5 それぞれの涙 Ⅵ
「ごめんなさい……」
リーザさんは何度も詫び、
「謝る相手が違うよ。気持ちが落ち着いたら、一緒に謝りに行こう」
ユリアスさんが、リーザさんの肩を優しく抱いています。
「……わたしなんか、放り出せばいいのに」
「放り出すつもりはないよ。リーザが『なんか』なら、わたしだってそうだ。ラーデン家の帳簿をつけ始めた時から、ずっと怯えていたんだ。いつ爵位と領地を失い、平民になるんだろうって」
「それで、わたしをこのお屋敷に呼んでくれたの? わたしが同類に見えたから?」
「そうだね……」
ユリアスさんはなだめるようにリーザさんの肩を叩き、リーザさんはユリアスさんの肩に寄りかかっています。
「カミーラに苛められてる君を見ていると他人事とは思えなかったし、借財を背負う辛さを君となら分かち合えるんじゃないかという気がしたんだ」
「ええ、辛さなら充分に知ってるわ」
ユリアスさんの肩にもたれて泣く、リーザさん。2人の雰囲気が甘くて僕は目をぱちくりさせ、潮時かなと思いました。
「あのう……。僕、そろそろ部屋に戻ります」
「何言ってるんだ。夜は、これからだよ」
「え……」
……これから? 何が始まるの?
抱き合うユリアスさんとリーザさんを見ていると、『2人は本物かもしれない』というマテオさんの言葉が蘇り、僕はベッドの上で後ずさりました。
2人と友達になりたいけど、僕に出来ることには限界があるんです。
愛人たるもの一枚の掛け布団を共有して朝まで眠るべしと聞かされ、まずは胸を撫で下ろしました。
同じベッドで朝まで眠るだけなら、僕にだって出来ます。
やった、第一関門突破だっ!
ユリアスさんを真ん中にして3人が並び、1枚の羽根布団の下で眠りました。
夕べは余り眠ってなかったから僕はすぐに眠りに落ち、そして真夜中に目を覚ましたんです。
僕のお腹の上に乗った、ユリアスさんの手。僕の首を撫でる規則正しい呼吸。
窓の外で猫の鳴き声がし、ユリアスさんが僕の耳元で囁きます。
「シュネー……」
ラーデン家では猫が何匹が飼われていますが、シュネーはユリアスさんが可愛がっている白い猫の名前です。
僕を猫だと思ってるの?
ユリアスさんの頬が僕の首筋に埋まり、手が僕の咽喉を撫でるようにそろりそろりと動きます。
「ごろごろ……」
って、猫の真似をしてる場合じゃないっ。
「ユリアスさん?」
「うん……?」
静かに呼ぶとユリアスさんは薄く瞼を開き、
「エメルか……。可愛いよ」
引き締まった足を僕のお腹に乗せ、僕をぎゅっと抱きしめたんです。
今度は僕のことを抱き枕だと思ってる?
首をもたげるとユリアスさんの背中に抱きついたリーザさんが見え、僕達はスプーンを3枚重ねたような格好で寝ています。
肌寒い夜にユリアスさんの体温は暖かくて心地いいけど、眠れない。
僕の背中に押しつけられた胸や耳をくすぐる息が気になって、ね・む・れ・な・い。
誰かと寄り添って寝たのは幼い時以来で、どんな気分だったか思い出せないくらい昔のことです。
それにもしかすると、これだけでは済まないかもしれない。
昨夜は徹夜だったからユリアスさんはすぐに寝入ってしまったけれど、もしかすると夜中に――――あるいは明け方に、僕なんかには想像もつかない女の子同士の『本物』の儀式があるかもしれない。
フィアの女子クラスには変わった文化があるらしいけど、何があってもおかしくない雰囲気がユリアスさんとリーザさんにはあります。
あれこれ考えていると恐怖心で目がぎんぎんに冴え、とても眠っていられなくなり、これはもう逃げ出す以外にないと思ったんです。
ユリアスさんの腕と足を静かにはずし、ベッドから滑り降りました。
ユリアスさんは熟睡しているようで、ぴくりとも動きません。
立つと気づかれるかなと思い、猫のように四つ足になって、手と膝をしゃかしゃか目一杯早く動かして逃げました。
ドアをそっと開いて廊下に出て、僕の部屋に飛び込んで詰めていた息を吐き出すと、思うのはトーニオさんのことです。
レオンさんと話さなきゃ……。
今夜はラーデン家に泊まるとレオンさんは言っていたけれど、朝早く出かけてしまうかもしれない。
僕はシャツとズボンに着替え、上着は椅子に掛けておいて、朝を待つつもりでベッドに横たわり、そのまま眠ってしまったんです。
気がつくと、窓に差し込む夜明けの光。しまった――――!
