9 心を拳にのせて
「パパは、こっちと結婚することにしたよ」
「えっ!!」
こっちって……。
パパの隣に立っているのは人の背丈ほどの、ふわふわもふもふと柔らかそうなオオカミのぬいぐるみです。
耳に赤いリボンを付けているところを見ると、女性なんでしょう。
オオカミ同士、お似合いに見えたりもするけど……。
僕のママがぬいぐるみ……そんな。
ディリアさんはトーニオさんの肩にもたれ、泣きながら屋敷に入って行きました。
レオンさんはすらりと背の高い女性の腰に手を回したまま、後ろ手に扉をぴしゃりと閉めてしまったんです。
シルエットだけしか見えないけれど、美しい女性のようです。あの人がロザヴェイン姫なんだ……。
でも、レオンさん。僕はここにいます。レオンさん……。
「エメル、行くぞ」
パパに言われ、僕は少ない荷物を持って、暗い街中をとぼとぼと歩きました。
とうとうお屋敷を追い出されてしまったんです。
ふと気がつくとパパの姿がありません。女の人と、どこかに行ってしまったんだ……。
僕は、一人になりました。リーデンベルク家にも戻れず、パパにも見捨てられて、一人ぼっち……。
僕は泣きました。ぽろぽろ涙をこぼしていると、天使の声がしたんです。
「全部、夢だよ。夢なんだよ」
そう、夢だったんです。ママができた夢。大きなお屋敷のお嬢様になった夢。トーニオさんにからかわれた夢。レオンさんに好きだと言って貰えた夢。全部、夢だった……。
「大丈夫。俺がついてるから。泣かないで、大丈夫だから」
天使は眩しくて姿がはっきりと見えないけれど、僕は無我夢中ですがりました。
天使の首に両腕を巻きつけ、離さないでとばかりにひっしと抱きついて泣く僕。
でもこの天使、様子が変です。僕の耳を舐めたり、噛んだり、キスしたり。
天使の唇が耳から首筋に下りて、僕の鎖骨をたどり、ますます変です。
うっすら目を開けると朝の光が照りつけて、重いものが僕に覆いかぶさっています。
「嬉しいよ、メイドくん。君の方から抱きついてくれるなんて。やっと愛し合えるんだね」
そう言いながら僕のパジャマのボタンに指を掛けているのは……トーニオさん?
何度も瞬きしました。何度も確かめました。でも、間違いない。
トーニオさんが僕の上に覆いかぶさって僕の首筋にキスしながらパジャマのボタンをはずそうとしていて、僕はトーニオさんの首に両手を回して抱きついてる……。
「ひぃっ、ひぃ――っ、ひぃ――――――っっっっ!」
僕は両手を脇にぴたりと付け、イカのように両手両足をくねらせて、横に移動しました。トーニオさんの体の下からやっとの思いで這い出し、そしてベッドの端から落ちました。
床に座り、何か言わなければと思うのに口はわなわな震えぱくぱく開いたり閉じたりするばかりで、言葉が出ません。
「ま、まち、まちがい……」
ようやく言葉らしい言葉を発した僕を、トーニオさんはベッドに横たわって肘枕をし、悩ましく微笑みながら見下ろしています。
「間違い? ひどいなあ。一晩中肉体労働にいそしんで疲れた体を君に慰めてもらおうと合鍵を使って部屋に入ったら、君が泣いてたの。大丈夫だよ夢だよってなだめてあげたら、君の方から抱きついて来たんだよ。ああ、そうか。俺を気遣ってくれてるんだね。俺って回復が早いから、今すぐでもできる。遠慮しないで」
何ができるんですか? 肉体労働って道路工事じゃないですよね? 回復って……? 想像が卑猥な方向に向かう僕の頭は、とうとうおかしくなってしまったに違いない。
「……遠慮します」
僕が言うとトーニオさんの顔が突然真顔になり、ベッドをおりて僕のそばでしゃがみ、「もしかして、例の悪夢を見たの?」と聞くんです。
「例の……? あ、違います。全然違う夢です」
「ふうん。違う夢ね」
トーニオさんは僕を軽々と抱き上げ、立ち上がりました。廊下を駆けて来る足音が聞こえます。……レオンさん!
