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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて
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7  誘惑は舞踏会の夜に  Ⅲ


 王子の腕は鋼のようで、押しても叩いてもゆるんではくれません。


 余裕の表情で、

「そのうち爪を出し、小さな牙で噛みつくんじゃないのか」

 と笑っています。


 彼は放蕩者で毎日遊び暮らしていると聞いていたけれど、違うのではないかという気がして来ました。

 腕は岩のように硬く筋肉は労働者並みで、とても遊び暮らしているようには見えません。


 端整で厳めしい横顔は、放蕩者というより軍人のようです。

 樹々の陰にベンチがあり、王子は腰をおろし、僕を膝の上に抱き上げました。


「本当に女の子なのかな」

 と僕の頭に触れます。


 その時になって僕は、さっきの乱闘でかつらを落としてしまったことに気がつきました。

 王子は僕の頭の白い布を取り去り、飛び跳ねているに違いない髪を撫でつけました。


「男の子に見えるが?」

「女の子ですっ、本当ですっ」


 答えながらも僕は両手を突っ張り、何とか彼の腕から逃れようとしたんです。


「確かめさせてもらおうかな」

 王子が笑いながら僕のドレスの胸元に手を入れようとし、

「き、きゃ……」

 

 僕は彼の手を両手で必死に押し留め、叫び声を呑み込みました。

 もしも誰かにこんな場面を見られたら……。叫ぶ前に、王子から離れないと。


 彼の手を叩き、足をばたばたさせたけれど、そんなことをすれば裾がめくれることに気づき、慌ててスカートを撫でつけました。

 ラインハルト王子は声を上げて笑い、僕はと言えば泣きそうになって来ました。


「助けてください。お願いだから。僕なんかじゃ、ミレーヌさんの代わりにはなりません。お二人のお邪魔をしてしまって申し訳なかったと思いますけど、僕だって無理矢理連れて来られて……その、色々と事情があったから……」


 僕の涙に気づいた王子が、顔を近づけて来ます。

 王子の唇が僕の涙を吸い取り、僕は悲鳴を上げました。


「きゃあぁぁぁ――――っっっ!!!」

「エメル――――!」

 遠くから声がして、はっとしました。レオンさんの声です。


「レオンさん!」


 大声を上げると複数の足音がして、樹木の間からレオンさんとトーニオさんがヴィリーさんを引きずるようにして姿を現し、辺りに沈黙が漂いました。


 無表情で凍りついたように佇むレオンさん。驚いた顔のトーニオさん。ラインハルト王子の腕にしっかりと抱かれた僕。――――最悪の事態です。


 ヴィリーさんは顔を青紫色に腫らし鼻から血を流していて、レオンさんとトーニオさんに何をされたのか一目瞭然です。


「い、言った通りだろ? 温室だったろ? もういいだろ?」

 そう言ってレオンさんの手を振りほどき、ヴィリーさんは一目散に逃げ出しました。


「――妹を助けてくださって、ありがとうございました」

 

 トーニオさんが会釈をしたけれど、レオンさんもトーニオさんも顔がこわばっています。

 ラインハルト王子も無言で、男たちが沈黙の駆け引きをしている間、僕はもがいて王子の腕から逃れようとしたんです。

 王子がふっと笑い、僕を横目で見ました。


「もう少し預からせてもらおう」

「そういう訳にはいかない」

 レオンさんの声音は低く鋭く不穏当で、僕でさえぎくりとする程です。


「レオン。君は相変わらず血の気が多いのかな」

「確かめたらどうです? そちらの出方次第ですよ」

「よせ」

 トーニオさんがレオンさんを止め、一歩前に出ました。


「ベルトラム男爵として、申し上げます。当家の娘をお返し頂きたい」


 王家の権力と貴族の名誉。そんな言葉が頭をかすめましたが、目の前の三人に漂う危険な空気の理由が思いつかず、僕はひたすら僕の腰に絡みついた王子の腕を引き剥がそうとしていたんです。