慌てて上着を引っかけ、階段を駆け下り厩まで走ると、レオンさんはネフィリムに飼い葉を与えているところでした。
僕は手伝いながら、リーザさんの話をレオンさんに伝えました。
愛人にして欲しいとリーザさんがトーニオさんに言ったことは除いて。
リーザさんはきっと誰にも知られたくないだろうと思ったから。
僕の話を黙って聞いていたレオンさんは、
「ここは、冷えるからな」
と乗馬用コートを脱いで僕に着せてくれ、馬房の柵に腰かけ、隣に座るよう手招きしたんです。
「ありがとうございます」
レオンさんの温もりの残るコートにくるまって、にんまり。レオンさんに包まれている気分です。
「すごく暖かいです。でも、レオンさんが風邪を引くといけないから」
コートを返そうとすると、レオンさんは僕のすぐ横に座り直し、
「半分ずつではどうだ?」
とコートの半分を自分の肩に掛け、残り半分で僕をすっぽり覆ってくれました。
コートとすぐ横にいるレオンさんの両方から温もりが伝わり、それ以上に僕自身の体や顔が熱くなって、全身を火照らせた僕。
見上げると、レオンさんが優しい目で僕を見ています。
「兄妹は、分かち合うものですからね」
僕が言うと、レオンさんは困ったように視線を逸らしました。
「それなんだが、どうも怪しく……いやその前に、リーザがトーニオに借金を申し込んでトーニオが断ったという話だったな。リーザもユリアスもエメルの大切な友人だという事を考えると、トーニオが断るというのは考えにくいんだが……」
「それは……そのう」
トーニオさんが断ったのは借金ではなく、リーザさんが持ちかけた愛人話で――――。
話すしかないんでしょうか。……ないみたい。僕は仕方なく、真実を話しました。
「愛人に手当、か。あいつ、悪ぶってるからな。悪い噂が流れるのは自業自得だ」
レオンさんが、ふっと笑います。
「トーニオが貴婦人達に人気があるのは、困っている時にさりげなく助けるからだよ。独り暮らしの老婦人が寝込んで、朝まで看病したこともあったな。それもあいつにとっては、朝帰りの中に入るらしい。恋人は複数いるようだが、愛人に手当を払うというのはトーニオらしくない。贈り物はするだろうけど。誕生日や何かの記念日に」
「リーザさんは正直に話して、借金の申し込みをすれば良かったんですね」
「そうしていたらユリアスとも話し合って、いい方向で解決できただろう。もっとも、それとボタンの件は別問題だが」
レオンさんは遠くを見るような目をして、ふいに視線を僕に向けました。
「話は変わるが、今度一緒に俺の領地のクレヴィングへ行かないか? クラレストから日帰りで行ける、風光明媚ないい所だよ」
「えっ、はい。みんなで行くんですか? パパやお母様やトーニオさんも一緒に?」
「うーん」
困ったように黒髪をかき上げ、レオンさんは言葉を探しあぐねている様子です。
「父上と母上は、色々忙しそうだろう。トーニオは……どうだろう、忙しいと思うよ。いや忙しいはずだ。俺達2人で行くことになると思うんだが、それでは駄目か?」
「いえ、駄目じゃありません」
レオンさんと2人っきりで行く……デート? まさか。
僕は目まぐるしく脳を働かせ、都合のいい解釈をしたがる心に鉄槌を食らわせました。
フィアの女子学生に人気があり男子学生から一目も二目も置かれているレオンさんが、僕なんかとデートするわけがない。
「決まりだな。その前に片付けなきゃならない事があるから、少し先になると思うが、約束だぞ」
「はいっ」
僕は裏返った声で、背筋をぴんと伸ばし緊張して答えました。兄妹なんだから、デートじゃないんだぞっと自分に言い聞かせながら。
きっとクレヴィングのお屋敷は人手不足で掃除が行き届いてなくて、僕の力が必要なんです。
モップを忘れずに持って行く事と頭の隅に記録して、厩の扉を見やるレオンさんを見上げました。
「これからヤークトに行き、仲間と落ち合うことになってる。バウマンや警察の様子を、仲間が探ってくれているんだ。エメとユリアスとリーザは、もう暫くこの屋敷で籠城だぞ。ここは警護が厳重だから安心だ」
レオンさんの視線は扉に据えられたままで、朝の静寂を踏みしめるような足音が近づいて来ます。
扉が開き、現れたのはトーニオさんでした。
「おはよう。お待たせ。おや、メイドくんも一緒か」
レオンさんと僕は無言でトーニオさんを見つめ、トーニオさんはスーツのズボンのポケットに両手を入れ、僕達を見ながらにやりと笑いました。
「分かりやすいねえ、お二人さん。俺を責めたいって顔してるよ」
