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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて2 ~ギムナジウム入学篇~
32/78

5  それぞれの涙  Ⅰ


 ユリアスさんに声をかけそびれ、僕はすごすごと大広間に戻りました。

 彫刻が施された白い漆喰の壁と黒っぽい木材で覆われた大広間は、古めかしい印象を受けるけれど力強く男性的な空間です。


 レオンさんがいるはずのサロンを覗くと誰もいなくて、警察の事情聴取は終わったのかな、レオンさんは部屋で休んでるのかなと思いつつ、中庭に出てレオンさんを探しました。


 真っ赤に紅葉したツツジを両側に眺めながら進むと、ダリアが咲き乱れる円形花壇の中央に黄色い蔓薔薇を絡ませたパーゴラがあり、リーザさんが一人立っています。


 リーザさんの視線の先にあるものを見て、僕の心臓がどきりと跳ねました。井戸! まさか……。

 僕はモップを前後に振りながら、全速力でリーザさんに駆け寄ったんです。


「お一人ですか? ……メイドさんは?」


 リーザさんにはメイドが付いていると、バーレ夫人は言っていたのに。

 僕をちらっと見て視線を落とすリーザさんは儚げで今にも消え入りそうだけれど、ほんの少しだけ生気が感じられます。


「置いて来たわ。椅子に座ったまま熟睡してたから」

「はあ……。それでは僕がリーザさんに付き添います」


 またリーザさんに嫌な思いをさせてしまうんじゃないかと危惧しましたが、井戸に飛び込まれるよりはマシです。

 リーザさんは黒目がちの瞳を僕に向け、真剣な表情で尋ねました。


「エメル、教えてくださらない? このお屋敷で何が起きてるの? 警察が来たって使用人達が話していたわ。何があったの?」

「スパイ事件のことはユリアスさんから……」

「スパイ事件ですって?!」


 目を見開くリーザさんを見て、僕は仰天しました。リーザさんは何も聞かされてないの? 


「5年前の皇太子殿下が暗殺されかけた事件のこと? ユリアスが関わっているの?」

「えっと、えっと……」


 万事休す。馬鹿な僕は、うっかり口を滑らせてしまったんです。どうしよう……。

 でもユリアスさんは、どうしてリーザさんに何も話さなかったのでしょうか。リーザさんはユリアスさんの愛人で、愛人とは親友のことで、しかも同じお屋敷に住んでるんだから何もかも話してもおかしくないのに。


 リーザさんの驚きと哀しみが混じり合ったような表情が、僕には自分の顔のように見えました。

 僕だって大したことは話して貰ってない。レオンさん達に爪弾きにされてる。今のリーザさんの気持ちが、僕には痛いほど分かります。


「僕もリーザさんに相談したいことがあるんです。ユリアスさんについて」


 ユリアスさんの本当の姿について。本当は怖くて冷酷な人なのかどうか。


「その前に約束してください。二度と命に関わるようなことはしないって」

「……分かったわ。話して。ユリアスは困ったことになってるの?」


 パーゴラの下に設えられたベンチにリーザさんと並んで座り、僕は事情をかいつまんで話しました。

 アルットさんが邸内にいることは話さず、レオンさんがバウマンの裏帳簿を盗み出したこと、トーニオさんが別の何かを探しているらしいこと、ラーデン侯爵がお金を必要としていることなどを話したんです。

  

「ユリアスは、どうしてそんな事件に関わろうとするのかしら……」

「それをあなたに相談したいんです。ユリアスさんって政治に興味があるんですか?」


「そんな風に感じたことはないけれど……。でも、ラーデン家は先祖代々政治家の家柄だから。ユリアスのお兄様のガルトゥール様は、お父様の跡を継いで政治家になるはずだったらしいわ。でも僅か8歳でお亡くなりになって、お母様はおかしくなられて……」


「今でも時々ユリアスさんを『ガルトゥール』と呼ぶって聞きました」

「ええ……。わたしも何度かお会いしたけれど、繊細な方よ。息子を亡くしたせいで、一時は精神を病んでおられたの」


 リーザさんの表情は苦しそうで、きゅっと噛んだ唇が辛そうです。


「ユリアスを連れて田舎の領地に引き込まれて、ユリアスに男の子の恰好をさせて『ガルトゥール』として育てたそうよ。ユリアスはかなり大きくなるまで、自分の名は『ガルトゥール』だと思い込んでいたんですって」


「ユリアスさんは、いつ王都に戻って来られたんですか?」

「フィアの1年生になる少し前。9歳の時ね。その頃にはお母様の容体も落ち着かれて、社交界にも顔を出しておられたの。それが突然……。無理をされたのかもしれないわ。入学式の直前になって突然錯乱されて、侯爵の命令で田舎の領地に戻されてしまったの」

