7 誘惑は舞踏会の夜に Ⅰ
いよいよやって来た王宮舞踏会の日――――。
僕の部屋に髪結い師がやって来ました。
「すべて男爵様から承っておりますので、おまかせください」
年配の女性髪結い師はそう言って、慣れた手つきで僕の髪をブラッシングし、白い布でがっちり覆いました。
手早く丁寧に僕の顔にクリームを塗り、刷毛やブラシを駆使して薄い色を重ねていきます。
淡いピンクの口紅を引き、最後に明るい茶色のかつらをのせました。
結い上げられた髪は小さな真珠の宝冠で飾られて、ゆるやかな房が頭頂から流れるように肩に落ちています。
鏡の中の自分を見て、僕は茫然としました。ママ……。
そこには、記憶の片隅にぼんやりと残っていたママの顔がありました。
女優として舞台に立つママ。家のキッチンで料理をするママ。パパと見つめ合うママ。
思い出さないよう再び記憶の隅に閉じ込めて、僕は立ち上がりました。
アンナさんに手伝ってもらい、水色のドレスを着て――――。その優雅な美しいドレスときたら!
金銀の刺繍やフリルやリボンが可愛らしく、花びらのように重なったスカートの層が歩くごとに柔らかく揺れるんです。
僕のぺったんこの胸の部分には詰め物がほどこされて、女の子らしい体の線が――――偽物ではありますが――――僕を一人前のレディに見せてくれます。
首回りを縁どる白いレースが華やかで、ふっくらふくらんだ肩の部分から下は白い手袋をはめました。
山羊皮の靴を履いて転ばないよう気をつけながらゆっくりと階段を下り、貴婦人のような優雅な足取りで一階のホールに向かう僕。
レオンさんが暖炉にもたれて待っていて、トーニオさんがソファから立ち上がりました。黒い夜会服姿の二人は、煌めく星のようです。
「思った通りだ。よく似合ってるよ、メイドくん」
トーニオさんがにっこりする横で、レオンさんは優しい目で僕を見つめています。
「――綺麗だよ」
そう言うレオンさんの声が少しかすれていて、レオンさんはすぐに咳払いをしました。
トーニオさんが、レオンさんを横目で見て笑っています。
「で、メイドくんのダンスはどうかな?」
「ああ。合格点」
ダンスを教わりながらレオンさんの足を何度も踏みつけたことを思い出し、僕は感謝の目でレオンさんを見上げました。
王宮に着いたのは、宵の口でした。
早い時間にもかかわらず、ホールの明るいシャンデリアの下には華やかなイブニングドレスや黒の夜会服姿の人たちが詰めかけ、談笑と嬌声が花開いています。
レオンさんとトーニオさんに挟まれ通路を歩いていると、向こうからカミーラさんがやって来ました。
蜂蜜色の髪にエメラルドを散りばめ、薔薇色のドレスが白い肌によく映えて、カミーラさんは本当に綺麗な人です。
悪意に満ちた碧の瞳と、殺気立った微笑を除けば――――。
僕はすっかり怖気づいてしまい、きっとレオンさんとトーニオさんが助けてくれると自分を勇気づけるのでした。
カミーラさんの隣にはマチルダさんと三十代ぐらいのレディがいて、レディはレオンさんとトーニオさんに笑いかけ、レオンさんとトーニオさんもレディに軽く会釈して通り過ぎて行きます。
「――どなたですか?」
僕が尋ねると、レオンさんが、
「ミューゼ伯爵夫人。カミーラの母親の妹に当たる人だ」
と小声で教えてくれました。トーニオさんが足を止め、
「ちょっと情報収集して来るよ。ついでに俺の女神に挨拶しておくかな。しばらく放っておいたから、ご機嫌を取っとかないと」
と意味ありげに、にやりとします。
「女神様?」
『悪い女性』のことかなと僕は思いました。でも女神様と悪い女性は、結びつかないような……。
「俺の周りにいる女性たちの中で、最上位の女性だよ」
周りにいる女性たち――――恋人が複数いると言われても、やっぱりと納得してしまう点がトーニオさんの凄いところです。
「後はよろしく」
トーニオさんはそう言って、王宮の奥へと消えました。
「参りましょうか、お姫様」
悪戯っぽく微笑むレオンさん。黒髪と黒い瞳に黒い夜会服という今夜のレオンさんは、拳闘をしていたレオンさんとは雰囲気が異なって、優雅で素敵な紳士です。
「はい」
僕は精一杯元気よく返事をして、レオンさんの腕に震える手を添え、華やかな人々の中を進みました。
レオンさんからリーデンベルク家の親戚の方々を紹介してもらい、覚えきれないと思いながら懸命に覚えているうちにファンファーレが鳴り、舞踏会の主催者である王妃様の来場を告げる声が響きました。
僕は、王妃様にお目にかかるのは初めてです。
それを言うなら、王家のどなたにもお目にかかったことはありません。
王妃様は豪華なドレスに身を包んだ、四十代の優しいお母さんのような女性でした。
温和な顔立ちでふくよかな体型で――――。でも僕の視線は、王妃様の手を取りエスコートする若者に釘付けになりました。
トーニオさん――――!!