「どうしてなんですか、トーニオさん。どうしてレオンさんを、はめるような事をしたんですか」
僕はレオンさんの制止を振り切り、トーニオさんの前に飛び出してしまったんです。
「どうしてか? 出来心って奴さ。リーザにとんでもない申し出をされて、俺はそんな風に見られてたのかとカチンときて、怒りまかせにボタンを掴んでしまったんだよ。こんな感じで」
トーニオさんは右手をポケットから引き抜き、淡紫色のボタンをレオンさんに放りました。
「さっきユリアスに会って、おまえに返しておいてくれってさ」
「ユリアスさんと……話をしたんですか?」
「感謝されたよ、リーザの申し出を断ってくれてありがとうってね。リーデンベルク家の方で話し合いがあるだろうから、それが終わる頃を見計らって、レオンに詫びに伺うってさ」
「そうか……」
振り返るとレオンさんは半ば睫毛を伏せていて、端整な顔に怒りはなく淡々としています。
「怒らないのか? 俺はおまえにひどい濡れ衣を着せたんだぞ」
「俺を怒らせるためにやったのか?」
「まさか。もうそんなお子様じゃない」
「俺もだ。おまえのする事に、いちいち目くじらを立てるような年じゃなくなった。出来心だと言うなら、それでいい。この話は終わりだ」
レオンさんの静かな表情を見つめるトーニオさんの目に、何かの感情が走ったような気がしました。
何だろう――――。僕の目には、恐怖心に見えました。
トーニオさんはレオンさんを怖れてる――――? どうして?
でもすぐにそれは消えてしまい、トーニオさんの綺麗な顔に薄笑いが浮かんだんです。
「ああ、終わりだ。もういい。おまえら、2人で何処へでも行ってしまえよ」
そう言って背を向けたトーニオさんの顔が一瞬だけ歪んだように見え、僕の心臓がどきんと一拍します。
2人で何処へでも行け? どうしてそんなこと言うの?
恐怖心――――何に対する?
僕にとって最も怖かったのはパパが家に帰って来なくなることで、パパの幸せを願ってはいたものの、一人で暮らすのは寂しくて悲しくて怖ろしいものでした。
「トーニオさん、寂しいの?」
僕は歩き去ろうとするトーニオさんに駆け寄り、白く華やかなクラバットに飾られた、辛そうな顔を見上げました。
「レオンさんは何処にも行きませんよ。僕もです。僕はずっとトーニオさんと一緒にいます」
「ずっと……? へえ。メイドくん、俺と結婚する?」
「けっこん?!」
僕を見下ろすトーニオさんは悪魔の微笑を取り戻し、青い目が悪戯を楽しむかのように瞬いています。
またいつもの悪い冗談だと分かっているのに僕の口ときたら、ぱくぱくするばかり。
「結婚に近い関係なんか、どう? 毎晩同じベッドで寝て、バスタブで体を洗ってあげるよ」
「あの、あの……」
「エメルを巻き込むのはやめろ!」
レオンさんの怒声が飛び、僕は飛び上がりました。
「巻き込んだのは、おまえだろう」
「俺がいつ」
「ふん」
横を向いたトーニオさんの金髪がふわりと浮き、すぐさま青い目が鋭くレオンさんを射抜きます。
「フィアを卒業したら医科大学に進む申請書を出したそうだな。母上から帳簿のつけ方を教わって、クレヴィングにも足しげく通ってるそうじゃないか。どういう心境の変化だ。ついこの間まで、卒業したら諸国漫遊をやると言っていた奴が!」
「大人になったんだよ」
「エメルが現れた途端、大人になったわけか。随分都合のいい成長だな」
「何が言いたいんだ」
レオンさんは腕を組み、剣呑な目つきでトーニオさんを睨んでいます。
また殴り合いが始まるんじゃないかと僕は怖くなり、そんな自分を叱咤してその場に立ち続けました。
「1つ、俺に一言の相談もなく将来設計とは、自立した大人はやることが違うな。2つ、さっき言ったぞ。2人で何処へでも行け。祝福してやる」
僕の胸の中で、小さな灯火のようにちかっと光るものがありました。トーニオさんは、5年間も部屋に閉じ込められていたんです。
僕が一人ぼっちだったのはどんなに長くても数カ月で年齢は9歳以上で、それでも心細くて哀しかったのに、トーニオさんは2歳から7歳の間でどんなに怖ろしい思いをしたことか。
普段は何ともなくても、何かの拍子に恐怖心っていう奴は蘇って来るんです。
また一人ぼっちになるんじゃないかという恐怖――――。僕にも覚えがあります。
「聞かれたこと以外は話さない癖がついてしまってるんだ。……ああ、悪かった。悪い癖だと俺も思うよ」
「反省するなら、それでいい。先に行くからな」
馬房から馬を引き出そうとするトーニオさんの袖を、僕は掴みました。まだ大切な話が残ってる!
