8 強さの本質 Ⅰ
暗い森の中に、井戸がありました。
周囲には、だらりと枝の垂れ下がった木々が生えています。
井戸の中から青白い手が現れ、金髪の頭が現れ、髪を振り乱した怖ろしい怖ろしいカミーラさんの顔が現れて、
井戸から這い出したカミーラさんは地面をずるずる這いながら、それはそれは怖ろしい声で呟くんです。
「よくも……よくも……よくも……」
僕は必死に逃げようとしましたが、足がすくんで動きません。いきなり目の前に、耳まで口の裂けたカミーラさんの顔が飛び出してきました。
「よくも――っっ!!」
「ひぃ――――っっ!!」
僕は、飛び起きました。……朝でした。薔薇模様のカーテン。薔薇模様のソファ。ベージュ色の机と家具。……僕の部屋です。
心臓が早鐘のようにどくどく打ち、僕は荒い息を整えようとしました。
昨夜、カミーラさんはどうなったんでしょうか。強い人だから、上手に立ち回るだろうとは思うけれど。何もかも僕のせいだと、僕を恨んでるかもしれない。
や、やっぱり、フィアに通うのはやめようかな……。臆病の虫が騒ぎ出します。
「エメルはユリアスのクラスに決まったから、カミーラとは口を聞くこともないかもな」
とレオンさんが言ってくれて、ようやく安堵の息をついたのでした。
朝食の焼き立てスコーンをレオンさんは10個も食べてくれ、美味しかったお礼にとお皿洗いを手伝ってくれました。
レオンさんが洗ったお皿をトーニオさんが鼻歌まじりに拭いてくれて、それを僕が食器棚に戻します。
リーデンベルク三兄弟が連携してコトに当たっていた時、トーニオさんが僕の顔をのぞき込んだんです。
トーニオさんは指で僕の顎を持ち上げ、顔を近づけました。硬直する僕にはおかまいなしに僕の唇のすぐ横、唇と頬の間と言ってもいい場所に唇をつけたんです。
「ひっ……」
「スコーンの粒が付いていたよ。甘くて美味しいメイドくんの味がする」
泣きそうになった僕の顔を見ながら、口をもぐもぐさせるトーニオさん。
「この次は唇に付けてね。それが俺たちの、愛が始まる合図だよ」
愛は始まりません。粒を口のまわりに付けるなんて、恥ずかしいことです。こんな事態を招いた自分を心の中で罵っていた時、レオンさんの厳しい声が飛びました。
「トーニオ!」
「これは、俺の宣戦布告だから」
トーニオさんが、レオンさんを振り返って言うんです。
「いい加減、お遊びには飽きた。俺は本気でメイドくんを手に入れる」
「妹に手を出してどうするんだよ」
「俺は男で、エメルは女の子だ。お前だって本心ではそう思ってるんだろ?」
トーニオさんの言葉に、レオンさんの顔色が変わりました。
さっきまで僕と冗談をかわしていた優しい目は影をひそめ、険しい視線をトーニオさんに向けています。
レオンさんとトーニオさんの視線と視線がぶつかり、まるで硬い岩と岩が衝突したように空気が震えました。
「トーニオ、話がある」
レオンさんは顎でドアをさし示し、キッチンから出て行きました。
「また話か。甘いよ、話し合いでカタをつけようなんて」
そう言って、レオンさんまで出て行ってしまったんです。
話し合いなんて甘い――――まさか、喧嘩になるんでしょうか。僕のせいで二人が争うことになるんでしょうか。
おもちゃのカカシを二人の子供が取り合っているみたいで、カカシなんか手に入ってもちっとも面白くないのにと僕は思いました。
おもちゃのカカシの腕が引っ張られてちぎれる場面が浮かんで、自分の腕がちぎれたかのように気持ちが悪くなりました。
考えてみると、僕のことなのに僕なんかいないみたいに二人で話し合うなんて、おかしい。
僕のことなんだから、僕の意見も聞くべきなんです。
レオンさんとトーニオさんが、僕の意見なんか聞くとは思えないけど……。
それでも自分の意見を言おうとキッチンを出て、二人を探しました。
