3 奉公先は侯爵家 Ⅳ
「……僕、カカシなんです。みっともなくて地味で、とてもあなたが言う砂糖菓子のような女の子にはなれません……」
僕はわなわな唇を震わせながら、ふとマテオさんの言葉を思い出しました。
君は可愛いってマテオさんは言ってくれた。王宮舞踏会で評判になってたって。あの時はまさかと思ったけど、もしかしたら……。
フォルクさんのチョコレート色の瞳に映る僕が見え、見栄えがしないと思うのは僕の見間違いで、マテオさんの言葉を信じるなら砂糖菓子のような女の子がそこにいるのかも知れない。
「カカシ……?」
「僕のあだ名です。今は主にメイドくんって呼ばれてます。掃除や料理が得意と言えば得意というか、それしか取り柄がないというか、そういうわけなので掃除しましょう」
両手を突っ張りフォルクさんの腕の中から逃げ出そうとしたけれど、フォルクさんは見た目は細身なのに胸も腕も岩のように硬くてぴくりとも動きません。
「掃除婦を連れて来た覚えはないんだが」
「それじゃ、何か食べます? 僕、あり合せの食材で料理を作るの得意ですよ?」
「もちろん食べるさ。砂糖菓子を」
フォルクさんが笑いながら僕の首筋に唇をつけ、そこはトーニオさんが唇でたどったのとは別の場所で、僕の頭に哀れな子牛の姿が浮かびました。
首に「フォルクさんがお買い上げ」、耳に「トーニオさんがお買い上げ」と紙を貼られた痩せっぽちの子牛は、『エメルくん』と書かれた名札をぶら下げています。
食べられる寸前の子牛になった気分で僕は泣きそうになり、必死にフォルクさんの腕の中でもがきました。
「もっと脂ののったお肉がいいんじゃないですかっ。僕、美味しくないですよっ」
「肉? ああ、肉ね。俺は痩せ形が好みなんだ。骨は気にならない」
骨付き肉をしゃぶる悪鬼のようなフォルクさんの姿が脳裏に浮かび、「ひ―っ」と叫んだ僕は思わず足を振り上げて、フォルクさんの向う脛を蹴っ飛ばしたんです。
「痛いだろ、こら」
フォルクさんの腕が緩んだ隙を逃さずドアから飛び出すとそこは居間で、玄関はどっちかなと視線を巡らせているうちに背後からフォルクさんが抱きしめて来て、僕は飛び上がりました。
「ああ、分かった。待ってやる。何がしたい? その可愛らしい体を動かして掃除をしてくれるのもいいし料理もいいが、食材はないぞ」
居間の隅にオープン式のキッチンが設えられているものの、見た限りではフォルクさんの言う通り食材も鍋もなく、がらんとしています。
カウンターの端にバスケットが置かれていて、僕は逃げることをあきらめ、バスケットに駆け寄りました。
ナフキンを取ると中に林檎とパンとバターと卵と、緑色の液体の入った小さな瓶が並んでいます。
瓶には「傷薬」と書かれたラベルが張られていて、僕の鋭敏な脳がピンと反応しました。
朝食と傷薬――――。
独り暮らしで食生活が不規則で、喧嘩が多くて怪我が絶えないフォルクさんを気遣った、心優しい恋人からの贈り物なんだ――――。
むらむらと怒りが湧き起こり、僕はくるりと振り返ってフォルクさんを睨みつけました。
「わたしという者がありながら、何処の馬の骨とも知れない子供を連れ込んで、浮気は許しません!」
「今度は何だ?」
「あなたの恋人になり代わり、言わせて頂いたんです」
「あのなあ……」
フォルクさんは窓の下のカウンターにもたれかかり、困ったように緩いウェーブのかかった髪をかき上げました。
「何を想像したのか知らないが、そのバスケットは上の部屋に住む婆さんがくれた物だ。婆さんは世話好きで、時々食事を運んでくれるんだよ」
「そうなんですか。いい人が上に住んでて良かったですね」
林檎とバター。その2つから僕が連想するものは、1つです。――アップルケーキ!
