4 王国の暗部 Ⅳ
「出て行って!」
何度もリーザさんに言われ、僕は言い訳すら出来ませんでした。
リーザさんのレモンイエローのドレスが真っ白なベッドに広がり黒い巻き毛がこぼれ落ち、それは絵のように絢爛として僕なんかとは別世界の光景のようで、近づくことも触れることも躊躇われます。
「ごめんなさい……」
謝ったけれど、リーザさんはベッドに突っ伏して泣くばかり。
「一人にして!」
とどめを刺されたような気がして、僕はよろめきながら廊下に出ました。
壁にもたれ、咽喉にこみ上げる熱い塊を呑み下しているとリーザさんのすすり泣く声が途切れ途切れに聞こえ、僕も泣きたくなってきます。
何やってるんだろう、僕――――。
爵位と領地を失ってしまったリーザさんの前で、平民の暮らしの話をするなんて。
自分の馬鹿さ加減に腹が立って情けなくて、涙がこぼれます。
さらに悪いことにリーザさんが何故平民の暮らしを嫌がるのか、僕にはよく分からないんです。
騒々しくて低級――――。
リーザさんはそう言ったけど、僕にとってアパートメントや兵士宿舎は人の温もりのある家です。
決して不潔じゃありません。毎日お掃除すれば、清潔に暮らせるんです。
清潔さだけでなく豪華さや華麗さがないと、貴族の人たちは満足しないのかな。
豪華さや華麗さは、無くても困らない物なのに――――。
そう思ってしまう僕は、骨の髄まで平民です。
手の甲で涙をごしごし拭っているとバーレ夫人がやって来て、僕の顔から事情を察したのかリーザさんのお世話を買って出てくれました。
階下に降り、磨き抜かれたマホガニーの階段に座り込む僕。
何とかしないと。このままでは役立たずで終わってしまう。
そう思ったけれど、名誉挽回のチャンスは廊下に落ちてはいません。
そうしているうちにユリアスさんがサロンから出て来て、僕を見るなり美しい眉を上げたんです。
「1週間ほど前、リーザの母親から手紙が来てね。それから彼女がおかしくなったように思うんだ」
「手紙には何が書かれていたんでしょうか」
「わからない。リーザは何も話してくれないし……」
僕の失態を聞いたユリアスさんの表情は、沈痛です。
バウマンの裏帳簿を抱えた執事がサロンから出て来て、ユリアスさんは片手を上げて合図し、執事は万事承知しましたとばかりに小さく礼をして廊下の奥に消えました。
「帳簿は地下金庫に入れておく。父上さえご存知ない金庫だ。バウマンの手の者が侵入しても見つけられないだろう」
ユリアスさんは言い、その後ダンツィさんとレオンさんがサロンから出て来て、レオンさんは僕の顔をじっと見つめたんです。
「少し休んだほうがいい。顔色が悪いぞ」
「はい。でも僕……大丈夫です」
レオンさんの目は僅かに赤くなっていて、一睡もしていないに違いないレオンさんの方こそ休むべきなんです。
僕は、休んでなんかいられない。役立たずという汚名を挽回しないと。そのためには必死になって働くしかない。
「ダンツィ。来てくれてありがとう」
ユリアスさんが言い、ダンツィさんは「いつでもお呼びください」と軽く頭を下げました。
「それじゃ俺は、警察と仲良くしてくるかな」
溜め息まじりにレオンさんが言い、僕はぎょっとしました。
「あの……レオンさん。警察に連れて行かれるんですか? 警察って無理矢理牢屋に放り込んだり、白状するまで棒で打ち据えたりするでしょう?」
ビクビクする僕にレオンさんの表情が緩み、ダンツィさんが咳払いしました。
「警察は、貴族には手出しが出来ませんよ。クレヴィング卿の話を一言一句メモして、報告書にまとめて終わりです」
「でもバウマンの出方によっては、レオンさんは困った立場になるんじゃ……。盗みに入ってしまったんですから」
「バウマンの名を警察に洩らすつもりはないよ。昨夜の乱闘はフィアと一高の学生同士の揉め事だった、他の者は一切関わっていないということで一件落着だ。バウマンも警察に届け出たりはしないさ」
と、レオンさん。
「どうして?」
「そんなことをしたら、脱税していたことがバレてしまうからだよ。裏帳簿の第一の目的は、脱税だ」
ユリアスさんが言い、僕は目を丸めてユリアスさんを見つめました。
「脱税……。ユリアスさん、詳しいんですね」
「毎日、帳簿をつけているからね」
「え……?」
帳簿をつけるのは基本的に家長の仕事ですが、大抵の貴族は家令や執事にまかせっきりなんです。
リーデンベルク家ではディリア母上が帳簿をつけているけれど、貴族の子弟が帳簿をつけるなんて聞いたことがない……。
まさかユリアスさん、裏帳簿をつけてるんじゃ……。
不思議そうな顔をしているに違いない僕を見て、ユリアスさんは苦笑しました。
「人任せにできない性分なんだよ。学校があるから領地の帳簿は各領地管理人にまかせているが、それを毎月集めて全体の帳簿を作るのは私の仕事だ」
「ユリアスさん、僕と同い年なのに……」
この違いは何なのでしょう。ますます自分が情けなくなります。
レオンさんは警察の人が待つサロンに向かい、ユリアスさんと僕はダンツィさんを見送るためポーチに向かいました。
外に出ると「ユリアス様~!」と叫びながら10歳ぐらいの少年が駆け寄って来て、息を切らせながら「旦那様がお見えになりました」と告げ、門から入って来る大型馬車を指さします。
「今日は忙しい日だな」
ユリアスさんは事もなげに言い、僕に向き直りました。
「父上と話をする間、私の護衛を頼む」
「えっ、護衛……」
「私の友人の前では、侯爵も駄々をこねないだろうからね。宜しく頼むよ」
駄々をこねる……? 高名な政治家であるラーデン侯爵が?
