5 それぞれの涙 Ⅴ
晩餐は正装でと言われ、僕はユリアスさんから衣装を借りました。
白いレースの襟飾りが付いた上着と、膝下丈のズボン。
ユリアスさんが10歳ぐらいの時の物だそうだけど僕にはぴったりで、姿見の前に立つと何処かの貴族の着飾った小姓に見えます。
湯上りの顔はピンク色に上気して、頬は瑞々しい林檎みたい。全身がふっくらして見えるのは、きっと心が満たされているせいです。
3人で追いかけっこをして冗談を言い合って、お腹がよじれるほど笑い合って。
「楽しかったなあ」
声に出すとますます幸せな気分になり、僕は満面の笑顔で腰に手を当て、ふんぞり返りました。
ベネルチアに住んでいた頃、近所に公衆浴場があったことを思い出します。友達に行こうって誘われたけど、僕は恥ずかしくて行かなかったんです。
行けば良かった。色んなことをもっと楽しめば良かった。もっとも僕には事情がたくさんあって、楽しむどころじゃなかったんだけれど。
階下に降りるとレオンさんとトーニオさんとユリアスさんは黒の正装に着替えていて、リーザさんは赤ワイン色の華やかなイブニング・ドレス姿で、晩餐は優雅な雰囲気で始まりました。
意図的にそうしたのか侯爵の話は出ず、もっぱらフィアの面白い話が飛び交ったんです。
マテオさんが無理やり女装させられてフィアの美人コンテストで優勝してしまい、惜しくも2位となったカミーラさんに引っぱたかれた話や、あのミレーヌさんがフィアの女子学生だった頃ラインハルト王子と恋仲だったという話、遠国の貴族の令嬢だった現王妃様に恋をした国王陛下が、あの手この手を使って結婚にこぎつけた話などを聞き、僕は感心したし晩餐は盛り上がったけれど、リーザさんだけは無理をしている様子でした。
元気そうに見えるけれどリーザさんの笑顔は引きつっていて、辛そうです。本当は晩餐に出たくなかったに違いない。
そんな気持ちを押し隠し、懸命にその場の空気に合わせようと努力する姿には胸を打たれます。
トーニオさんはいつものように会話が巧みで時折リーザさんに話しかける気遣いを見せ、レオンさんはいつも通り口数が少ないけれどさり気なくリーザさんに話を振り、社交慣れしたユリアスさんは上手に話をリードして、僕が笑ったり感じ入ったりしている間に晩餐は終わってしまったんです。
部屋に戻ってパジャマに着替え、ベッドにもぐり込むとドアをノックする音が聞こえて、ユリアスさんとリーザさんが顔を覗かせました。
「何やってるんだ。待ってるのに」
「え? あの、僕、そんな趣味……つまり、えっと」
「何をわけの分からないことを」
ベッドから引きずり出され、ユリアスさんの部屋に連行された僕。
淡青の壁と海のような色合いのカーテンに囲まれ、どっしりとしたマホガニーの家具が配置された部屋は、どちらかと言うと落ち着いた男性的な印象を受けます。
ユリアスさんが言っていた通りベッドは巨大で、5人くらい楽に寝られそうです。
ユリアスさんはヘッドボードに背をもたせ、リーザさんが勢いよくベッドに飛び乗って、これから何が始まるのかと不安で堪らない僕は、仕方なくユリアスさんの足もとにちんまりと座りました。
「聞かせて貰おう。ペテルグ邸事件のすべてを」
「えっ、ペテルグ邸?」
僕がアーレクさん達にさらわれた、あの事件?
