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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて2 ~ギムナジウム入学篇~
19/78

1  初登校の不幸

新しい家族に囲まれた幸せも束の間、入学した王立ギムナジウムはセクハラだらけ。5年前のスパイ事件にも首を突っ込んでしまい、エメルに危機が忍び寄る。レオンとの間に少しずつ恋が育まれていきそうで――――。

「1時間目は、キスの練習ですよ」


 教壇に立って声を張り上げるヘルガ先生は、僕が通っていたランツ中等学校の担任だった女教師です。


「皆さんはいずれ結婚するんですから、上手にキスが出来るよう今から練習しておきましょうね」

「は~い」


 教室で可愛らしく返事をしているのは、貴族のお姫様たちです。

 顔の部分がぼやけているけれど、高価そうなドレスを着ているから、お姫様と分かるんです。


 色とりどりのシフォンやサテン地に金銀の刺繍が施されたドレスはスカート部分がたっぷりとして、デコルテや袖にフリルやレースやリボンがふんだんに使われて、とても華やかで豪華です。


 貴族のお姫様たちは立ち上がり、二人ずつ向かい合って互いの唇に……キスしてる……。

 僕は、必死に先生に訴えました。


「あの、あの、先生。僕、お腹が痛いんです」

「我慢なさい。授業放棄する者は、落第です」

「そんな……」


 途方に暮れる僕を、お姫様たちが取り囲みます。


「さあ、キスの練習をしましょう」

「上手になったら、いい縁談が来るのよ」

「僕、べつに、縁談は、今のところ……」


 後ずさる僕に、お姫様たちが迫って来ます。ピンクの唇、紅い唇、小さな唇、厚い唇。顔は見えないのに、唇だらけ……。

 女の子に迫られるという前代未聞の珍事に、僕の頭は爆発寸前です。


「さっさとしなさいよ!。あんたがやらないなら、わたし達まで落第しちゃうじゃない」

 聞き覚えのある声に振り返ると、髪を振り乱した怖ろしい顔つきのカミーラさんが立っています。

「自分から出来ないなら、わたしがやってあげる」


 そう言ってカミーラさんはたった三歩で僕に歩み寄り、唇を僕の唇につけたんです。……え?

 ぷちゅっと湿った音がしました。

 僕は今……カミーラさんとキスをしています。えっと……正確にはカミーラさんとのキス、終わりました。……ひっ。


「ひっ、ひっ、ひぃえぇぇぇ――――っっ!!」


 汗びっしょりになって、僕は飛び起きました。白々とした夜明けの暁光が、カーテンの隙間から差し込んでいます。

 夢だった……助かった。早鐘を打つ心臓を押さえ、はあはあと肩で息をし、僕は怖ろしい事実に気がつきました。


 女の子とキスする夢を見るなんて、僕の頭はとうとうおかしくなってしまったんです。

 しかも相手は、あのカミーラさん。どうしよう……。

 とり返しのつかない事をしでかしてしまった気分で頭を抱え、さらに怖ろしいことに気がつきました。……正夢かもしれない。


 ランツにいた頃、フィアの女子クラスは花嫁学校だと聞いたことがあります。

 男子クラスとはカリキュラムが違っていて、美しい歩き方の練習とか刺繍の授業なんかがあるとか、爵位とお金を持つお年寄りとの縁組が多いから、入れ歯の磨き方を練習するとか。


 同級生の男子たちの悪い冗談だとばかり思っていたけれど、冗談とは思えなくなって来た……。

 僕は貴族の習慣やしきたりを知らないから、貴族や王族の学校で何を学ぶのかよく分からないし、もしかすると普通にキスの練習が授業中にあるのかもしれない。


 と、とてもついていけない……。夢の中でさえ衝撃的だったのに、実際にするなんてとても……。

 やっぱり、平民の僕なんかが貴族のお姫様たちと同じ教室で学ぶなんて、無理なんです。


 レオンさんとトーニオさんは守ると言ってくれたけれど、お姫様たちとのお喋りを想像するだけで汗が流れ落ちるし足が震えるし、その上どんな授業があるかも分からなくて、恐怖と不安が募ります。


