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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて2 ~ギムナジウム入学篇~
35/78

5  それぞれの涙  Ⅳ

 雨音が強くなり、稲光が窓を背に立つラインハルト王子のシルエットを照らしています。

 

 灰色の軍服姿の王子は雷光に浮かぶ怨霊のように怖ろしく厳めしく、僕はぶるっと体を震わせました。

 レオンさんが目を細めて王子を凝視し、隣にはトーニオさんがいます。


「私が決めることではない。上層部の命令には、従わねばならない立場なのでな」

 険しい顔つきの王子の前に、トーニオさんが一歩出ました。


「その上層部と闘える武器を差し上げようと言っているんです。ラーデン侯爵が真犯人だと判っておられたのでしょう? 殿下自ら調査に来られたと、バロア夫人が言っていましたよ。しかし証拠が無く、貴方は引き下がらざるを得なかった。それどころかアルットに冤罪を着せることに同意せざるを得なかった。冤罪の件は、誰が決めたのです?」


 王子は、無言でトーニオさんに目をくれました。


「言えないんですね。いいでしょう。だが俺達を味方にすれば、貴方は5年前の雪辱を果たせます」

「俺達……?」

「何も聞かず貴方に裏帳簿と封書を渡す。貴方がそれを使って誰と何を交渉しようと、俺達は関知しない。さっきの2つの条件を呑んでくれさえすれば、それでいい」


 レオンさんが言うと王子の目が僅かに揺らぎ、トーニオさんが言葉をつなぎます。


「冤罪を決めたのは、ベッケラート首相ではありませんか? 当時閣僚の一人だった彼は政敵のラーデン侯爵がフェルキアとつながっている事に気づき、侯爵と取引をした。侯爵が政界から引退する代わりに、情報部の調査を中止させると。当時議会は国際的な緊張状態を前にして国王が推す中立派と、親ベネルチア派や侯爵を中心とするフェルキア派に分裂していましたよね。侯爵の突然の引退とフェルキア派の瓦解が、当時の新聞を賑わしていたことを覚えていますよ。ベッケラートは中立派を擁し国王の信頼を得て首相となり、スパイ事件はアルットを犯人として終結した」


「憶測を口にすると痛い目に合うぞ」


 王子が恫喝するような低い声で言い、僕は唇をすぼめました。

 黒幕は首相――? まさか国王陛下も関わっておられたんじゃ……。

 気になったけれど、僕はそっとドアに視線を走らせました。ユリアスさんが心配です。


「……殿下、どうかお願いです。ユリアスさんを助けてください。ユリアスさんは、すごく悩んだと思うんです。お父様の罪を隠したい気持ちとか、無実の人を助けたいとかお母様を救いたいとか、色々考えた末に正直な道を選んだんだと思います。正直な人が悲しい思いをするなんて、おかしいです」