僕は、焦りました。このままでは三日続けてレオンさんに、変な場面ばかりを見られてしまうことになる――――。
「わ。おろしてください。僕、もう……」
「いい加減にしておけよ、トーニオ」
間に合いませんでした。ドアが開きレオンさんが入って来て、剣呑な表情で腕を組み、トーニオさんを睨んでいます。
トーニオさんに抱き上げられ、トーニオさんの腕に包まれた僕。……最悪です。
「やっぱり来たか」
トーニオさんはにやりと笑い、僕を抱いたままレオンさんに歩み寄りました。
「あの、僕、大丈夫ですから、下ろしてください。あ、レオンさん。パパについて、悪い夢を見たんです。もうすぐパパが帰ってくるので、それで。トーニオさんは慰めてくれただけなんです。それだけなんです」
僕は下りようとしたけれど、僕を抱きしめるトーニオさんの腕の力が強まっただけで、じたばたと暴れているうちに僕の胸に密着したトーニオさんの胸から体温が伝わってきて、僕の体温が一気に上昇したような気がしました。
ふと顔を上げると、二人はこれまでにないくらい凶猛な顔つきで睨み合っています。
二匹の獣が闘いを前にして間合いを詰めているような、今にも喰い合いが始まりそうな、そんな獰猛な空気があって僕は怖くなりました。
レオンさんが来ると分かっていて、トーニオさんはどうして僕を抱き上げたりするんでしょうか。
レオンさんは屋敷内での不道徳を許さない人で、その事はトーニオさんが一番よく知ってるはずなんです。
これではレオンさんに喧嘩を売っているのも同然です。
不意にトーニオさんの腕がゆるみ、僕はレオンさんに差し出されました。レオンさんはトーニオさんに刺すような視線を向けたまま、奥歯をぎりっと噛んだような表情で、僕を受け取りました。
僕は荷物じゃない。そう思ったけれど二人の間に漂う危険な気配が怖くて、口には出せませんでした。
「それでは、俺は退散するよ」
トーニオさんはそう言って笑みを浮かべたけれど、とても笑みとは言えない、獣が口角を上げて牙を見せたような表情でした。
トーニオさんは部屋を出て行き、僕はレオンさんに抱き上げられたまま、ごくりと唾を呑み込んだんです。
だって、レオンさんの顔つきといったら――――。
腕の中に僕がいることも忘れたみたいに目をあらぬ方向に向け――――その目つきが険悪で、底知れない怒りと獣性を含み持っているみたいで、僕はレオンさんが今何を考えているのかは分からないけれど、きっと危険なことを考えているに違いないと全身を竦ませました。
レオンさんはやっと僕の存在に気づいたみたいにはっとして、僕を少しの間見つめた後、そっとベッドの上に座らせたんです。
「どんな夢を見たんだ?」
僕の前に座り、レオンさんは僕の顔をのぞき込みました。
「……パパと僕がお屋敷を追い出される夢……です」
「ああ……」
それだけで、レオンさんは納得したようでした。
「俺を信じろよ、エメ。何があろうとも、お前はここに残る。そう言っただろ?」
「……はい」
夢の中のレオンさんは僕の呼びかけに応えてはくれなかったけれど……。
現実は違うと頭では分かっていても、やっぱり不安がむくむくと湧き上がって来ます。
パパの中には虫がいるんだもん……。
そんな恥ずかしい話をレオンさんに話せるわけもなく、僕はレオンさんに笑顔を向け、「朝食はワッフルです」と言いつつ立ち上がりました。
「ジャムと蜂蜜は必需品だよ」
レオンさんは意外にも甘党なんだなと思い、僕は「はい」と一生懸命笑顔を作ってうなずきました。
トーニオさんは朝食の席には降りて来ず、レオンさんと二人で朝食をすませ、僕は勉強の前にアンナさんのお手伝いをすることにしたんです。
その日は、お洗濯日和でした。
ランドリー・メイドが来れなくなりアンナさんは不満顔だったけれど、僕は抜けるような夏の青空を見上げながら、気持ちよく洗濯物を干していたんです。
大きなバケツの中のレオンさんのシャツに手を伸ばそうと振り返った時、レオンさん本人が後ろに立っていて、目を丸めた僕の前でレオンさんは洗濯物を干し始めました。
「自分の物くらいは、干さないとな」
レオンさんは不慣れで不器用な手つきでワイシャツを干し、僕は思わず笑ってしまいました。
トーニオさんも姿を現して、
「洗濯物を干してくださるんですか?」
と尋ねると、
「いや。ちょっと様子を見に来ただけだから」
と立ち去ろうとし、それを小耳に挟んだアンナさんが離れた干し場から歩み寄って来ました――――怒りの形相で!
