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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて
10/78

6  一人じゃないから  Ⅰ

「この紋どころが目に入らぬか――っ!!」


 僕はそう言いながら、まな板を高々と掲げました。まな板には僕の紋章、包丁十字が描かれています。

 居並ぶウシたちが、モウモウ言いながら平伏します。モウモウ言っていても、彼らの言葉が分かるんです。


「エメル王、万歳!」

 

 そう言ってるんです。

 僕は、王様になりました。僕の民衆がウシだということについては、気にしませんでした。

 僕は胸を張り、僕がどれほど強いかをウシ達に語って聞かせたんです。


「見よ、この名刀を!」

 僕の手によって、高々と持ち上げられたモップ。

「その名も……えっと……モップ!」

 そのまんまです。名前については、後で考えようと思いました。


 山裾から、黄金の太陽が昇ってきます。

 僕は足を広げて大地にしっかりと立ち、両腕を大きく広げて陽の光を浴び、高らかに歓喜の声を上げました。ハハハハハ!


「ハハハ……ハ?」


 目を開くと、目の前に突き出された唇。愉快そうに瞬く青い瞳。僕は何度も目をぱちくりさせてトーニオさんの顔を確かめ、飛び起きて絶叫しました。


「あああぁぁぁあああああ――――っっ!!」


「何もそんなに叫ばなくたって」

 トーニオさんは、お腹を抱えて笑っています。どうしてどうしていつもいつも、この人は僕を起こしに来るんでしょうか。

 僕の方にも問題があって、夜明け前に起きる習慣がこの屋敷に来てからというもの鳴りをひそめ、もうすでに窓の外は白々と明るくなりかけているんです。


 僕は顔を引きつらせ、身を守る物を探しました。僕の鎧とも言うべきガーゼケットが、どこにも見当たりません。

「もしかして……ケットとモップを探してるのかい?」

 トーニオさんは、ひいひい笑っています。

「下に落ちてるよ」

 トーニオさんの言う通りです。

 モップとくしゃくしゃになったガーゼケットが一緒くたになって、まるで僕に蹴り落とされたみたいにベッドの足もとに落ちています。


「メイドくんが……大の字になって大笑いしながら寝てるものだから……ついつい君の柔らかーい部分を指先でちょんちょんとつつきたくなって……むずむずする指を止めるのに苦労したよ。せめてキスだけでもしようと思ったのに」

「ここに来なければそんな苦労しなくて……。……つつく?」

 柔らかい部分を――――ちょんちょん? 僕の脳裏に想像するのも恥ずかしい映像が浮かび、またもや叫びたくなりました。


「ねえ、メイドくん」

 トーニオさんが涙目になった僕の横に座り、肩を抱きました。

「決して男の前で大の字になるんじゃないよ」

「好きでなったんじゃ……夢を見てただけです。それに……」

 ここが僕の部屋だということを、トーニオさんに覚えてもらう方が先決だと思うんです。これじゃ鍵をしめた意味がない……。そう考え、僕ははっとしました。


「あっ……鍵!」

 寝る前にドアはもちろん窓の鍵もしめたはず。きょろきょろとドアと窓に目をやる僕を見ながら、トーニオさんは典雅に微笑んでいます。


「どの部屋の鍵にも、緊急の場合に備えて合鍵があるんだよ。それに君は、俺を悪者にし過ぎるよ。人間は目覚める直前に夢を見るものだからね。俺がここに来るのはメイドくんが悪夢にうなされてやしないか確かめるため、うなされていたら起こすため、すべてはメイドくんのためだよ」


