2 僕の仕事は用心棒と……愛人? Ⅳ
ナサニエル先生が僕を連れて行ったのは、音楽室でした。
額縁に入った音楽家の肖像画が壁一面に飾られ、マホガニーの机と椅子が整然と並べられて、部屋の隅にはコントラバスやハープや打楽器が置かれています。
「そこに座ってくれ」
モップをこわばった動作で窓枠に立てかけ、言われた通りに窓際の席に座ってかちーんと凍りついていると、先生は僕の正面に腰かけて、真面目な顔を僕に向けました。
笑っていない時のナサニエル先生は威厳ある教師そのもので、僕のお腹の底にひやりと冷たいものが走ります。
「説明してもらおうか。マクシミリアン・アリステオ・フォン・ザイエルンがなぜ女装していたのかを」
「えっと……あの、あの……」
うまく言い逃れようと思ったのですが、何の言い訳も浮かんで来ません。マクシミリアン・アリステオだからマテオと呼ばれてるんだという、本件に何ら関係ないことで感心するばかりです。
「なるほど。マテオが女装して別館をのぞきに行き、たまたま出くわした君を口封じのために連れ出した、と。そういうことだな」
「えっ。違います。全然違います!」
僕は、必死に食い下がりました。
「色々と事情があって、でも悪いのは僕なんです。僕が悪くて、マテオさんは悪くないんです」
「マテオの罪を君がかぶるということか。トライゼン刑法第123条、国家風紀法違反により、監獄行きだ。刑期は7,8年といったところだろう」
「ええっ」
監獄行き……。そんな……。でもマテオさん、教室の窓をのぞいたと言ってたし、あれはのぞき行為に該当して処罰されてしまうんでしょうか。
「という事になればフィアにとって不名誉だから、学内処罰に留めておく。不名誉は体であがなう事になっている。腕立て伏せ500回だ」
「えええっ」
死にます。500回も腕立て伏せをしたら、僕の場合、永遠に伏せたままです。
「無理か?」
「……はい」
先生は眼鏡の縁を人差し指で持ち上げ、砂色の目をキランと光らせました。
「君は女の子だ。女の子だけの特別恩赦を用意しよう。体で払え。意味は分かるな?」
「え……」
おもむろに立ち上がり、先生は僕の腕を引きました。
「さあ、ベッドへ行こう。医務室のベッドが空いている。『使用中』と書いて貼っておけば、誰も入って来ない」
「ひいっ」
何言ってるの。学校の先生なのに、フィアの教師なのに……。僕の中で威厳ある教師像が、がらがらと音を立てて崩れていきました。
「入、入って来るんじゃないですか? 何事かと先生方や学生が押し寄せるんじゃないですか?」
『使用中』なんて、思いっきり不審です。
「その時は見せつけてやろうではないか。俺は、かまわない」
僕はかまいます! もの凄くかまいます! 先生に腕を引っ張られ、僕は抵抗しました。
「ひっ、ひ――っっ」
「ベッドが嫌なら、女装した変態のマテオに別館から無理矢理拉致されましたと言え。それが嫌なら腕立て伏せ500回」
「そんな……」
どれも選べません。どれも嫌だ。
「早く選べ。時間がない」
そんなこと言われても……。僕が泣きそうになっていると、先生はため息をつきました。
「まったく女という奴は。こんなチビのうちから、男を待たせる才能にたけている。……俺にも憐みの心というやつが無いわけじゃない。あと一つだけ、選択の余地を与えよう。あと一つだけだ、これが最後だぞ。レオンに歌を歌わせろ」
「……は? 歌?」
僕が間の抜けた返事をすると、先生はズボンのポケットに両手を入れ、僕を凝視しました。
「レオン・クラウス・フォン・リーデンベルクは過去5年間、一度も歌の試験を受けていない。理由は分かっている。音程を維持する能力に欠けているからだ。逃げ切って卒業する気のようだが、それでいいと君は思うか? 思わないだろう? 苦手だからと言って逃げていいもんじゃない。彼に歌の試験を受けさせることが出来たなら、俺は何も見なかったことにしよう」
「でも、でも、僕なんかの言うことをレオンさんが聞くとは思えません」
聞くどころか、レオンさんはきっと怒るでしょう。
レオンさんは僕を妹として大切に思ってくれているけれど、だからと言って僕が何を言ってもレオンさんが許してくれるわけじゃない。
まだそこまで仲良しとは言い切れないんです。
