3 奉公先は侯爵家 Ⅱ
「リーザさん! 大丈夫ですか」
僕はリーザさんに駆け寄り、肩にかかったリネンのシーツをしっかりとリーザさんの体に巻きつけました。
リーザさんは小刻みに震えていて、顔は真っ青で、頬に涙の跡が幾つもついています。
何があったのか――――。おぞましい想像に走ってしまいそうだけど。
リネン室は入り口から奥まで細長い形をしていて、両側に棚がずらりと並んでいます。
最も奥の窓の下ではランプを置く台が倒れていて、棚から滑り落ちたリネンが積み重なり、人が争った跡みたいです。
「勝手口から入ったら、叫び声が聞こえたんだ。彼女がここに座って泣いていて、そこの棚にあるシーツを彼女に掛けたところだ」
レオンさんが言いながらドアに歩み寄り、廊下に集まって来たらしい使用人達に声をかけました。
「何でもない。リーザ付きのメイドか、ユリアスを呼んで来てくれ」
「レオンが……レオンが……襲ったの」
レオンさんがドアを閉めるなり、消え入りそうな声でリーザさんが言い、僕は凍りついてしまいました。
「何を言ってる……」
レオンさんは、顔をこわばらせています。
「わたしに……ひどい……ことを」
言葉が続かず、わっと泣き伏すリーザさん。
どうしてそんな嘘を言うの?
そう思ったけれど一瞬だけレオンさんを見上げたリーザさんは、目を真っ赤に泣き腫らして真剣な面持ちで、嘘をついているようには見えません。
レオンさんは溜め息をついて天井を見上げ、トーニオさんが真顔で尋ねました。
「襲ったの?」
「冗談だろ」
「じゃあ何でリーザは、お前に襲われたなんて言うんだよ?」
「リーザに聞けよ」
レオンさんは憮然として、トーニオさんは興味深そうにレオンさんとリーザさんを交互に見ています。
僕は凍りついたまま、リーザさんに声を掛けました。
「立てますか? 部屋に戻りませんか?」
その後メイド頭のバーレ夫人がやって来て、リーザさんは僕と夫人に支えられ、おぼつかない足取りで部屋に戻ったんです。
レオンさんとトーニオさんと僕がダイニング・ルームで朝食を食べていると、沈痛な顔つきのユリアスさんが部屋に入って来ました。
「リーザさんの具合はどうですか?」
僕は尋ねました。しばらくリーザさんに付き添ったけれど、主治医が来たので部屋に戻って着替え、ダイニング・ルームに降りていたんです。
「ああ……。夜明け前、寒かったのでリネン室に毛布を取りに行ったと彼女は言うんだ」
ユリアスさんは曖昧に答えながら椅子に座り、レオンさんに目を向けました。
「レオン。君はリネン室の奥まで入ったか?」
「奥……?」
僅かに目を細め、「いや」と言葉少なに答えるレオンさん。
ユリアスさんの言っている意味は、僕にも分かります。
奥の窓の下辺りで、リーザさんは何者かに襲われたんです。だからランプ台が倒れ、棚からリネンが落ちていたんです。
「このボタンに見覚えはないか?」
ユリアスさんが白いハンカチに包まれたボタンをテーブルの上に置いて、僕は立ち上がってのぞき込み、言葉を失ってしまいました。
淡い紫色の貝殻のボタン――――。レオンさんのシャツの袖に付いていた物によく似ています。
「見覚えがある気がする」
トーニオさんが何気なく言い、レオンさんはボタンを指でつまみ上げました。
「……昨日、どこかで落としたやつだ。どこで落としたのかは分からないが」
「リネン室の奥で落ちていた。倒れたランプ台の下にね」
ユリアスさんの声は冷ややかで、僕の咽喉の奥から冷たいものがせり上がって来ます。
つまり……リーザさんが抵抗したであろう現場に、レオンさんのシャツのボタンが落ちていたということで、
それはつまり……リネン室の奥まで入っていないというレオンさんの言葉は嘘ということになり、
結論として……レオンさんがリーザさんを……。
「レオンさん。よく見てください。本当にレオンさんのボタンですか? 似てるけど、違うんじゃないですか?」
僕は必死に言ったけれど、レオンさんは僕にとって恐怖の言葉を口にしました。
「同じ材質のボタンはあるが、同じ模様の物はない。これは、俺のボタンだ」
そんな……。どさりと椅子に崩れ落ちる僕。
レオンさんは指先でボタンを弄び、静かに僕に向けられた黒い瞳は俺を信じろと告げているようで、真摯な表情はいつも通りのレオンさんです。
「だが俺がリネン室の入口までしか入っていないというのは、本当だ。このボタンをどこで落としたのか、分からないというのも」
「そうなると、リーザが嘘をついているということになる。彼女とは長い付き合いだが、嘘をつくような娘じゃない」
「俺は、嘘をつくような男だと聞こえるな」
レオンさんの端整な顔に薄ら寒い微笑が浮かび、ユリアスさんは冷たい視線をレオンさんに向けたままです。
「この問題は、しばらく棚上げにしよう。リーザには済まないと思うが、私からの依頼を優先して貰いたい」
「いっそその依頼をやめたら? そうすればリーザちゃんを後回しにしなくて済むよ?」
「いや。やめない」
レオンさんは冷然とした顔つきで、きっぱりと言い切りました。
「これは俺の問題でもあるんだから」
「あの……」
僕は話について行けなくて、思い切って尋ねてみたんです。
「ユリアスさんの依頼って何ですか? 何のことだか僕にはさっぱりわかりません」
言った途端、部屋に立ち込める重苦しい空気。聞かない方が良かったかも……。
後悔し始めた時、ユリアスさんが沈黙を断ち切るように重い口を開きました。
「……私が話そう。5年前のスパイ事件についてだ」
レオンさんのお父さんが容疑者にされたという、あの事件……?
