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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて2 ~ギムナジウム入学篇~
33/78

5  それぞれの涙  Ⅱ


 サロンのソファに浅く腰かけ、封書を開いて手紙を読んだユリアスさんの顔はぴくりとも動きませんでしたが、見る見る白くなっていきました。

 無理もないんです。宛名はユリアスさんのお父様、ラーデン侯爵になっていたんですから。


「父をここに呼ぶ。父が来るまでみんな休んでいてくれ」


 ユリアスさんは仮面のような顔で抑揚のない声で言い、手紙を持ったまま静かに立ち上がり、サロンを出て行きました。


「フェルキアの陸軍省が、よくあんな危ない手紙をしたためたな」

 レオンさんは腕を組み、テーブルを見つめています。


「フェルキアのお墨付きがなければやらない、と侯爵が言ったんじゃないか。5年前といったら、フェルキアはベネルチアと領土問題で揉めて一触即発の状態だったよね。フェルキア嫌いで頑固なトライゼン国王を亡き者にすれば、若い皇太子殿下とトライゼンを自陣営に取り込めると考えたんだろう。殿下とフェルキア王女との縁組も画策されていたしね。ところがその日、陛下はたまたま腹の調子が悪くて食事をとらず、手つかずだった陛下の食事を食べたのは、貧乏性の皇太子殿下だった」

 ゴブリン織のソファに座ったトーニオさんの口調は冗談めかしていたけれど、顔は笑っていません。


「ユリアスさんは、お父様をどうするつもりなんでしょうか」


 僕も笑えませんでした。最悪の場合、ラーデン侯爵は監獄行きです。爵位も領地も取り上げられてしまうかもしれない。

 レオンさんの顔が僕に向けられ、黒い瞳が僕を安心させるかのように優しく瞬きました。


「ユリアスにまかせよう。彼女の手に負えなくなったら、その時は俺達の出番だ。……よく頑張ったな、エメ。怖くなって途中で逃げ出してもおかしくない状況だったのに」

「そんな……僕、そんな」


 レオンさんが微笑み、僕は舞い上がってしまいました。レオンさんに褒められてると思うと、頭の中で鳩が羽をつないでラインダンスを踊ります。


「エメルちゃんは頑張り屋だもんね。どんどん深入りして歯止めが効かなくなるから、詳しい事情を話せないっていう欠点もあるけどね」

「えっ、そうなんですか? お二人が僕に詳しく話してくれないのは、僕の歯止めが効かなくなるからなんですか?」

「話せば自分に出来ることを見つけて、危険を顧みずやろうとするだろう?」

「そうそう。泣いたり叫んだりするくせに、足は危険な方向に向いてるんだから。怖ろしくて見てられないよ」


 褒めてくれているんでしょうか。少なくともトーニオさんは違うような。遠まわしに、向う見ずとけなされているような。

 でもレオンさんもトーニオさんも温かみのある笑顔で、二人は僕を見守ってくれているんだなあと思いました。

 ただし、僕に手綱をつけて。

 

 



 侯爵は午後に来訪すると聞かされ、僕は少しの間眠ることにし、2階の部屋に向かいました。

 振り返るとレオンさんとトーニオさんは別棟にある客室に行こうとして、二人並んで廊下を歩いています。


 普段通りに振る舞っているし笑い合ってもいるけれど、二人の間には探り合うような間合いを詰めるようなぴりぴりとした空気があります。

 リーデンベルク家の仲良し三兄弟は僕の儚い幻想に過ぎない――――そんなこと、僕にだって分かってるんです。


 レオンさんは、トーニオさんが話すまでボタンについて何も言うなと言ったけれど、いつまで待てばいいんでしょうか。

 僕に出来ることは他にないのかな。リーザさんに聞いてみるとか。


 心の痛手から回復しきっていないリーザさんに残酷な質問をぶつける場面を想像し、とても出来ないと思いました。

 リーザさんがもう少し元気になるまで待ってみよう。レオンさんもトーニオさんに対して、こんな気持ちなのかな。


 トーニオさんは僕の目にはいつもと変わりなく映るけれど、レオンさんの目には違って見えるのかもしれません。

 普段通りではない、何処か痛みを抱えているトーニオさんが、レオンさんには見えるのかもしれない……。


 僕は眠ることを諦め、レオンさんを追いかけました。

 トーニオさんは客室に向かったようで、レオンさんは図書室に入って行き、僕は閉ざされた古びた扉の前で暫し逡巡したんです。


 本を読もうとしているレオンさんの邪魔になるんじゃないか、レオンさんは僕なんかと話すより本が読みたいんじゃないか。

 そんな事を考えながら傷ついても泣かないぞと覚悟を決め、僕は深呼吸して扉を開けました。


 図書室は古色蒼然として、天井まである本棚が白い漆喰の壁一面に建てつけられ、古めかしい書物がぎっしりと並んでいます。

 一歩足を踏み入れるとカビのような匂いとインクの香りが入り混じり、明り取り用の窓からうっすら差し込む光に照らされたレオンさんが振り返って僕を見ました。

 