「いい加減になさってくださいまし!」
僕が飛び上がるほどの怒声でした。アンナさんは普段は温厚で、怒ることなんてないんです。
「奥様が戻られるまで、あと3日しかないんですよ。どうなさるおつもりですか。わたくし、嘘の報告は致しませんよ。ええ、ありのままをご報告申し上げますとも。お二人が言いつけに逆らい、宿題を何ひとつなさらなかったと申し上げます。いいんですか、それで!」
わけの分からない僕の前で、レオンさんとトーニオさんは困ったように顔を見合わせ、意味のわからない咳払いをしています。
「あの、宿題って……?」
僕が尋ねると二人の咳払いはますます大きくなり、何だか僕に聞かせたくない話のようです。
アンナさんは二人を睨みつけ、視線を僕に向けました。
「奥様がメイド全員と執事までも別荘にお連れになったのには、理由があったんでございます」
「あ、それについては、俺たちにも言い分があって――――」
「聞きたくございません。どうせ愚にもつかない言い訳をなさるおつもりでしょう」
アンナさんが、トーニオさんを遮ります。
「あの、理由って?」
僕は尋ねました。
今の今まで使用人を皆連れて行ってしまい、後のことをお年寄りのアンナさん一人に押し付けたディリアさんは、あんまりなんじゃないかと思っていたんです。
「お二人に使用人の仕事全般を体験してもらおうという、奥様の計らいでございます。これまでだって何度も機会はあったんですが、そのたびにお二人そろって言い訳をなさり、理由をこじつけてはお逃げになったものですから、今回は強行手段に出たんです。可愛らしい妹様と年寄りしかいないとなれば、多少は手伝いをするだろうと奥様はお考えになったのに、それなのにお二人ときたら!」
「えっ! じゃ、家事をするのはアンナさんと僕ってことじゃなくて、全員でやれっていうことだったんですか?」
「ちょっと待って。それは母上が一方的に押し付けただけであって、俺たちは承知していない」
トーニオさんは困惑したように、さらさらの金髪をかき上げています。
「どうして承知しないんですか? お母様の言いつけなのに……」
「子供じゃないんだから。俺たちは自発的に手伝ってるよ。俺は馬の世話をしている」
レオンさんの言い分に、僕の心の中で小さな怒りの炎が芽生えました。
僕が知っている限り、レオンさんがしているのは馬の世話だけで、トーニオさんは時々朝食を作ってくれるだけです。
庭掃除、屋敷の床磨き、窓拭き、洗濯、その他諸々の細かい家事は僕が勉強の合間をぬって手伝っているにしろ、大半はアンナさんの肩にかかっているんです。
「奥様だって、何の理由もなく使用人の仕事をしろとおっしゃってるんじゃないんです。一つ社会勉強のため。二つご先祖様のご苦労を偲ぶため」
「ご先祖様って、使用人だったんですか?」
僕の質問に、レオンさんが答えました。
「リーデンベルク家の始祖は、トライゼン王家の下男だったんだ」
