8 強さの本質 Ⅱ
「手もとに置く」という言葉で浮かんだのは、王子の近侍として働く僕自身の姿でした。『メイドくん』と呼ばれるより、近侍の方が出世したと言えるでしょう。
「でも僕、紳士の服装のこととか、何も知りません。お役に立てるとは思えないんです」
ラインハルト王子は、怪訝そうな顔をしています。
「近侍は、主人の着替えのお世話なんかもするでしょう?」
「近侍……?」
王子は、くっと笑いました。
「私がいつ、君を近侍にすると言ったんだ」
「でも、そばに置くって……つい今しがた……」
「君は実に興味深いから、ペットとして可愛がってみたくなったと言ったんだ」
ペット――? 近侍より格下です。だってペットは人間じゃないもの。僕は、唇を引き結びました。
「僕は犬じゃありません」
「当たり前だ」
王子は僕をまじまじと見てため息をつき、長い足を組み変えています。
そういう姿はとても優雅で、王子に生まれついた人は何をしても平民とは違うんだなと思いました。
「ひざまずかなければ分からないのかな。宝石のついた指輪を君の指にはめて?」
僕の頭に、ぴんと響くものがありした。宝石――――ミレーヌさん!
あの美しいミレーヌさんはマイセルンの侯爵夫人だと、ゴシップに詳しいアンナさんから聞きました。ラインハルト王子の愛人の一人だそうです。
愛人なんて、嫌です。ささやかではありますが、僕にも夢はあります。
小さな家でいいから家を持ち、優しい夫と可愛い子供たちに囲まれて穏やかに暮らしたい。
王子に対し面と向かって辞退を申し入れたら失礼に当るのではないかとちらっと考えたけれど、その時の僕は必死でした。
決死の覚悟で、冷たい眼をした王子に説明したんです。
「あの……僕、あなたの愛人にはなれません。王子様の愛人ともなれば、それなりの人でなければならないと思うんです。僕の両親はベネルチア生まれの平民で、僕はいわゆるその辺の馬糞で、特技は値段の安い料理が作れることと掃除が丁寧っていうことぐらいで、とても務まりそうにありません。お願いだから、許してください」
ラインハルト王子は、声を上げて笑いました。
片手で額を覆って笑う彼の表情から冷たさが失せ、心底可笑しそうにしています。
「値段の安い料理と掃除? 馬糞? まったく君は――――笑わせてくれる」
苦しそうに笑う王子に、僕は困惑しました。僕は真剣に話してるのに、何が可笑しいんでしょうか。
あ……馬糞じゃなくて、馬の骨だっけ? ……恥ずかしい間違いだけど……それにしたって。
ふと、初めてトーニオさんに会った時のことを思い出しました。
真剣な顔で僕を誘惑する素振りを見せた、あの手口。あれが社交界慣れした紳士の常套手段だとしたら……。
(からかわれたんだ……)
ラインハルト王子は僕をからかっているんだと、僕はやっと気づきました。
「……あの……どうか、お気を悪くされずに聞いてください。僕、社交界の雰囲気にも言葉のやり取りにも慣れてないんです。王子様に言葉を掛けられても、他の貴婦人のように上手に返せなくて……ごめんなさい」
「確かにな。他の貴婦人なら、さっきの私の話に飛びついただろう。公認の愛妾という立場は、妃などより遥かに権力を持つことができるのだから」
彼はまだ可笑しそうに忍び笑いを洩らし、
「君に頼みがある。私の承諾なく結婚しないように。いいね?」
と強い口調で言いました。頼みというより、まるで命令です。
公認の愛妾――――僕には永遠に無縁の話です。
僕の結婚にどうして彼の承諾がいるのかなど、腑に落ちない点はありましたが、とりあえず僕はうなずく事にしたんです。
王子は立ち上がり、僕の手を取って立たせました。僕の頬を両手で包み、彫刻のように整った顔を傾けて近づけてきます。
僕は驚いて後ずさろうとしたけれど、王子は指先まで鋼のようで、僕の首から上はがっちり押さえ込まれて動きません。
彼の吐息が羽のように僕の唇に触れ、僕はじたばたと暴れ、何とか逃れようとしたんです。
「わ。許してくださいっ。お願いだから。僕、嫌だ。こんなの、嫌だ」
「こんなの――――?」
王子が苦笑を浮かべて手をゆるめた隙に僕は逃げ出し、足がもつれて転んだ時、ドアをノックする音が聞こえました。
王子は「入れ」と応えながら僕の腕をつかんで立たせてくれ、ちょうどその時ドアが開いたんです。
「失礼致します」
そう言ったのは年配の軍人で、後ろには驚愕の表情を浮かべたトーニオさんと、剣呑な視線を王子に向けるレオンさんがいました。