「小麦粉はありませんか?」
「何?」
フォルクさんはまるで人外の者を見るような目つきで僕を見て、目をぱちぱちさせた後カウンターの下の扉を開けて中をのぞき込み、細長い缶を引っ張り出しました。
「1年ほど前から置きっぱなしだ。使えるかどうか分からないよ」
「1年なら大丈夫。小麦粉は長持ちしますからね」
フォルクさんは小麦粉を買うような人に見えないし、今度こそ恋人が買った物に違いないと思ったけれど、僕の頭はケーキで一杯になっていました。
缶の蓋を開けると中は正真正銘の小麦粉で、色も変わってないし異臭もしない。うん、大丈夫。
砂糖を見つけ、喜々としてケーキ作りを始める僕をフォルクさんは腕組みをして眺めていて、何だか観察されているみたいで緊張します。
「あの、僕のママも遠くにいるんですよ。再婚して男の子も生まれたみたいで……」
ママに会いに行った時のことを思い出したけれど、不思議なことに悲しい気持ちにはなりませんでした。
僕が家族を求めたようにママも家族を求めていて、パパとでは家族を作れないとママは考えたんだと思います。
置いて行かれたのは悲しいけれど、その事があって今の家族と出会えたんだから、不幸とは言い切れない気がしたんです。
「お袋が何処でどうしてるのか、俺は知らない。親父が病気で死んだ後、市場で働いてるうちに旅の行商人といい仲になって、その男と一緒に王都を出て行った」
「えっ……」
とんでもない話を振ってしまいました。舌を噛みたくなった僕の表情を見て、フォルクさんは頬を柔らかく緩めました。
「誤解するなよ。俺はお袋を恨んじゃいない。あっちが幸せなら、それでいい。こっちも何とか暮らしてるんだから」
「学校とか生活とか、お金が掛かると思うんですけど、どうしてるんですか?」
「何とかしてる」
「フォルクさんって、おいくつなんですか」
「16」
とても16歳には見えません。顔立ちは少年のようだけど、雰囲気が大人っぽいというか悪党っぽいというか。
お母さんが出て行ったのは3年前だと言っていたけれど、その頃のフォルクさんは13歳だったはずです。
13歳の僕といえばママが欲しいと悪戦苦闘していて、同じ13歳なのに違いがあり過ぎます。
13歳で独りでお金を稼いで暮らすって、どんな感じでしょうか。
僕が卵に砂糖を入れて泡立て始めると、シャツの袖をまくったフォルクさんが横から手を伸ばして代わってくれました。
「好きな男がいるのか?」
フォルクさんが力強く泡立てながら尋ね、どきりとして林檎を刻む僕の手が止まってしまいます。
「いません」
本当のことだもの。
レオンさんの面影が浮かんだけど、レオンさんは兄で僕にとって大切な人で、『好きな男』でも他の言葉でも一言で片づけてしまえるような人じゃないんです。
「それなら俺にもチャンスはあるわけだ。なあ、俺と付き合えよ。退屈させないと約束する」
「フォルクさん、恋人がいるでしょう? 隠しても駄目ですよ。僕には分かるんです」
僕は胸を張って言い、うんうんと自分にうなずきました。
「誘って来る女たちを恋人と呼ぶならな。俺は自分からは誘わない主義だ。後が面倒だから。だが今回だけは……おまえの本当の姿が知りたいと思ったんだ」
「本当の姿なんてありませんよ。いつだって、このまんまです」
嘘です。本当の僕は傷つきやすくて弱虫で、泣いてばかりで逃げてばかりの子供です。そんな姿、誰にも見られたくない。
「男の子とかカカシとかメイドとか、自分のことなのにまるで分かってないだろ。おまえは、女の子だよ。服を一枚一枚脱がせると、少しずつ見えてくる。最後に現れるのが砂糖菓子だ。隠しても駄目だよ、俺には分かってるんだ」
それ、さっき僕が言った台詞に似てる。
茶目っ気たっぷりに笑うフォルクさんを見上げて僕も少し笑い、フォルクさんの言葉を思い返してぎょっとしました。服を一枚一枚脱がせる……?