 そうだ、ディリアお母様に尋ねてみようと僕は思いつきました。パパはフィアについてよく知らないだろうけれど、お母様なら知っているはずです。

 ベッドから飛び降りドアを細く開き、首だけ出して廊下をのぞきました。


 リーデンベルク邸の三階にはパパとお母様と僕の部屋があり、廊下でつながっています。

 パパとお母様の寝室のドアは閉まったままで、少しの間待ってみたけれど偶然開くはずもなく、僕は諦めてパジャマを脱ぎ、いつものシャツとズボンに着替えました。


 大人たちには夜遅くまで社交界でのお付き合いがあり、この時間はまだ眠っているはずです。

 秋の社交シーズン前のプレ・シーズンが始まっていて、避暑地や別荘から戻って来た貴族のお歴々が、各々のお屋敷で軽い舞踏会や晩餐会を開いているんです。

 パパとディリアお母様は結婚報告を兼ねて、あちこちの集まりに顔を出さなければならなくて、忙しいようです。


 廊下を静かに歩き階段を1階まで降りると、黒いスーツを着た執事のニクラスさんに会いました。


「おはようございます、エメル様」

「おはようございます、ニクラスさん。誰か、ダイニングにいます?」

「いいえ。今朝はまだ、どなたもお見えではございませんよ」


 ニクラスさんは五十代の中肉中背の男性で、背筋をぴんと伸ばし血色のいい顔に笑みを浮かべた、温厚そうな紳士です。

 使用人に「さん」付けは不要だとパパにもお母様にも言われたけれど、習慣を変えるのは難しく、何となく呼び捨てにしづらくて。


「そうそう、レオン様をお見かけしました。ネフィリムの朝駆けにお出かけになりましたよ」


 ネフィリムはレオンさんの愛馬で、黒いたてがみと尻尾を持つ茶色い牡馬です。

 フィアの授業についてレオンさんに尋ねてみようと思い、厩舎に入った途端、トーニオさんとぶつかりそうになりました。


「おっと。おはよう、メイドくん。よく眠れた?」

「はい……。おはようございます」


 トーニオさんは、昨夜着ていた服のままです。トーニオさんが好む華やかなクラバット、翡翠のピン、黒の夜会服。……怪しい。

 僕がじろじろ見ていることに気づいたトーニオさんは、にっこりして僕の肩を抱きました。


「どんな女性も君には及ばない。すべての女性は俺にとって、君のいない寂しさをまぎらすための代わりに過ぎない。俺を満たすことが出来るのは、君だけなんだよ」

 トーニオさんが甘ったるく囁き、いきなり唇で僕の左耳をくわえたから、僕は飛び上がりました。


「ひゃあっ」

「よし、左耳を手に入れた! こうやって君は少しずつ、俺のものになるんだね」

 なりません。少しずつもなりません。僕が口をへの字に曲げて見上げると、トーニオさんは気持ち良さそうに笑い、僕の頬にキスをするんです。 


「怒った顔も可愛いよ。いつか全部俺のものになったら、指に絵の具をつけて君の裸体に俺の名を書くのが夢なんだ」

「……別の夢に変更してください」

 

「朝っぱらから、何やってるんだ」

 レオンさんが、厩舎に入って来ました。

 薄青のワイシャツにグレイのスラックスを穿き、グレイのウェストコートのポケットから金時計の鎖が見えています。

 レオンさんが黒い瞳で優しく僕を見た途端、熱くなる僕の頬。


「あの、実はその……」

 フィアの女子クラスでは、キスの実習はありますか? そんなことレオンさんに聞けるはずもなく、僕の隣で悩ましく立っている眠れる狼を叩き起こすことにもなり、僕は言葉に詰まってしまいました。 


「明日から学校が始まるので、その……」

「不安なのか?」

 レオンさんが心配そうに僕を見たから、僕は焦りました。


「そんなことないです、本当です。学校すごく楽しみにしてます、本当です」

 ぺらぺら棒読み状態の僕に、レオンさんはくすりと笑いました。


「カフェの『ヤークト』に行ってみないか? 俺の友人たちの溜まり場になってる。お前を皆に紹介しておきたい」

「あ、俺も行く。エメルの恋人として紹介してくれ」

「えっ。僕、まだ恋人はいませんけど……」


 僕が目をぱちくりさせると、トーニオさんは悲しそうな顔をしました。


「……仕方がないなあ。『未来の』を付け加えて」

「お前、馬鹿だろ」

「今、気がついのか? 俺も今、気づいたんだけど」


 呆れた様子のレオンさんの前で、トーニオさんは首を振っています。

 納屋で殴り合って以来、二人の間で軽口が交わされるようになりました。

 内容は僕にはよく分からないけれど、言いたいことを言い合っている時の二人は楽しそうで、見ている僕まで幸せな気持ちになります。


「父上の了解を貰わないと。エメルを振り回すな、みたいな事をそれとなく言われたからね」

「そうなんですか? でも僕、振り回されてませんよ?」

「俺は、娘に手を出すと殺すぞみたいな事を遠まわしに言われたよ。了解と言ってもねえ……」

 