ラインハルト王子に、しっかりと抱き寄せられた僕。…………最悪の事態です。
「尋問は終わったのか」
「はっ」
王子の質問に年配の軍人が答え、
「ベルトラム男爵が、これをお持ちになりまして……」
と一枚の紙切れを手渡しました。
ラインハルト王子は目を走らせるなり冷ややかな顔つきに戻り、横目で鋭くトーニオさんを見ます。
「君の交友関係には敬意すら感じるよ、トーニオ」
「恐れ入ります」
トーニオさんは凄味のある視線を王子に向けながら、軽く頭を下げました。
「レオンさん!」
僕は王子の腕から逃れ、レオンさんのそばに走り寄りました。
「無事だったんですね。良かった」
「家にいるようにって言ったのに」
珍しくトーニオさんが怒っています。
「ごめんなさい。でもレオンさんが心配で、家でじっとしてるなんて出来なかったんです」
レオンさんは何も言わず、僕を自分の背後に隠してしまいました。ラインハルト王子を睨む目つきが、ぞっとするほど険悪です。
「聞かせて頂きたい。あなたが謀った事なのか?」
レオンさんが低い恫喝するような声音で王子に尋ね、
「少し違う」
とトーニオさんが間に割って入りました。
「通報者はフランツ・ビヨルド。アーレクの子分だ。昨夜、王宮の温室に隠れて俺たちのやり取りを聞いていたんだ。レオンの言動を、反逆罪か不敬罪に当るんじゃないかと当局に通報した。裏には当然アーレクがいるだろう。もっとも――――」
トーニオさんも、険悪な視線をラインハルト王子に向けます。
「くだらない言いがかりなんだから、通報を無視することも出来たと思うが」
「国民の通報を無視するなど、あり得ん。我々は真摯に国家を守っている」
ラインハルト王子は冷酷な表情を浮かべ、レオンさんとトーニオさんに威圧するような視線を向けています。
「呼び出されたくなければ、言動に気をつけることだ。今回は大目に見るが、次は手厳しく調べるぞ」
「貴様……」
歯を噛み締めるレオンさん。
ラインハルト王子にも非はあるのに、と僕は思いました。
王宮の温室で王子が僕を早く解放してくれていたら、こんな事にはならなかったのに……。
一番大きな非は、僕にあるんだけれど……。
「もう、よそう。エメルもいるんだ。帰ろう」
トーニオさんがなだめるようにレオンさんの肩に手を置き、レオンさんは奥歯を噛み締めながら、僕の背中をそっと押して部屋から出ました。
振り返るとラインハルト王子の冷めた目が僕に向けられていて、僕はやっぱり竦みました。
レオンさんも怖いけれど、権力を持つ王子は別の意味で怖い。
「あの……レオンさん。さっきの事ですけど、僕、転んでしまって。王子は僕を助け起こしてくれただけなんです。……どうか誤解だけはしないで」
きちんと釈明しなければと思ったんですが、僕の声はか細くなっていきました。レオンさんの怒った顔を見ると、僕に対して怒ってるんじゃないと分かってはいても、心が萎んでしまいます。
「お前は何一つ悪くない。俺のせいで、また嫌な思いをさせてしまったな。すまない」
レオンさんは左腕を大きく広げて僕の肩にふわりと置き、僕を抱き寄せました。
「僕なら大丈夫ですよ」
レオンさんの暖かい左腕にくるまれて、僕は軍本部の廊下を出口に向かって歩きました。
「ところで、さっきのあの紙きれは何だったんだ?」
レオンさんの質問に、僕の隣を歩いていたトーニオさんがふふんと笑います。
「情報部を統括する陸軍省のお偉方からの、出頭命令書。レオンを何故尋問するのか、陸軍省に出向いて詳しく説明しろって内容。ラインハルトは明日にも出頭して、こう言うんだろうな。国民からの通報によりやむなく取り調べましたが、疑うべき点が見つかりませんでしたので釈放しましたって。さすがの王子も軍の厳しい上下関係の中では、弱冠二十三歳の大尉に過ぎないってことさ」
「お前、軍のお偉方といつ知り合いになったんだ」
「全然、知り合いじゃないよ。さるご婦人に仲介の労をとって貰ったんだ。そのご婦人に礼を言いに行かなきゃならないから、俺はここで失礼するよ」
さるご婦人――――トーニオさんの『悪い女性』でしょうか。でも今回ばかりは、『悪い』女性とは言えないような気がしました。
「それじゃ行って来るね、メイドくん。弟のため、ご婦人に体を売った俺を憐れんでくれ。ああ、君が相手だったらどんなに嬉しいか」
「早く行けよ……」
レオンさんが呆れた口調で言い、トーニオさんは僕に哀しそうな顔を見せ、でも青い目は面白そうに僕の反応を観察していて、そうして軍から借りた馬にひらりとまたがり駆けて行きました。