 震える足をなだめながら一生懸命に言い、王子にぎろりと睨まれて僕はすごすごと引き下がりました。


「あの、僕……ユリアスさんの様子を見て来ます」

「王子の見送りは俺達がやると、ユリアスに伝えてくれ」


 レオンさんが言い僕はうなずいて、廊下に飛び出しました。

 ユリアスさん、何処に行ったんだろう。

 ところどころに置かれたランプを頼りに歩くと、地下貯蔵室に向かう通路の暗がりにユリアスさんが壁に額を付けて立っています。


 呻くような声が洩れ聞こえ、僕の足が止まりました。

 泣いてる――――。

 肩を震わせ声を押し殺したユリアスさんは、いつもの凜とした彼女とは異なって弱々しく見えました。


 お父上やラインハルト王子と堂々と渡り合っていたユリアスさん。あの時ユリアスさんの顔は蒼白で、指が震えていました。


 きっと自分に鞭打ち、無理をしていたんです。本当のユリアスさんは僕と同じ弱冠14歳の女の子で、何でも完璧にこなせるわけがないんです。


 極限状態の中で言うべき事を言い、緊張の糸が切れて涙をこぼしそうになり、泣き顔を見せまいと部屋を飛び出したに違いない。


「ユリアスさん……」

「一人にしてくれ」


 僕が声を掛けると、涙にむせんだ声が返ってきました。闇に浮かぶユリアスさんの横顔は痛々しく、僕も泣きたくなってきます。


「ユリアスさん、立派でしたよ。お父様にもラインハルト王子にも堂々と立ち向かって。僕は、ユリアスさんを尊敬しています」

「尊敬……?」

 ユリアスさんは涙に濡れた顔を僕に向け、声を上げて笑い出しました。


「私が何をしたか見ていただろう。父を牢獄に追いやり先祖の名に泥を塗り、侯爵家を潰して使用人達から生活の糧を奪った。私がしたのは、そういう事だ」


「違います、全然違います。ユリアスさんはアルットさんを助け、侯爵を賭博から遠ざけ、お母様を苦しみから救い出し、侯爵家の名誉と使用人達の生活を守ろうとしたんです。すべてが解決する最善の道を進もうとしたんです。僕はそう思っています」


「そうしたかったよ。出来ることならば」

 ユリアスさんは片手で顔の半分を覆い、唇を震わせました。


「脱獄したアルットがこの屋敷に現れ、レオンから君を預かってほしいと言われた時、運命だと思ったんだ。天が私を試していると。だが私には荷が重過ぎた。アルットを遠国に逃がし、スパイ事件のことは忘れてしまえばよかった。その方が賢明だった」


「そうしていたら、僕はユリアスさんを尊敬しなかったと思います。正直で正義感の強いユリアスさんが、僕は好きです」


 先祖の肖像画を見上げていた時、ユリアスさんは一人で闘う決意を固めたに違いありません。

 僕にも話してくれれば良かったのに……。

 

