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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて2 ~ギムナジウム入学篇~
30/78

4  王国の暗部  Ⅲ

「確かに受け取った。……ありがとな」


 レオンさんは黒のズボンを穿き、上は第2ボタンまではずした黒のワイシャツ1枚で、声は落ち着いているけれど口元が強張っています。


 トーニオさんが、マテオさんからボタンを預かっていた――――。

 湧き上がってくる嫌な疑念を力ずくで胸の奥底に押しやり、今はもっと考えないといけない事があるんだと、僕はレオンさんの仲間たちを見渡しました。


 大怪我をしている人はいないみたいで、笑い合いながらそれぞれの馬を引いています。

 レオンさんの手を借りて僕はネフィリムに乗り、僕とレオンさんはみんなと別れ、ラーデン侯爵邸に向かいました。


 貴婦人みたいな横座りで精一杯しゃんと背筋を伸ばす僕を包むようにレオンさんが手綱を取り、馬はゆっくりと歩いています。


「辛い思いをさせてしまって、すまなかった」


 頭上からレオンさんの声が響き、見上げるとレオンさんが気遣わしげに僕を見下ろしていて、僕はにっこりしました。


「ちっとも辛くなかったですよ。意外にも『ザーヴェラー』に親切な人がいて、色々とよくして貰ったんです」


 『ザーヴェラー』は魔術師という意味で、僕が閉じ込められた賭博場の名前です。


「その人、食事を運んでくれて果物やお菓子なんかも持って来てくれて、味はどうかとか寒くないかとか眠れるよう枕と毛布を用意しようかとか言ってくれました」

「色黒で頬に傷のある男か?」

「そうです。知ってる人ですか?」


 レオンさんは仄かに微笑し黒い瞳も表情も優しくて、僕の心臓がどきどき拍動します。


「彼の従兄弟は、マテオの屋敷で下働きをしている。マテオと従兄弟を通して、彼におまえの様子を知らせてくれるよう頼んでおいたんだ」

「そうだったんですか。だから僕に親切にしてくれたんですね。強面だったけど、いい人でしたよ」


 レオンさんの話によると、ユリアスさんから知らせがあってすぐに『ザーヴェラー』に見張りを立て、同時にフォルクさんが立ち寄りそうな場所を探したそうです。


 フォルクさんが自分の家に堂々と僕を連れ込んだと分かった時には、僕は『ザーヴェラー』に連れて行かれてしまっていて、僕の様子を探りながら助け出す機会を伺っていたとか。


 時間が掛かってしまって申し訳ないとレオンさんに再度詫びられて、僕は目を丸めました。


「そんな。僕のせいで取り返しのつかないことになったら、生きて行けなくなります。レオンさんが用心深い人で良かった。誰もひどい怪我をしてませんよね?」


「鼻の骨を折った奴がいたが、聞いてるのはそれくらいかな」

「よかった……」


 鼻の骨を折って亡くなった話は聞いたことがなく、ほっと撫で下ろした僕の胸の底には重い疑惑が沈んでいて、それについてレオンさんと話したいけれどどう切り出していいのかいい知恵が浮かびません。


 見上げるとレオンさんは遠い目をして何かを考え込んでいるようで、はっと我に返ったように僕を見つめました。


「あの……ボタンのことなんですけど」


 勇気を振り絞って言うと、レオンさんは伏せた長い睫毛の間から苦しそうな半眼を僕に向けたんです。


「頼みがある。しばらくの間、誰にも何も話さないでいてくれ。ボタンをどうしたのか、トーニオが自分から話すまで。リーザの件とは無関係の可能性もあるし、無関係でなかったとしても、あいつを追い詰めるようなことはしたくない」