 突然王子が立ち上がって腕を離したから、僕はよろけ、足を滑らせて尻餅をついてしまいました。

 レオンさんが大股で近づき、僕を抱き上げて、そのまますたすたと歩き始めます。

 後ろでトーニオさんが、ラインハルト王子に頭を下げるのが見えました。


「あの、レオンさん。僕、大丈夫ですから」

 僕の言葉にもレオンさんは無言で、顔をこわばらせたまま僕を抱いて歩き続けます。


「本当に……もう……一人で歩けますから」

「頼むから、黙っていてくれ」

 言われた通り、僕は黙りました。レオンさんの怖い横顔を見上げながら。


 レオンさんは怒ってる――――。そう思いました。僕が情けない奴だから。

 簡単にさらわれて、逃げ出すのにぐずぐずと手間取るような手のかかる奴だから――――。しかもラインハルト王子のおもちゃみたいに、彼の腕の中にいたから――――。


 恥ずかしくて情けなくて、目の奥がつんと熱くなりました。最初に逆戻りです。レオンさんが冷たかったあの日々に。

 せっかく仲良くなれたのに、僕を好きだって言ってくれたのに、僕が自分でそれを台無しにしてしまったんです。


「すみませんでした――――」

 僕はやっぱり、謝りました。他に出来ることがなかったから。

「お前のせいじゃない」

 レオンさんは僕をちらっと見て、奥歯を噛みしめ、僕を抱いたまま無言で歩き続けました。





 僕たちは、そのまま屋敷に戻りました。

 普段着に着替えキッチンで翌日の朝食の仕込みをしながら、僕は泣いていました。

 我慢しようと頭では思っても、涙が止まりません。


 朝食はレオンさんの好きな焼きたてスコーンにしようと思い、準備をしました。

 三人目のママが怒った時、好物の食べ物があると機嫌を直してくれたことを思い出しながら。

 そんな手がレオンさんに通じるのか疑問でしたが、他に名案が浮かびませんでした。


 スープ用の野菜を煮込んでいると、

「どうしたの。何泣いてるの」

 横から声がして僕は飛び上がり、持っていたレードルを落としてしまいました。

 トーニオさんは、足音をたてずに歩くのが得意なんです。


「何でもないです」

 トーニオさんは話しやすいけれど、それでも恥ずかしくて話せないこともあります。


「あのねえ、メイドくん」

 トーニオさんは壁にゆったりともたれ、僕を見やりました。


「何でも一人で抱え込まない方がいいよ。たまには人に甘えるってことも、してみたら?」

 甘える――――。どうすれば甘えることになるのか、想像もつきません。


「話してごらんよ。いい解決方法がみつかるかもしれないよ」

「……レオンさんを怒らせてしまって」

 僕はレードルを拾いながら、たどたどしく話しました。


「僕が、簡単にさらわれてしまったから。僕が、弱い奴だから。しかも、あんな場面を――――」

 目を拭ったけれど、涙が止まりません。

「僕のせいです」


「レオンが、メイドくんに対して怒ってると思ってるの? 違うよ。あいつは、自分自身に対して怒ってるんだよ。君を守りきれなかったから」

 僕はレードルを置き、不思議なものを見る心地でトーニオさんを見上げました。


「自分自身――? でもそんな風には……僕に怒ってましたよ」

「そうだよねえ。そう見えるよねえ、あんなに無愛想じゃ。でもね、男ってプライドが傷つくと不機嫌になるものなんだよ」

 トーニオさんは、にやりとしました。


「これから一緒に暮らすんだから、そういう男の心理、理解しないと。俺だってプライドを傷つけられたら不機嫌になって、その辺にある椅子やテーブルに当り散らすんだよ。メイドくんはそういう時、知らん顔してればいいんだよ」

