3 奉公先は侯爵家 Ⅰ
僕は、働くことになりました。
場所はラーデン侯爵家、仕事内容は用心棒です。
リーデンベルク家の御者であるダレフさんにきちんと挨拶して、僕はラーデン侯爵家の馬車に乗りました。
フィアの授業は午前中のみで、学生たちは午後を思い思いに過ごします。習い事に通ったり、カフェで仲間と盛り上がったり、スポーツや芸術を楽しんだり。
ユリアスさんとリーザさんと僕は何処にも寄らず、まっすぐラーデン侯爵邸に向かいました。
驚いたことに、リーザさんは侯爵邸に住んでいるんです。
「クラレストに家がないから……」
馬車の中で、リーザさんは辛そうに言いました。
「三年前、貴族籍と領地を国王陛下に買い上げて頂いたから、もう貴族ではないの……」
「フィアに入学した者は、貴族籍を返上しても卒業まで通えることになっている。クラレストに住まいが無くなったから、私の屋敷に住んで貰っているんだ」
リーザさんもユリアスさんもそれ以上話さなかったし、リーザさんの表情が悲しそうで僕も聞けなかったけれど、想像することは出来ます。
借金――――。
トライゼンでは他国のような爵位や領地の売買は法律で禁じられていて、どうしても必要な場合は国王陛下が買い上げることになっているんです。
僕が聞いた話では年間1つか2つの領地が国有地になり、同じ数の爵位と貴族籍が返上されるとか。
10年の猶予期間が与えられ、その間なら買い戻すことが出来るんですが、10年過ぎると領地と爵位は別の人に与えられます。
借財を背負う貴族は多いらしく、たいていは資産家と縁組してしのぐそうですが、リーザさんの家にはそれが出来ない事情があったんでしょうか。
資産家と結婚して借財から逃れられても、ディリア母上のように不幸を背負うことになる例も多いみたいだけれど……。
沈黙の中で馬車は静かに進み、何か話さなければと僕はめまぐるしく脳を働かせました。
「えっと……汚れたモップを馬車に持ち込んでしまって、すみません」
僕は、まず謝りました。朝登校した時には新品のモップだったのに、僕ときたら汚れた廊下や教室の床なんかを見ると我慢できなくなって、磨いてしまったんです。
「エメルって少し変わってるわよね」
リーザさんがくすりと笑ってくれたから、僕はほっとしました。
「少しじゃないだろう。モップを持って登校する女子学生など前代未聞だ」
ユリアスさんも笑い、平民の中等学校なら目立たないのになと僕は思いました。
中等学校に通う生徒は家が貧乏で働いてる子が多いから、授業が終わったら直接仕事場に行けるように大工道具や自前のツルハシなんかを抱えて登校する子もいて、モップを持っていても目立たないと思うんです。
「学園長がよく許可したな。トーニオとレオンの妹だから諦めたんだろうな。あの兄にして、この妹ありだ」
「えっ。兄さんたちって、そんなに悪名高いんですか」
「学園長訓戒の常習犯だよ」
「何をしたんですか?」
学園長訓戒は学内懲罰の中で最も軽いもので、大した罪じゃないだろうと思いながら軽い気持ちで尋ねたんです。
「レオンは例の如く喧嘩だの決闘だのがらみ、トーニオは女教師に手を出したとか出されたとか」
「えええっ」
信じられない……。平民の中等学校や高等学校なら、退学はもちろん悪くすると監獄行きです。フィアの学則は平民の学校に比べ、緩いのでしょうか。
ラーデン侯爵邸は軍本部や王宮にほど近い、青味がかった白い漆喰で塗り固められた大きな建物です。
馬車に乗ったまま門を抜け、噴水のある前庭で降りると数人の目つきの鋭い男たちがいて、侯爵家を警護する者たちだと一目で分かります。
ユリアスさんの部屋は2階にあり、隣がリーザさんの部屋で反対側の隣が僕の部屋だと言われ、僕はリーザさんに案内されて自分の部屋に入りました。
壁は萌え出した新緑の色、白地にアネモネが描かれた典雅な家具で統一されていて、僕はその場で踊るようにくるりと一周し、「わあっ」と感嘆の声をあげました。
とは言え遊んでいるわけにはいかず、用心棒としての職務を果たすべく、僕は邸内の見廻りに出かけたんです。
「お嬢様とお呼びしていいんでしょうか」