「はい」


 僕だって、トーニオさんを問い詰めるようなことはしたくない。

 でもユリアスさんがボタンを持って来た時、どうしてトーニオさんはマテオさんから預かった事を言わなかったんでしょうか。

 それだけでも、印象は限りなく黒に近いと感じてしまいます。


 もしも、もしもリーザさんが嘘をついていて、その事にトーニオさんが深く関わっていたとしたら……。

 考えたくないけれど、もしもそうだとしたら、トーニオさんは何故そんなことをしたんでしょうか。


 僕にはトーニオさんの心の奥底の闇がはっきりとは見えず、トーニオさんを本当に理解できるのはレオンさんだけなんじゃないかと思いました。

 そのレオンさんは無言で何かを考えていて、レオンさんの心の中すら僕には見えない。


 兄妹になったというのに、僕には兄たちを理解することができない。

 多分レオンさんとトーニオさんが僕よりはるかに大人で、僕がいつまでたってもチビスケのままだからだと思います。

 その事実は僕を傷つけ、さらに哀しい記憶が僕を切りつけました。


 僕のファースト・キス。大切なファースト・キス。なくなっちゃった……。


 無くなったものはもう二度と取り戻せないんだと思うと悲しくてせつなくて、涙がじわっと溢れます。


 フォルクさん、一言尋ねてくれれば良かったのに。さすがの僕も駄目ってはっきりきっぱり言ったのに。いきなり無理矢理なんて、ひど過ぎる……。

 

 フォルクさんに対する怒りもあったけれど、それよりも圧倒的な悲しみに打ちのめされて、ぱちぱち瞬きする僕をいつの間にかレオンさんが見つめています。


「どうしたんだ。何かあったのか?」

「ほんの少し怖い思いをしたので……」


 僕は嘘をつき、レオンさんは左手を手綱から離して僕を抱き寄せました。


「俺も怖かったよ。おまえに何か起きたらと思うとじっとしていられなくて、何度も『ザーヴェラー』に乗り込もうとしてブルーノ達に止められた」

「あの店には、人を殺すことを何とも思わない人達が大勢いるそうです。レオンさんが無事で良かった」


 「怖かった」とレオンさんは言うけれど、何かに怯えるレオンさんは想像できません。

 いつだって落ち着いていて、感情をあらわにしない人なんだもの。


 どうしたらそんな風になれるんだろうと僕は両手をレオンさんの背中に回し、レオンさんの胸に鼻をくっ付けて、体温と一緒にレオンさんの強さを吸い込もうとしました。


 レオンさんははっと息を呑み、お腹の辺りがびくっと震えたような気がしたけれど、それでも「無理するなよ。怖い時は怖いって言えよ」と言いながら僕を抱きしめてくれたんです。




 

 

 夜が明ける頃ラーデン侯爵邸に着き、出迎えてくれたユリアスさんは眠っていない様子で赤い目をしていました。


「心配したよ。無事でよかった。食事は? 風呂を用意させようか? それとも休みたい?」


 矢継ぎ早に尋ねられ、僕は笑ってしまいました。ユリアスさん、意外と世話好きなのかも。


「僕よりレオンさんの方が疲れてるみたいですよ」

「ああ、レオンね」


 ユリアスさんは、視線をレオンさんに転じました


「一通り裏帳簿に目を通したが、念のため弁護士に調べさせているところだ」


 サロンに入るとテーブル一面に帳簿が広げられていて、黒髪で黒い口髭をたくわえた40代ぐらいの痩身の紳士が立ち上がり、侯爵家の弁護士と会計士を兼ねているダンツィ氏だと紹介されました。


「帳簿は全部で13冊。ちょうど10年前から一昨日の日付まで、日々の売掛・買掛だけでなく、賭博で負けてバウマンに金を借りた者の名前と金額が記載されていますね。驚くような名前もあって、にわかには信じ難い」


 売掛・買掛って何だろうって思ったけれど、それどころじゃありませんでした。


「驚くような名前とは?」


 レオンさんがソファに腰かけながら尋ね、ユリアスさんは一人掛けソファに背中を預けて天井を見上げています。


「王族では国王陛下の弟君や親族の方々、その他有名オペラ歌手、バレリーナ、大貴族や大物政治家の数々。クラレストで名の知れた者たちが名を連ねている。……我が父上も」

「えっ」


 僕は思わず声を出し、肘掛を指で叩くユリアスさんをまじまじと見てしまいました。ユリアスさんのお父上のラーデン侯爵は有名な政治家で、大臣経験もある方です。


 カード賭博は諸外国でも問題視されていて、禁止する国もあると聞きます。トライゼンで禁止されないのは、法律を作る人たちが賭博の世界にどっぷり浸かってしまっているからなんでしょうか。


「アルットの名は何処にもない。誰かが借用書の名をアルットのものに書き替えたか、あるいは情報部あたりがバウマンに命じてあるはずのない借用書を偽造させたか。……どう思う?」