「それを言うなら、その頃の王家は山賊だったんだから。我が家の始祖は、山賊の下男だった。偲ぶほどの先祖とも思えないよね」
トーニオさんが付け加えます。
「知恵と情けある、文武に秀でた下男だったんでございます。だからこそトライゼンが国家として成り立った時、爵位を頂いたんじゃありませんか。武勲もございましたしね。その素晴らしいご先祖様にあやかるために、多少なりともご先祖様の仕事を体験して欲しいというのが、奥様のお気持ちなんでございますよ。それに下々の気持ちを知ることも、上に立つ者にとって必要なことなんじゃございません?」
「しかし、突然言われても……」
「突然? もう何年も前から言われておられますよね?」
アンナさんが、レオンさんを睨みます。
「俺、朝帰りだから。睡眠不足で……」
「それが何か?」
アンナさんは、トーニオさんに射るような視線を向けました。
「アンナさんは腰が悪いのに、お掃除をしたり洗濯物を干したりしてたのに、それを見て何とも思わなかったんですか?」
僕は静かに言ったけれど、心の中では怒りの炎がちろちろと燃え始めていたんです。
何もかもアンナさん一人に押しつけて、自分は楽をしようなんて、ひど過ぎます。
「手伝ってあげようって思うのが、人の心なんじゃないんですか? 助けようって気持ち、全然ないんですか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「だったら、手伝ってくださいっ!! ごちゃごちゃ言い訳してないでっ!!!」
自分のどこにそんな勇気があったのか、気がついたら僕は怒鳴ってしまっていたんです。
怒鳴ってしまった後で、すぐに後悔しました。レオンさんとトーニオさんが怒ったら、どうしよう……。
でも二人は驚いたように僕を見て、
「わ、わかったよ」
としぶしぶといった様子ではありましたが、洗濯物を干してくれたんです。
その後、
「夏休みの宿題とはいえ、今となってはたった2日間だけのことなんでございますから、笑顔で働いてくださいましね」
というアンナさんの言葉に顔を引きつらせ、二人は庭掃除用の箒と窓拭き用の雑巾を受け取っていました。
午後、僕は納屋の片づけをしていました。
工具やら古い家具やらを隅にやり、箒で埃をかき出しているところに、トーニオさんがやって来たんです。
カチリと扉の鍵をかける音がして、不審に思った僕の前に立つトーニオさんは、不穏な微笑を浮かべていました。
「ごめんね、メイドくん」
そう言って片手で僕の顔を包み、もう一方の手で何かを目の前にぶら下げます。
薄ピンク色でうねうねと丸まったそれは――――ミミズ!!!
「きゃああああああああ――――――っっっ!!!!」
僕は、叫びました。ミミズは大の苦手です。
トーニオさんは僕が逃げないよう僕の腰を抱き寄せて、鼻の上にミミズを乗せました。
「やめてっっ!! どうしてこんなことするのっ」
僕が庭掃除をしていた時ミミズを見て叫んでいたのを、トーニオさんは知っているんです。
でも、何故こんなことをするの――――?