メイド長のバーレ夫人が、僕の全身にさっと視線を走らせて尋ねたので、
「用心棒のエメル君でいいですよ」
と真面目に答えると、夫人は目を丸くしながら僕が持っていた汚れたモップを新品と交換してくれました
新しいモップを抱えて屋敷の外に出て鋭い目つきの男たちにびくびくしながら挨拶し、彼らは全員レオンさんの紹介でやって来たと聞かされました。
レオンさんが僕のことをユリアスさんに頼んでくれた時、ユリアスさんから警護の男たちを紹介してくれるよう頼まれて、レオンさんは知り合いの拳闘士たちに声を掛けたのだそうです。
拳闘だけでは生活が立ちいかないので、仕事を紹介してくれたレオンさんに感謝していると言われ、僕が意気揚々と邸内に戻ると居間にレオンさんとトーニオさんとユリアスさんがいて、何やら三人で相談しているようです。
「やあ、用心棒くん。俺たち今日から、この屋敷に住むことになったからね」
トーニオさんが陽気に言い、仰天したのは僕だけじゃありませんでした。
「何でそういう話になるんだ」
レオンさんが隣に座るトーニオさんをまじまじと見て、
「私は構わないが……」
ユリアスさんは言葉を濁しながら、淡々と紅茶を飲んでいます。
「大事な妹に不幸が降りかからないよう、そばにいて見守るのが兄の務めだろう」
トーニオさんの口調は、さも当然と言わんばかりです。
「でも、あの、僕一人で大丈夫ですよ。警護の人たちもいるし、僕も闘えるし、僕は強いし……」
たぶんと心の中で付け加え兄たちを見ましたが、トーニオさんは疑い深く、レオンさんは心配そうに僕を見ています。
「エメルが私を守り、トーニオとレオンがエメルを守り、屋敷全体を警護の者たちが守る。何重にも警護体制を作っておいた方が安心ではあるな」
ユリアスさんが言い、僕はソファにモップを立てかけて、ユリアスさんの隣に座りました。
「そのことなんですけど。敵はどんな奴ですか? 侯爵家の危機って何ですか?」
「それは……。知れば君の危険がさらに増すことになる。もう暫くの間、何も聞かずに働いて貰えないだろうか。エメルがどれほどの腕前か話には聞いているが、自分の目で確かめて、これなら大丈夫と確信してから話したい」
「はあ……」
何だか爪弾きにされた気分です。
レオンさんとトーニオさんは意味ありげに顔を見合わせていて、目配せし合って合図を送り合っているようで、ますます仲間外れの気分です。
「じゃ、そういうことで。俺は屋敷に戻って準備をして来るよ。父上と母上に話をして、着替えなんかも運ばないとね」
「俺はさっそく調べものに取りかかろう」
レオンさんの言う調べものって、何を調べるんでしょうか。
レオンさんとトーニオさんは立ち上がり、僕は上着を着ようとしたレオンさんを惚れ惚れと見上げました。
レオンさんもトーニオさんもくだけた感じのスーツ姿ですが、トーニオさんはアスコットタイを華やかに結び、レオンさんはシンプルなクロスタイで首元を飾っています。
レオンさんのシャツの袖ボタンが取れかかっているのが目に入り、僕はボタンをつまんで引っ張ってみました。
高級な淡い紫色の貝殻で作られたボタンは、縫い付けられた糸が切れかかっていて、今にも落ちそうです。
レオンさんは一瞬驚いた顔をして、僕の額を軽くつつきました。
仕様のない奴だなといった表情で、目が優しく僕に語りかけてきます。
「人の心配より自分の心配をしろ。用心棒を引き受けたと聞かされた時は、心臓が止まるかと思ったよ」
「俺はもう、エメルちゃんが何をしようと驚かなくなったけどね」
トーニオさんは上着のボタンを留めながら、笑っています。
「働き者のエメルと過保護な兄どもに感謝する」
ユリアスさんはそう言いながら、苦笑しています。
レオンさんは貝ボタンの糸を歯で引っ張り、器用な手つきで結んで留めました。
それからレオンさんとトーニオさんは、部屋から出て行ったんです。
その日の夜。
枕が変わると寝苦しくて、僕は何度も寝返りを打ち、眠れないままバルコニーに出て夜風に当たりました。
秋の夜は早や冬の気配がして、僕はぶるっと震えてパジャマの前を合わせ、ふと下を見ると小さなランタンが樹木の間を動いています。