 ユリアスさんはダンツィさんに視線を移し、ダンツィさんは手にした帳簿から片眼鏡をかけた慇懃な顔を上げました。


「今のところ何とも申し上げられませんね。帳簿だけでは、証拠として不十分です。もう少し詳しく調べれば、あるいは何かが出て来るかも知れませんが」

「トーニオから連絡は?」


 ユリアスさんは今度はレオンさんに目を向け、尋ねました。


「夕べから会ってないよ」

「私にも何も言って来ない。後は、トーニオが頼みなんだが」

「何を頼んだんですか?」


 僕が聞くと、場がしーんと静まり返りました。

 レオンさんがにっこりして手を伸ばし、隣に座った僕の頭をまるで子犬を撫でるみたいに撫でます。

 いつもなら子犬になりきって心の中できゃんきゃん鳴くんだけれど、この時ばかりはそんな気分になれませんでした。


 また僕は仲間はずれです。詳しい事情を、誰も僕には話してくれない。

 ぷっと頬を膨らませてレオンさんを睨むと、レオンさんは咳払いして帳簿を手に取り急に興味深そうに読み始めて、ますます不愉快です。


 どうして僕に話してくれないの? 僕がチビスケだから?


 遠くから誰かが走って来る足音が聞こえサロンの扉が勢いよく開かれて、若いメイドが息せき切って飛び込んで来ました。


「ユリアス様、来てください。リーザ様が……」


 弾かれたように立ち上がるユリアスさん。メイドと一緒に部屋を出て行くユリアスさんの後ろ姿を見ながら、僕も立ち上がりました。


「僕、お手伝いして来ます」


 よく分からない帳簿より、リーザさんの方が気になります。

 ダンツィさんにぺこりと頭を下げ、僕はユリアスさんの後から部屋を飛び出しました。


「3階のバルコニーから飛び降りようとなさったんです。下男が気がついて止めに入って……」


 メイドの声が耳に入って来て、僕は驚愕しました。飛び降りる……って死のうとしたってこと? どうして……。


 2階に上がると、廊下の向こうから男性に抱き抱えられて歩いて来るリーザさんの姿が目に入りました。


 明るいレモンイエローのドレスを着ているけれど、青ざめた顔は憔悴しきって足取りも頼りなく、愛らしかったリーザさんとはまるで別人です。


「リーザ。無事でよかった」


 ユリアスさんが安堵したように言い、リーザさんははっとして立ち止まり、ぽろぽろと涙をこぼしました。


「そうやって気遣って頂く資格、わたしにはないの。あなたは何も分かってないのよ、ユリアス」

「分かろうと努力しているところだよ。努力ぐらいは、していいんだろう?」

「だから……わたしには資格がないって……わたしは……」


 リーザさんはよろめきながら走り出し、部屋に飛び込んでばたんと扉を閉めてしまったんです。


「鍵を掛けても無駄だ。いつでも開けられる」


 大声で言うユリアスさんに返事はもたらされず、扉の向こうからすすり泣く声が聞こえるばかりです。

 ユリアスさんと僕は目を見合わせ、ユリアスさんは力なく首を振りました。


「1週間ほど前から、様子がおかしかったんだ。気にはなっていたんだが……」

「お茶を飲んでもらったらどうでしょう。ハーブティーがいいですよ。カモミールとかラベンダーとか。もしもお腹が空いてるようなら、温かいポリッジ《粥》やミルクなんかもいいかも」


 僕が言うと、後ろに控えていたメイド長のバーレ夫人が加勢してくれて、


「リーザ様はここの所お食事がすすまない御様子で、昨夜のお夕食も召し上がらなかったんです。なので、オートミールのポリッジは如何でしょうか」

「腕によりをかけて作らせて頂きます」

 

 僕が言うと、ユリアスさんは「頼む」と一言残し、大きく息を吸ってリーザさんの部屋に入って行きました。


 ハーブとミルクとオートミールのポリッジ《粥》を手早く仕上げ、ボイルしたソーセージとウサギの形に切った林檎を一緒にトレイに乗せ、張り切ってリーザさんの部屋に運ぶ僕を侯爵家の執事が呼び止めました。


「申し訳ありません。警察の方が見えたとユリアス様にお伝え願えないでしょうか。昨夜の乱闘につきまして、クレヴィング卿に事情を伺いたいと申しておりますと」

「警察……!」


 僕は凍りついてしまい、強張った笑みを浮かべてうなずくのが精一杯で、急いでリーザさんの部屋に向かいドアをノックしようとして、再度凍りついてしまったんです。


「これ以上、あなたに迷惑をかけたくないの。ラーデン家だって破産寸前なのに!」


 リーザさんの声です。ラーデン侯爵家が、破産寸前――――?!

