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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて2 ~ギムナジウム入学篇~
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5  それぞれの涙  Ⅲ


 優しくて怖いトーニオさん――。魅力的で残酷なトーニオさん――――。

 よく分からないトーニオさん――。


 僕は呟きながら何とか立ち上がり、ベッドに倒れ込んで眠ろうとしたけれど眠れませんでした。


 あれやこれやと考えているうちに、窓の外ではどんよりと厚い雲が垂れ込め、小さな雨粒が窓を叩きます。

 屋敷のあちこちでランプが灯されて、そんな中、ラーデン侯爵が訪れたんです。


 他に予定があったのか二度足を踏むことになったからか侯爵は不機嫌そうで、白髪の混じった髪は丁寧に梳られ、コートには僅かに水滴がついています。居間のソファに陣取り、侯爵はステッキをどんと音高く立てました。


「大事な用件とは何だ」


 低いテーブルを囲むようにソファが置かれていて、侯爵の向かいにユリアスさんが一人で座り、トーニオさんの向かいに僕が座り、僕の隣にはレオンさんがいます。


 ユリアスさんは侯爵にベルトラム男爵、クレヴィング卿、リーデンベルク嬢と順番に僕達を紹介し、部屋に沈黙が漂いました。


 風が強くなり窓に雨粒を吹きつけて、居間は幾つも置かれたランプの周囲だけがぼんやりと照らされ、普段から薄暗いのにますます暗くて怖いほどです。

 壁の一部には絵画が陽に焼けないよう薔薇色のカーテンが掛けられていますが、暗くて黒いカーテンに見えます。


 ユリアスさんが封書を差し出し、侯爵は顔色一つ変えずに文書に目を走らせ、「何だ、これは」としゃがれた声を吐き出しました。


「貴方の20年来の愛人であるバロア夫人から、ベルトラム男爵が借り受けたものです」

「若い男の気を引こうと偽造した紙切れが、わしに何の関係がある」

「文書の真贋は陸軍に提出すれば分かりますが、それにつきましては後にしましょう。5年前のスパイ事件について、私の話を聞いて頂きたい」

「わしは忙しい身だ。手短に終わらせろ」


 侯爵はソファに背中を預けて半ば目を閉じ、瞼の下から鋭い視線をユリアスさん、トーニオさん、レオンさん、そして僕に向けました。


「5年前、貴方は多額の借財を抱えておられた。ラーデン家の帳簿と、賭博業者バウマンの裏帳簿を見れば分かります」

「裏帳簿だと?」

「クレヴィング卿が、バウマンから借りてくれました。現在、当家の金庫に保管されています。5年前の借金の総額はラーデン家の総資産を越え、国王陛下に爵位と領地を買い上げて頂く以外に返済方法がなかった。しかし誇り高い貴方にとって爵位を失うことは耐え難く、そんな貴方にフェルキアのスパイが目をつけ、言葉巧みに借財の肩代わりを申し出たのです」

「つまらん妄想だ。聞くに堪えん。わしは帰るぞ」


 立ち上がりかけた侯爵を、ユリアスさんは手で制しました。ユリアスさんの美しい顔はぞっとするほど冷たく、声は静かで淡々としています。


「あなたが王宮の厨房で何をしたのか、見ていた者がいるのですよ」

「誰が何を見たと言うのだ」

「見たのは、母上です」


 ユリアスさんが言葉を切り、侯爵の目が一瞬だけ空を彷徨いました。

「気の狂った女が何を口走ったか知らんが、真に受けるお前もどうかしておる」


「あの日母上は友人を訪ねて王宮に行き、いるはずのない貴方の姿を見つけた。貴方は議会に出席しているはずで、王宮にいるはずがなかったのです。不審に思った母上は後をつけ、誰もいない厨房の鍵を開けて中に入って行く貴方を見てしまった。貴方はすぐに出て来て、逃げるように立ち去ったそうですね。翌日、母上は王宮での皇太子暗殺未遂事件を知り、半狂乱になってしまわれたのです。何に毒を入れたのです? 国王陛下の食材がどれなのか、誰から情報を得たのです?」


「黙らんか! 時間の無駄であった。わしは帰る!」

 立ち上がった侯爵の前にユリアスさんが立ち塞がり、侯爵と身長の変わらないユリアスさんの目が侯爵を射すくめます。


「お帰りの前に弁明をお聞かせください。5年もの間、貴方を庇って苦しみ続けた母上のために。私が母上からこの話を聞いたのは、昨年です。それまで母上は、ご自分の胸の中だけにおさめておられたのですよ。なぜ罪をアルットに被せたのです?」