「いやだああぁぁ――っっ。やめてぇっ! きゃぁ―――っっ!!」
「どうしたんだっ! 何やってるんだっ!」
鍵のかかった納屋の扉を叩く音がして、レオンさんの声が聞こえました。
トーニオさんはにやりと笑い、僕を床に押し倒したんです。
「何するのっ!」
僕は、はっと気付きました。トーニオさんがまた、レオンさんに喧嘩を売ってる。
「エメル! 中にいるのか?!」
レオンさんは扉に体当たりし、鍵を壊そうとしています。
トーニオさんは僕を押さえ込み、顔の上でミミズを揺らして、先っぽを僕の瞼や鼻先にぴたぴたと押しつけます。
僕はトーニオさんが何かを企んでいると思い、叫び声を呑み込みました。
「大丈夫なのか。おい、返事をしろ!!」
トーニオさんは僕の口を押さえ、ミミズをぽいと投げ捨てました。
何とかしなければと思った時、壊された扉ごとレオンさんが転がり込んで来たんです。
僕にのしかかるトーニオさんを見て、レオンさんの顔色が変わりました。
「トーニオ! お前――――!!」
いきなりトーニオさんに飛びかかり胸ぐらをつかんで拳を振ったけれど、トーニオさんが頭を下げたから拳は宙を切りました。
「腕が落ちたんじゃないか、レオン」
「ふざけるなっ!」
次の拳も難なくかわし、トーニオさんがレオンさんを殴り倒しました。背中から床に吹っ飛ぶレオンさん。
強い拳闘士であるはずのレオンさんを殴り倒すトーニオさんって――――。
もしかしたらトーニオさんは、もの凄く喧嘩が強いのかもしれない。
何とかして止めないと。トーニオさんはレオンさんを怒らせたいだけなんだから。そう思い立ち上がりかけた僕を、レオンさんが制します。
「そこにいろ、エメ。お前には聞く権利がある。話せよ、トーニオ。お前がエメルを使って企んだことを。どうせ今回のことだって、俺と殴り合うための手段なんだろ」
レオンさんには分かってるんです。レオンさんを怒らせるために、トーニオさんが僕を利用してるってことが。
僕の部屋に来て僕をからかったのも、僕に迫ってレオンさんに見せつけたのも、すべてレオンさんを怒らせて殴り合いの喧嘩に持ち込むためだった……。
でも、何のために殴り合うの……?
トーニオさんは、ふんと鼻で笑いました。
「女に惚れると男は弱くなる。何故だか分かるか? 守りに入るからさ。怪我をするまい、自分以外に守らなきゃならないものがあると思ったら、まともには闘えない。今のおまえに、拳闘の英雄だった頃の面影はないな」
「黙れ!」
レオンさんの拳がトーニオさんのおなかにめり込み、さらにトーニオさんの顎を捕えます。
今度はトーニオさんが床に倒れ込み、僕は両手で口を押さえて叫び声を呑み込みました。
どうして……どうして殴り合うの? こんなことする必要、どこにもないのに。
トーニオさんは床に伏すや起き上がり、レオンさんに飛びかかって、二人は床をごろごろと転がっていきます。
トーニオさんが上になり、レオンさんの顔面を殴りました。
「突然俺との競り合いをやめた理由を聞かせてもらおうか。それまで競争を楽しんでたくせに。何の脈絡もなく、突然やめた理由は何だ?」
「大人になったんだよ」
今度はレオンさんが上になり、トーニオさんの顔を殴ります。
競り合い……。アンナさんが言っていた、昔二人の間で行われていたという競争のことでしょうか。
学校の成績や女の子から貰ったラブレターの数や、何でも競争の対象になっていたとか。
アンナさんは悪いお仲間と悪い女性のお蔭で競争することがなくなったと言っていたけれど、レオンさんが意図的に競争をやめたんでしょうか。……大人になったから?