二階に上がると廊下を挟んでレオンさんとトーニオさんの部屋があり、閉じられたドアに耳をつけてみたけれど物音ひとつ聞こえなくて、僕は二階のサロンに向かいました。
そこが幼い頃からの二人の遊び部屋になっていて、昔のおもちゃや楽器なんかが置いてあり、今でも二人の憩いの場なんです。
暑いせいかドアは開け放たれて、オルゴールの音色が廊下まで聞こえます。
壁に貼り付いて中の気配をうかがっていると、トーニオさんの声が聞こえました。
「婚約?! おまえ、ロザヴェイン姫と結婚する気なのか」
「ああ。だからな……」
レオンさんの声も聞こえ、僕はどきりとしました。
レオンさんが婚約する?! いけない事とは思いながら、聞き耳がぴんと立ってしまいます。
「それで、俺に大人しくしていろと?」
「まあな……」
その後レオンさんとトーニオさんは声をひそめ、何を話しているのか僕には聞こえませんでした。
僕は後ずさり、足音を立てないよう廊下を走ってキッチンに戻りました。
レオンさんはロザヴェイン姫という女性と婚約し、結婚するつもりなんだ――――。
ロザヴェイン――高貴で美しい名前です。どこの姫君なんでしょうか。公爵家か伯爵家か……。
自分でも理由が分からないまま目の奥がつんと熱くなり、僕は咽喉にこみ上げた塊を呑み下しました。
朝食の後レオンさんから植物学を教わり、僕は何度もレオンさんの彫刻のように美しい顔を見上げました。
伸びた前髪を払うレオンさんの手は大きくて、あの手が僕を抱きしめたんだと思うとドキドキしてしまいます。
レオンさんは僕には婚約した話をしてくれず、もしかすると秘密結婚なのかも知れないと僕は思いました。
トライゼンの法律では男子は十六歳で結婚することが出来るけれど、二十歳までの結婚には色々と制約がつくんです。
財産とか経済力とか、犯罪が絡んでいないかとか。
レオンさんは十七歳だけれどクレヴィング卿だから、王立裁判所に書類を提出すれば結婚許可がおりるはずです。
もしかするとお相手の家族が反対していて、秘密裡に結婚しようとしているんでしょうか。
どんな家系の女性なんだろう……。僕は気になって、勉強の後、庭掃除をしていたアンナさんに尋ねてみたんです。
「アンナさん。ロザヴェイン姫ってご存知ですか?」
「姫?」
アンナさんは、小首を傾げました。
「リーデンベルク家の領地に、ロザヴェインという地所がありますけど。人の名前としては……どうでしょう。ディリア様のお母様の大叔母様が確か、ロザヴェイン様かロザヴェイヌ様だったと思いますよ」
「地所のロザヴェインというのは、遠いんですか?」
「馬車で三日ほどかかりますかしらねえ」
僕は、ぴんと来ました。レオンさんのお相手は、ロザヴェインに住む美しい女性なんです。だから、ロザヴェイン姫なんだ……。
サンドイッチで軽い昼食を済ませた後、トーニオさんからトライゼンの歴史を教わりました。
キッチンでの出来事など無かったかのように、トーニオさんはいつも通りのトーニオさんです。
「ダリウス歴七八四年、ゲオルグ一世がブランデン地方を統一してヴァリア王国を建国。七八五年から翌年にかけて、ヴァリア・フェルキア戦争が勃発。勝利したヴァリアはフェルキアより、トイブルクを割譲される。七九二年、ゲオルグ一世はヴァリアをマイセルンとトライゼンの二つに分け、当時王都があったマイセルンを第一王子に、トライゼンを第二王子に与えた。……トライゼンとマイセルンはもともと兄弟国なんだよね、今はとっても仲が悪いけど」
トーニオさんはそこまで説明して、溜息をつきます。
「フェルキアとは昔っから仲が悪いし、ラインハルトがあんな場所で油を売ってたことを考え合わせると、トライゼンの前途は多難だねえ」
「ラインハルト王子? ――どうしてです?」
「彼は陸軍情報部の幹部だからさ。暇そうにしてたから、仕事もろくにしてないのかなあって」
「軍隊……」
王子の鋼のような腕を思い出し、やはりそうなのかと思いました。でも……情報部?