 トーニオさんは、三階の寝室を見上げています。僕は、絶句してしまいました。

 パパが避暑地の別荘から帰って来てすぐ、レオンさんとトーニオさんを一人ずつ呼んで話をしていたことは知っています。

 

 大人の男同士の話があると言っていたから、仲良くなってくれたらいいなと喜んでいたんです。

 それなのにパパときたら……。


「無理じゃないかなあ。あの二人、夜まで起きて来ないと思うよ」

「お昼には起きるんじゃないですか? だって、お腹が空くでしょう?」

「食欲より強烈な衝動というものがあるんだよ、メイドくん」

「何ですか、食欲より強烈って?」

「知りたい?」


 トーニオさんが悪魔めいた微笑を浮かべたから僕はぎょっとし、レオンさんはトーニオさんを睨みながらしきりに妙な咳払いをしていました。





 昼食をレオンさんがよく行くというカフェ『ヤークト』で食べることになり、僕たちは馬で出かけました。

 僕は老牡馬のカムタンに乗り、レオンさんは愛馬のネフィリム。ゲイルお爺さんから馬を運動させて欲しいと頼まれたトーニオさんが乗っているのは、黒鹿毛の牝馬です。


 『ヤークト』はフィアからほど近い大通り沿いにある、小奇麗な店です。『ヤークト』とは「狩猟」という意味で、その名の通り店内の壁やいたる所に怖ろしげな獣の剥製やハンティングナイフの類が飾られています。


 店の最奥には10人ほどが座れるカウンター席があり、テーブル席は30ほど、そのうち10席は店の外の舗道に出されていて、僕たちは外のテラス席に座りました。


 秋めいた風が涼しく、昼食には早い時間だったにも関わらず店内は一杯で、大半はフィアの学生のようです。

 数人が席を立ってレオンさんに挨拶に来て、僕は目を見張りました。


 レオンさん……怖れられてるみたい。

 二人の学生が僕らの隣の席に移って来て、そのうちの一人は何度も見かけた人です。拳闘倶楽部でも、王宮舞踏会でも。


「やあ、また会ったね」


 ふっくらした顔と体型と油断のならない鋭い目を持つその学生は、にっこり笑って僕を見てブルーノ・フォン・シュバイツと名乗り、一緒にいたもう一人の学生がマテオ・フォン・ザイエルンと自己紹介すると、すっと笑みを消してレオンさんに真顔を向けました。


「アーレクが来てる。フォルクの野郎と飯を食ってるぞ」

「あれれ。カミーラちゃんまでいるよ」

 

 トーニオさんの言葉にドキリとしながら店内に目を馳せると、最奥の暗いテーブル席に怖い顔でこちらを見ているアーレクさんとカミーラさんがいます。

 もう一人いるようですが、背中を向けていて顔が見えません。あの人が、『フォルクの野郎』さんなんでしょうか。

 

「放っておけよ」

 レオンさんが冷たく言い、僕たちは料理を注文することにしたんです。


 今日はビルド料理(野生獣料理)があると聞き、僕は「ヤマウズラのオレンジソース」に決めました。

 ビルド料理は冬場に出されることが多く、今日は幸運の日――――のはずだったんですけど。


 フィアの女子クラスの授業は芸術(音楽や美術)の授業が男子より多いことを除けば、男子クラスと大差ないといった話をレオンさんとトーニオさんから聞きながら、甘酸っぱいオレンジ味の鳥肉を堪能していると、見知らぬ若者がテーブルの横に立ったんです。


 隣の席ではブルーノさんとマテオさんが席を立って若者を両側から挟み、レオンさんの視線が剣呑なものに変わっていきます。


「落ち着けよ。お前の妹に挨拶するだけだ」

「必要ないんだが?」


 若者の言葉を突き返すレオンさんの口調は、凍てつく氷のように冷ややかです。

 僕は怖くなってレオンさんと若者を交互に見て、首をすくめました。


 若者はジプシーの血が混じっているようで、高い頬骨と浅黒い肌と黒々とした瞳が印象的な、細面の美しい顔立ちをしています。


 薄い唇が嘲笑うように曲げられ、両手はズボンのポケットの中。ゆったり構えているようで、飛びかかる寸前の獣のような獰猛な気配があります。


 対するレオンさんは体をややフォルクさんに向けて足を組み、椅子の背に片手をあずけてくつろいでいるように見えますが、近寄りがたい狂猛な気配はフォルクさんに引けを取りません。