そんなことより、何とか二人を止めなくては。このままじゃ二人は死んでしまう。そんな思いで、僕は二人に近づこうとしました。
殴り合いを見るのは初めてじゃないけれど、僕にとって大切な二人が殴り合う様は怖ろしく、肉や骨のぶつかる音は生々しく、僕は怖くて腰が抜けてしまい、這って二人に近づこうとしたけれど、足が竦んで動けなくなりました。
「そんな嘘が通じると思っているなら、お前は本物の馬鹿だ。愚連隊みたいなくだらない連中とつき合って、忙しい振りをして、そうまでして俺を避ける理由は何だ?」
トーニオさんが下からレオンさんの頬を殴りつけるのと同時に、レオンさんがトーニオさんのみぞおちを殴り、トーニオさんはげほっと吐き、レオンさんは大きくのけ反ってトーニオさんの隣に仰向けになって倒れました。
二人とも荒い息をつき、トーニオさんはおなかを押さえて苦しそうで、レオンさんは切った唇から流れる血を拭っています。
「くそっ――――母上に頼まれたんだ。お前と喧嘩するのはやめてくれ、競うのも避けてくれってな」
レオンさんの口調は苦々しく、まるで不味いものを吐き捨てるかのようです。
「何だと。――畜生、あの女!」
「そんな言い方はするなっ」
「どんな言い方でも足りない。あの女が俺に何をしたか、お前は知らないんだ」
「お前を置いてアーデンに行ったんだろ。聞いてるよ」
「ああ、そうだ。俺を地獄へ置き去りにしやがった。親父の奴が俺の顔を見たくないと言ったから、部屋に閉じ込められたんだ。――5年間も! 話し相手は無口な家庭教師だけだった。使用人の一人がいい奴で、アーデンに手紙を送ったが返事が来ないと言っていたよ。あの女、俺の境遇を知っていながら知らん顔を決め込んだんだ、我が身可愛さに!」
「初めて聞いたぞ、そんな話」
「ふん」
トーニオさんは、そっぽを向きました。
両親に見捨てられた子供――――それがトーニオさんの正体です。
部屋からやっと出られたと思ったら両親が離婚して、ディリアさんは領地を回ってトーニオさんは残されて、部屋で一人ぼっちだったのが広い邸宅で一人ぼっちに変わっただけだった。
ディリアさんが再婚することになって、再婚相手には父親の愛情を一身に受けて育った同い年の少年がいて、その時のトーニオさんの気持ちはどんなだったでしょうか……。
憎しみ、嫉妬――――そんな言葉が浮かんで来ます。
相手の少年を殴りつけたり、大切にしているぬいぐるみの首を引きちぎったり。
そうする事でしか自分を表現できなかったトーニオさんは、哀しい人です。
トーニオさんは体を引きずるようにして立ち上がり、レオンさんの胸ぐらをつかみました。
「母親から説教食らったぐらいで性根を改めるタマじゃないだろ、レオン。本当の理由を言えよ」
「今、言っただろう」
容赦なくトーニオさんの鉄拳が飛び、レオンさんは顔をのけ反らせて倒れました。
初めて出会った頃から、この二人はこうやって殴り合っていたんでしょうか。
僕にはトーニオさんが、殴り合うことでしか心の叫びを伝えられない子供に見えました。
トーニオさんが言葉で伝えられるのは、冗談や美辞麗句だけなのかも知れない――――。
トーニオさんという人は、本心を言葉では伝えられない人なんだ――――。
しかもトーニオさんの心の叫びを受け止められるのは、レオンさんだけなのかも知れない。
「くそ」
レオンさんは立ち上がり、トーニオさんに飛びかかりました。二人は埃まみれになって、取っ組み合っています。
僕は泣きそうになって口に拳を押し込んで嗚咽を堪え、二人に近づこうと必死に這って進みました。
「ちょうど1年前だ。競争以外にも大切なことがある、それをお前に知ってもらいたいと母上が俺に言ったんだ、お前にではなく、俺にだ。つまり俺に手を引け、お前に喧嘩を売られても我慢しろと言いたかったんだろう」
レオンさんの拳がトーニオさんを襲います。
「母上にとっては、お前が一番大事なんだ。有難いと思えよ」
「馬鹿言え。あの女は男狂いだ。俺のことなど、歯牙にもかけちゃいない」