「そうなんですか…………」


 僕に対して怒ってるんじゃない――――その言葉は、小さな希望のともし火となりました。

 でも僕を守れなかったという理由で、なぜレオンさんが自分に対して怒るんでしょうか。


 尋ねてみたかったけれど、自分のことで精一杯だった僕がふと冷静になった瞬間、もっと大事なことがあると気がつきました。

 僕のせいでレオンさんとトーニオさんが王子様に逆らう事になってしまい、何事もなくて済むんでしょうか。

 三人の間には、何かがあるような気もするし……。


「……あの、もう一つ聞いていいですか? ラインハルト王子のことですけど――――」

 トーニオさんの笑みが、すっと消えました。

「何かあったんですか、お二人と王子の間で……」

「そう見えた?」

「はあ……まあ……」

 トーニオさんは、鼻で笑いました。


「それもまたプライドの話なんだけどね。昔のことだし、君が気にするほどの事じゃないよ。しかし、あそこでラインハルトが出てくるとは……」

 僕に横顔を向けて遠くを見るトーニオさんの青い目が、面白そうにきらきら輝いています。


「――お陰で沸点に大きく近づいたな。もう一押しってところだな」

「何のことですか、もう一押しって」


「ああ、何でもないよ。それよりメイドくん、夜にあんまり泣くと顔が腫れるよ。可愛い顔が台無しになるから、笑顔で寝なさい。いいね?」

「は、はい――」

 

 トーニオさんは、何故か上機嫌になりました。

「そら、来た来た」

 戸口に目を向けるトーニオさんを見ながら耳を澄ますと、足音が聞こえます。


「夜中に俺が部屋を出ると、レオンの部屋まで聞こえるみたいでね。あいつ、気が気じゃなくなるみたいだよ。ひどいよねえ、品行方正な俺を疑うなんて。本人は道徳の番人なんて自称してるけど、本当は別の理由があるんだよ。滑稽だよねえ」


 別の理由? 滑稽? 僕が首をひねっていると、

「何してるんだ」

 レオンさんが戸口から顔を覗かせて、トーニオさんはにやりとしてレオンさんを見、僕に視線を移します。


「じゃ、メイドくん、俺の言いつけ通りにするんだよ。おやすみ」

 と言って、キッチンから出て行きました。


「言いつけ――?」

 レオンさんはトーニオさんの背中を見送り、僕に目を向けます。

「……笑顔で寝るようにって。そうしないと顔が腫れるからって。よく考えると笑顔じゃ眠れませんよね、顔が引きつって」

 

 僕は何とか笑おうとし、失敗しました。

 僕の目元に残る涙を、レオンさんがじっと見つめています。


「どうしたんだ。まさかとは思うが……トーニオに何かされたのか?」

「いえ。トーニオさんは、僕を慰めてくれただけです」

「ラインハルトかアーレクか? お前を泣かせたのは誰だ」


 言葉を切ったレオンさんの口元は、不機嫌そうに引き結ばれています。

 僕はレオンさんの真剣な顔を見ながら、僕に対して怒ってるんじゃないというトーニオさんの言葉を思い出し、息を大きく吸い込みました。


「また勇気を吸ってるのか」

 レオンさんは困った顔で、僕はさらに勇気を吸い込もうと深呼吸しました。


「……屋敷に帰る時……レオンさんが怖い顔をしていたから、僕に対して怒ってるんだと思ったんです。僕がさらわれるたびにレオンさんやトーニオさんに迷惑がかかるし、助け出す手間もかかるし。僕は自力で逃げ出せないような情けない奴だし、もっと知恵を働かせればいいのに出来ないし、しかもあんな……あんな場面を……。レオンさんが怒るのも分かるんです。でも、でも、僕にはあれが精一杯で…………。言い訳になるけど、一度に5人は多過ぎて……。王子様を蹴ったり叩いたりしていいのかどうかも全然知らなくて……。僕、王子様から逃げようとしたけど、全然歯が立たなかったんです。ごめんなさい。これからは気をつけます。勉強して賢くなるし、体も鍛えて強くなりますから、だから、どうか、怒らないで」


