3 瞳の奥の想い Ⅰ
翌朝の早い時間、僕はロールパンを焼いていました。
夕べはよく眠れなかったから、眠い目をこすりつつ。
タイル貼りのキッチンは広くて清潔で、窓から明るい日差しが差し込んでいます。
パンは上手く焼けたけれど、コンソメスープは失敗でした。
プロのように透き通ったスープを作るのは難しい。
それでも味はまあまあかなと自分を慰めながらサラダ用の野菜を刻んでいると、レオンさんが入って来たんです。
とても存在感があって、ただ立っているだけで熱と光を発散しているかのようなレオンさん。
糊のきいた白いシャツを着て、黄褐色の鹿革のズボンに黒のブーツ――乗馬に出かけるような装いです。
「あの……」
レオンさんが顔を上げ、突き刺すような目で僕を見た瞬間、吹き飛んでいった僕の言葉――。
夕べのことを釈明するために寝る時間を惜しんで考えた口上は、咽喉の奥であえなく玉砕して消えました。
「……ございます」
「おはよう」
目を伏せて小声で朝の挨拶をするのが精一杯の僕の頭上から、レオンさんの低い声が聞こえます。
レオンさんはテーブルに乗ったお皿を抱え、キッチンから出て行ってしまいました。
僕は軽蔑されてる――。
レオンさんの冷ややかな気配から、そう感じました。
どうしてすらすらと釈明できないんだろう。
夕べのことを理路整然と説明し、僕には窓を開けっぱなしにした以外に落ち度はないということを、堂々と胸を張って話せばいいのに。
でもレオンさんが戻って来た時、僕はやっぱり情けない奴に戻り、目を合わせないように黙々と胡瓜を刻んでいたんです。
背中に視線を感じ振り返ると、カトラリーを手にしたレオンさんが僕を見ていました。
「これも持って行っていいのか」
「……はいいっ」
気合をいれた僕の声は見事に裏返り、包丁を握り締めた姿には鬼気迫るものがあったのかもしれません。レオンさんは微かに笑い、再びキッチンから出て行きました。
笑われた。でも――――。僕は、わくわくと小躍りしました。
あの人が、話しかけてくれた。しかも、手伝ってくれてる――――!
喜び勇んでハムやチーズやその他の料理をワゴンに乗せ、食事をしながら給仕もできるよう道具一式も乗せて、ダイニングに向かったんです。
「今日は出かけるから、お昼はいらないよ」
トーニオさんは夕べのことなど無かったかのように、明るく振る舞っていました。
僕は丁寧な応対をしようと気を配りながら、どうやってトーニオさんを傷つけずに釈明しようかと知恵を絞り、結局トーニオさんの前では話せないことに気づきました。
「俺もいらない」
レオンさんの一言に、がっくり肩を落とす僕。いないんじゃ釈明できない。
朝食の後片付けを終え、僕は自室に戻りました。
僕の部屋は広くて、薄い水色の壁紙や曲線を多用したベージュの家具が可愛らしく、カーテンもベッドカバーもソファも薔薇模様です。
この間まで古くて狭い兵士宿舎に住んでいた僕としては落差が大きく、落ち着きません。
しばらくカウチに横たわって本を読んでいたけれど、豪華な部屋ではどうしても落ち着けず、どうすれば一番落ち着くかと考えた末、アンナさんからモップを借りて廊下の掃除をすることにしました。
慣れない家の中では、長年し慣れたことをするのが一番落ち着きます。
黒いエプロンをつけ三階から一階まで廊下を磨き立て、満足感で一杯になりながら裏庭でモップを構えました。――棒術です。
一年前、恋と冒険を求めて各地をさすらう傭兵だったパパが、とうとう落ち着くことを決めてトライゼンの王宮兵士となり、時間に余裕ができたせいか僕に格闘技を教えてくれたんです。
もっともレスリングも中国拳法も剣術も、僕には才能が無いとパパはさっさと諦めてしまったけれど。
唯一及第点をもらえ、時々ではありますがパパから教わったのが棒術です
基本動作を続けていくうちに汗だくになり、ほんの少しですが自分が強くなったような気がしました。
昼食はアンナさんのリクエストでパスタにして、午後の早い時間から夕食の仕込みに取りかかりました。
ミートローフは思ったよりもいい出来ばえで、ヨーグルトスープの入った鍋と一緒にワゴンに乗せ、別のワゴンには胡瓜と海老の冷製、ナスのサラダを乗せて、僕は胸を張って食卓に向かったんです。