「そう思ってるなら、お前は愚か者だぞ。お前にとってどうであれ、俺にとって母親はあの人しかいない。その母親から、俺よりお前の方が大事だと言われたようなものなんだぞ。分かってはいたが、最初から実の息子の方が大事だということは薄々感じてはいたが、いざはっきり思い知らされると――――」
立ち上がったトーニオさんをレオンさんが再び殴り、同時にトーニオさんの拳がレオンさんのみぞおちにめり込んで、二人はもつれ合うように倒れ込みました。
「同じ思いを、俺はお前の父親に対して感じていたよ。父上が好きだったが、あの人にとってはお前の方が大事だったんだ」
「お前には、実の父親がいるだろう」
「あんなクソ野郎!」
「やめろっ。お前の両親は生きている。俺は永遠に両親に会えない。お前が実の親を悪く言うたびに、俺がどんな気持ちになると思うんだ」
二人は息を荒げ、並んで横たわっています。しばしの沈黙の後、トーニオさんが言いました。
「お前、もしかして、俺を羨んでるのか?」
レオンさんは、片腕で顔を覆いました。
「……初めてお前に会った時から気づいていたよ。俺は……お前に嫉妬してる。両親がいて爵位も財産もあるお前が妬ましい。俺は自分の力で生きて行こうと思っているが、男爵のお前と平民の俺とではスタート地点が違う。そう考えてしまう自分が嫌でたまらない」
嫉妬……。トーニオさんだけでなく、レオンさんにも心の闇があるんです。
二人が出会った時、トーニオさんは人と話すという手段を知らない子供で、レオンさんは口数の少ない少年だった。
二人とも、言葉で心を伝えることが出来なかった。二人が本心を伝え合う方法は、殴り合うことしかなかった。
このお屋敷で、互いに探り合うように暮らす金髪の少年と黒髪の少年の姿が、僕の脳裏に浮かびました。
二人の少年が何かの拍子に殴り合いの喧嘩になり、その時だけ心の叫びを発することが出来た。
殴り合いはやがて競争という形になり、それすらもなくなった時、二人の間で交わす言葉がなくなってしまったんです。
僕がやって来る前、二人の関係はどんな風だったのか。想像することしか出来ないけれど、会話が全然無かったのかも知れない。
レオンさんにはフレデリクさんという友人ができたけれど、トーニオさんは誰にも心を開くことが出来なかった。
トーニオさんが本当に心を開くことが出来るのは、最悪の状態のトーニオさんを知っているレオンさんだけなんです。
僕が現れて、僕をうまく使えばレオンさんが怒ることに気がついて、トーニオさんは僕を利用した。
でもそれはレオンさんが苦しみながら拳闘を続けていることにトーニオさんが気づいて、何とかしたいと考えたからじゃないかと僕は思いました。
レオンさんが何も話さないから、昔の方法をとるしかなかった。殴り合ってレオンさんの気持ちを聞き出すしかなかった。トーニオさんは悪役を買って出たけれど、本心ではレオンさんを救いたかったのかもしれない。
トーニオさんは、美しい顔を歪めました。
「俺は、お前が妬ましいよ。一人一人、着実に友人を作っていくお前が。俺ときたら……。しかし、何でそういう事を俺に話さないんだ。同じ屋敷で暮らしてるんだから、少しぐらい話してもいいんじゃないか。一人で抱え込みやがって」
レオンさんは、腕で顔を覆ったままです。
「話せるわけないだろ」
「話せよ」
「話せない」
「話してくださいっっっ!!!」
やっと二人のそばまで這ってたどり着いた僕が、いきなり膝立ちになって叫んだから、二人は仰天して飛び起きました。
「ちゃんっと、話し合ってくださいっ。殴り合ったりしないで! お二人が殴り合ったら僕がどんな気持ちになるか……お二人が怪我するんじゃないか、もしかしたら死んじゃうんじゃないかって、気が気じゃないんです……」
僕はぺたりと座り込み、流れ落ちる涙をぬぐいました。
「そんなつもりは無かったんだよ」
トーニオさんが苦しそうに立ち上がり、僕に歩み寄ります。
「ごめん、メイドくん」
そう言って僕の肩をつかんで立ち上がらせようとしたけれど、僕は立てませんでした。
「腰が抜けてしまったんです……」
トーニオさんは笑いながら僕を力いっぱい抱きしめ、片手で頭を撫でて僕の髪をくしゃくしゃにしました。