「トーニオは、王妃様のお気に入りでね」
僕が目を見開いてトーニオさんを見ていることに気づいたレオンさんが、耳元でささやきました。
「もしかして、女神様って――――」
「たぶんな」
レオンさんの声は、笑いを含んでいます。
「あいつ、口が達者だから、貴婦人たちに人気があるんだよ。王妃様にも、王宮の女官たちにも」
王妃様が近づいて来られたから、僕は緊張のあまり固まってしまい、ぎくしゃくと膝を折ってお辞儀をしました。
「まあ、何て可愛らしいのかしら。ディリアは娘を欲しがっていたから、さぞ喜んでいることでしょうね」
王妃様の後ろには女官たちがいて、僕たちの周囲を招待客が取り囲んでいます。
「エメルと申します。お目にかかれて光栄に存じます」
「あらあら、硬い挨拶はやめましょう。トライゼンは小さな国だもの、皆家族だわ。そうよね、トーニオ?」
王妃様は笑みを浮かべながら僕からレオンさん、トーニオさんへと視線を移します。
「もちろんです。国民は皆、王妃様を母と慕っております。私は違いますが」
「違うの?」
怪訝そうな王妃様にはっとするような魅惑的な笑みを向け、トーニオさんは答えました。
「私にとってあなたは、地上のすべてを照らす女神ですから」
王妃様の気持ちの良い笑い声が舞踏会場に響き、近くにいた他の招待客たちも一様に笑いました。
「まったく。トーニオは女性の味方なのか女殺しなのか、わからないわね」
トーニオさんの腕をぽんぽんと叩き、王妃様は次の客人の前へと移られて、僕はほっと胸を撫で下ろしました。
謁見は、無事に終わったようです。
王宮楽士たちの弦楽奏が始まり、王妃様を含む貴族の方々がダンスを始めた頃、カミーラさんがやって来ました。
「また会えて嬉しいわ、エメル。先日はとっても楽しかったわね」
と薄気味の悪い満面の笑みを浮かべ、横目でレオンさんをぎろっと睨み、視線を僕に戻してまた笑います。
「ねえ、エメル。平凡な平民の娘が王子様と結婚するという夢のようなお話が世界のいたる国にあるけれど、それについてどうお思いになって?」
「どう? えっと……別に……」
どうと聞かれても。考えたこともありません。王子様と結婚するとか、僕とは別世界の話だもの。
「先ほど王宮の女官たちとお話していたんですけど……近頃、勘違いした平民の娘が増えたそうなんですのよ。皇太子殿下に恋文を送る娘とか……」
カミーラさんは声を張り上げて、何だか皆に聞かせたがっているかのようです。
「殿下に恋文ですって?」
案の定周囲にいた貴婦人たちが関心を示し、集まって来ました。
「おとぎ話では平民の娘が王子様と結婚すればめでたしめでたしですけれど、現実問題として王子様側や貴族から見ればどうなのかしらっていう話を女官たちとしていたんですの」
「言葉は悪いんですけれど……」
カミーラさんの隣にいたマチルダさんが、おずおずと口を開きます。
「……成り上がり?」
くすくす笑いがさざ波のように広がり、近くにいた貴婦人たちが豪華な扇で口元を覆って笑っています。ちらちら僕を見る視線もあって、僕は硬直してしまいました。
成り上がりって、僕のこと――――?
「俺は平民から成り上がった新興貴族だが、それがどうかしたか。当てこすりがしたいなら他所でしてくれないか、カミーラ。ここで低俗な話をされても、御婦人方が退屈されるだけだ」
レオンさんの低く静かな声が、貴婦人たちのくすくす笑いを消しました。レオンさんは口元に皮肉な微笑を浮かべ、僕をかばうように前に立ち、カミーラさんに冷たい目を向けています。
「事実を申し上げておりますのよ」
カミーラさんはレオンさんの険しい視線にも負けず、つんと顎を上げました。
「今夜、皇太子殿下が舞踏会に来られるそうですわ。熱烈な恋文を送った平民の娘に会いに」
「本当なの、カミーラ」
「どちらの令嬢が殿下に文を送ったのかしら」
「殿下は、どう思ってらっしゃるの?」
「でも……平民ですって?」
貴婦人たちの表情には興味と侮蔑が入り混じり、もしもその娘がこの場にいたら、鮫に食い散らされる小魚のような目に合うんだろうなと僕はぞっとしました。
「女官たちに口止めされていますので、詳しく話せないのが残念ですわ。でもお仕事に忙しい殿下を舞踏会に引っ張り出すなんて、罪ではありませんこと?」
カミーラさんが憤然として言い放ち、僕をちらっと見たから僕は青ざめました。
もしかして、僕が殿下に恋文を出したと思われてる――――? 僕は決してそんな事はしていません。
皇太子殿下がお忙しい方だというのは、本当です。
今年25歳になられるゲオルグ皇太子殿下は色恋の噂の絶えないラインハルト王子とは違い、謹厳実直で真面目な性格の方だと聞いています。
博識でありながら知識欲旺盛で、農作物や家畜の品種改良に精力的に取り組んでおられるとか。