玄関前で馬車が停まり大柄な紳士が降りて来て、ダンツィさんをちらっと見ました。ダンツィさんは小さくうなずき、何だか合図を送っているかのようです。
ラーデン侯爵は堂々とした体躯を高価そうなツィードのスーツに包み、白髪まじりの豊かな髪を後ろに流し、ステッキを叩きつけるように地面につけてユリアスさんの前に立ちました。
「警察沙汰を起こしたそうだな。これだから女には任せられんのだ。言い訳は聞かんぞ」
「何のことでしょう。ああ、昨夜の学生騒動ですか。我が家には何の関係もないこと。ご懸念には及びません」
表情一つ変えずにユリアスさんは流れるような口調で言い、僕は呆気にとられました。関係ないどころか、黒幕はユリアスさんなのに。
「警察がわしのところまで来たぞ。釈明を聞いてやるから、来い」
侯爵は背筋をぴんと伸ばして軍人のように歩き、ユリアスさんは僕に「頼んだよ」と言いたげにうなずきかけ、侯爵の後に続きました。
僕は玄関で待っていたバーレ夫人にモップを持って来てくれるよう頼み、侯爵とユリアスさんに続いて居間に入ったんです。
ラーデン家の家族用の居間は黒っぽい木材が多用され、茶色の壁に大きな絵画が幾つも掛けられて、重厚な雰囲気ですが僕の目には暗い部屋に見えました。
革張りのソファに侯爵が腰かけて胸を張り、向かいにユリアスさんがごく自然な仕草で座ります。
護衛らしく部屋の隅っこに立つ僕に、侯爵の刃のような視線が突き刺さり、僕は縮み上がりました。
「彼女は私の親友です」
ユリアスさんの言葉が僕に勇気を与え、途端に僕の背中はしゃんと伸びました。親友――――僕が、ユリアスさんの親友。
「類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。ところで、金の用意は出来たか」
「金……ですか。来月の収穫時には、何とか」
「夏に家畜を売ると言っておったではないか」
「昨年度の借金の返済に消えましたよ。帳簿をご覧になりますか?」
侯爵はどんと床をステッキで突いて立ち上がり、僕は飛び上がりました。
「金がいるのだ。ようやくベッケラートの弱点をつかみ、奴を排斥するチャンスが巡って来たというのに、金が無くては味方を動かすことはできん」
ベッケラート……現首相のことでしょうか。ベッケラート首相は国王陛下の信任篤く、厳格だけど公平で立派な方だと聞いています。
弱点って何でしょう。お金で動く人を味方と呼べるのでしょうか。
「弱点を握るまでに金が掛かり過ぎたのですよ。その返済に夏の収入は消えてしまいました」
「言い訳をするな!」
侯爵はそれが癖なのか、ステッキで床を力一杯突きました。
「わしは政界に復帰する。女には分かるまいが、政治には金がかかるのだ。今週中にいくら用意できる?」
「お察しします」
「察しなどいらん! さっさと金を持って来いっ!!」
侯爵の怒鳴り声が部屋中に鳴り響き、僕は「ひっと」と悲鳴を上げそうになり、心底震え上がりました。
目を細めてユリアスさんを睨む侯爵は悪鬼の形相でとても正視できないというのに、ユリアスさんはきっかり2呼吸の間侯爵を見つめ、1度だけ瞬きをして、感情をまじえない淡々とした口調で答えたんです。
「あと一か月、お待ちください。必ずご用意致します」
「夏にもそう言っておったではないか。家畜を売るまで待てと」
「次は必ず。お約束します」
「1週間以内に用意しろ。出来ないなら、帳簿は別の者につけさせる。金が作れると言うから、おまえに資産の管理をまかせたのだ。それを忘れるな」
「承知しました」
お金……政界への復帰。政治にお金が掛かるのかどうか僕には分からないけれど、ラーデン侯爵は引退されたと聞いています。
どうして復帰しようとなさってるんでしょうか。
「ところで警察が言うには、おまえは賭博業者のバウマンとつながりがあるそうだな。どういうつながりだ」
「私が? まさか。全くの言いがかりですよ」
「何のつながりもないと言うのか」
「何のつながりもありません」
つながりがあるのは侯爵の方なのに。僕は目を見開き、苛立ったように歩き回る侯爵を見つめました。
ユリアスさんはユリアスさんで、しらっと嘘をついてるし。バウマンの裏帳簿を盗んだ張本人が、この屋敷にいるというのに。