 美しい獣と獣――――。

 そのうちの一匹が僕に目を留め、獣には相応しくない優雅な微笑を浮かべました。


「俺は、フォルク・ノイドハイム。よろしくな、お嬢さん」

「よ、よろしく……お願いします」 

 僕ががちがちに硬くなって答えると、フォルクさんの手が僕に伸びてきたんです。

「へえ。可愛いなあ」


 硬直した僕の頬にフォルクさんの手が触れる寸前でガタンと大きな音がして、椅子を倒して立ち上がったレオンさんがフォルクさんの胸ぐらをつかみ、フォルクさんは片手で骨をへし折ろうとするかのようにレオンさんの手首を握りました。


「やめて! お願いだから、やめて」


 獣の闘いが始まる――――。何とか止めようと必死に訴える僕の前で、トーニオさんがレオンさんの肩に手を置いています。


「レオン、ここではまずい。場所を変えよう」


 フォルクさんに険しい視線を向けたままレオンさんが手を緩めると、ブルーノさんがレオンさんとフォルクさんの間に割って入りました。


「アーレクの子分など相手にしたくはないが、日時と場所を指定しろよ。行ってやるから」

「食事をしただけで子分扱いとは、おまえら頭が悪過ぎるだろ」

「何だとっ」


「レオンが出るまでもない。僕が相手だ。いつでもやってやる」

 マテオさんが言いましたがフォルクさんはふんと鼻で笑っただけで、黒々とした鋭い目はレオンさんに向けられています。


「足もとが崩れかけてるんだから、そっちに専念しろよ。せいぜい頑張れ」


 そう言ってフォルクさんはもう一度僕を見て、立ち塞がるマテオさんを「坊やはママのところへ行けよ」と嘲笑い、去って行きました。


「フォルクは第二高等学校の生徒だけど、クラレストにある三つの高等学校の頂点にいる奴だ。レオンを排除してフィアの学生から上納金をせしめようとしてる、あくどい貧乏人だよ」


 トーニオさんが僕に説明してくれ、ブルーノさんはフォルクさんの背中を睨みつけています。

 第二高等学校――――平民が通う3つの高等学校の中で最もリーデンベルク邸に近く、もし僕がフィアに通わなかったら入学したはずの学校です。


 マテオさんが、レオンさんに歩み寄りました。

 マテオさんは目のくりくりした女の子のような顔立ちだけど、怒った顔には小さな傷がいくつも付いていて、喧嘩が日常茶飯事なのかなと僕は思いました。


「フォルクを叩きのめそうよ。あんな口を聞かせておいて、いいの?」

「静かにしろよ、マティ。今日は俺の妹のお披露目だ。悪かったな、エメ」

 レオンさんが申し訳なさそうに言ったから、僕は笑顔を作りました。


「……そうだった」

 マテオさんは、僕の目にも分かるぐらいしょげ返っています。


「ごめんなさい。レディに聞かせる話じゃなかったよね。食事中だしね。つい頭に血が昇ってしまって」

「いいんです。僕、慣れてますから。僕のパパは元傭兵だから、荒っぽいことは平気なんです」


 嘘です。僕は、縮み上がっていました。でもマテオさんは僕の嘘を信じてくれて、にっこりしてくれたんです。


 騒ぎが収まり再びオレンジソースをたっぷり付けたヤマウズラの肉を堪能していると、いきなり腕を持ち上げられ僕は立ち上がりました。


「な、何……」

「エメル。久しぶりじゃないの。ちょっとだけエメルを借りるわね。女同士の大事な話があるの」

 そう言ってカミーラさんは、僕を大通りに連れ出してしまったんです。


 呆気にとられたレオンさん達には聞こえない場所まで来ると、カミーラさんのぎらっとした眼が僕に注がれ、僕は反射的にカミーラさんのピンク色の唇を見てしまい、夢での衝撃的な体験を思い出してうなだれました。


 夢とはいえ、思い出すと恥ずかしい……。


「クラレストを囲む用水路で泳いだことある?」

 カミーラさんは僕の動揺に気づくことなく、唐突に尋ねました。クラレストの周囲は大昔からある用水路で囲まれているけれど――――泳ぐ?