体を売った……、つまり……? トーニオさんのあられもない姿が脳裏に浮かんでしまい、両手を振り回してかき消しました。
レオンさんと僕はカムタンに乗り、帰宅の途につきました。
屋敷に着くと元気を取り戻したアンナさんが支度をしてくれて、レオンさんと僕は遅い夕食をとる事になったんです。
僕は、勇気を振り絞って尋ねてみました。
「あの……レオンさん。ラインハルト王子と昔、何かあったんですか? ずっと以前から仲が良くなかったんじゃないかって思えて……」
レオンさんの顔色がさっと変わり、僕はひどく不味いことを聞いてしまったんだと悟りました。レオンさんが怒ってしまったと思うと、我知らず唇がわなわな震え、僕は目を見開いてレオンさんを見つめました。
ふいにレオンさんが笑い出し、「そんな顔をするな、エメ」と言うんです。
「そんな顔って、どんな顔ですか」
「引っぱたかれた子犬みたいな顔だ」
「は?」
引っぱたかれた子犬を観察したことがないのでよく分からないのですが、可哀相な顔もしくは驚いたような顔でしょうか。
「すみません。……聞いてはいけないことを聞いてしまったんですね」
しょんぼりする僕を見て、レオンさんは首を振りました。
「そんなことはない。お前には知る資格がある。家族なんだから。……仲が悪いというわけじゃないよ。軍と男爵家は仲良しさ」
平静を装っているけれど、口調は皮肉めいています。
「5年前、父にスパイ容疑がかけられたんだ」
「スパイ!」
僕は思わず声を出してしまい、慌てて口を押さえました。
「まさか……どうして」
「長年フェルキアに住んでいたからさ。結論から言うとフェルキアのスパイだったのは国王陛下の主治医で、父は潔白だった。情報部は国王陛下の主治医が怪しいとにらんでいたが、疑われていると知ったら相手は逃げてしまう。だから軍の機密という名の下に遺族には何の説明もなく、事故で死んで間もない父に嫌疑をかけ、皆の視線を父に向けさせている間に、本ボシを探ったというわけだ。証拠が出て来て主治医が逮捕され、父の潔白は明らかになったが、俺たちの気持ちは収まらない。ディリア母上も俺達も、父の潔白を証明するために奔走していたんだから。だが情報部の陣頭指揮をとっていたのがラインハルト王子だったから、ディリア母上もあからさまな非難は出来なかったんだよ。俺はそれが歯がゆくて、ラインハルトを殴ってしまった。当時俺は12歳だったし、母上が手を尽くしてくれた事もあって停学だけですんだが、王室不敬罪で収監されるところだった」
レオンさんの黒い瞳に怒りが走ります。
「俺が短気だったから、母上や男爵家に迷惑をかけてしまった。それは申し訳なかったと思っているよ。それでも目的のために平然と死者に汚名をきせ、利用したラインハルトのやり口は許せない。フィアにいた頃から、王子はいつもそんな風だった。向こうも俺を嫌っているようだが、俺も奴は好きになれない」
怒り――――。当時のレオンさんの怒りが伝わってくるようです。
「力が欲しいと思ったよ。家族や家族の名誉を守れる力が。だがその頃の俺にできることと言ったら、拳闘ジムに通うぐらいのものだった」
拳闘ジムは元軍人や元傭兵などが経営する、民間の小さな施設です。パパもマイセルンにいた頃、短期契約で雇われて護身術を学びたい人達に教えたことがあります。
「軍人になろうという気持ちもあった。爵位のない俺が力を得るためには、軍人になるのが最も近道に思えてね。だがそのうち……」
レオンさんは、深く黒い瞳をふっと緩めました。
「一人の力なんて、たかが知れていると思うようになった。一人では無理なことでも、大勢が集まれば成し遂げられる。フレデリクと出会ったことが大きかったな。フレデリクは愚連隊と呼ばれようとも一大チームを作り上げて、フィアの名誉を守ったんだから」
「立派な人なんですね、フレデリクさんって」
「素行面で問題はあるけどね、俺と同じぐらいに。フレデリクが留学することになって、後をまかせると言われた時、俺は辞退したんだ。俺には彼ほどの人望はない。だが最も喧嘩が強いからと言われて、説得されてしまった」
レオンさんは、苦笑を浮かべています。
「心配していた通り、俺の代になっていざこざが増えた。チームを去る奴、裏切る奴、アーレクみたいな奴も現れて。俺には、拳闘を続けて力で君臨することしか出来なかった。他に方法があるんじゃないかと迷いながら……。そうしているうちに、気付いたことがある」