 僕が貰い泣きしながらユリアスさんのお腹に両手を回し背中に顔をうずめると、ユリアスさんはくるりと体を回して僕を抱きしめました。


 ユリアスさんの体は震えていて、甘い香水の香りが漂って、僕の肩の辺りから涙混じりのくぐもった声が聞こえてきます。


「……怖くてたまらないよ、エメル。これからどうなるんだろう。自分のしたことなのに、怖くてたまらない。……私のせいだ。何もかも私が悪い」

「ユリアスさん……悪くないです……」


 僕の貰い泣きはいよいよ止まらなくなり、ユリアスさんを抱きしめながら、しゃくり上げて泣きました。どうしてこんな事になってしまったんだろう。


 悪いのは、借金を作った侯爵です。でも侯爵だって働き過ぎて疲れてしまっていたのかも知れないし……。ううん、せめてもう少し家族や使用人達のことを考えてくれていたら。


「あの……ユリアスさん。レオンさんとトーニオさんが、ラインハルト王子を相手に交渉しています。証拠の品を、条件付きで渡すとかって」

「それは私の仕事だ……」


 ユリアスさんは静かに顔を上げ、上着のポケットからハンカチを取り出し、僕の涙を拭いてくれました。


「戻らなければ」

 ユリアスさんは僕を見下ろし、ふっと微笑みました。


「君はいい奴だな。私のために泣いてくれるのか」

「僕、ユリアスさんが好きですから。出来ればユリアスさんの親友――愛人になりたいです」


 言ってしまいました。図々しいことを。

 ユリアスさんは計画上必要だったから僕を愛人ということにしただけで、普段なら僕みたいな奴を相手にするわけがないんです。


「嬉しい言葉だ。私の方こそ君の愛人になりたいよ」

 ユリアスさんは僕の瞼に唇をつけ、僕は硬直してしまいました。


「今夜は一緒にお風呂に入ろう。リーザもきっと喜ぶだろう」

「え……」


 今、何て言った? 一緒にお風呂? 聞き間違いです。絶対に僕の聞き間違いです。


「私のベッドは特注品で、3人で寝てもまだ余る。楽しい夜を過ごそう」

「えええっ?!」


 楽しい夜……? 少しも楽しくない怖ろしい光景が目に浮かび、僕の唇がわなわな震え、マテオさんの言葉が脳裏を走ります。『ユリアスとリーザは本物かもしれない……』


 そんな――――。

 目を見開く僕の耳に地下貯蔵室の扉が開く重い音が飛び込んで来て、リーザさんが扉の向こうから現れ、はっとしたように足を止めました。


「……ユリアス。お話が」

 怪訝そうなリーザさんの目が、ユリアスさんと僕を行き来します。


「私も君に話したいことがある。後で話そう。今はラインハルト王子と話さなければならない。エメル、リーザを頼む」

「はい」


 ユリアスさんは「部屋にいてくれ、後で行くから」と安心させるようにリーザさんに微笑みかけ、深呼吸して居間に戻って行きました。

 僕はリーザさんの手を引き、リーザさんの部屋に向かったんです。


 



 蝋燭のぼんやりとした光に照らされたピンクの部屋は幻想的で、ソファに座るリーザさんを蝋人形のように見せています。

 僕が居間で起きたことをすべて話すと、リーザさんは深い溜め息をつきました。


「ユリアスったら、何も話してくれないなんて。わたしに付いていたメイドのことだけど、こっそり地下貯蔵庫を探っていたわ。あそこには秘密の地下金庫があるって使用人達が噂していたから、きっとダンツィに頼まれて裏帳簿を探していたんだわ」


「リーザさんの勘、当たってましたね。ダンツィさんは侯爵から裏帳簿を手に入れてくれるよう頼まれて、メイドさんはダンツィさんの手先だったんですよ、きっと」

「間違いないわね」


 リーザさんは嬉しそうに微笑み、そうしているうちにユリアスさんが戻って来て、ピンクのチューリップ柄のソファにぐったりと腰をおろしました。


「裏帳簿だけ、王子に渡した。賭博禁止法を制定したがっているベッケラート首相は、高く買い取るだろうと王子は仰っていたよ。父上と侯爵家の処遇については何とも言えないが、まだ諦める段階じゃない」


 ユリアスさんの声は疲れ切っているようだったけれど目は希望に煌めいて、ラインハルト王子との交渉がうまく行ったのかなと僕までうきうきして来ました。


 ところが――――。

 お風呂の用意が出来ましたとバーレ夫人が伝えに来て、こそこそと逃げ出した僕。


 ユリアスさんに見つかり引きずられように浴場へと連れて行かれ、そこで僕は目を見張りました。

 馬房を5つ並べたほどもある広い浴室は石壁に囲まれ湯気が立ち込め、白いタイル張りの大きな浴槽にお湯が並々と張られています。

 