「可愛い~。メイドくん、ほんっとに可愛いよ」
ボワッと膨らんだ髪にすりすりと頬ずりし、唖然として目を見張る僕を見て、トーニオさんは満足そうににっこりしています。
「さっきはごめん。ミミズのこと」
「ミミズって――――トーニオ、お前、まさか……」
レオンさんがそばに来て、トーニオさんを睨みました。
「うん、まあ、メイドくんの顔に、ぺたぺたと。この世の終わりみたいに叫んでたねえ」
「そんなことを平気でやる奴には、任せられん」
レオンさんは怒った顔で、僕をトーニオさんの腕の中から引っ張り出しました。右手をポケットに入れ、左手で僕を抱きしめます。
「レオンちゃん、健気だねえ。悪さしたがる男の手を、一生懸命抑えてるわけだ」
トーニオさんが言い、僕は何のことかとレオンさんのポケットを見ました。
「は?」
「黙ってろよ!」
レオンさんと僕が同時に言い、トーニオさんは笑いながら僕の耳をつかむんです。
「耳は俺のものだからね。他の部分なら、どの部分かにもよるけど、少し譲ってやってもいいよ。……名前、書いとこうかな」
トーニオさんが僕の耳に指を走らせたから、僕はくすぐったくて飛び上がりました。
唇にファーストキスがあるなら、耳にだってあるはず。耳――――初めてだったのに。そう思うと涙ぐみそうになったけれど、トーニオさんの晴れ晴れとした笑顔を見ているうちに、涙は吹き飛びました。
レオンさんとトーニオさんは顔を見合わせて笑っていて、そこにはもう火花はありませんでした。
「お二人にお願いがあるんです」
僕は、レオンさんとトーニオさんを見上げました。
「僕に甘えてください。僕、もっと勉強するし、努力して強くなりますから。だから一人で頑張ろうとしないで、僕に甘えてください」
レオンさんの目が優しくなり、口許がゆっくりとほころんで笑みを形作っていきます。
「そうだよねえ。せっかく縁があって兄妹になったんだもんね」
トーニオさんも笑っています。
レオンさんは僕の肩をつかみ、指先に力を込めました。
「そうさせてもらうよ、エメル」
そうして僕の隣に腰をおろし、
「今度はお前の番だ。聞かせてもらおう。どうしてお前は誰に対しても、敬語を使うのか」
「あ、それ、俺も前々から聞きたいと思ってたんだ」
トーニオさんも僕の前に座って、僕は困ってしまいました。
昔のことは話したくないし、思い出したくない。でも――――。
「あの……」
僕は、うつむきました。
「……ママが尋ねたんです、パパとママどっちが好きかって……。その日僕はパパと二人でサーカスを見に行って、パパが連れて行ってくれたから……だから僕、パパが好きって答えてしまって……。ママは『じゃあ、エメルはパパと暮らしなさい』と言って、出て行ってしまったんです。僕は『行かないで』って泣いたけど、駄目でした……」
ママが家を出て行ってしまった日のことを、まるで昨日のことのように思い出し、僕は目をしばたきました。
「『ママが好き』って答えたらママは出て行かなかったんじゃないかって思って……。パパもママも同じくらい好きなのに、僕の答え方が悪かったからママは出て行ってしまったんじゃないかって……そう思ったんです。そのあと、喋るのが怖くなって……」
僕は、震える唇を噛み締めました。
「……今でも喋るのが怖いんです。たった一言の失敗で誰かを怒らせたり、悲しませたり、不幸にしたり。でも学校に行くと喋らないといけない時が多いから……。そういう時、敬語なら考える時間が少し与えられるし……人に不快感を与えることも少なくなるし……そう思って」
目をごしごしこすりました。泣き虫で弱虫の自分が、嫌でたまりません。そう思いながらも、うじうじと泣いてしまいます。
「なるほどねえ。メイドくん、言ってたよね。同じことを言っても、人によって受け取り方が違うって。そんな風に気を遣いながら喋ってるんだねえ――疲れない?」
「……慣れました」
レオンさんの腕が僕に伸び、肩を抱いてくれました。僕は自分を強く持たなければと思いつつ、レオンさんの肩に顔をつけ、やっぱり泣いてしまいました。