ユリアスさんもリーザさんも興味津々で、僕はぽつりぽつりと詰まりながら、最初から最後まで全部話したんです。
「カミーラがエメルのモップで小突き回されたっていう噂だったのに。残念」
「エメルは魔女だとも聞いたな。呪いでも掛けない限りあの冷たいレオンが青ざめて助けに行くはずがないし、あの斜に構えたトーニオが街中を走り回って探すわけがないと」
「怒り狂ったエメルが、あの場にいた全員を叩きのめしたという噂もあったわね」
「そんな! それ、全部違いますよ。誰がそんな噂を……」
噂ってそういうものです。話の出所はカミーラさんかゲルタさんだろうけれど、広がるにつれ尾ひれがついて、想像がいつの間にか事実に変わってしまったんです。
呪いを掛けたとか見境なく叩きのめしたとか、そんな噂があったから教室で誰も僕に近寄らなかったんだ……。
「噂を消すには、別の噂を流すことだよ。例えばトーニオとレオンはエメルに惚れていて、エメルの取り合いをしてるとか」
「駄目です! 事実と違うし……」
レオンさんとトーニオさんの周囲にいる女性達に、僕は殺されます。
「今のままでいいです。噂なんか、いつか消えるものだもの」
「真相を噂にして流すさ。リーザ、頼んだよ」
「まかせて。女子クラスで一番口の軽い人にここだけの話よって打ち明けたら、翌日にはフィア中に広まってるわ。事実をねじ曲げた変な噂が流れたのは、カミーラ辺りに原因があるんじゃないかしらって仄めかしておくわね」
「えっ、でもカミーラさんが怒るんじゃ……」
「実際、カミーラならやりかねないわよ」
僕は、辛そうに唇を噛むリーザさんを見つめました。半ば伏せた睫毛が、小刻みに震えています。
「リーザさん。カミーラさんと……何かあったんですか?」
「そういうわけじゃ……そうね、そうかもね」
沈黙が降り、リーザさんもユリアスさんも視線を落としています。何だろう――――リーザさんとカミーラさんの間で何があったんだろう。
目をぱちくりさせる僕の前で、ユリアスさんが口を開きました。
「……リーザは、2年前までカミーラと同じクラスだったんだよ」
「平民になった途端、手の平を返したようなカミーラの仕打ちに耐えられなくて。ユリアスが、わたしを2組に引き取ってくれたの」
「そうだったんですか……」
僕は、カミーラさんのゲルタさんに対する態度を思い出しました。
貴族の令嬢であるゲルタさんをまるで召使いのように使って、もしも平民になってしまったリーザさんがそばにいたら、どんな酷い扱いをすることか。
「カミーラとエメルの話はお終いにしよう。次は、リーザの番だ。私達に話さなければならない事があるだろう?」
再び沈黙が落ち、リーザさんは小さなピンク色の唇を震わせました。ぼんやりとした仕草でベッドから降り、そのまま部屋を出て行ってしまったんです。
最初に僕の話を聞いたのは、リーザさんが話しやすいようにとのユリアスさんの配慮だったんだと僕は思いました。
でもリーザさん、何も言わずに行ってしまった――――と思ったらドアが開き、戻って来ました。手に白い封書を持って。
「これを……」
リーザさんは封書をユリアスさんに渡し、ユリアスさんの手元を覗くとお母様からの手紙のようで、流麗な筆致の文章が綴られています。
「親愛なるリーザ。貴女の弟フィリップは元気に初等学校に通い、先日9歳の誕生日を迎えました。来年は貴族のギムナジウムに上がれないものかとオットー卿に相談しましたところ、素晴らしいお返事を頂いたのですよ。フィリップがギムナジウムを卒業するまでの間、卿の養子として申請してもよいと仰ったのです。ただこの恩恵をお受けするには、1千万エキュを卿にお支払いする必要があります。
1千万エキュ――――。今のヴァイヘン家ではとても用意できない大金です。諦めようと思いながら、ふと貴女のことを思い出しました。貴女からのお手紙を拝見するに、侯爵令嬢とは大変仲が良いご様子。貴女の交友関係をもって、何とか1千万エキュを用意できないものでしょうか。
オットー卿の養子になれば、フィアに入学する資格も得られます。そう考えると夢がふくらみ、貴女がフィアに通えるならヴァイヘン家の長男であるフィリップも同じことが出来るのではないかと、ついつい希望を持ってしまいます。厚かましい夢だとは思いますが、貴女と同様フィリップも侯爵家からフィアに通えることを祈りつつ。良いお返事をお待ちしています。――――母より」
「ひどい手紙だわ。破り捨ててしまおうと何度思ったことか」
「そうひどくはないだろう。母親が子供の心配をするのは、当然のことだよ」
「お母様が気遣っているのはフィリップの将来だけ。わたしの立場や気持ちなんて何も……」
ユリアスさんとリーザさんの会話を聞いて、僕は首を捻りました。
「あの。貴族の養子になれば、フィアに入学できるんですか?」
「元貴族で、わけあって貴族の地位を失ってしまった者に限られるけどね。貴族の養子になった書類を提出すれば、フィアに入学できるよ」
「入学は出来ても通うのは難しいわ。すごく費用がかかるんですもの。地方の貧しい準貴族が王都の貴族街に住もうとするから、借金を抱えることになるんだわ」