「そうだったんですか……」


 僕はうなだれました。9歳と言えばパパが家に連れて来る数多い女性に、僕が精一杯のおもてなしをしていた頃です。

 もしかして僕のママになってくれるんじゃないかと期待して――――。


「ユリアスさんのお母様は、ユリアスさんをユリアスさんとして愛しておられるんでしょうか。それとも、今でも身代わり……?」

「どうかしら。ユリアーネと呼びかけることの方が多いようだけれど、時々分からなくなってしまわれるみたい。8歳の時のガルトゥール様の肖像画を見たことがあるけど、ユリアスと髪の色目の色が同じで、顔立ちもよく似ているの」


「侯爵はどうなんでしょうか。僕の目から見て、ユリアスさんを可愛がっているようにはとても見えないけど……」

「誰の目から見てもそうでしょう。侯爵が誰かを可愛がるとか愛するとか、想像できないわ」


 侯爵の話になると、リーザさんの口元にほんの少しだけ皮肉っぽい笑みが浮かびます。


「リーザさんの部屋にポリッジを持って行った時、聞いてしまったんです。ラーデン家が破産寸前だって。本当なんですか?」


「……ええ。ユリアスが苦労してやりくりして貯金しても、ダンツィが勝手に銀行から引き出して侯爵に渡してしまうの。侯爵は取り巻きや賭け事にお金を湯水のように使ってしまわれるし……。たくさんあった地所も売ってしまって、家畜も……。それなのに、わたしは平気で居候してるんだわ。何の役にも立たないのに」


 リーザさんは花の蕾のような唇を震わせて、固く閉じた目から握り締めた手に涙が一滴落ちました


「役に立ってるじゃないですか。リーザさんがいるから、ユリアスさんは一人ぼっちじゃないんですよ。リーザさんは、ユリアスさんを支えてると思います」

「そうかしら。苦しい家計についてもお父様についても、使用人の方が詳しいと思うわ。使用人から聞いた話をユリアスに尋ねて、やっと答えて貰えるのよ。スパイ事件のことだって……。わたしに話しても仕方がないから話してくれないんだわ」


 僕だって立場は同じです。レオンさんもトーニオさんも、僕に大切なことは話してくれない。


「リーザさんに、いつも笑顔でいて欲しいからじゃないですか。暗い話をしないのは、暗い顔になって欲しくないからじゃないですか」


 ユリアスさんは何かを守りたい気持ちの強い人で、侯爵家と同じくらいリーザさんを守りたいと思っているのかもしれません。

 自分が頑張ることで誰かの笑顔を守れたら、それで満足するのかも。

 レオンさんとトーニオさんも、そう考えてるのかな……。


「そんなの友達でも何でもないわ」

「そうですよ。守られる側に立てば頭にくる話です。レオンさんやトーニオさんはもっと色々知ってるはずなのに、僕には話してくれないんです。ユリアスさんも、そうなんですよ」


 守ってくれるのは嬉しいけれど、一緒に闘おうと言ってもらえたら仲間だよと言ってもらえたら、もっと嬉しい。

 気がつくとリーザさんは僕をじっと見ていて、ピンク色の唇に微笑が浮かんでいます。


「わたし達、手を組めるかもしれないわね」


 リーザさんに言われ、僕は目を丸めました。


「手を組む……って何をするんですか?」

「ユリアスに恩返しができるかもしれないってこと」


 リーザさんの頬に赤みが差し、目がきらきら輝いています。初めて会った時の愛らしく生気に満ちたリーザさんに戻りつつあるようで、僕は嬉しくなりました。

 リーザさんに尋ねたいことは多々あるけれど、それはこの際置いておいて、リーザさんと共闘してもいいと思ったんです。


「使用人の噂話とわたし達の推理力を結集すれば、ユリアスの役に立つ情報が手に入るかもしれないわ。たとえば弁護士のダンツィだけど、いつもしかめっ面で詰まらなそうで、ハラハラドキドキするような刺激に餓えていそうだと思わない?」