扇をせわしげに振る貴婦人たちは僕の顔を伺い、舞踏会場を見回しています。数多い招待客の中には貴族でない資産家の令嬢もいて、平民の娘は僕だけじゃないんです。
どの平民の娘が恋文を送ったのだろうと、ひそひそ話をしながら探す貴婦人たちは、やっぱり鮫に見えました。
「レオン。妹さんにダンスを申し込んでもいいのかな」
振り返ると、若い紳士が三人立っています。一人は拳闘倶楽部でも見かけた人で、きっと三人ともフィアの学生なんだろうなと僕は思いました。
「絶世の美少年が、稀代の美少女に変身か。いいなあ。うちにもこういう目の保養になる妹がいたらなあ」
「ダンスは品行方正で礼儀正しい者だけに許可する。お前らは駄目だ」
レオンさんの笑い混じりの返答に、三人は鼻を鳴らしました。
「ひどいよー」
その後親戚の方々やリーデンベルク家に関係する紳士たちが訪れて、僕のダンスカードは瞬く間に埋まってしまったんです。
どうしよう……。僕に足を踏まれ、外科病院の入り口で列を作る紳士たちの映像が浮かび、僕は泣きそうになりました。
本当にそうなったら、どうしよう……。
「最初のダンスの相手はトーニオ、次は俺だ。心配するな、エメ。きっとうまくいく」
レオンさんがそう言ってくれ、僕は無理して笑おうとしたけれど、やっぱり頭の中は不安で一杯でした。
突然ファンファーレが鳴り、僕の心臓がどくんと一拍しました。カミーラさんの言った通りでした。ゲオルグ皇太子殿下が来られたんです。
颯爽と現れた殿下は王妃様によく似た温和な顔立ちで、さほど長身ではありませんが、がっしりとした体格の方です。
とは言っても――――。
僕だけでなく、その場にいた全員が目を丸めました。
殿下は夜会服ではなく、農夫が着るような作業着を着て、腕に子豚を抱いています。
白くて小さな子豚は殿下に鼻をすり寄せて、時折「ぷひーっ」と鳴く声がしんと静まり返った舞踏会場に響きます。
子豚、可愛い……。でも……。
「ゲオルグ! んまあ、何て格好なの! 来るなら来るで、着替えてからになさい」
王妃様が殿下に歩み寄ったけれど、あんまり近づきたくないようで、途中で立ち止まってしまいました。
「いや、母上。まだ仕事中なのですよ。小麦の生育実験に立ち会わなければならないんですが、嬉しい贈り物が届いたものですから。――――ああ、みんな、聞いてくれ」
王太子殿下は、豊かで声量のある声を張り上げました。
「バークシャー種の豚が二十匹、手に入った。新種の豚でなかなか手に入らなくて困っていたのだが、さるご婦人が贈ってくれたのだ」
と抱いていた子豚を高々と持ち上げます。
「これを従来の豚と掛け合わせれば、さらに質の良い肉が手に入るはずだ。わが国の塩漬け豚肉は高値で輸出され、さらなる外貨獲得が見込めるだろう」
歓声があがり、招待客たちは顔を引きつらせながら拍手しました。
大型で強健で多産で肉質の良い豚の飼育は、畜産国であるトライゼンには必要不可欠なことなんです。
「豚には手紙がついていた。王宮舞踏会でぜひとも殿下にお目にかかり、豚について心ゆくまで語り合いたいという内容だ」
と紙をひらひらさせます。
カミーラさんが僕をちらっと見て意味ありげに微笑むので、僕は又もや青ざめました。
まさか――――。まさかカミーラさん、偽の手紙を殿下に送ったんじゃ――――。
そんなことあり得ないと、僕は心の中で首を振りました。
皇太子殿下まで巻き込むような嘘を、いくらカミーラさんでもつくはずがありません。
マチルダさんまでにやにや笑っているけれど、反逆罪になりかねないことを、王族に対する不敬につながるようなことを、するわけない。
でも――――。
だからこそ、あり得るかも知れないと僕は気がつきました。
誰もカミーラさんがそんな事をするとは思わない。公爵令嬢がそんな事をするとは思わない。
だから、やったんだ……。
「今夜は舞踏会には出席しないつもりだったんだが……」
煌々と輝くシャンデリアの下で、殿下は口角をわずかに上げて笑いました。
「手紙の文面があまりに熱烈なので、ついつい会いに来てしまったよ」
カミーラさん、一体何て書いたんだろう……。
「手紙の最後に署名がある――――」
署名……。僕の心臓が、ばくんばくんと脈打ちました。まさか、僕の名前が書かれてるんじゃ……。
どうしよう。みんなの前で、手紙は偽物ですなんて言えない。大騒ぎになるに決まってる。
でも僕が書きましたって言ってしまったら――――。
鮫のような貴婦人たちの反応が、ありありと浮かびます。
「何てあさましい」「これだから平民は」「成り上がるためなら手段を選ばないのね」
どうしよう……。
僕だけでなく、舞踏会場にいる全員が殿下の次の言葉を固唾をのんで待ちました。