「……泳ぐのは得意だけど……用水路で泳いだことはないです」

「夏場でも、とっても冷たいんですって。いったん底に沈んだら、二度と浮かんで来れないんですって。本当かどうか、試してみたくない?」

「えっ……」

 

 カミーラさんは凶悪な笑みをたたえていて、僕の背筋を冷たいものが登って来ます。

「あんたの歓迎パーティーをやらなきゃね。そう思って色々考えてるところよ。楽しみにしていて頂戴。ほーほほほっほ」


 高笑いしながら去って行くカミーラさんを見ているうちに、僕の頭から夢の記憶は木端微塵に消え、唇がわなわな震え始めました。


 これは、脅しです。歓迎パーティーに名を借りた、殺害予告です。

 カミーラさんは僕をひどく恨んでいて、近いうちに僕は用水路に放り込まれることになる……。


「ひっ、ひっ、ひ……」


 僕の口からこぼれ落ちる、悲鳴にならない叫び。がくがく震える足を引きずり、僕はテラス席に戻りました。


 頭の中で僕のささやかな脳が、力を振り絞って働いています。考えなくては――――自分の身を守る方法を考えなくては。


「どうした?」


 レオンさんが案ずるように僕の顔をのぞき込み、僕は大切なことに気がつきました。

 男同士の闘いがあるように、女の子同士にも闘いがあるんです。

 これは僕とカミーラさんの問題で、レオンさんやトーニオさんに助けてもらうわけにはいかない。


「何でもないです」


 笑顔で答え、僕は決めました。僕は、一人で闘う。

 どんなに怖くてもどんなに足が震えても、たった一人で闘わなければならない時が、長い人生の間で一度は訪れるんです。


 レオンさんやトーニオさんのように、僕だって逃げることなく闘いながら生きていきたい。

 具体的にどう闘えばいいのか思いつかないけれど……。男同士のように拳で闘うわけにはいかないんだけれど……。


 でもきっといい方法が思いつくはずで、これは人に頼らず自力で闘うための天から下された試練だと思いました。


 よし、やるぞ――――。そう思うと全身が熱くなり、何にも方策が思いつかないにしては何だかやれそうな気がしたけれど、カミーラさんの怖ろしい顔を思い出すと急激にやる気が萎えていくのでした。





 それでも翌朝、僕はパパとディリアお母様の前で高らかに宣言したんです。


「当分の間、この恰好で学校に通います!」


 もちろん、男の子の服装です。僕の一張羅とも言うべきスーツと蝶ネクタイを着込んで。

 お母様は通学用のドレスを作ってくださったけれど、ドレス姿では闘えません。

 手には、2本のモップ。1本は折れた時に備えた予備です。


「え……え?」


 お母様は唖然としていて、パパは顔を引きつらせています。


「ああ、エメル。パパはこれまでお前の自由意思を尊重してきた。今回もそうしたいのはやまやまなんだが……」

「リーデンベルク家の家訓にもあるわ。正直であれ、自分のものを守れ、自由意思を持てって。でもね……」

「そうか。私が教育方針としてきたものは、我が家の家訓でもあるわけだな」

「そうよ、あなた。わたくしは自由意思で、あなたを夫に選んだの」

「私が君を選んだのは愛ゆえだよ、愛しいハニー」

「わたくしだって。心から愛してるわ、ダーリン」


 あの……。

 何だか話が違う方向に進みつつあるみたい。


 レオンさんは苦虫を潰したような顔をしているし、トーニオさんは背中を向けて「おえっ」と言ってるし……。


「そうだ。君たちに言っておかなければならない事がある。これから秋の社交シーズンが始まり、私たちは結婚の挨拶を兼ねて毎晩のように出かけなくてはならなくなるだろう。留守をすることが多くなるから、家のことは君たち3人に頼みたい。特に、ベルトラム男爵」


 パパはトーニオさんに向かい、自然な仕草で軽く頭を下げました。パパはトーニオさんのこともレオンさんのことも、決して子供扱いしないんです。


「家内が万事つつがなく治まるよう、気を配ってほしい。凶悪犯が逃亡したという話もある。……話しづらいことだが、5年前のスパイ事件の犯人が脱獄したらしい。王都にひそんでいるという噂もあるから、気をつけてくれ」