「前の家でもそうやって給仕してたのか?」
レオンさんが尋ねたから、僕は深呼吸しました。
「はい。よくお客様が見えたので」
「客?」
「その……親しい女性とか。あ、ディリアさんと出会ってからは、そんなこと一切無いです。本当です」
「パパと親しい女性が食事してる間、メイドくんは何してるの? 一緒に食事するの?」
僕がミートローフを切り分けている横で、トーニオさんはお皿をレオンさんに渡しています。
「その時々で違うっていうか……。一緒に食べようって言われたらそうしますし、二人でレストラン気分を味わいたいみたいだったら、給仕に専念したり……」
「給仕ねえ。娘に給仕をさせて、恋人と食事をする父親ってどうなんだろう」
トーニオさんが呟くように言い、僕は困惑しました。
「パパにやれと言われたんじゃないんです。僕の方から言い出したんです。ママが欲しいと思ったから。パパが素敵な女性を射止められるなら、給仕だって何だってします。パパにレストランでデートするお金が無かったのは僕を養ってたせいだし……」
レオンさんがじっと僕を見ていたから、言葉に詰まってしまいました。
「すみません。……トーニオさんの言う通りだと思います。僕が給仕をするせいでパパがどんな風に見えるかって、考えたことがありませんでした」
「おまえが頑張ったから、パパはディリア母上を射止めた。それでいいじゃないか」
レオンさんが言い、僕の心にぱっと明かりが灯りました。レオンさんが褒めてくれた――――?
でもその後レオンさんはいつものように口数が少なく、話し上手なトーニオさんと精一杯気の効いた応対をしようと頑張った僕のお喋りが続くばかりで、夕食は終わってしまったんです。
夜。ベッドに横たわった僕は、何とも言えない恐怖に襲われました。
記憶の奥底から蘇る光景。
忘れたはずなのに、封印したはずなのに、ゆらゆらと亡霊のように現れるあの顔。
外廊下のガス灯がぼんやりと光り、真っ暗な部屋の中が照らされる。
眠ってる僕の体をまさぐる男の手。酒と煙草の臭い。
僕は頭からガーゼケットをかぶり、あれは昔のこと、もう終わったことだと自分に言い聞かせました。
……でも、消えない。
呼吸が苦しくなって汗が噴き出し、突然おこりのように全身が震え、僕はうつ伏せになってベッドにしがみ付きました。
汗が止まらないのに、寒い。
ドアがかちっと音を立てて開いたような気がして、ガーゼケットの隙間から何度ものぞき、鍵を掛けたことを確かめました。
時間が経つのが遅く、延々と苦しみが続く。
夕べもろくに眠れなかったのに――――。
決してトーニオさんが悪いわけじゃない。
あの人は何も知らないまま、僕をからかっただけ。
でも誰かが部屋に入ってくるんじゃないかとびくびくしている限り、眠れない。
そう気がついて、僕は枕とガーゼケットを腕に抱き、部屋を出ました。
どこなら眠れるのか。
どこに行っても亡霊がついて来て、泣きそうになりながら一階に降り、サロンのソファで眠ろうかと考えてやめました。ドアのある部屋は怖い。
勝手口から裸足で外に出て、眠れそうな場所を探して庭を歩きました。
厩に入ると血統の良さそうな馬たちの間に、パパの老牡馬のカムタンが侘しく収まっています。
ハネムーンから戻ったら新しい馬を買うとパパは言ってたけれど、僕はこの年寄り馬が好きです。
思い出をいっぱい背負ってくれているから。
柵を乗り越え中にもぐり込むと、カムタンは鼻面を僕に押し付けて来ました。
僕のママが買った宝くじが当たり――と言っても二十万リキュだけれど――それを頭金にして買った馬です。
パパとママが仲良かった頃、僕は六歳ぐらいだったと思う。
カムタンの後ろに荷車を取り付け、三人でピクニックに出かけたことをぼんやりと思い出しながら、藁の上に置いた枕に顔をうずめガーゼケットに埋もれました。
馬房はどんよりと暑かったし、蚊がぶんぶん飛んでいたけれど、気にしませんでした。
馬を買ってしばらく経って、僕が七歳の時、ママは家を出て行ってしまった。
そんな事は思い出さないように、ピクニックの思い出だけに浸りながら、ようやく眠りにつきました。
夜明け前、朝の気配が白々と馬房に差し込んでいます。
馬具室の方角からカタカタと物音がして、ゲイルお爺さんが来たんだと思い、僕は飛び起きました。
