3 奉公先は侯爵家 Ⅲ
二頭立て馬車はスピードを緩めることなく、何処までも走って行きます。
繁華街から裏道に入り、粗末な造りの貧民街を駆け抜け、フィアとは反対方向に。
窓から顔を出し御者台を見ると、侯爵家の御者ではない見知らぬ男が座っていました。
乗っ取られたんだ――――。
曲がり角で馬車がスピードを緩めた時、馬に乗った男が御者台に飛び移ったに違いない。
飛び降りようか――――。そうも考えたけれど、無理です。このスピードで飛び降りたら、無傷では済まない。
室内に視線を戻すと、ユリアスさんが座席を上げています。
「エメル、中に入れ。力一杯蹴れば、底が抜ける仕掛けになっている。馬車が停まったら、逃げろ」
「ユリアスさんは、どうするんですか?」
座席の下は空洞になっていて、人一人が入れる大きさがあります。
「闘う」
そう言いながら、ユリアスさんは足もとからステッキをすくい上げました。仕込み杖です。
「僕も闘います。僕、用心棒ですよ。雇い主を置いて逃げるなんて、用心棒の名がすたります」
「君に怪我をさせたら、君の兄たちに殺される。頼むから逃げてくれ」
「そんなこと、出来ません」
そう言いつつこの先何が起きるか分からないと思うとお腹の下からひんやりした物がせり上がり、歯の辺りが浮き上がって気持ち悪くなって来ます。
モップを抱きしめ、僕は念じました。きっと大丈夫。僕は、闘える。
「誰が僕たちをさらおうとしてるんでしょうか」
僕が尋ねるとユリアスさんはため息をつき、座席の蓋を閉めました。
「まだ分からないが……」
ユリアスさんは青ざめているけれど声は落ち着いていて、唇の端に笑みを浮かべ、なだめるように僕の肩に手を置いたんです。
「警護の者3名に、馬車の後を尾けさせている。我々2人で孤軍奮闘することにはならない」
「そうなんですか」
少し安心しました。さすがユリアスさん、用意周到です。
最初からそう言ってくれれば良かったのに。でも相手が何人いるのか分からない以上安心は出来ないと、僕は気を引き締めました。
馬車は、クラレストの最外を流れる用水路に沿って走っています。王都から出るつもりは無いみたいだけれど……。
用水路沿いに朽ちた赤っぽい煉瓦造りの倉庫群が見えて来て、その一つに馬車は駆け込み、突然止まりました。
立ち上がって暴れる2頭の馬。馬車が傾いて、僕とユリアスさんは開いた扉から転がり落ちてしまったんです。
倉庫の中はだだっ広くて薄暗く、隅に木の箱が幾つか放り出されている他は何もなく、がらんとしています。
男たちは偽御者を合わせ3人いて、いずれも顔つきが尋常ではなく、追いはぎか牛泥棒のような人相です。
「なぜ私たちを狙った」
ユリアスさんの声が埃っぽい倉庫内に木霊し、僕は奥歯を噛みしめてユリアスさんを守るべくモップを構えました。
「余計な事に首を突っ込むと痛い目に合うってことを、教えてやるためさ。感謝しろよ」
片耳にピアスをした男が手に棒を持ってにやにや笑いながら言い、こいつがリーダーかなと僕は思いました。
「祭の前に、君たちの雇い主が誰なのか教えてくれないか」
ユリアスさんは落ち着いた所作で仕込み杖からレイピアを引き抜き、ナイフを弄びながら前に出る痩せた男に目をくれます。
「さあてな。地下の王様だ」
「鼠の王様だろう」
男たちは顔を見合わせて変な笑い方をし、ユリアスさんが「なるほど。賭博業者のバウマンか」と言うと、たちまち笑みを消しました。
「分かりやすい解説をありがとう」
冷たく笑うユリアスさん。片耳ピアス男の目が吊り上がり、悪相がますます極悪人に近づいて行きます。
「男の力を思い知らせてやるぜ。おい、おまえはそっちのチビをやれ」
太った男が両手を広げて僕に向かって来て、僕は男の咽喉元めがけ、夢中でモップの柄を突き出しました。
ぐにゃりと柔らかい手応えがあって男の目が見開かれ、時が一瞬止まった気がしたのも束の間、男は咽喉を押さえながら大声で喚き、僕に殺意のこもった目を向けたんです。
耳ピアスの男が僕に棒を振りおろし、僕はモップで受け止めました。
激しい振動が僕の手首に伝わってきて、さらに棒でぐいぐい押され、尻餅をついてしまった僕。
突然男が「うあっ」と叫んで棒が浮き上がり、見ると男の腕にユリアスさんのレイピアが突き刺さっています。
「大丈夫か、エメル」
ユリアスさんは男から素早く剣を引き抜き、ナイフを持った男の攻撃を巧みにかわしながら、太った男の太ももを刺しました。
「は、はい」
「うおぉぉおお――っっ」
僕の裏返った返事に重なった、太った男の叫び声。
怒り狂って棒をぶんぶん振り回す男のみぞおちに柄を叩き込み、一歩前に出ながらハンドルをぐるんと回してクリップ部分で男の顎を下から突き上げると、ピアス男は吹っ飛びました。
何処からか、笑い声が聞こえて来ます。
「やるなあ、カワイコちゃん」
暗い壁際からゆっくりと歩きながら現れた若者。この人、知ってる――――。
カフェ『ヤークト』で会った人です。名前は確か、フォルク・ノイドハイム。
上着もタイも無し。シャツとズボン姿でサスペンダーをつけ、小粋な悪党といった風情です。
ジプシーを思わせる浅黒く端整な顔が僕とユリアスさんに向けられ、口元には薄笑いが浮かんでいます。
全身に血の巡った僕はモップを握りしめ、やってやる!と心の中で強く唱えました。レオンさんの敵みたいだから、僕がこいつを叩きのめしてやる!