「警察は何故わたしと、よりによって賭博業者などを結びつけたのでしょうか。父上こそ何か心当たりがおありですか?」
「あるわけがない」
父娘で嘘の応酬が続いている間に扉を叩く音がして、紅茶セットをトレイに乗せたバーレ夫人が入って来ました。
「茶はいらんぞ。わしは帰る」
「久しぶりの我が家なのですから、泊って行かれては如何ですか」
「ここは鬱陶しくていかん。ではユリアス、期限までに準備しておけ」
「父上……」
部屋から出て行こうとする父親を、ユリアスさんが呼び止めました。
「母上が……心臓発作を起こされたそうです。ご存知ですか?」
「知らんな」
冷たく言い放ち、侯爵の姿は見えなくなりました。
バーレ夫人が「お送りして参ります」と急いで後を追い、ユリアスさんと僕は部屋に残され、その時初めて僕はユリアスさんの顔に浮かぶ激しい感情を見てしまったんです。
憎悪――――。
ユリアスさんの美しい顔を歪めていたのは、紛れもなく憎悪でした。
「ユリアスさん……」
僕が声を掛けるとユリアスさんははっとして、瞬時に憎悪が消え失せ、元の美しいけれど感情の感じられない顔に戻りました。
「お父様、政界に戻りたくていらっしゃるんですね」
「国王陛下とベッケラート首相が、賭博規制法を制定しようとしているからね。賭博にのめり込んだ連中が表に出ることなく新法を潰すために、父を担ぎ上げようとしているんだよ。ただ利用されているだけだということが、父には分からない。賭博で多額の借金を作っても昔は政治家でいられたらしいが、そんな時代は終わったということに気づいていない。もうろくしてしまわれたんだな」
ユリアスさんの口調は諦観と哀しみに満ちていて、僕には掛ける言葉もありませんでした。
その日、僕たちは全員学校を休むことにしました。
学校の行き帰りに、バウマンの手の者に襲われることを懸念してのことでした。
ユリアスさんに「部屋で休め」と言われ自室に戻ったけれど、目が冴えて眠れそうになく、僕は仕方なくベッドに座ってぼんやりしていたんです。
ユリアスさんと侯爵の関係は、僕と僕のパパの関係とはまるで違うみたい――――。
僕のパパも侯爵のように娘を置いて女の人のところへ行ってしまったけれど、少なくとも僕に金の用意をしろとは言いませんでした。
パパが僕に嘘をついた事はないし、僕だって同じです。
侯爵家は破産寸前だとリーザさんは言ったけれど、それはもしかして、侯爵の賭博癖や政治資金に原因があるのでしょうか。
賭博で多額の借金を作っても昔は政治家でいられた――――そう言った時のユリアスさんの口ぶりは、まるで前々からお父上の借金を知っていたかのようでした。
だとしたらユリアスさんはもっと、侯爵に意見したりなじったりしてもいいと思うんだけど。
何も言わずただ従って、嘘を一杯並べて、そんな親子関係は哀し過ぎます。
ユリアスさんの、お父上に向けられたあの憎悪――――母上の話が出るまでは、ユリアスさんの表情は無表情に近かったのに。
普段のユリアスさんは冷静そのものだけど、感情を抑え込んでいるのかもしれない。
それでもユリアスさんは心の優しい人だと、僕は思いました。
お父上との話し合いの場に僕を連れて行ったのは、リーザさんに対する失敗でしょんぼりしていた僕を力づけるためだったんじゃないかと思うんです。
だってそうでなければ、親子の話し合いに知り合って間もない友人を同席させるのは変だもの。
やっぱり眠れそうになく、僕は着替えてバーレ夫人から借りた新品のモップを握り、邸内の見回りに出掛けたんです。
大広間の奥に通路があり、先祖代々の肖像画が壁いっぱいに飾られています。
絵と絵の間の壁にもたれ、ユリアスさんが肖像画の1枚を見上げていて、その横顔の厳しさに僕の足が止まりました。
僕の心の中にひやりと冷たい風が駆け抜け、先祖の肖像画の前に一人立つユリアスさんがとても怖い人のように見えました。
僕がいつも見ているユリアスさんと、本当のユリアスさんは違うかもしれない。
本当のユリアスさんは、冷徹な人なのかもしれない。
そんなことを想わせる怖さが、今のユリアスさんにはありました。