赤くなったらしい僕を見て、フォルクさんが声を上げて笑います。
「俺の周りにも、おまえのような娘がいたらな。男馴れした女ばかりで、時々うんざりする」
「周りに女性がいるだけでも有り難いじゃないですか」
フォルクさんのペースに巻き込まれて軽口を叩きながら、僕はこれまで通って来た中等学校を思い出しました。
どこの学校の女の子たちにもちゃんと恋人がいて、13歳や14歳ぐらいで結婚する女の子も数多くいます。
恋人がいないのは教師を目指してひたすら勉強する子か僕ぐらいのもので、教師を目指してる子は尊敬の目で見られるけど僕は奇異の目で見られて、だから変なあだ名を付けられたのかもしれない。
かまどに薪を入れて火を熾す僕の頭上から、フォルクさんの軽やかな声が飛んで来ました。
「で、返事は?」
「は……?」
フォルクさんは泡立てる手を止めないまま、僕を見下ろしています。
「さっきの返事。俺は、交際を申し込んだんだぞ」
俺と付き合えって命令して、その前はいきなりベッドに押し倒して、それが交際を申し込んだことになるんでしょうか。
僕は首を捻ったけれど、口には出しませんでした。
「えっと、あの……フォルクさん、レオンさんとは仲が悪いんですか?」
「レオン……?」
答を聞くまでもありません。
フォルクさんは冷たくそっぽを向き、しばしの沈黙の後、諦めたように溜め息まじりに言うんです。
「……俺たちがイキがったところで、所詮は大人の使い走りさ。フィアの連中は貴族だから目こぼしがありそうだが、平民でイキがってる俺達みたいなのは大人の下部組織に組み込まれる。おまえらを襲った3人もさ」
フォルクさんは怜悧な目を、かまどでバターを溶かす僕にくれました。
「街のゴロツキでバウマンの子分の下働きをしているが、第二高等学校に通ってた時期があったんだよ。俺の先輩ってわけだ、あんな風にはなりたくないが。レオンは気に食わないが、あの程度の奴を蹴散らせないようじゃ俺の未来は危ういってことの方が大事だ」
「あなたの未来って……?」
フォルクさんの大きな手によって、泡立て器はシャカシャカとリズミカルに回っています。
手つきが慣れているようで、家の手伝いをよくする小さな男の子だったフォルクさんの姿が思い浮かび、意外と家庭的な人なのかもしれないと僕はフォルクさんを見直しました。
「ロータスの花って知ってる?」
「えっと……はい」
「ロータスは泥から茎を伸ばし、花を咲かせる。俺は今、泥の中であがいてるところさ。花を咲かせることの出来る人間は、ごく僅かという世界で」
フォルクさんの言う言葉の意味が、僕にはぴんと来ませんでした。
泥の中というのは愚連隊とか賭博業者とか、そういう裏世界を指しているんでしょうか。花を咲かせるというのは、地位を得るとかお金持ちになるとか――?
「時々無性に清潔で美しいものをそばに置きたくなる。綺麗で甘い砂糖菓子を抱きしめたくなるんだ。俺の体温で砂糖が溶けて、中から永遠に抱いていたい何かが現れる。うまく言えないけど、おまえはそんな感じかな」
「えっ、僕……? 全然違いますよ。僕、ただのエメルです」
抱きしめるとか体温とか、どうしてこの人は恥ずかしい言葉を連発するんでしょうか。
僕はうつむき、見上げるとフォルクさんは苦笑していました。
「本当に自分のことが何も分かってないんだなあ」
よーく分かってます。僕は分相応に生きています。
そう思うものの、自信はありません。本当の僕って何だろう。もしかすると他の人の目に映る僕が、本当の自分に近いのかな……?
ケーキの生地を古びた型に流しいれ、熱くなったかまどのレンガの上に置いて、僕は一息つきました。
「フォルクさんが手伝ってくださったから早く終わりました。後は焼き上がるのを待って、食べ……いえ、待つだけです」
『食べる』なんて言葉、フォルクさんには禁句です。でもフォルクさんは「食べる?」と妖しく口角を上げて笑いながら言い、目をきらんと光らせるんです。
「褒美をくれ。キスだけで我慢しよう。今は」
フォルクさんが端整な顔を近づけてきて、再度巡って来た危機に硬直する僕の耳に、玄関ドアをノックする音が聞こえました。
「お、お客様ですよ。出ないと」
「放っておけばいい」
「でも、でも、あの……」
肩をフォルクさんにつかまれ、左右に首を振って逃げ道を探す僕の目の前で吹っ飛ぶ、玄関のドア枠。
斧が突き出していて、引き抜かれたと思った途端ドアが蹴倒されて、見覚えのある2人組が立っていました。
耳ピアスの男と太った大男――――ユリアスさんと僕を襲った3人のうちの2人です。
「フォルク、てめえ、舐めた真似をしてくれたな」
「こっちの台詞だ。ドア、弁償しろよ」
フォルクさんが僕の前に立ち、さっきまでの甘い表情とは打って変わって、一睨みで人を殺せそうな目つきで2人をねめつけたんです。