 そう言ってトーニオさんは、僕の肩を優しくぽんと叩きました。

 本当にそうだとしたら、トーニオさんは親切でいい人です。

 僕の隣でにっこりするトーニオさんは美しい天使に見え、そしてやっぱり――――悪魔に見えます。


「使ってるんだね、ヘアネット」

 トーニオさんは僕の頭からご先祖様のヘアネットをはずし、僕の髪を撫で始めました。

「……はい。愛用しています」

 僕の髪のセットに夢中になっている様子のトーニオさんを、涙目で見上げていた時のこと。


「約束が違うんじゃないか、トーニオ」

 レオンさんが腕を組み、戸口にもたれかかっていたんです。

 表情は涼しげだけれど、横目でトーニオさんを見る目つきが鋭い。


「来ると思ったよ」

 トーニオさんは笑いながら立ち上がり、

「今日の朝食、メイドくんに頼もうと思ってさ。メイドくんの勉強スケジュール立てなきゃならないから」

 レオンさんの前を通り過ぎて、廊下に消えて行きました。

 レオンさんも僕をちらって見て、トーニオさんの後を追うように消えてしまったんです。


 約束……。レオンさんの言葉が耳もとでうなります。約束が違うって、どういう意味なんでしょうか。



 

 刻んだブルーベリーをパンケーキに混ぜて薪のオーブンで焼き、新鮮な牛乳とサラダを添えて、僕は張り切って食卓に向かいました。

 三人で朝食を食べている時、トーニオさんから一枚の紙切れを渡されて、見ると勉強のスケジュール表です――――朝から晩までぎっしりと。


「ラテン語と歴史は俺が見るから。数学と科学はレオンが教える。都合の悪い時は、臨機応変に変更できるからね」

「でも……でも……いいんですか。お二人の負担になりませんか。お二人にも、色々と予定があるんじゃありませんか」

 一日中勉強するなんて僕に出来るとは思えず、想像するだけで脳が反乱を起こしそうです。


「どのみち母上が帰って来たら、お前の勉強を見てやれと言うだろう。遅いか早いかの違いだけだ」

「メイドくんが落第したら、俺たちのせいだと罵られる。俺たちも必死なわけ」

「はあ……」

 あの朗らかで陽気なディリアさんが罵る場面は想像できないけれど、僕はさっそく勉強する事になったんです。




 朝食の後、僕はトーニオさんからラテン語を教わりました。

 僕の脳が破裂しそうになった時、トーニオさんが笑いながら、昨日のペテルグ公爵邸での出来事について尋ねたんです。

 

「レオンは俺と違って、女性に優しくないからね」

 僕の話を聞いた後、トーニオさんは言いました。


「ゲルタさんは……どうしてるでしょうね。カミーラさんは、まさか仕返ししたりしませんよね?」

「ゲルタちゃん、夏休み中はご両親と避暑地に行くらしいよ。新学期になったら、ユリアスのクラスに移る」

「ユリアス……?」

「本名をユリアーネというんだけどね。ユリアスと呼ばれてる。6年生の女子は2クラスあって、言い方は悪いけど、それぞれのクラスにボスがいるんだ。1組(アイン)にカミーラ、2組(ツヴァイ)にユリアスという具合にね。ユリアスは変わった子だけど、彼女にゲルタちゃんのことを頼んでおいたってレオンが言ってたよ」

「そうなんですか……」


 僕の瞼の裏に、せつなそうな視線をレオンさんに向けるゲルタさんの姿が浮かびました。

 フィアに入学したら、ゲルタさんに話しかけてみようと思います。

 もしかしたら友達になれるかもしれない。かなりの高確率で、返事もして貰えないだろうけど……。


 ゲルタさんに嫌われてると思うとまた僕の弱気の虫が騒ぎだし、小さくうずくまってしまいそうです。

 レオンさんやトーニオさんみたいに、闘って生きて行こうと決めたのに……。


「レオンさんは、どうして急に悪いお仲間と手を切ることにしたんでしょう? 何かあったんでしょうか」

 不思議なことにトーニオさんには、緊張することなく話しかけることが出来るんです。

 トーニオさんは優雅に頬杖をつき、僕の顔をのぞき込みました。

「あったと思う?」

「はあ……何となく」

 トーニオさんの意味ありげな微笑に、僕はどきりとしました。


「メイドくんの部屋に、俺達が泊まり込むってレオンが言い出した時のことなんだけどね。あの時マットレスを運びながら、もっと手っ取り早い方法があるってレオンに持ちかけたんだ。つまりさ、二人で君の部屋に泊まり込むより、君が俺のベッドで眠ることにしたら、もっと簡単だって」