「トーニオさん、嘘つかないで。トーニオさんだって僕達に相談しないし、何処かに行けだなんて嘘ついてるじゃないですか。本当は一人になりたくないんでしょう? 小さい頃ずっと一人だったから、もうあんな思いはしたくないと思ってるんでしょう? 僕も家に一人置いて行かれたことが何度もあったから、トーニオさんの恐怖が分かるんです」
「恐怖?」
トーニオさんの顔に冷淡な笑みが浮かび、それでも僕は掴んだ袖を離しませんでした。
「一人になるのが、今でも怖いんです。ずっと一人のままなんじゃないかって気がして、怖いんです。だから僕は誰かを一人にはしません。トーニオさんに大切な人が出来るまで、僕がそばにいます。レオンさんだって、そう思ってるに違いないんです」
「勘違いしてるよ、エメルちゃん。俺に恐怖心なんてないよ」
「強がるのはおまえの悪い癖だ。大体、何で俺とエメルが家を追い出されなきゃならないんだ」
「よく言う……」
トーニオさんはそっぽを向き、大きく息を吸い込んで、レオンさんを見据えました。
「将来の進路を決めて領地の整備を始めて、その理由が何なのか気づかないほど俺は鈍くはない」
「だから、俺をはめたのか」
レオンさんの眉根が曇り、でもそれは怒りというより驚愕の表情のような――――。
「エメルを他の男に渡さないためか」
「祝福してやると言ってるだろ。だが……」
「だが?」
レオンさんに聞き返され、トーニオさんは歯を食いしばったような顔で壁を見やりました。
『エメルを他の男に渡さない』とか『祝福してやる』とか、意味不明の言葉が僕の頭をよぎって行きます。
「魔が差したというのは本当だ。あの時……1人か4人か、選択を迫られた気がしたんだ」
「4人?」
尋ねる僕に向けられた、トーニオさんの寒々しい微笑。
「リーザがレオンと付き合うようになれば俺はエメルと恋人ごっこをして、3人が4人に増えると思ったんだよ。おかしな計算だよね、後で思い返して我ながら笑ったよ。考えられない計算が、あの時は正解に思えてしまった。寝不足とリーザの申し出で頭に血が昇っていたというのは、言い訳だな。成功すれば4人、失敗すれば1人。そんな強迫観念に押され、気がついたらたまたまズボンのポケットに入っていたボタンをリーザに渡していた。……なーんてね。独演会は終わりだ。もう行くよ」
馬房の柵をくぐろうとするトーニオさんの体が、ぐらりと傾きました。レオンさんがトーニオさんの肩を抱き、乱暴に揺すっています。
「おまえ、馬鹿だろ」
「何だと?」
「俺達は一生、兄弟なんだよ。何が一人だ、恰好つけるなよ。俺はいずれ自分の家を持たなきゃならないんだろうが、よぼよぼの爺さんになっても当たり前のようにおまえに会いに帰り、説教するつもりだ。これから最低50年、孤独に浸る暇なんてないぞ」
「おまえこそ馬鹿だな。俺が、よぼよぼの相手をするわけないだろ」
「その頃には、おまえもよぼよぼになってるんだよ」
レオンさんから顔を逸らし壁に掛けられた馬具を熱心に見ているトーニオさんの目に、光るものがありました。
どうしてレオンさんと僕が家を出て行くと考えたのかは分からないけれど、トーニオさんは一人残されるのが怖いんです。
だから僕を恋人にして傍に置いておこうとしたり、心を開くことのできる人が4人に増えるという誘惑に負けてしまった――――。
そしてきっとその後、後悔して苦しんだに違いありません。
「僕も仲間に入れてください」
僕は泣き笑いの顔で、トーニオさんに抱きつきました。
「僕の心は、常にトーニオさんと一緒にいます。……えっと、ベッドとバスタブを除いて」
「そこが大事な場所なのに」
トーニオさんは残念そうに言いながら片手で僕を抱きしめ、もう一方の手はレオンさんの背中に回し、気持ち良さそうに僕の髪に頬ずりしています。
僕は、「ひっ」と叫んだりしませんでした。
トーニオさんは悪ぶってるけれど、本当は心優しい寂しがり屋なんです。
このボタン事件もいつか笑い話になって、これからも一つずつ思い出を重ねていって、ぼくたち3人が本当の兄弟になれたらいいな。
僕は2人の兄に包まれて、夢のような未来を描きました。