「あの、お話が……。えっと、その前にランプを……」


 ランプ台に駆け寄って火を灯そうとする僕の横に立ち、レオンさんはそっと僕からランプを取り上げたんです。


「俺がやる。お姫様は座っていてください」


 僕は目を丸めました。お姫様……僕が? レオンさんは悪戯っぽく微笑んでいて、僕も笑って図書室の椅子に座ったんです。


「どうした? 眠れそうにないのか?」


 レオンさんは僕の向かいに座り、長机に肘を置いて身を乗り出すように僕を見ました。


「ええ……。レオンさんはトーニオさんをどう思いますか? 好き? 嫌い?」

「好きも嫌いもないだろう。兄弟なんだから、否応なしに助け合うしかない」

「そうですよね」


 僕の質問が意外だったらしく、レオンさんの目が僅かに見開かれています。


「トーニオさんが僕に、昔話をいくつか聞かせてくれたことがあったんです。初対面のレオンさんを殴りつけたとか、レオンさんが大事にしていたクマのぬいぐるみの首を引きちぎったとか……」

「あいつ、そんな事まで話したのか……」


 レオンさんは呆れたような困惑したような表情で、首を振りました。


「初めて会った時のあいつは、見るからに傲慢そうな餓鬼だったよ。ディリア母上に将来は何になりたいかと聞かれ、俺は船乗りになりたいと答えたんだ。そしたらあいつ、金は出してやるし船長として雇ってやるから自分の下で働けと言った。正直に言うが、俺はその時こいつを殴ってやろうと決めた」

「えっ……」


 僕が言葉を詰まらせると、レオンさんはにやりとしました。


「たまたま向こうが先に手を出しただけで、時間の問題だったんだよ。ぬいぐるみは……俺の所持品の中にぬいぐるみがあることは、秘密だぞ」


 レオンさんは怖い顔を装ったけれど、目が笑っています。僕は拳闘士の扮装をして腕にぬいぐるみを抱くレオンさんを想像し、笑ってしまいました。


「トーニオは『振り』をするのが習慣になってるんだ。悪い奴の振り、遊び回っている振り、冷淡な人間の振り。でも本当は優しい奴だよ。小さなことにも気がつくし、細やかに気を配る。王宮の女官たちに気に入られているのは、その辺りにも理由があるんだろう」


 毎朝爆発する僕の可哀相な髪の毛のために、トーニオさんがヘアネットを持って来てくれて、とても嬉しかったことを僕は思い出しました。

 あの時はもれなく付いてきた透け透けのネグリジェに気を取られてしまったけれど、あれはトーニオさんの照れ隠しだったのかも知れません。


「それから、あの……リーザさんの件なんですけど。レオンさんはどう考えてますか?」

「考えないようにしてるよ」


 レオンさんの視線が、わずかに揺れました。


「二人とも、それぞれ理由があるんだろう。俺には分からないし、本人たちにもよく分かっていないかも知れないな。これが理由だとその時は思っていても、後で冷静になって考えてみると心の奥に別の理由が潜んでいたというのはよくあることだ。俺は、トーニオの本心が知りたい。表面的な理由じゃなく、本当の理由が聞きたい。だからあいつが落ち着いて考えられるまで、時間を置きたいんだよ」

「僕も知りたいです」


 僕の心は醜くて、トーニオさんがレオンさんを本当は嫌っていて嫌がらせをしたんじゃないかとか、昔の傲慢なトーニオさんが今も生きてるんじゃないかとか、そんな事ばかり考えてしまいます。