 レオンさんの顔色がさっと変わり、ディリアお母様がパパの手を握りました。


「あなた。もう、そのお話は……」

「ああ、終わりにするよ。すまない」

「わかりました、父上。おまかせください」


 トーニオさんの返答はそつが無く、優雅な所作でパパに礼をして、そうして僕の戦闘服と武器についての話は終わってしまったんです。


 僕は馬車で通学することになり、モップ2本を苦心して馬車に押し込み僕自身も乗り込んで扉を閉めようとした時、レオンさんとトーニオさんがすぐそばにいる事に気がつきました。


 二人とも僕に背を向けて、肩がひくひく震えています。二人で顔を見合わせ、ぷふーっと吹き出して、僕の目の前で大笑いを始めました。


「メイドくん。世界中を探しても、モップを持って学校に行く子は君以外にはいないだろう」

「不安な気持ちは分かるが、モップは置いていったらどうだ? 俺たちが守るし、ユリアスも目を配ると約束してくれたよ」

「えっと……どうしても……必需品で……」


 声が小さくなっていきます。モップを持った僕を見て笑う人がいるかもしれないけれど、僕にとっては唯一の武器です。

 学校内で武器の携帯は禁止されているけれど、モップなら先生方も駄目とは言わないと思うんです。


 平民の中等学校とは違いフィアの教室には掃除用具入れが無いそうだけど、教室の隅に置いておけば邪魔にならないだろうし、汚れた箇所があったらすぐに掃除できるし。

 

 僕は真剣なのに、再び僕に背を向けた二人の肩がひくひく震えています。

 まだ笑ってる。そんなに笑わなくても。僕の命がかかってるっていうのに。


 こうなったら自分を頼るしかないと、僕は気を引き締めました。

 しっかり闘うんだぞと自分に言い聞かせ、僕は馬車の扉を閉めました。


 僕が乗る馬車の左右をレオンさんとトーニオさんの馬が守るように走り、僕たちは王立ギムナジウム――通称フィア――に向かいました。

 秋の青空はひつじ雲に飾られて、大通りのプラタナスが黄色く色づき始めています。

 

 リーデンベルク邸からフィアまで、馬車で約20分かかりました。

 獅子を象った門柱を抜けると広大な庭園があり、その先に5階建ての白っぽい石造りの建物があります。


 馬車置き場で降り、今日のところは1本でいいかなと新品の2本のモップを見比べていると、背後でレオンさんの声がしました。


「ユリアス。おはよう」


 ユリアスさん? 僕の味方になってくれる女の子の名です。僕は喜び勇んで振り返り、笑顔のまま凍りついてしまったんです。


 レオンさんとトーニオさんに挟まれるように立っているのは、流行りのウェスト部分を絞ったスーツを身にまとう絶世の美青年です。


 プラチナブロンドの髪が白い大理石のような優美な顔を取り巻き、肩の下辺りまで泡のように渦巻いて流れ落ち、瞳の色は宝石のような青紫。


 赤く小さな唇が愛らしく、でも美しい目は大人びていて、レオンさんやトーニオさんと変わらない背丈はどう見ても青年です。


「ユリアーネ・アドリアナ・フォン・ラーデン。ユリアスと呼んでくれ。よろしく」

 ユリアーネもアドリアナも、女性の名前です。するとこの人は、女の子……? 僕はぽかんと口を開け、慌てて閉じました。


「えっと……僕、エメル・フォン・リーデンベルクです。……自分を僕と呼ぶことにつきましては、その、様々な事情が……。武器携帯につきましても……武器ってこのモップのことですけど、色々考えた末でのことで……あの、よろしくお願いします」


 僕は耳まで熱くなって、つまり耳まで真っ赤になってるに違いなくて、しどろもどろの舌に鞭打って喋りました。


 学校では貴族のお姫様とお喋りするものとばかり思っていたのに、目の前にいるユリアスさんは王子様のようです。


 ユリアスさんはくすりと笑い、白く長い指を僕の顎に置きました。

 レオンさんとトーニオさんの息を呑む音をかき消すように、ユリアスさんの朗々とした声が響いたんです。


「気に入った。君を私の愛人にしよう」

 そう言ってユリアスさんは、僕に綺麗な顔を近づけてきます。

「えっ……」


 愛人……? 女の子の……?

 や、やっぱり、一昨日の夢は正夢だったんです。フィアでは女の子同士でキスの練習をするばかりか、キスだけじゃないんです。だって愛人だもの――――!


 硬直した僕にはおかまいなしに、ユリアスさんの唇が僕に近づいて来ます。

 どうしよう。断ったら落第――? まさか。でも、どうしよう……。


 僕の可哀相な脳がめまぐるしく働き、爆発しそうになりました。


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