「そんな事はしておらん。それに、知らんなら教えてやろう。あの医者は、お前の母親の愛人だ。あの女は愛人を庇いたくて、わしに罪をなすりつけようとしておるのだ」


 一瞬だけ、ユリアスさんの目が細められたように見えました。でも声は静かなままで、冷然と言葉を綴ります。


「ご夫婦の問題に立ち入るつもりはありません。これはラーデン家の一大事です。貴方の協力なしには解決しません」

「偽造文書と賭博業者ふぜいの帳簿と狂った女の証言に惑わされ、一大事とはな。お前には、母親と同じ狂気の血が流れておるのか」

「私には貴方の血も流れております。お座りください。話はもうすぐ終わります」


 ユリアスさんの冷ややかな視線を受け止め、侯爵は憮然として腰を落としました。


「5年前突然政界から身を引かれた時、私は貴方が疲れてしまわれたのだと思い、貴方の身を案じました。その後帳簿をつけるようになり、借財のせいで身を引くしかなかったのだと思いました。今は、フェルキアから逃れる為だったのではないかと考えています。国王暗殺は失敗に終わりましたが、フェルキアが貴方を手離すはずがない。貴方の罪を公にされたくなければ、言う通りにしろと脅されたのではありませんか?」


「馬鹿げておる」


「貴方が今手にされている文書は、貴方にとって保険だったのですね。聡明な貴方はその文書を使い、逆にフェルキアを脅した。一国の国王を暗殺しようとした事が公表されれば、フェルキアが苦心して築き上げたベネルチア包囲網が崩れる可能性がある。結果として貴方は政界から引退して身を隠し、フェルキア陸軍省の責任者は謎の事故死を遂げた。本当に事故死だったのでしょうか。どうお思いになります?」


「知らん。くだらん話に付き合ってやってもいいが、お前の友人達には遠慮してもらえ。内輪の話を他人に聞かせる趣味はない」

 侯爵の険しい視線が再度僕たちを巡り、トーニオさんが静かに口を開きました。


「裏帳簿と文書を苦労して手に入れたのは、俺とクレヴィングです。話を聞く資格はあると思いますが」

「私の友人達は、ここでの話を外に洩らすようなことはしません。お聞かせください、父上。何故フェルキアの言いなりになったのです?」

「言いなりになど、なってはおらん!」


 激昂した侯爵の顔は赤くなり、ステッキが鋭く床を突きます。


「お前に政治を論じても分かるまいが、5年前国王はフェルキアにもベネルチアにも与さず中立を保つと言ったのだ。緊迫した国際情勢の中で、そんなことが許されるわけがない。万が一フェルキアとベネルチアが平和裏に握手するような事にでもなれば、双方に恨まれたトライゼンは潰される。長年の平和に毒されてそんなことも分からんようになっておるから、天は陛下に毒水を下し罰を与え給うたのだ。実際に毒に冒されたのは、御子息であったがな」


「……水に毒を入れたのですか」

「言葉のあやだ。もしもわしが犯人の立場なら、人を使って毒を入れさせる。自分の手を汚すような真似はせん」

「そうでしょうか。貴方は人を信じない。人は裏切るものだと、常々仰ってるじゃありませんか」

「時と場合による」


 歯を噛みしめた侯爵の頬が、ぴくぴくと引きつっています。


「父上。お願いがあります。侯爵が国王暗殺に関わったとなれば、侯爵家は取り潰されます。そうなる前に爵位を私に譲ってください。関わったのが現侯爵の父親なら、罪は侯爵家にまでは及びません。一言譲ると言って頂ければここにいる友人達が証人となり、法的に有効です。侯爵家を守るには、そうする以外に方法はありません」


「何の罪も冒してはおらんと、何度言わせる気だ」

「いいえ。貴方は国王陛下を毒殺しようとした」

 

 トーニオさんが、静かに言いました。


「貴方はフェルキアを脅す切り札とも言うべき文書を、最も信頼できる人物に預けた。あなたの長年の愛人に。バロア夫人は秘密を守り通すつもりだったが、以前にも増して賭博にのめり込む貴方の姿と、貴方の代わりに無実の者が牢獄にいるという事実に心を痛めていたのですよ。20年もの間貴方を愛し続け、疲れてしまってもいた。自分と結婚してほしいという彼女の願いを、貴方は拒んだそうですね。今はただ冒した多くの罪を償いながら、心静かに暮らしたいそうです」


「愛人ふぜいの言い分を真に受けるとは青いな、ベルトラム」

「真実を見分ける力は持っているつもりです。バロア夫人は法廷で証言してもいいと言っていますから、もう逃げられませんよ」

「あの女は、金さえ渡せば黙る。ユリアス、バロアに金を渡せ」

「できません」


 ユリアスさんの言葉に、侯爵は目を剥きました。


「金が惜しいのではありません。ラーデン侯爵家の名誉を傷つけた貴方を、これ以上庇うことは出来ないのです」

「父親が罪を着せられようとしておるのに傍観か。女のお前を跡取りにしてやったのに、それが恩ある親に対する態度かっ」

「私の親は、貴方だけではありません」


 膝の上に置かれたユリアスさんの白い手が、小刻みに震えています。血の気の失せた顔はますます白く、怒りのこもった声が強くなった雨音を遮るように響き渡ります。


「私の体には、先祖の血が流れています。すべての先祖が私の親です。先祖が命を賭けて勝ち取った領地と爵位を守り、潔く罪を償ってください。貴方の方こそ、親に対する礼を失しているのではありませんか」

