て続けに踊った僕の体は火照っています。

 レオンさんが腕を差し出し、僕はレオンさんの腕にそっと手を添えて、そうして僕たちはテラスに出ました。

 

 薄曇りの空に月はなく、雲の切れ端に星が瞬いています。

 月虹の夜、庭先でレオンさんと2人で踊ったことを思い出していると、僕を見つめているレオンさんと目が合いました。


「綺麗だよ、エメル」


 かっと熱くなる、僕の顔。


「家族みんなのお蔭です……」


 今夜の僕は短い髪を結い上げ、トーニオさんが探して来てくれた僕の髪と同じ色のつけ毛を乗せて、銀のティアラで飾っています。

 香水はパパからの贈り物、小粒の真珠の首飾りはお母様から譲られた物です。


 そして僕の中指を飾る、銀の透かし模様の指輪――――レオンさんが宝飾店に連れて行ってくれ、僕の為に特注してくれたんです。


「次の月虹も、エメルと一緒に見たい」


 僕は、目を見開きました。レオンさんも同じ夜を思い出していたんです。


「僕もレオンさんと一緒に見たいです」

「意味が分かってるのかな」


 失礼な。僕にだってトライゼン語ぐらい分かります。ラテン語は駄目だけど。


「月虹を一緒に見るんでしょう? 聞き間違ってませんよ」


 レオンさんは僕をまじまじと見て、視線を空に向け、何だか溜め息をついているようです。

 僕たちは一生兄妹で家族なんだから、月虹が出たら連絡を取り合って一緒に見るくらい出来ると思うんです。


「エメル。話したいことがあるんだ」


 レオンさんは僕に真摯な顔を向け、その視線の強さに僕はどきりとしました。

 レオンさんは目力の強い人だけど、いつにも増して黒い瞳が真剣で、とても大切なことを話そうとしているんだと分かります。


「おまえがフィアを卒業したら、その頃にはトーニオにもいい恋人がいるだろうから……」

「俺の恋人がどうしたって?」


 いきなり背後からトーニオさんが現れ、レオンさんはがっくりうなだれて、片手で顔を覆い呻きました。


「……何で来るんだ。……何で今なんだ」

「来ちゃ悪いのか。おまえが寒空の下にエメルちゃんを連れ出すのを見かけて、ホットワインを持って来てやったと言うのに」

 

 よく気のつくトーニオさんは、レオンさんと僕の手に湯気の立つカップを押しつけ、にっこりしました。





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