そのことと、レオンさんやトーニオさんと王子の間にあった険悪な空気は、つながりがあるんでしょうか。
尋ねてみようと思ったけれど、僕の思いは知らず知らずのうちにロザヴェイン姫に向かってしまい、トーニオさんの顔を何度もうかがいました。
「俺が気になるの? もしかして、俺を好きになりかけてる?」
トーニオさんが意味ありげに微笑するので、僕は慌てて歴史書に視線を落としたのでした。
トーニオさんは時々蕩けるような目で僕を見つめる以外は、これまでのトーニオさんと変りがありません。
今朝の宣戦布告は、レオンさんの婚約によって当面の間、休止することになったのかも知れません。
やはりレオンさんの婚約には何らかの障害があるんだろうと、僕は思いました。
トーニオさんはレオンさんの結婚を応援していて、しばらくの間、騒ぎを起こさないことにしたんだと思います。
口ではどう言っても二人は兄弟で、そして僕には何も話してくれない……。
勉強を終え厨房でおやつの紅茶クッキーを焼いていると、突然玄関が騒がしくなりました。
「やめてください! 何かの間違いです!」と叫ぶアンナさんの声。
僕は急いで火を止め、玄関に向かいました。玄関の扉が開け放たれてアンナさんが座り込み、横にトーニオさんが難しい顔をして立っています。
「アンナさん! どうしたんですか」
僕は駆け寄り、アンナさんを抱き起こしました。
「レオン様が……レオン様が……」
気丈なアンナさんが、泣き崩れています。トーニオさんが僕に、一枚の紙切れを渡してくれました。
「これは……?」
「軍からの出頭命令だ。王家への不敬罪の疑いあり。事情聴取のため出頭すべし。……情報部の捺印がある」
「情報部?! ……ラインハルト王子が?」
「どうかな」
「何かの間違いですよ。あの人たち、由緒正しいリーデンベルク家にずかずかと土足で踏み込んで、レオン様を馬車に押し込むなんて、何様のつもりでしょう!」
アンナさんは、悔しそうに唇を震わせています。
「メイドくん、家から出るんじゃないよ。俺はちょっと情報を仕入れてくるから」
トーニオさんはそう言って急いで着替え、馬に乗って出かけて行きました。
「アンナさん、大丈夫ですか。落ち着くまで横になっていた方がいいですよ」」
僕はアンナさんを部屋まで送り、厨房に取って返してハーブティーを運びました。
その後一階の広間に座ってトーニオさんとレオンさんが帰って来るのを待っていたけれど、時間が経つのは遅く、不安と恐怖で居ても立ってもいられません。
ランツにある兵士宿舎にいた頃、王宮の怖ろしい話を山ほど聞かされました。
地下にある古い牢獄や拷問部屋。今では使われていないそうだけれど、幽霊が出るとか、実は密かに使われているとか――――。
軍本部は王宮の近くに建っているけれど、政治犯や王家に関わる犯罪の首謀者は、灯り一つない王宮の地下牢で朽ち果てるとか――――。
そんな話、聞かなければよかった……。
レオンさんが地下牢に閉じ込められて苦しむ姿が目の前に浮かび、僕は座っていられなくなってうろうろと歩き回りました。
裏庭に出て厩舎を覗くと、ゲイルお爺さんがお掃除をしています。
「あの……カムタンは……」
僕が話しかけると、ゲイルさんは人のいい笑みを浮かべました。
「ああ、元気ですとも」
「僕、運動させて来ます……」
思わず言ってしまい、すぐにこれだと思いました。カムタンに乗って軍本部まで行き、様子を探ろう。トーニオさんは家にいるようにと言ったけれど、じっと待ってなんかいられない。
「その辺を走らせて、すぐに帰って来ます」
「大丈夫ですかなあ」
心配顔でカムタンに鞍を乗せるゲイルさんに笑顔を向け、僕は久しぶりに馬に乗りました。
夕暮れの街中をカムタンは嬉しそうに駆け出し、でも年寄り馬だからすぐに息を切らせて並足になり、思ったより時間がかかって軍本部に到着しました。
カムタンから降りて、入り口に立つ二人の軍人に「エメル・フォン・リーデンベルクです」と名乗ったけれど胡散臭そうに見られ、「兄が連行された件で話を伺いに来ました」と言うと「ちょっと待ってろ」と言われました。
奥に引っ込んだ軍人を待っている間、もう一人がじろじろと怪しそうに僕を見ます。
僕ときたら着替えずに来てしまったから、いつものシャツとズボン姿なんです。
使用人に見えるんだろうなあ……と思いながらカムタンの手綱を持って立っていると、引っ込んだ軍人に伴われて若い軍人が現れました。
「一緒に来てください」
彼に連れられて軍本部の中に入り、階段を三階まで上がって突き当たりの部屋の前で止まります。
彼がドアをノックすると、中から「入れ」と聞き覚えのある声がしました。
「失礼します。リーデンべルク嬢をお連れしました」
若い軍人がさっとドアを開いてそう言い、僕は室内に一歩踏み出して、執務室らしい部屋の大きな机の前に座るラインハルト王子に気づいて目を見張りました。
僕の背後でドアは静かに閉まり、案内してくれた若い軍人の足音が遠ざかっていきます。
僕は王子に向き直り、竦みました。だって僕をじっと見る王子の目の、鋭く冷たいことと言ったら!