目をこらし、「あっ」と小さく口の中で呟きました。
黒いマントを頭からすっぽり被っているけれど、背格好と頭巾からこぼれ落ちたプラチナブロンドの髪から見て間違いない。ユリアスさん……。
こんな夜中に、ユリアスさんはどこに行くのでしょうか。よく見ると、手に籠のような物を下げています。
中庭の木々の向こうに小屋があり、そこでランタンは消えました。ユリアスさん、小屋の中に入ったのかな……。
しばらく待っていると小屋からユリアスさんが出て来て、その時のユリアスさんの手に籠はありませんでした。
僕はバルコニーにしゃがんで小さくなり、ユリアスさんは僕に気づかないまま、勝手口から屋敷に戻って行ったんです。
ユリアスさん、小屋で何をしていたんだろう。気になりながら、ベッドに戻りました。
遠くで、猫の鳴き声がします。
明日あの小屋を見に行ってみようとか、レオンさんとトーニオさんとユリアスさんは何を相談していたんだろうとか考えているうちに、僕は眠ってしまったんです。
猫の鳴き声はますます大きくなり、暗い夜のとばりから飛び出すように僕の胸の上に乗って、僕の首筋や顎や鼻の頭をぺろぺろ舐めました。
とくに僕の耳を執拗に舐め、舐めるだけでは飽き足らず、噛んだりキスしたりするんです。
猫がキス……? 変だなと思ったけれど、僕は気にしませんでした。
猫だってキスしたい時があるに違いないと思い、念のため尋ねてみました。もちろん、猫語で。
「ミャア? ミャミャア?」
どうやら通じたらしく、くすくす笑いと一緒に猫語が返って来ます。
「ニャンニャン……」
聞き覚えのある声が、僕の胸の辺りから聞こえて来ます。
猫は僕のパジャマの胸元に鼻を突っ込んで、鎖骨から僕のぺったんこの胸に向かって舌を這わせようとしてるみたいで……。
頭の隅で警戒信号が鳴り、僕ははっきりくっきり目を覚まし、愉快そうな青い目を見て唇をぶるぶる震わせました。
「ひっ、ひっ……」
「おっと。叫ぶのはなしだよ。ユリアスとリーザちゃんが、びっくりする」
びっくりしてるのは僕です。
侯爵邸にいるはずなのに、昨夜は部屋にも窓にも鍵を掛けたはずなのに、どうしてトーニオさんが部屋にいるの?
僕は飛び起きて羽根布団を首まで引き上げ、ずるずるとヘッドボードまで後ずさりました。
トーニオさんはベッドの端に腰かけて、悩ましく微笑んでいます。
「う~ん。そろそろ俺に慣れてくれないかなあ」
「そ、そういう問題じゃないと思うんです。今大切なことは、どうしてトーニオさんが僕の部屋にいるかってことで……」
「早朝の見回りがあるから妹を起こしに行くと言ったら、可愛いメイドちゃんが鍵をくれたんだよ」
可愛いメイドちゃん……。
きっと哀れなメイドさんに歯の浮くような台詞をこれでもかこれでもかと注ぎ込み、ぼおっとして何も考えられなくなった頃合を見計らって鍵をふんだくったに違いありません。トーニオさんなら、やりかねない。
僕が目を細めると、トーニオさんは声を上げて笑いました。
「この間は俺に抱きついてくれたから、今度は何をしてくれるかと期待したんだけど」
天使の夢を見て、間違ってトーニオさんにしがみついてしまった事を言ってるんだと思い、僕は忘れようと首をぶんぶん振りました。
ベッドに立てかけたモップに目をやり、あれでトーニオさんを撃退していいものかどうかと考えていた時、遠くから叫び声が聞こえたんです。
「今の声……」
リーザさんの声? 絶叫が2度3度と立て続き、僕はベッドから飛び降りました。
顔色を変えて部屋から飛び出すトーニオさんの後から、モップを抱えて駆け出す僕。
間違いないと思う。あれは、リーザさんの声です。
階段を1階まで降りると勝手口脇の部屋のドアが開かれていて、中はリネン室のようで、腕組みをしたレオンさんが壁にもたれて立っていました。
レオンさんの前で、崩れ折れたようにリーザさんが座り込んで泣いています。
その姿に、僕は茫然としました。
リーザさんの肩には部屋にあるリネンが掛けられているけれど、その下の寝着はびりびりに破られて、豊かな胸や太ももがあらわになっていたんです。