 そんなはずはないと否定しても振り払っても醜い考えばかりが浮かんで来て、自分に嫌気がさし、僕はレオンさんの澄んだ目を見上げました。


「……船乗りになりたいんですか、レオンさん」

「昔はね。その頃読んでいた冒険小説の影響を受けて、宝探しに行きたかったんだ」


 冒険、宝探し……。まるで僕のパパみたいです。ただパパの場合、宝というのは女の人のことだったけど。


「探しに行く必要はなかったよ。宝が向こうからやって来た」

「え……宝箱が歩くんですか?」


 手足が生えてのしのし歩く宝箱が頭に浮かび、僕は目をぱちくりさせました。レオンさんは声を上げて笑っています。 


「そう、世界で一つきりの歩く宝箱だ。一つ問題があって、蓋が開かないんだよ。どうすれば鍵を開けられるのかが分からない」   

「はあ……。いつか見せてくださいますか、その宝箱」

「いいよ。いつでも。一緒に鍵を開ける方法を考えてくれ」


 レオンさんの瞳はきらきら輝いて、優しい眼差しが僕に注がれています。僕は、ぴんときました。レオンさんの歩く宝箱って人間のことなんです。

 もしかすると女の人かもしれない……パパみたいに。


 レオンさんは僕に、宝とも言うべき大切な恋人を紹介しようしている――――きっとそうだ。

 僕は、泣きそうになりました。僕はレオンさんの妹なんだから、お二人を祝福しないといけないんです。

 泣くんじゃないぞっと自分に強く言い聞かせ、僕は立ち上がりました。


「僕、少し休みます……」

「ああ。それがいいな。目が赤い」

「レオンさんも休んでくださいね」


 不思議そうに僕を見るレオンさんを残し、僕はよろよろと自室に向かいました。

 レオンさんに恋人がいると聞かされると僕は傷ついてしまい、そんな自分を嘲笑いたくなります。


 僕には傷つく権利すらないのに。僕はレオンさんの妹で、レオンさんも僕を妹だと言ってるのに。

 目をごしごし拭いながら廊下を歩いている時、トーニオさんに会ってしまったんです。


「どうしたの? 泣いてるの?」

 トーニオさんは僕の顔を覗き込み、

「そういうんじゃ……その……ユリアスさん。辛い思いをしてるでしょうね」

 僕は懸命に話を逸らしました。


「どうかな。最初からこういう計画だったんだし」

「えっ」

「詳しく聞きたい? 君の部屋で話そうか」

 トーニオさんに言われ頭の片隅で危険信号が鳴ったけれど、大切な兄なんだからと気持ちよく招待することにして、トーニオさんと並んで廊下を歩きました。


「スパイ事件の真犯人はお父上かもしれないと考えて、ユリアスは君を人質にとったんだよ」

 トーニオさんが、声をひそめて言います。 

「人質……?」

「君を取られたら俺もレオンも降参するしかないし5年前の禍根もあるしで、俺達はユリアスに協力することにしたわけ」

「そうだったんですか……」

 複雑な心境です。ユリアスさんは、僕の腕を見込んで用心棒に雇ってくれたんじゃなかったんだ……。


「後は侯爵の到着を待って、なるようにしかならないってところかな」

 部屋に入り、ランプ台に向かおうとした僕の腕をトーニオさんがつかみ、僕を壁に押しつけました。

 トーニオさんは「ひっ」と叫ぶ僕を挟むように両手を壁につけて突っ張り、僕を見下ろしたんです。


「ねえ、エメル。俺の周囲には何人も女性がいるけれど、虚しくて仕方がないよ」

「そ、そうなんですか」


 やっぱりこうなってしまったもっと警戒するべきだったという後悔を脇に置き、僕は何処かに助けが転がってないかと部屋の中をきょろきょろ見回し、走って逃げる以外に方法はないと結論づけました。


「数多くの女性よりたった一人の大切な女性にそばにいて欲しいと、最近思うようになったんだ」

「い、いいんじゃないですか。それじゃ僕は向こうに……」

 トーニオさんの腕の下をくぐって逃げようとする僕の両腕を、トーニオさんがつかみます。


「きゃ……」

 僕の目の前にはトーニオさんの真顔があり、トーニオさんの顔が余りに真剣で、僕は悲鳴を呑み込みました。

 いつものように僕をからかってるんだと思ったけれど、雰囲気がいつもとは違うような……。


「どうしたんですか、トーニオさん。何か悩み事があるんですか? 僕じゃお役に立てないかもしれないけど、聞きますから」

「君のことで悩んでるんだよ」

 トーニオさんの口元に皮肉めいた微笑が浮かび、次の瞬間同じ口元から信じられない言葉が飛び出したんです。


「俺の恋人にならないか、エメル。他の女性とは付き合わないと約束する。俺の恋人は、君だけだ」

「何言ってるんですか。僕たち、兄妹なのに」

「血のつながらない兄妹だよ。結婚もできる」


 どうしてそんなこと言うの? 恋人とか結婚とか、トーニオさんは僕をからかう新手を思いついたに違いありません。

 でもトーニオさんの表情は真剣なままで、僕は怖くなり、唇をぶるぶる震わせました。


「あの、あの、あの……」

「どうする、エメル? レオンはここまでは来ないよ」


 トーニオさんの唇が僕に近づいてきて、僕の全身が震え始めました。目の奥から熱いものがじわっと湧き上がり、目をぱちぱちさせる僕をトーニオさんが見つめています。


「……俺じゃ駄目か?」

 トーニオさんは尋ねたけれど、どう答えていいのか分からない。どうして僕なんかにそんな事を言うの? 女の子は他に大勢いるのに、よりによってどうして僕なんか?


 やっぱりこれは新手の冗談です。僕をひどく傷つける悪い冗談。リーザさんと何かを企んだかもしれなくて、レオンさんを陥れようとしたかもしれなくて、その上僕をからかって楽しんでるのかもしれない……。


 僕の頬をつたう涙をトーニオさんは指先でぬぐい、天を見上げました。

「そういうことか」

 それだけを言い残してトーニオさんはさっさと部屋から出て行ってしまい、僕は呆然として暫くの間立ち尽くしていました。


 トーニオさんという人がわかりません。優しい人だとレオンさんは言い、僕もそう思っていたのに――――。

 全身から力が抜け、僕はその場にへなへなと座り込んでしまったんです。







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