「主犯として逮捕された国王陛下の主治医は、王宮に上がる前、侯爵家の主治医だったんだ。いい人だったよ。それは今でも変わらない」
ユリアスさんは遠い目をし、テーブルに肘を置いて指を組みました。
「逮捕された時、自分は無実だと言っていた。ひと月ほど前、彼は脱獄してこの屋敷に逃げ込んだ」
「えっ」
僕の脳裏に、昨夜のユリアスさんの姿が浮かびました。
「もしかして……。夕べ、ユリアスさんが中庭にある小屋に入って行くのを見ました。あの小屋は……」
「小屋の下に地下室がある。出来るだけ居心地のいい部屋にして、アルットにはそこで暮らして貰っている。しかし、いつまでもかくまうわけにはいかない。そこでレオンとトーニオに協力を依頼したんだ。私の感触だが、彼は本当に無実のような気がする」
「冤罪……ですか。でも、あの、そういうことなら、大人に頼んだ方が良くないですか? お父様のラーデン侯爵とか……」
どうしてレオンさんとトーニオさんに頼むんでしょうか。
脱獄犯の冤罪を晴らすのは素晴らしいことだけれど、そのためにレオンさんとトーニオさんが危険な目に合いそうで、怖くてたまりません。
「侯爵は別邸住まいだ。気軽に話の出来る間柄ではなくてね」
ユリアスさんは優美な顔に寒々しい笑みを浮かべ、僕ははっとしました。
最近では僕も貴族特有の言い回しに慣れて、『別邸住まい』とは愛人と一緒に住んでいるという意味だと分かります。
ユリアスさんの表情から考えて、お父上とは仲が良くないみたい。ユリアスさんが男性を嫌っている様子なのも、その事と関係があるんでしょうか。
「アルットが逮捕されたのは動かぬ証拠があったからだと聞かされていたが、彼が言うにはその証拠とは、賭博業者に渡した借用書と事件当日カバンの中に皇太子殿下の体内から発見された物と同じ毒物が入っていたという事実、それだけらしい。しかもどちらも彼は、身に覚えがないと言う。当局は借金の返済を迫られて困ったアルットが、フェルキアから金を受け取って手先になったと結論づけた」
ユリアスさんの話に、レオンさんが付け加えます。
「スパイ事件は陸軍情報部の管轄だ。証拠が無いに等しいにも関わらず逮捕し、5年間も牢獄に閉じ込め、今さら情報部が過ちを認めるとは思えないな。栄光ある国王陛下の軍隊は、決して過ちを認めない組織だよ」
「ラインハルト王子は、アルットさんが無実だとご存知だったんでしょうか」
「知ってたと思うよ」
トーニオさんは頬杖をつき、優雅だけれど真剣な表情です。
「これは推測だけど、真犯人は名前を公表すると拙い人物なんじゃないかなあ。例えば王家とか、有力な人物とか。情報部は真犯人とフェルキアがつながってる証拠を持っていて、それを使ってフェルキアを牽制したいけれど、真犯人を逮捕することは出来ない。だから代わりの犯人をでっちあげたっていうのが、俺の説」
「……ひどい」
「俺はアルットが亡き父上と重なって仕方がないんだ。父上の汚名は晴れたが、代わりにアルットが犠牲になったかと思うと、怒りがこみ上げる。だからこれは俺の問題、俺の闘いだ」
レオンさんの表情は落ち着いているけれど、声には怒りと決意が込められています。
「で、真犯人を探す方法だけど。情報通のご婦人を何人か知ってるから当たってみるよ。昨夜は空振りだったけどね」
また悪い女性に会いに行くんだなっと思ったけれど、口にはしませんでした。
「俺は、賭博業者の方をつついてみるよ。悪評を山ほど抱えた奴だ。埃がどっさり出て来るだろう」
「私は何をしようか」
ユリアスさんが言うと、レオンさんは僕を見て仄かに微笑みました。
「エメルを守ってくれ。俺とトーニオは当分の間、エメルを守れないだろうから」
その日、リーザさんは学校を休むことになりました。
レオンさんとトーニオさんは馬でフィアに向かい、ユリアスさんと僕は侯爵家の馬車に乗り込んだんです。
窓の外を眺めるユリアスさんは浮かない表情で、リーザさんが心配なんだろうと僕は思いました。
リーザさんが嘘をついてるとは思いたくないけれど、レオンさんが卑劣なことをするわけがない。