「は?」

「スパイやってみたいですって顔をしてると思うのよ。それに実はあの人、メイドの一人と怪しいっていう噂があるの」

「それが……?」


 スパイ事件とどう関わるのでしょうか。


「いけない!」


 突然リーザさんが立ちあがり、僕は驚いて思わず腰を浮かせました。


「そのメイド、わたしの部屋で居眠りしてるわ」

「あの、話が見えてこないんですけど……」

「わたしの勘よ。女の子の第六感。ダンツィはスパイで、メイドは手先じゃないかしら」

「ええっ」


 発想が飛躍どころか月まで飛んで行っています。リーザさん、本当に大丈夫かな。僕は目をぱちくりさせ、生き生きとしたリーザさんを見上げました。


「一緒に来て、エメル。メイドを見張るのよ」

「でも、でも……」


 リーザさん、気力を取り戻してくれたのはいいけれど、勘に振り回され過ぎなんじゃ……。

 何の根拠も理屈もない疑念だということは、僕のささやかな脳にだって分かるというのに。


 リーザさんに手を引かれ邸内に入ろうとした時、厩の方から歩いて来るトーニオさんが見えました。


「トーニオさんが帰って来たみたい。トーニオさんが何を探しているのか、聞いて来ます」


 トーニオさんの名を聞いた途端、動きがぴたりと止まり、さっと青ざめるリーザさん。

 やっぱりリーザさんとトーニオさんの間には、何かあるんでしょうか。


「……聞いても、答えないと思うわよ。動かぬ証拠を突きつけないと男は白状しないものだって、色んな人から聞かされたわ」

「は? ……あの、でも、僕、聞いてみたいです」


 リーザさんは溜め息をつき、横目で僕を見ました。


「わかったわ。手分けしましょう。わたしはメイドを見張る。あなたはトーニオから話を聞く。後で結果を持ち寄りましょう」

「はい」


 リーザさんが屋敷に入って行くのを確かめ、僕はトーニオさんに向かって走りました。


「トーニオさ~ん」


 声を上げるとトーニオさんはにこっとして、両手を広げています。

 ぎょっとして立ち止った僕に歩み寄り、トーニオさんは僕の首に両手を回し、僕の歯がカタカタ鳴るような官能的な微笑と眼差しで僕を見たんです。


「会いたかったよ、メイドくん。1日に4人はきつかった。しかも眠らずに。君を思い浮かべ、何とかしのいだよ」

「え?」


 トーニオさんの青い目がきらっと光ったと思った次の瞬間、トーニオさんの手が僕の脇の下から背中に回り、僕はトーニオさんに抱きしめられていました。


「ひっ、ひ――っ」

「その馬の叫びのような声が懐かしいよ」


 馬は叫ぶんだろうかという疑問が僕の脳裏を瞬時によぎって消え、両手を真上に上げた僕は上半身をきつく抱きしめられ、足をばたばたさせて暴れたんです。


「それにしても、メイドくん。痩せ過ぎじゃない? 胸のふくらみが感じられないんだけど」

「あの、あの、ひひ――――っっ」


 トーニオさんの唇が僕の耳をくわえ、僕は一段と激しく暴れました。


「この一両日で服の脱がせ方が格段に早くなってね。そうする必要があったからなんだけど。君の服を脱がせて、本当に女の子かどうか確かめてもいい?」

「だっ、だっ、だっ……」

「何? 大好きって言いたいの?」

「駄目――――っっ!!」


 のけぞりながら叫び、急にトーニオさんが手を緩めたから後ろに倒れそうになり、誰かの腕に支えられて体勢を整えました。


「レオンさん!」


 とんでもない現場を見られてしまった僕は顔も耳も熱くし、さっぱりしたシャツとズボンに着替えたレオンさんは怒った顔つきでトーニオさんを睨んでいます。 

 

「何だろうねえ。一段と嗅ぎ付け方が早くなったね、レオンちゃん」

「おまえが戻ったら知らせてくれるよう、門番に頼んでおいたんだ」


 優雅で趣味のいいスーツ姿のトーニオさんは、鬱陶しそうに前髪をかき上げました。


「女官たちの噂話を嗅ぎ回ってこれはと思う女を4人に絞り、順番に攻略してさすがの俺も空っぽ。で、成果がこれ」


 女? 攻略? 一体、何の話? 空っぽって……?

 目をぱちくりさせる僕の前で、トーニオさんがレオンさんに差し出したのは1通の封書でした。

 中を開いて読むレオンさんの顔に顔を近づけ、僕も読みました。


 これ――――何だろう。

 読み進めるうちにお腹が氷を抱いたように冷たくなり、顔は衝撃で熱くなって来ます。

 トライゼン国王を暗殺する計画に同意するという内容で、差出人はフェルキアの陸軍省です。宛名は――――。


「ええっ」


 僕は息を呑み、どうやら最初から内容を知っていたらしいレオンさんとトーニオさんは顔を見合わせ、うなずき合っています。


「それ、写し書きだからね。実物を持ち出すことは許可してもらえなかった。買い取ろうと持ちかけたけど、命がかかってるからと断られたよ。実物は銀行の貸金庫に入れてある。鍵は俺とその女性が持っていて、二人が揃わなければ開けられないことになってる」


「用心深い女性だな」

「そうでないと世の中、渡って行けないんだろう」

「とにかくお手柄だ、トーニィ。さすがだ」

「ふふん」


 2人の会話に、やっぱり僕は入れません。

 封書はどういう状況で書かれたのか、どうしてその女性が持っていたのか、そもそもどうして国王暗殺なのか。暗殺されかけたのは皇太子殿下のはずなのに。


 おそらくトーニオさんは女官たちの噂話から推測して手紙を持っていそうな女性を絞り込み、甘ったるい言葉だの何だのを使って女性を『攻略』し、封書を取り上げたのでしょう。


 『空っぽ』って何? 

 トーニオさんに聞いてみようかと思い、やめました。きっとロクでもない言葉に決まってます。


「ユリアスに知らせてやろう」


 そう言うレオンさんの横に立って僕は歩き出し、僕の横にトーニオさんが来て、いつの間にか3人は僕を中心にして歩いていました。

 リーデンベルク三兄弟――――。


 僕は機嫌を取り戻してモップを握り直し、意気揚々と胸を張りました。






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