仕方がありません。僕は決心しました。マテオさんを罪に陥れることは出来ない、レオンさんに無理強いすることも出来ない、体で払うなんて論外です。消去法で残ったのは……腕立て伏せ。
「あの、先生。僕にはレオンさんに何かをしてもらう力はありません。ですから……」
「体で払うことを決意したか」
「そっちじゃなくて、腕立て伏せの方に……」
「時間切れのため、腕立て伏せ法案とマテオ変態法案は消滅した。残ったのは歌か、体で払うか。どちらを選ぶ?」
「うっ、うう……」
ひどい。ひど過ぎる。僕が恨みをこめて横暴なナサニエル先生を見上げると、先生はにやりと意味ありげに笑い、首を廊下側に巡らせました。
「レオンが来たようだ」
遠くから走って来る足音が聞こえ、僕の頭の中はめまぐるしく働きました。どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
浮かんでくるのはその一言だけで、何の解決法も見出せない自分の頭をぽかすか殴っているうちにドアが音高く開き、険しい顔つきのレオンさんが入って来ました。
「レオンさん!」
僕は何も考えずに駆け出し、レオンさんに飛びつきました。サディストのナサニエル先生から逃れたい一心で。
レオンさんは僕を背中に押しやり、先生を睨みつけています。
「エメルに何をした」
「まだ何もしていない。君が来るのが早過ぎて、口説き損ねたよ。さあ、レオン。独唱台に立て。課題曲を用意する間、発声練習をしておけ」
「俺は、歌わない」
レオンさんは低い静かな声で言い、僕の肩をつかみました。
「行くぞ、エメル」
「逃げるのか。寛大だったこれまでの音楽教師に甘え、5年間も逃げ回った。今やらないと一生逃げ続けることになるんだぞ」
「俺は、完璧な人間じゃない。欠点なら山ほどあるさ。歌はそのうちの一つだ」
レオンさんの歌って、そんなにひどいんでしょうか。僕は首をかしげました。レオンさんの声は低くて少しかすれていて、とても魅力的なのに……。
これまでレオンさんの歌を聞いたことは、一度もありません。
もしかすると、一生聞くことはないかも知れません。
これはレオンさんの歌が聞ける、最初で最後のチャンスかもしれない。
「僕、聞きたいです。レオンさんの歌……」
気がつくと、僕は呟いていました。最初で最後のチャンスなら、逃したくない。心の底から、レオンさんの歌が聞きたいと思いました。
「本当に聞きたいです。歌ってください、レオンさん。もしできるなら――――僕のために」
レオンさんは驚いたように目を見開き、ふっと顔をそむけました。
怒ったのかなと思っていると、深いため息をついて目を伏せたレオンさんは、困惑するように髪をかきむしり、ゆっくりと目を僕に向けたんです。
「……笑うなよ」
「はい。笑いません」
僕は、笑って答えました。さっそく笑ってるんだけど。
ナサニエル先生に挑むような強い視線を送り、覚悟を決めたらしいレオンさんは廊下側の壁際に置かれた譜面台の前に立ち、それでもまだ逡巡するように片手で顔の半分を覆っています。
先生から楽譜を手渡され、
「何だ、これ」
「何ですかこれ、だろ? 忘れているようだが、俺は教師で君は学生だぞ」
「何ですか、これ」
「楽譜だ」
レオンさんはちっと舌打ちすると楽譜を荒っぽく譜面台に置き、顎を引いて下から先生を睨み上げました。
先生は指揮棒を手にし、にやりと笑っています。
「覚えていてくださいよ。いつかこの借りはお返しします。特に夜道の一人歩きには、くれぐれも御用心を」
「そう言う奴が多くてな、いちいち覚えてられないんだよ」
先生の指揮に合わせ、レオンさんが歌い出しました。……トライゼンでよく知られた、恋の歌を。
君に会えない夜、僕はせつなくて眠れない
君に会えなかった朝、まどろみから目を覚まし、僕は幻を見る
愛しい君を――――
1小節に1度は音程がはずれるけれど、はずれっぱなしの時もあるけれど、少しも気になりませんでした。
恋の歌を歌うレオンさんから目が離せなくて、低くかすれた声は囁いているみたいで、僕の胸が高鳴ります。
君に会いたい 君の声が聞きたい 君を抱きしめたい
愛してる――――
レオンさんが横目で僕を見たから目と目が合ってしまい、レオンさんはすぐに楽譜に視線を戻したけれど頬が赤くなっていて、僕は目を見張りました。レオンさんが、赤くなってる……。
僕は、君を愛してる――――