グリップの先を下げて基本の構えをし、鋭い目つきでフォルクさんを睨む僕……のつもりだったんだけど。
フォルクさんは心底可笑しそうな表情で、くっくっと笑っています。
馬のいななきが聞こえはっとして倉庫の入り口に目を向けた時、僕はフォルクさんの素早い手によってモップをもぎ取られ、その上フォルクさんの肩に抱え上げられてしまったんです。
「わ。離せ! 離せ!」
両手両足を振り回して暴れたけれど、フォルクさんの腕ががっちり僕をとらえ、僕は倉庫の裏口から外に連れ出されてしまいました。
ドアから出る際、ラーデン邸で見かけた警護の男たちが3人、馬に乗ったまま倉庫に駆け込むのが見えました。
彼らに加勢して、ユリアスさんを守らなければ……。
そう思ったけれど僕は馬の背にドサリと荷物みたいに置かれ、騎乗するフォルクさんの隙をついて逃げ出そうとしたのに大きな掌に押さえつけられて動けず、そうして馬は走り始めたんです。
フォルクさんは僕の上着をつかみ軽々と引き上げて自分の前に座らせ、僕の耳元で笑い混じりに言いました。
「俺にしがみ付かないと、落ちるぞ」
敵にしがみつくなんて、出来るわけない!
全速力で駆ける馬から落ちそうになって鞍の前部分を掴み、それでも落ちそうになって馬のたてがみをも掴み、ポンポン跳ねる体のバランスを死物狂いで取りながら、恨みを込めてフォルクさんを見上げました。
向かい風を受けたフォルクさんのチョコレート色の髪がなびき、ちらちら僕を見下ろす目と口元が笑いに引きつっています。
――何がそんなに可笑しいの。
僕が目を細めるとフォルクさんの口元から白い歯がこぼれ、声を上げて笑うんです。
「まったく……これが貴族の令嬢とは。もとは平民だったらしいが……それにしても」
「これって何ですか、これって。僕は、物じゃありません」
吹きつける風に逆らい、大声を張り上げる僕。
「どうして『僕』なんだ。その男の子の恰好は何だ?」
「えっと……」
一から十まで、敵に説明する義理はない!
「事情があるんです。そちらこそ、どうしてユリアスさんを襲ったんですか。賭博業者のバウマンの差し金ですか?」
「バウマンねえ」
フォルクさんの笑いが、苦笑に変わりました。
「さっきの連中はそのようだが、俺は酒場で連中の話を小耳に挟んでついて来ただけだ。助けてやったのに、礼の一つもなしか?」
「助けた……? 彼らの仲間にしか見えませんよ」
「連中がラーデン侯爵の娘とリーデンベルク男爵の妹を襲う話をしていたから、おまえだけは助けてやろうと思ってね」
「どうして僕を?」
レオンさんを呼び出す人質にする気かな、と僕は思いました。ナサニエル先生が僕を捕えて、レオンさんに歌を強要したように。
「砂糖菓子を食べてみたくなったんだ。俺は甘党ではないんだがな」
フォルクさんはそう言って僕を片手で絡め取り、僕のお腹に腕を回して抱き寄せたんです。
「何するのっ」
「動くな。本当に落ちるぞ」
「敵に背中を見せるくらいなら、落ちた方がマシですっ」
僕はその時背中をフォルクさんの胸にくっ付けて、何とか離れようと悪戦苦闘していたんです。
「そうか?」
フォルクさんが手を離したから、僕は馬からずり落ちました。
「きゃあっっ」
「そうやって女の子らしく叫んでくれ。先の楽しみが増える」
「何ですかぁっ、楽しみって!」
フォルクさんが僕を引き上げ、僕は不本意ながらフォルクさんのなすがままになりました。悔しいけど、落馬すると命にかかわります。
馬は用水路に沿って来た道を戻り、貧民街に入ると駆け足から並足になり、僕の知らない道をたどって行きます。
しばらく進むと中流階級の庶民が住む地域に入り、公園のそばにある3階建てアパートメントの敷地に入りました。
クラレストでは数十年ほど前から都市流入者が増え、中流階級用のアパートメントが数多く建てられるようになったと聞いています。
大抵は3階建てでベージュ色の外壁で、造りも似ています
粗末な厩にフォルクさんが馬をつないでいる間に僕は飛び降り、きょろきょろ見回してモップを探しました。