仕事中の彼は王宮で会った時とは雰囲気が異なり、怖いぐらいに威厳があって、整った顔は冷酷そうです。
「あの……またお目にかかれて光栄です。それで……その……レオンさんはどうなりました?」
「レオンのためにここまで来たのか」
王子は薄く笑いました。
「掛けるといい」
そう言われ、僕は王子の机の前にある三人掛けソファの真ん中に、がちがちに固くなって座りました。
彼は立ち上がり、ゆっくり歩いて一人掛けソファに座ります。
軍服姿の王子は普段なら素敵に見えるのでしょうが、この時はただ怖いばかりでした。
「君は、『メイドくん』と呼ばれているそうだな」
「えっ」
驚く僕に、薄氷のような目が向けられます。
「君が家事を得意としていることや、男の子のように棒を振り回すのが好きらしいことなど、一切を喋ってくれた者がいる」
「どなたなんです?」
「レオンに反逆の疑いがあると通報した者だ。名前は出せない。通報者は匿名ということになっているからね」
「通報者がいたから、レオンさんは連行されたんですか? あなたが……その……」
ラインハルト王子がレオンさんを目のかたきにしていて、反逆の罪をかぶせたんじゃないかなんてこと、とても口には出来ません。
でも王子は鋭く察したようで、苦笑いを浮かべました。
「通報があれば、どんな小さなことでも調べなければならない。それが我々の仕事でね。レオンの尋問には、新米があたっている。不慣れな尋問者の訓練にレオンが付き合っている、とでも言えばいいかな。もっともレオンにはそんなことは、伝えてないがね」
「レオンさんは、どうなるんでしょうか」
彼はゆったりとソファに背をあずけ、足を組みました。
「あいつ次第だな。悪くすれば尋問者の怒りを買って、牢獄に放り込まれるかも知れないが」
「そんな……」
幽霊が出るという牢獄――――。僕は、思わず体を震わせました。
「ところで、エメル。君のところへは、縁談は来ているのかな」
「……えんだん?」
王子の青い瞳に、きらりと鋭く光が走ったように見えました。
「そう、縁談。結婚の申し込みのことだ。社交界デビューしたということは、結婚出来るということだ。君は、誰かと婚約しているのか?」
「僕はラテン語を知らないし数学は苦手だし、一生懸命に勉強していますけど、フィアに入学したらすぐに落第しそうなんです。縁談どころじゃありません」
彼は、微笑を浮かべました。
「君にふさわしい縁組を、私が用意しよう。君は早々に結婚する。私のために」
「あなたのため……?」
意味が分からなくて、それにレオンさんのことが気になって、僕は話題を戻しました。
「あの、レオンさんのことですけど……大目に見て頂くことは出来るんでしょうか。地下牢に放り込まれるようなことだけは、避けられないでしょうか」
僕は真剣に言ったのに、王子はふっと笑いました。
「話を変えるのか。君の結婚について話し合っているんだぞ。では私も、話の切り口を少し変えよう。私は君が気に入った。君は実に個性的で、面白い。手もとに置いておきたい」
手もとに置く――――?
謎めいた微笑を浮かべるラインハルト王子の顔を、僕は見上げました。