 衝撃が僕の全身を走り抜け、手と同時に僕の呼吸まで止まってしまったみたい。

 ユリアスさんの声は聞こえず、僕はしばらく立ったまま息を整え、思い切ってドアを叩きました。


 リーザさんの部屋は陽光が差し込んで明るく、壁紙は淡いピンクと白、家具も淡いピンクと白で統一されて、部屋のあちこちにぬいぐるみや人形が置かれ、女の子の部屋そのものです。


 白い天蓋付きベッドのヘッドボードにもたれてユリアスさんが座り、ユリアスさんの膝に頭を乗せて横たわったリーザさんの髪を、優しくあやすように撫でています。 


 金髪で絶世の美青年に見えるユリアスさんと、ユリアスさんに慰められる美少女のリーザさん。

 妖しい……。そして怪しい。

 僕の脳裏に、ユリアスさんとリーザさんがキスしていたという噂が浮かんで消えました。


「あ、あの……」


 サイドテーブルに置くようにとユリアスさんに手で合図され、僕は指示通りにトレイを置き、小声で囁くように執事からの伝言を伝えたんです。


「……わかった。私が戻るまでここにいてくれ」


 ユリアスさんはそう言って部屋を後にし、残された僕は何をどうしていいのか困ってしまいました。

 リーザさんは僕に背を向けて、黙りこくってるし……。


「あの、リーザさん。ポリッジを作ったんです。お口に合いますかどうか。一口でいいですので、食べてみてください」

「……あなたが作ったの?」


 リーザさんが僕に顔を向けて、僕はこのチャンスを逃すまいと必死になって喋りました。


「はい。料理は得意というか、慣れてるというか……。あ、でも庶民的な作り方しか知らなくて……でも美味しいってよく言われます。せめて一口、できれば二口……」


 しどろもどろで、我ながら何を言ってるのか分かりません。


「……どんな感じかしら、平民から貴族になるのって。嬉しい?」


 僕のポリッジには目もくれず、がっかりする僕から視線を逸らし、リーザさんは天井を見上げ淡々と尋ねました。


「えっと……もう少し慣れたら何かを感じるんでしょうけど、今はまだ慣れるのが精一杯で……。あ、人が遠くに感じられるっていうのはあります」

「遠く?」


 リーザさんが僕に目を向けたから、僕は喜び勇んで喋ったんです。


「部屋にいても人の声が聞こえないから寂しいなって。僕が住んでいたのはアパートメントや兵士宿舎が多かったから、賑やかだったんです。いつでも隣近所の声が聞こえて、夫婦喧嘩して怒鳴り合う声にはちょっと困ったけど、それだって喧嘩するほど仲がいいんだなって思えたし、とにかくいつも人間が近くにいるんだなって感じられたんです」


 一人ぼっちの夜、それがどれほど僕を慰めてくれたことか。

 壁に耳を寄せると隣家の家族が楽しそうに笑いながら食事をする声が聞こえ、僕は壁にもたれて座ったまま目を閉じ、空想に耽ったんです。


 僕が家族に囲まれて笑ってる空想。パパとママと兄弟がいて、みんなで楽しく食事をする空想。


 音は僕の空想を助けてくれ、でも目を開けると真っ暗な部屋に一人だから目を開けないようにして、そうして長い夜を過ごしていたんです。


「いずれわたしが住むことになる住まいの説明をしてくれてるの? どれほど騒々しく低級かって?」


 リーザさんが言い、僕は仰天して目を見開きました。リーザさんは泣いているような笑おうとしているような、悲壮な顔つきで僕を睨んでいます。


「違います、全然違います。ただ、聞かれたから、感じたことを……」

「出て行って!!」


 リーザさんが叫び、僕は飛び上がりました。


「わたしにそんな暮らしをしろって言うのね。わたしは平民ですもの、当然よね。出て行って!」

「ええっ」


 そんなこと僕は言ってないし、思ってもいない……。

 

 リーザさんはわっと泣き伏し、僕は自分の失言を呪いながらも何がいけなかったのかよく分からず、おろおろするばかりでした。






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