涙で潤む目を、リーザさんは天井に向けました。少しずつ、リーザさんの家庭の事情が分かって来たような気がします。
トライゼンの貴族には侯爵や男爵のような爵位を持つ家と、準貴族や騎士階級のように爵位を持たない家の2種類があるんです。
爵位を持たない貴族は大抵は地方に住み慎ましく暮らしていて、王都に住めるのは爵位を持つ大貴族だけです。
リーザさんの家は、無理をしたのかな。王都に住んだせいで借金がかさみ、それで領地や貴族の地位まで失うことになってしまったのかな……。
「ラーデン家の行く末が決まらなければどうしようもないから、少し時間をくれないか」
「いいえ。これ以上、あなたに迷惑は掛けられないわ。ここで甘い顔を見せたら、母はまた王都に住みたがるわ。少しも懲りてないんだもの」
「あの、リーザさん」
僕は、思い切って尋ねてみたんです。
「すみません。失礼な質問です。お金持ちと貴族の縁組をよく耳にするんですけど、そういう縁談話は出なかったんですか?」
「ええ……。買い手がつかなかったの。小さな領地で爵位は無し、本の虫の父親と浪費家の母親が付いて来るんじゃ誰も……」
自嘲するように哀しく微笑むリーザさんを見て、僕も悲しくなってきました。
リーザさんが悪いわけじゃないのに。家庭の事情で不幸な境遇になり、さらに弟さんの事で追い詰められてしまったに違いありません。
「あのっ。僕、パパとお母様に相談してみます。僕は持参金を頂いたみたいだから、それを使えばお役に立てるかも」
「何言ってるの!」
リーザさんが怖い顔をし、僕は思わず背筋を伸ばしました。
「持参金は大切なものよ。あなたの将来と結婚がかかってるんだから、大切に持っていて」
「……はあ」
「この件は保留にしよう。私にも考えがあるが、それより今はリネン室での出来事だ。この手紙とどう結びつくのか知りたい」
「それは……」
リーザさんはうなだれ、横座りに座った膝の上で両手をぎゅっと握りしめています。唇が震えながら何度も開いたり閉じたりして、リーザさんは覚悟を決めたように言葉を絞り出しました。
「お金を……1千万エキュ、何とかしなければと思ったの。あの時は、それしか考えられなかったわ。何人かの先輩に尋ねてみたの。……フィアの男子学生の中で誰が一番裕福かって。大人の男性には滅多に会う機会がないし、フィアの学生なら話しかけやすいと思ったのよ。みんな口を揃えて言ったわ。……リーデンベルク男爵。先代が辣腕の実業家だったから、すごく裕福だって……それにトーニオの噂は色々耳にしていたから。愛人が何人もいて、高価な贈り物をしてるとか、高額のお手当てを渡しているとか」
「トーニオに金を用立ててくれるよう頼んだのか?」
「それは……そう。愛人にして欲しいと頼んだの」
静寂が立ち込め、どこかで硝子の割れる音がしたような気がしました。ユリアスさんが目を見開き、うつむいたリーザさんを凝視しています。
「……今、何て言った?」
「愛人にして欲しい。その場で断られたわ」
リーザさんの頬をつたう一筋の涙。震える唇から漏れる乾いた笑い声。
「笑ってしまうわよね。愛人を持つほど女性に不自由してないんですって。でもわたし、必死だったから。また他の人に恥を忍んで頼むのは嫌だったから、トーニオに泣きついたの」
「何てことだ」
ユリアスさんは白く美しい顔に怒りを湛え、ベッドから降りてリーザさんと僕に背中を向け、ややあって振り返りました。
「レオンをはめたのか?」
「それは、トーニオが……。ボタンを渡されたの。レオンがわたしと結婚の約束をしなければならないような状況を作ってくれって。もし出来たなら、1千万エキュ払うって。ヴァイヘン家の未来の為に、やらなければと思ったのよ。やり遂げなければ、お母様が……フィリップが……。だから……それなのに……トーニオは愚かなわたしを嘲笑うみたいに。わたしとトーニオは共犯だと思っていたのに、あの時ほど一人ぼっちだと感じたことはなかったわ」
リーザさんの話の半分も理解できず、僕は茫然としていました。
トーニオさんが――――? 違う。何かが違う。リーザさんの話の中のトーニオさんは、僕の知ってるトーニオさんとは別人です。
トーニオさんは昔レオンさんにした仕打ちを後悔していて、償おうとしていて、そのせいなのかレオンさんをとても気遣っていて――――。
僕に対しても優しくて、僕をからかいながらも早く屋敷に慣れるよう考えてくれたり、ヘア・ネットを探してくれたり。
トーニオさんがレオンさんに悪意を持ってるんじゃないかと思ったこともあったけれど、やっぱり違うと考え直したばかりなんです。
あり得ない。何かの間違いです。でもリーザさんが嘘をついてるとは思えないし……。
あの時――――。トーニオさんは、リーザさんに持ちかけた計画もボタンのことも全く知らない様子で、レオンさんと話していたっけ。
だからリーザさんは一人ぼっちだと感じたんでしょうか。
冷酷で残酷なトーニオさん。謎だらけのトーニオさん。やっぱりトーニオさんは深い闇の中にいて、僕には本当の姿が見えません。
目の前で涙をぽろぽろ流すリーザさんにつられ、僕もいつしか泣いていました。