僕が馬房で寝たと知ったら、ゲイルさんは心配するに違いありません。
枕とガーゼケットを抱え、忍び足で馬具室の前を通ると扉が半開きになっていて、中にいる人物が見えます。
「レオンさん……?」
思わず呟いて、あっと口を閉じたけれど既に遅く、レオンさんが驚いた表情で振り返りました。
黒い瞳が男の子のパジャマを着た僕の全身をたどり、枕とガーゼケットで止まります。
僕の視線はレオンさんの腕に釘付けになりました。血が出てる……。
「怪我したんですか、レオンさん」
僕はガーゼケットと枕を放り出し、レオンさんに駆け寄りました。
血は白いシャツ一面に飛び散っていて、レオンさんは水に浸した布で腕の傷口をぬぐっています。
「僕にやらせてください」
きれいな布と消毒薬をつかみ、僕はレオンさんの前に座りました。
「パパの怪我の手当てを何度もしましたから、慣れてるんです」
レオンさんは迷っている様子でしたが、てきぱきと傷口を消毒する僕にあきらめて、手にした布を置きました。
「パパは怪我が多かったのか?」
「はい。……あの、兵士って乱暴な人が多くて」
嘘です。本当は、酒場で酔った勢いで喧嘩をして帰って来たんです。でもそんなこと口にできる訳がありません。
「レオンさんはどこで……?」
出かけてたのかなと、白いシャツと濃紺のズボンに目を走らせました。
夜中にどこへ出かけたんでしょうか。パパと違って、レオンさんからお酒のにおいはしないけれど……。
返事がないので顔を上げると、レオンさんは傷薬を塗る僕の手をじっと見つめています。
聞いてはいけない事なんだと、僕は悟りました。
つまり……恋人? でもどうして怪我を? レオンさんの恋人には別の恋人がいて、三角関係のもつれから刃傷沙汰になったとか?
パパの過去の事件をあれこれ思い出しながら僕の妄想はどんどん膨らみ、同時にどんどん悲しくなりました。
レオンさんはパパみたいに浮気性なんでしょうか。
何の根拠もなくパパとレオンさんが重なって、僕の気分はどんよりと暗く落ち込んでいきます。
手当が終わり、レオンさんは片付けようとする僕から薬瓶を受け取り、棚に収めて振り返りました。
「ありがとう。助かったよ」
その一言で心がぱあっと明るくなり、笑顔でうなずく僕。
レオンさんの方はといえばもっと何か言いたそうに唇が開き、すぐに閉じ、僕に手を伸ばします。
僕の頭を丁寧に撫で、レオンさんは馬房から出て行きました。
頭を撫でられて喜ぶ子犬になった気分をしばらく味わったけれど、やがて嫌な予感が込み上げてきました。
今は、朝なんです。寝起きの僕といったら……。
「ひっ」
馬具室の棚に置かれた鏡を恐る恐るのぞき、僕は絶叫を呑み込みました。
僕の寝起きの頭――――凄まじいまでに四方八方に飛び跳ねた髪。
レオンさんは頭を撫でてくれたんじゃなくて、僕の可哀相な髪を直しただけなんだと気づき、全身から力が抜けていきました。
部屋に戻って清潔な衣服に着替え、キッチンに入るとトーニオさんがオムレツを焼いていました。
「たまには手伝うよ」
「はい」
僕はにっこりして、フライパンの中に目をやりました。
「上手なんですね」
オムレツは、ほど良い色に焼けています。形もパーフェクト。オムレツを綺麗に焼くのは、難しいことです。
「俺の特技のひとつ。特技は他にもあるけど、知りたい?」
はい、なんて言ったら大変なことになりそうです。
「いえ、いいです」
安全を考え、遠慮しておくことにしました。
トーニオさんのくくっと笑う声とオムレツをお皿に乗せる音を背中で聞きながら、僕は壁に設えられた大きな食器棚からサラダ用のガラス鉢を取り出しました。
振り返ると目の前にトーニオさんの胸があり、ひっと叫び声を呑みこんだ僕からガラス鉢を取り上げて横のテーブルに置くと、トーニオさんは食器棚に両手をついて、僕を腕の中に閉じ込めてしまったんです。
「拒絶の練習だよ、メイドくん。しつこく迫る男を、一発で撃退してごらん」
トーニオさんは真顔だけれど、唇の端に笑みがあります。
僕は、必死になって頭を働かせました。拒絶――拒絶――撃退する言葉。
「早くしないと間に合わなくなるよ」
トーニオさんは視線を僕の唇に落とし、少しずつ唇を近づけて来ます。