 話しながら、僕の目から涙がぽろぽろ流れ落ちていきます。


「そんな風に思っていたのか」


 レオンさんの嘆息が聞こえ、僕は肩を落としました。レオンさんが呆れてる――――。

 こんなウジウジした姿を見たら、僕のことをますます嫌いになるに決まってる。そう思って目をぱちぱちさせて涙を止めようとしたけれど、どうしたって止まりません。


 僕はどうしてレオンさんが怖いのか、わかったような気がしました。レオンさんには、僕を傷つける力があるんです。

 レオンさんが大切な人だから、レオンさんに嫌われたくなくて、だから僕はレオンさんの前では小さくなってしまう。


「すみません……。こんな話……したりして。僕、もう、大丈夫だから、部屋に戻ります」

「待てよ」


 レオンさんが、左手で僕を抱き寄せました。右手はズボンのポケットに入れたまま、兄が弟にするみたいに僕の頭を自分の左肩に軽く押しつけて、僕の髪を優しく撫でてくれた。


「お前は何一つ悪くない。さらわれたのはお前のせいじゃないし、助け出すのは俺の役目だ。俺が目を離したのがいけなかったんだ。悪いのは俺だ」

 

 頭上から聞こえるレオンさんの声が優しくて、僕はレオンさんの胸にもたれ、ひっくひっくとしゃくり上げました。

 レオンさんの腕に包まれていると温かくて、長い旅をして自分の家に戻ったような、何とも言えない安堵感がこみ上げます。


「俺はトーニオと違って女の子の扱いに長けているとは言えないし、お前に誤解を与えるような事をするかもしれないが――――」


 両手で僕の肩を優しくつかんで体を離し、レオンさんは僕の顔を覗きこみました。


「俺は、いつだってお前が好きだ。お前を嫌いになったりしない」


 僕はひっくひっくと言いながら、うなずきました。

 レオンさんは、一度言った言葉を違えるような人じゃない。僕を好きだと言ったら、ずっと好きでいてくれる人なんです。

 僕の大きな間違いは簡単にさらわれてしまったことよりも、レオンさんの言葉を疑ったことなんです。


「わっ!」

 突然レオンさんが大声で言ったから、僕は飛び上がりました。


「しゃっくり、止まったか?」

「止まった……みたいです」

 レオンさんの笑みに誘われて、僕は自分でも分かるくらい満面の笑顔で応えました。


 



 その日の夜、僕は幸せな気持ちでベッドに入りました。


 今度レオンさんが怒っているように見えた時は、僕に怒ってると思うんじゃなくて、どんな事情があるんだろうと考えることにしよう。

 そう決めて寝返りを打ちながら、レオンさんが片手で僕を抱きしめてくれた時のことを思い出しました。


 馬車の中でのように両手で力一杯抱きしめられたんじゃないけれど、それでも嬉しくて温かくて胸が高鳴るひとときでした。

 あの時の僕は、女の子だった――――。

 レオンさんやトーニオさんの強い弟になりたいと願ってはいるもの、レオンさんの腕の中でときめいていた僕は、正真正銘の女の子でした。

 

 それでも男の子を演じている方が落ち着く気がして、ベッドに立てかけた愛用のモップを眺めながら、やっぱり当分男の子でいようと思うのでした。


 そろそろ眠ろうと思って目を閉じ、ふとトーニオさんの言葉を思い出しました。沸点――――もう一押し。


 事情は分からないけれど、ラインハルト王子がレオンさんの怒りを駆り立てたようです。

 どうしてなのか、トーニオさんはレオンさんを怒らせたがっているんじゃないかという気がしてなりません。


 思い返してみると、そういう場面を何度も見たような気がします。

 二人は仲がいい時が多いのですが、何かの拍子にトーニオさんがレオンさんを怒らせ、でもレオンさんは怒りを抑えているような――――――。


 トーニオさんが僕をからかうのも、レオンさんを怒らせたいからなんじゃないかという気がして来ました。

 トーニオさんが僕に近づくとレオンさんが怒るというようなことを、トーニオさん自身が言っていたし……。


 でも何のためにレオンさんを怒らせるんでしょうか。そんなことをすれば喧嘩になるのに。まさか……喧嘩をするため? 

 レオンさんに喧嘩を売って、トーニオさんにどんな益があるんでしょうか。


 他にも気になることがあります。ラインハルト王子との間に、何があったんでしょうか。

 考えれば考えるほど頭が痛くなったけれど、そのままいつの間にか、僕は眠ってしまったんです。

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