最も可能性が高そうなのは、リーザさんが何かの事情からレオンさんを陥れる必要があって、レオンさんのボタンをリネン室に落としてレオンさんが来るのを待っていた……ということなんだけど。
でも僕はその時、大切なことに気づいてしまいました。リーザさんは昨日から今朝まで、一度もレオンさんに会ってないんです。
リーザさんには、あれがレオンさんのボタンだとは判別できないと思う。
ということは、誰かがレオンさんの物だと言ってボタンをリーザさんに渡した……。
レオンさんは、どこでボタンを落としたのか。誰かが拾ったとして、それがレオンさんのボタンだと分かる人は限られています。
この屋敷内で、あんな小さなボタンがレオンさんの物だと確信できる人は――――。
レオンさん自身を除けば、トーニオさん。ユリアスさんも、僕がレオンさんのボタンを引っ張った場面を見ていたはずです。
レオンさんの潔白を証明するために、トーニオさんやユリアスさんを疑うなんて――――。
僕は自分に嫌気がさし、どんより暗い気分になりました。
それにしてもユリアスさん、どうして大人を頼ろうとしないんでしょうか。
お父さんと仲が良くないとしても、他に信頼できる大人はいそうなものなのに。
「ご兄弟はいらっしゃるんですか?」
話しかけてもいいのかなと迷いながら、さりげなく尋ねてみたんです。
「兄が一人いた」
いた……。過去形です。亡くなったんだと気づき、舌を噛み切りたくなりました。最悪の話を振ってしまった……。
「ガルトゥールという。10年前トライゼンにコレラが流行した時、亡くなった。私は兄によく似ているらしいよ。母は今でも、私をガルトゥールと呼ぶことがある」
「お母様が……?」
僕の正面に座ったユリアスさんは本当に優美で綺麗で、花の蕾のように愛らしい口元を除くと絶世の美青年に見えます。
「母は体が弱くてね。時々王都にやって来るが、大抵は田舎の領地で静養しているよ。……君はなぜ男装するんだ?」
「え? えっと、戦闘服なんです。本当の僕は弱くて情けない奴で、最初はパパに男装させられたんですけど、その時ほんの少し強くなった気分になって、それからやめられなくなって……です」
「戦闘服か」
ユリアスさんは、ふっと優雅に笑いました。
「私も似たようなものかも知れない。兄の死後、私は唯一の後継者としてラーデン侯爵家を背負って行かなければならなくなった。動きやすいから男装しているが、もしかすると心のどこかで闘おうとしているのかも知れないな」
そう言いながら青紫の瞳を揺らすユリアスさんは何処か寂しそうで、ユリアスさんほどの人でも侯爵家の後継者という立場は重いのかなと思うと、貴族の家名を背負うことの重責をひしひしと感じてしまいます。
未来の女侯爵としての自負心があるから、ユリアスさんはアルットさんの問題を自分で解決しようとしているんでしょうか。
もしかすると、レオンさんとトーニオさんが犠牲になってしまうかもしれないのに。
ユリアスさんほど聡明な人が、そんな無謀なことをするかな。
まだ僕に隠してることがある……。そんな気がしました。
レオンさんとトーニオさんは、すべての事情を聞かされてるのかな――――聞かされてるんじゃないかなと思います。
2人とも頭脳明晰だし、疑い深いし、納得できない事はしないと思う。
3人で話し合って、レオンさんとトーニオさんは5年前の因縁があるから怒りと雪辱に燃えて、ユリアスさんに協力する気になったのかな。
そんなことを想像していると、哀しい気分になります。
やっぱり僕は、仲間はずれです。僕が弱い奴だから、戦闘の仲間に入れて貰えない……。
馬車がフィアに向かう曲がり角に来てスピードを緩めた時、大きくガタリと揺れました。
「きゃっ」
壁際まで転がり、猛列な速さで走り出した馬車に目を丸めている僕の前で、ユリアスさんは窓から顔を出して左右を確かめています。
「さっそくか!」
ユリアスさんの言葉の意味がすぐには理解できず、僕は狂ったように走る馬車の中で、おろおろするばかりでした。