「バスタブじゃないんだ……」

「浴場を使うのは月に1度だけだが、今日は特別だ」


 ユリアスさんはそう言ってさっさと服を脱ぎ、慌ててユリアスさんに背を向けると、リーザさんがメイドさんに手伝って貰ってドレスを脱いでいる最中でした。


 僕の視線は、どこに向ければいいんでしょう。

 視界の隅に均整のとれたユリアスさんの白い裸身がよぎり、ユリアスさんは膝まであるシルクのシュミーズを纏って浴槽に向かいました。


 丸裸ではなく、シュミーズを着て入浴するんだ――――。僕の胸に、小さな安堵が広がります。

 それでも恥ずかしいことに変わりはなく、薄いシュミーズを頭から被って体を隠すようにこそこそと着替えました。


 浴槽に浸かったユリアスさんが僕を見ながら、「ふうん」と意味ありげに呟いています。

「まあ!」

 着替え終わったリーザさんまでもが手で口を押え、驚愕と憐みの視線を僕に向けています。


「エメル……可哀相」

「は?」

「きっと栄養が足りなかったのね。リーデンベルク家ではどう? ちゃんと食べてる?」

「はあ……まあ」


 僕は痩せっぽちだけれど、そんなにひどくはないと思うんです。かろうじて骨を覆えるぐらいには、ちゃんと肉が付いてるんです。


「心配いらないわ。赤ちゃんが生まれたら誰でも大きくなるんですって」

「あ、赤ちゃん?!」


 ようやく僕は、リーザさんが可哀相だと言ったのは僕のぺったんこの胸のことだと気がつきました。

 リーザさんの胸といったら、何と言うかもの凄く……ふくよかです。シュミーズがはち切れそうなくらい、ふくよかです。

 う、羨ましくなんかない。僕は僕なんだもんっ。


「……これほど大量のお湯を、どうやって沸かすんですか?」

 僕はがっくりと肩を落とし、脱力した気分で浴槽に浸かりました。

「洗濯用の大きな甕で沸かした湯を、使用人達が総出で運ぶんだ」


 浴場は2階にあるから、1階で沸かしたお湯を使用人達が何十回も階段を上り下りして運んだんだ……。

 そう思うと、沈んだ気分でいるのが申し訳なくなって来ます。


 せっかく運んでくれたんだから、思いっきり楽しまなきゃ。

 お湯を運んでくれた人達に「ありがとうございました。すっごく楽しかったです」って言わなきゃ。


 僕はしゃんと背筋を伸ばし、「僕、泳ぐの得意なんですよ」と潜って見せました。

 潜ったまま浴槽の端まで行って戻って来た僕を、リーザさんが手を叩いて迎えてくれます。


「わたしもやってみるわ。見ててね」

 リーザさんは勢いをつけて水中に頭を先に入れ、足が後になり、その間にシュミーズがめくれ……。

「わ、リーザさん! わぁっ」

 見てしまいました。丸パンを2つ並べたような、まあるいリーザさんのお尻。

 両手で顔を覆った僕の頭の中で蒸気が充満し、ぼんっと音を立てて爆発します。

 この先、丸パンを見るたびにリーザさんのお尻を思い出すに違いない……。


「何を恥ずかしがってるんだ。女同士だろう」

 ユリアスさんは笑いながら、体操するように太ももを交互に上げています。


 あの、ユリアスさん。そんなに足を上げたら、見えちゃう……。

 僕の頭の蒸気はますます膨れ上がり、目のやり場に困って挙動不審な奴みたいに意味もなく周囲を見回しました。


「えっと、そういう……」

 問題じゃないんです。平民だった頃、バスタブを使うのは週に1、2回で、普段は人目につかないよう部屋に桶を持ち込んでタオルで体をこっそり拭くのが常だったんです。


 男女を問わず丸裸は見慣れてないから正視に耐えないというか、やっぱり恥ずかしいというか……。 


 ユリアスさんが面白そうに目を瞬かせ、僕の肩に腕を回しました。


「エメル。いい匂いがする……」

 ユリアスさんの鼻が僕の咽喉に触れ、僕の頭の蒸気が音を立てて噴き出します。


「ひ、ひっ」

「おかしな声を出すな。そうだな、どちらかと言うと色っぽい声の方がいいかな」


 色っぽい声……。や、やっぱりユリアスさんは本物なんです。リーザさんまで僕にしなだれかかって来て、ユリアスさんを真似て僕の咽喉に鼻を押しつけています。


「ほ~んと。バニラみたいな甘い匂いがするわ」

「あの、あの、ひ――――っっ」


 駄目です。もう耐えられない。僕は上気した全身を引きずってお湯にもぐり、反対側に逃げました。

「逃がすものか」

 ユリアスさんが笑いながら追いかけて来て、そこにリーザさんまでもが加わり、僕はとっさの思いつきで2人にお湯をかけたんです。


 浴室に響く歓声。僕もいつしか声を上げて笑っていました。

 3人で追いかけ合ったり逃げたりお湯を掛け合ったりして、僕は心の底から楽しんでいました。









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