レオンさんは、僕を見つめました。
「5年前に比べ俺は強くなったと思っていたのに、間違いだった。強くなったのは体だけで、中身は変わっていない。そのせいでお前に泣かれた後、俺は腑抜けになってしまった」
「僕……?」
拳闘倶楽部の帰り道でのことを言っているのかなと、僕は思いました。
「事あるごとにお前の泣き顔が浮かんで、拳闘をやろうという気にならないんだ。お前のせいじゃないよ。お前は、最強の武器を持っているというだけのことだ」
「最強の武器……泣くことが?」
「お前自身が、最強なのかも知れないぞ」
レオンさんが微笑んだから、僕の顔が熱くなりました。耳が熱いことから考えて、きっと耳まで赤くなってるに違いない。
僕が強い……? 僕は、弱虫です。でもレオンさんは、僕が最強だと言ってくれているし……。困惑して、僕は首を傾げました。
「俺は今、岐路に立っている。腕力ではなく、フレデリクが残したものやお前を守る別の方法を考えなくてはならない。もしかしたら、これが本当の強さにつながる道なのかもしれないと思っているよ。それに気づかせてくれたお前に、俺は感謝している」
本当の強さって何なのでしょうか。きっと腕ではなく心の強さを言ってるのだろうと思いますが、そのことに僕がどう関わるのでしょうか。
レオンさんの話の意味はよく分からないけれど、僕の胸に希望と期待が芽ばえました。
僕は、勢い込んでレオンさんに尋ねたんです。
「それで、レオンさん、拳闘をやめるんですか?」
レオンさんは、口角を上げました。
「今すぐというわけには、いかないけどね。力でねじ伏せるやり方を続けていたら、俺自身が傷つく。俺が怪我をしたら、お前を守れなくなる」
そして、最も大切な人も。
ロザヴェイン姫――――その名を今だけは忘れようと、僕は気持ちを切り替えました。
「……5年前というと、ラインハルト王子はお幾つだったんですか?」
「フィアの最終学年だったから、18かな」
「フィアの学生なのに、情報部の陣頭指揮……」
「ゲオルグ皇太子殿下の食事に毒を盛られたんだ。ラインハルトはああいう奴だが、自分の家族だけは大切にしている。国王陛下に願い出て、犯人捜しの指揮をとることになった。それがきっかけで大学を卒業後、彼は情報部に入ったんだよ」
「そうだったんですか……。レオンさんは、立派だと思います。僕ならきっと泣くことしか出来ないと思うんですけど、レオンさんは立ち向かったんですね。お父様の死にも、スパイの嫌疑にも、フィアの先輩である王子にも」
「王子を殴って停学食らうことが、立ち向かうことになるならな」
レオンさんは柔らかく笑い、視線を窓辺に向けました。満月が煌々と輝き、窓の端っこに虹に似た色彩が見えます。
何だろう――――。僕は立ち上がり、窓辺に立って息を呑みました。
「レオンさん! 見てください、虹が出ていますよ。夜なのに……」
黒々とした庭木の上にぼんやりと、半円形の虹がかかっています。虹のまわりに散りばめられた小さな星々、上空で白く輝く満月――――。神秘的な光景に、僕はほうっと嘆息を洩らしました。
「月虹だ。月虹を見た者は幸せになれると言う。庭のベンチに座って待っていてくれないか。すぐに行くから」
レオンさんはそう言い、ダイニングから出て行ってしまいました。
裏庭のベンチに腰かけて月虹を見ていると、レオンさんが見覚えのあるオルゴールを抱えて走って来ます。
レオンさんと二人でダンスの練習をした時、使ったオルゴールです。
優しいワルツが流れ、レオンさんが囁きました。
「社交界デビュー、おめでとう。月虹の下でお祝いだ。君の幸福を願って」
そうして胸に手をあて、レディにするみたいに深々とお辞儀をするんです。
「私と踊って頂けませんか、姫君」
僕はドレスを着ていないし、髪はきっと飛び跳ねてると思ったけど、お姫様になった気分でお辞儀を返しました。
月と星と月虹に見守られて、僕たちはワルツを踊りました。
レオンさんの優しい瞳は僕だけを見つめているけれど、それは今だけで、もうすぐ別の人と結婚してしまうんだと思うと涙ぐみそうになります。
どんな方ですかと聞きたいのに、涙が止まらなくなりそうで、聞くことができません。
今はただ、レオンさんの幸せを祈りながら踊ろうと僕は思いました。
今夜のことを、僕は一生忘れません。レオンさんが別の女性と、遠くに行ってしまっても――――。
一生の思い出ができた僕は、幸せ者です。
何度も瞬きして涙を押しとどめ、僕はレオンさんに精一杯の笑顔を見せました。