あった! モップではないけれど。
厩を掃除する箒を見つけ、飛びつこうとした僕の目の前で箒は空中に飛び上がり、見るとフォルクさんが持ち上げています。
「油断も隙もないな」
「僕をどうするつもりですかっ。レオンさんをおびき寄せるんですか。それとも誰かに売るんですか」
「いい考えだ」
フォルクさんはにやりとし、痩せっぽちの僕を軽々と肩に担いでアパートメントの中に入って行きました。
「降ろして、降ろして!」
「静かにしろ」
必死に暴れたけれどフォルクさんの腕は頑丈で、そのうえフォルクさんに一喝されて僕は黙りました。
モップを持っていない時の僕は、やっぱり弱虫です。不安で怖くて、歯がカタカタ鳴ります。
フォルクさんが僕を担いで入ったのは、アパートメントの1階にあるこじんまりとした部屋でした。
整頓はされているけれど殺風景で色彩がなく、僕の記憶に間違いがなければ、これは家族用の部屋です。
中流家庭ではキッチンと居間を除いて2部屋ある家が普通で、僕がパパと2人暮らしをしていた時は広過ぎるくらいだったけど、同じ部屋に7人家族が住む例もあります。
「ここは、どなたの家なんですか?」
「昔は親父の物だった家、今では俺一人の家だ」
「……どういう意味ですか。お父さんの家だった……今では一人って?」
恐る恐る尋ねる僕を担いだままフォルクさんは玄関の鍵を開け、居間をずんずん通り過ぎて寝室に入り、ベッドの上に僕をどさりと置きました。
「親父は死んだ。お袋は3年前、出て行った。ここに住むのは俺一人。さあ、もういいだろ。俺は、おまえが欲しいんだ」
「欲し……って。ひっ、き、きゃあっ」
フォルクさんが覆いかぶさって来て、僕は叫びました。
「きゃあ―っっ、きゃあ――――っっっ!!」
「頼むよ、砂糖菓子ちゃん。叫ぶのは、クライマックスの時だけにしてくれ」
呆れて体を起こすフォルクさんから、僕は慌てふためいて逃げました。
あたふたとヘッドボードまで逃げて縮こまり、首を振り回してモップと逃げ道を探したけれどモップは無いし、ドアから逃げようとしてもフォルクさんの足の方が速いでしょう。
「あの、あの、あの……」
僕は唇をわなわな震わせ、働かない脳に鞭をビシビシ振るいました。
「……そ、掃除を先にしませんか?」
「何だって?」
僕はヘッドボードに指を走らせて、うっすらと積もった埃を拭いました。
一見清潔そうに見えるけれど、僕の目はごまかせません。家具が少なくて散らかっていないだけで、埃が積もっているんです。
「そのう……拭き掃除をした方がいいと思うんです。部屋は清潔な方がいいに決まってます」
「つまり、俺が相手ではその気にならないということか?」
フォルクさんが手を伸ばして僕の顎をとらえたから、泣きそうになって考えました。
フォルクさんを怒らせずに、この場から逃れる方法――――。
「えっと、えっと……あ、あなたがどう、じゃなくて、その……そう、女の子は綺麗な物が好きだから。まずは部屋の掃除から…………ひっ」
フォルクさんの細面の綺麗な顔が近づいてきて唇と唇が触れそうになり、僕はヘッドボードに背中をこすりつけて横方向に逃げました。
「ひ、ひっ、ひ――っっ」
「もしかして、俺は嫌われているのかな」
「もしかしても何も……」
言いながら僕は横に移動し続け、ベッドの端まで来て床に足をそっと伸ばし、
「僕はあなたをよく知らないし……」
床に足が着くや運を天にまかせて脱兎の如くドアに向かって走り、先回りしたフォルクさんの胸に激突して鼻を打ちました。
フォルクさんはそのまま僕を両手で抱きしめて、耳元で囁くんです。
「初めて会った時、男の子の姿の向こうに、甘くてふわふわしたお菓子のような女の子が見えた気がしたんだ。レオンの妹だろうが貴族だろうが関係ない。俺は、その女の子に会いたい」
そうしてチョコレート色の瞳で、僕の目を見つめました。
「見せてくれ、女の子のおまえを」
「そ、そんな……」
僕の脳は白旗を上げ、何の解決策も浮かばないまま、僕はただ唇を震わせていました。