「えっと……えっと、嫌です、とか、勘弁してください、とかっ」
「海千山千の男は、そんな程度じゃ引き下がらないの」
しどろもどろの僕を見るトーニオさんの目は妖しく、首を僅かに傾けています。
僕はどうすればトーニオさんを怒らせないで逃げ出せるか、どこかに逃げ場はないかと辺りをきょろきょろ見回しました。
「時間切れかな」
トーニオさんの唇が僕の唇に触れそうになり、僕は食器棚に目一杯背中を押しつけました。
食器棚に張り付いたポスターのようになって、涙目になって首を横に振る。
「子供相手に何やってるんだ」
はっとキッチンの入り口を見ると、腕組みをしたレオンさんが立っています。
不本意なことに僕の目から涙が一粒こぼれ落ち、僕は食器棚に張り付いたまま、蟹のように横に移動しました。
「メイドくんの反応が面白くて、ついついやり過ぎてしまう……」
トーニオさんは僕を見て涙に気づき、はっと口を閉ざしました。
「ねえ、メイドくん。何も泣かなくたって……」
その言葉は最後まで聞けませんでした。
そばにあった布巾をつかみ、走ってダイニングに向かったから。
僕が泣いてるのは、自分が情けないからです。
男の子になりきって自分を守るんだって決めたのに、トーニオさんにからかわれない方法も思いつけないし、やめてほしいと上手に伝えることも出来ない。
その上うじうじ泣いたりなんかして……。
せめて泣くのはやめようと、袖で目を拭いました。
「ごめん、悪かった」
トーニオさんが追いついて来て、言いました。
「だけどメイドくん、よーく思い出してね。俺は確かにからかったけど、ぜんぜん君に触れてないよね? その柔らかーいほっぺを撫で撫でしたけど――あ、髪と肩には触れたっけ? それ以外、全然触れてないんだよ、とっても残念だけど。無理やりキスするつもりもなかった。ぎりぎり粘るつもりだったけど。それからしつこい男は、ぶん殴るか張り倒すかすればいいんだよ、俺が言うのも変だけど」
「……まだトーニオさんの性格がよくわからないから、どうすればいいのかわからないんです。同じことをしても、人によって受け取り方が違うし……」
「受け取り方って……。君、そんなことまで考えてんの?」
トーニオさんは、困惑しているようです。
「泣いてるのは、自分が情けないからです。うまく意思を伝えられなくて」
僕は困っているトーニオさんを見上げました。
「同じ家に住んでるんだから、そろそろ性格をつかんでもいい頃なのに、まだよくわからなくて……。こんなことを尋ねて気分を悪くしないでください。……トーニオさんははっきり言われた方がいいですか、それとも遠まわしにそれとなく言われた方がいいですか……?」
「はっきり言ってやれ。それで駄目なら殴ればいい。本人がそうしろと言ってるんだから」
横からレオンさんに言われ、トーニオさんは苦笑しました。
「おいおい」
「自業自得だろう」
「泣かせたのは悪かった。メイドくんはなかなか落ちないから、口説き甲斐があるよ。俺の名誉をかけて、本気出そうかな」
さらさらの金髪をかき上げながら僕を見るトーニオさんのそばに、レオンさんがゆっくりと歩み寄ります。
「――いい加減にしろよ」
低い殺気立った声に、僕はびくっとしました。
トーニオさんの顔からいつもの冗談めいた笑みが消え、鋭くレオンさんを睨み返します。
広いダイニングルームがしーんと静まり、トーニオさんとレオンさんが睨み合ってる――――。
二人の顔はまるで似てないけれど、身長は同じくらいで体格も似ていて、本当の兄弟みたいに仲がいいと僕は思っていました。
でも、違うかもしれない。決して仲がいいわけじゃないかもしれない。
仲が悪いようには見えないけれど、この二人の間には根深い何かがあるのかもしれない。
そう思わせるような獰猛な気配がありました。
「……僕、もう泣きませんから。約束します。だから、やめてください」
今にも殴り合いが始まりそうで怖くて僕は懇願し、レオンさんが射抜くような目で僕を見たから竦みました。
やっぱり、レオンさんは怖い。
そのまま何も言わず、レオンさんは部屋を出て行ってしまいました。
「あの……」
「オムレツ三人分、食べちゃっていいよ」
そう言ってトーニオさんも出て行ってしまったんです。