「わしに説教する気かっ!!」


 侯爵は憤怒の形相で立ち上がり、ステッキを振り回しました。


「出て行け! お前など娘ではない。執事を呼べ!!」


 ユリアスさんもレオンさんもトーニオさんも無言のまま侯爵を見つめ、誰一人立ち上がろうとはしません。

 執事を呼べと言われたら、呼んだ方がいいんでしょうか。立ち上がりかけた僕の肩を、レオンさんの手が押さえます。


「役立たずどもめがっ」

「父上!」


 大股でドアに歩み寄る侯爵を、立ち上がったユリアスさんが呼び止めました。


「爵位を譲ってください。これが最後のチャンスです」

「お前には何一つ渡さん!」


 侯爵はドアを開き一歩前に出て、すぐに下がりました。3人の兵士が部屋に入って来て、彼らに追いやられるように侯爵は後ずさって行きます。

「何だ、おまえらは」

「毒水とはな」


 侯爵とは反対側から聞き覚えのある声がし、僕はぎょっとして座ったまま振り返り、目を見張りました。

 絵画を覆っていた薔薇色のカーテンが開き、現れたのは――――ラインハルト王子!

 軍服を着こみ腰にサーベルを下げた王子は記憶の通りに冷たい表情で、身も凍るような微笑を浮かべ侯爵を見ています。


「話はすべて聞かせて貰った。毒水とは面白い」

「言葉のあやだ。こんな茶番に王子を呼ぶとはユリアスの愚かさにも呆れるが、貴方も貴方だな」


「毒は皇太子が食べた食材に混入していたと、公式に発表されている。あの当時、鶏肉か付け合せのじゃが芋かと各新聞は書き立てた。言葉のあやならば、毒肉や毒芋などが自然に出て来ると思うのだがな」


 王子が顎を上げると、3人の兵士が侯爵の腕をつかみました。

「軍本部まで御足労願います、閣下」

「わしは行かんぞ」

「話を聞かせて貰おう、ラーデン。軍本部で、ゆっくりと」


 ラインハルト王子が笑顔になり、僕の背筋が冷たくなっていきます。王子が笑えば笑うほど、部屋の空気が冷たくなっていくんです。

 侯爵は兵士に抱えられるように部屋を後にし、レオンさんとトーニオさんと僕は立ち上がりました。

 ユリアスさんが王子に歩み寄り、必死な口調で訴えたんです。


「お願いがあります。父は長年トライゼンの為に尽くして来ました。どうか父の減刑と、先祖の功績に鑑み、爵位と領地の保全をお願いします」

「無理だということは、分かっているだろう」


 王子の冷たい声が響き、ユリアスさんはたじろいで唇を震わせました。


「せめて領地だけは。多くの者が働いています。彼らが職を失うことが無いよう、お取り計らい頂けないでしょうか」

「国王暗殺がどれほど重い罪か、よく考えて言うのだな」


 素っ気ない言葉が、冷え冷えとした室内を巡ります。ユリアスさんは一歩下がり、王子を見上げたまま何度も瞬きして睫毛を震わせ、そのまま走って部屋を出て行きました。


「条件次第で、証拠の品を貴方に渡す」

 レオンさんの声を耳にして、ユリアスさんを追いかけようとした僕の足が止まりました。

「無条件で渡せ。さもないと、貴様も罪に問われることになるぞ」

 ラインハルト王子の視線が、刃のようにレオンさんに突き刺さります。


「一つ、ラーデン侯爵は田舎の領地に幽閉とする。二つ、ユリアスに爵位を継がせ領地はこれまで通りとする」

「気が触れたか。私が決めることではない。法が裁くのだ」

「スパイ事件を裁くのは陸軍情報部だということを、アルットが証言してくれますよ。無実の者を5年間も牢獄に閉じ込められるなら、侯爵家の情状酌量ぐらい簡単でしょう」


「バロア夫人が法廷で証言するのは、侯爵を賭博から救い出すためです。今のままでは彼はいずれ自滅しますからね。俺もレオンと同じことを夫人に言い、説得したんです。2つの条件が揃うならと、ようやく証言する事にも証拠の文書を差し出す事にも同意してくれたのに、侯爵が極刑になるなら協力してくれなくなりますよ」


 と、トーニオさん。


 王子はぎりっと歯を食いしばり、レオンさんとトーニオさんに切りつけるような視線を突きつけました。





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