愛してる――――
愛してる――――
それは、奇跡のような出来事でした。
レオンさんが頬をほんのり赤らめて、愛してると歌いながら、僕に目を向けるんです。
レオンさんの黒い瞳は深くて謎だらけだけど澄んでいて、僕に何かを伝えようとしているかのようです。
何だろう――――。僕には分からないけれど。
ただ僕の心の奥深くから、熱くて激しくて圧倒されるような何かが湧き上がって来て、胸の辺りで渦を巻きました。
胸が痛いのに、幸せです。レオンさんに出会えた僕は、幸せです。
そう思うと涙がぽろぽろこぼれ落ち、手で拭っているとレオンさんは驚いた顔をして、それから優しく微笑むんです。
ずっと歌ってくれたらいいのにと願ったけれど、歌はあっという間に終わってしまい、僕はがっかりしました。
魔法の時間は夢のように儚くて、心に心地良い感動を残して消えていきました。
「レオンさん、素敵でした。歌も素敵だったけれど、レオンさんも素敵でした」
僕が言うと、照れたような困ったような笑みを浮かべ、僕の髪をくしゃくしゃにするレオンさん。
「9年生の分は終わったが、まだ4年生から8年生のが残ってるからな。あと5曲だ」
「勘弁してください」
怖い顔でさっさと教室を出て行くレオンさんを追いかけて、僕はモップを抱えて走りました。
廊下に出るとトーニオさんとブルーノさんがいて、スーツに着替えたマテオさんと、ユリアスさんもいます。
トーニオさんが僕を力一杯抱きしめて頬を髪にすり寄せ、僕はぎょっとしてトーニオさんを見上げました。
「可哀相に、あんな怖ろしい呪文を聞かされて。家に戻ったら、俺が愛の囁きをいっぱい聞かせてあげるからね」
「俺は、歌っていたんだ」
レオンさんがトーニオさんの腕の中から僕を引っ張り出そうとし、トーニオさんはにやりとしました。
「呪いの言葉を吐いてるのかと思ったよ」
「エメルちゃんが無事で良かった。ナサニエルみたいな奴の所に一人残して来たかと思うと、心配と罪悪感でどうにかなりそうだったよ」
マテオさんが言い、僕は胸を張りました。
「ご心配をお掛けしました。レオンさんが歌ってくれたから、無事解放されました」
「人質を取って、身代金代わりに試験強要か。何でかな、血が騒ぐ」
「先祖の血だろう。山賊の子孫だからねえ、トライゼンの国民は」
ブルーノさんとトーニオさんは、笑いながら顔を見合わせています。
「そろそろ教室に戻ろう。次の授業が始まる」
壁にもたれ皆の話を聞いていたユリアスさんが、僕に歩み寄りました。
「ユリアス。愛人の件で話がある。時間を取って貰えないか」
レオンさんがユリアスさんに真剣な口調で言ったけれど、ユリアスさんの反応は冷ややかです。
「放課後、私の屋敷に来るといい。さあ、エメル。急ごう」
僕はユリアスさんに肩を抱かれ、振り返ってレオンさん達に軽く頭を下げ、歩き出しました。
本館を出て芝生の上を別館に向かって歩くと、左右に見事な庭園が見えます。
見に行ってみたいなあと思う僕の耳に、ユリアスさんの沈痛な声が飛び込んで来たんです。
「……実は、エメル。ラーデン侯爵家は今、危機に陥っている。君の助けが必要だ」
「危機……?」
ユリアスさんは美しい顔に憂いを漂わせ、流れるような視線を僕に向けました。
「詳しいことは屋敷で話すが、私には身辺警護が必要なのだ。屋敷には警護の男たちがいるが、もっと身近で私を守ってくれる女性が必要だ。腕が立ち信頼できる女性が見つからなくて、困っている。愛人の件は、なかった事にしてもいい。ただ暫くの間、そうだな、1週間から1か月ほど私の屋敷に住み、私の警護をして貰えないだろうか」
つまり……用心棒です。用心棒が必要なほどの危機って、何なのでしょうか。
その前に、僕にユリアスさんが守れるでしょうか。僕の棒術の腕前なんて、褒められたものじゃないし……。
でもじっと僕を見つめるユリアスさんの青紫の瞳には懇願するような色があって、僕なんかに頼むなんてよほど困ってるんじゃないかと思いました。
困ってる人に頼まれて、断れるわけがありません。
「わかりました。僕なんかでお役に立てるとはとても思えないけれど、頑張って働かせて頂きます」
僕が言うとユリアスさんはほっとしたように微笑んで、ユリアスさんの憂い顔を笑顔に変えることが出来るなら、そのために僕が役に立つのなら、一生懸命働こうと思うのでした。