「は……?」

「朝まで俺がそばにいるんだから悪夢にうなされてもすぐに対処できるし、優しく慰められるし、君が毎朝苦労してセットしてるその髪を一晩中撫で撫でして、はねないようにしてあげられるし――。そう言ったら、あいつ――――」

 トーニオさんは、くくっと笑いました。

「いきなり殴りつけて来たんだよねえ。気が短いと言うか、分かりやすいと言うか」


「何言ってるんですか。僕がトーニオさんのベッドで眠るわけないでしょう」

「そこを突くのか。大事な部分をすっ飛ばして」

 トーニオさんは片手で顔半分を覆うようにして笑い、僕には何がどう可笑しいのかさっぱり分かりません。


「あの、それで、そのことと悪いお仲間はどうつながるんですか?」

「君を俺のベッドに連れ込まない代わりに、後で君に迫らないって条件も付け加えさせられたけど、悪いお仲間とやら全員と手を切って、真面目な学校生活を送る約束をさせたってわけ。これでも俺は立派な兄貴だからねえ、弟を更正させようとしたんだよ」


 立派な兄貴が関わっている悪い女性はどうなるのか、という質問はしませんでした。

 レオンさんが突然カールさんやフランツさんのグループから抜けることになった理由が、よく分かりました。

 僕のせいだった――――。

 正義感の強いレオンさんは、トーニオさんから僕を守るために、グループと手を切る約束をしてしまったんです。

 今朝トーニオさんに「約束が違う」と言ったのは、そういう意味だった。


 でも結果として、レオンさんは愚連隊と手を切ることになったのだから良かったのかもしれないと、僕は自分に言い聞かせました。


「それからね、レオンはぬいぐるみが好きなんだよ。カミーラちゃんもゲルタちゃんも、ぬいぐるみには似てないからねえ」

「は……?」

 レオンさんと……ぬいぐるみ? ライオンがウサギを可愛がる以上に想像できないんだけど……。


「あいつがここに来た時、荷物の中にクマのぬいぐるみがあったんだ。お母さんの形見らしいんだけど、あいつ、毎晩それを抱いて寝てたんだよね。男らしくないなと思ってさ、俺はぬいぐるみの首を引きちぎった」

「ええっ……?!」

「子供の頃の話だよ。あいつは黙ってちぎれた首を縫い合わせて、俺は謝った。生まれて初めてだったよ、人に頭を下げたのは。今でもあいつ、そのぬいぐるみを大事に持ってるよ。女の子の好みも、ぬいぐるみなんだよねえ。小さくて可愛くて柔らかい子が好きなんだよ。カミーラちゃんは長身だし、ゲルタちゃんは……裏切り者だし」

「裏切り……?」


 トーニオさんは頬杖をついたまま、長い指でこめかみを叩きました。

「そうなるだろ? カミーラから離れたいなら、他にいくらでも方法があったはずだよ。なのにカミーラを陥れて積年の恨みを晴らしつつ、レオンに恩を売って親しくなれる一石三鳥の方法を選んだ。怖ろしくてさすがの俺も御免こうむりたいよ」


 そんな……。僕は呆気にとられ、ぽかんと口を開けました。

 ゲルタさんが……そんな人? 


「信じられない……」

「何が? ゲルタの人間性が? それとも俺の話が?」

「あの……」

 

 僕は、うつむきました。

 とてもついて行けない。話の行方にも、トーニオさんの考え方にも。それに――――


 レオンさんとぬいぐるみがどうしても結びつかなくて、僕は首をひねりました。

 レオンさんが可愛くて柔らかい女の子が好きなら、僕は範疇外です。

 痩せっぽちのカカシですから、僕は。髪がボワッと広がるから、マッチ棒とも呼ばれてました。


 自分がレオンさんの好みからはずれていると思うとなぜか悲しくなったけれど、どうしたって肉付きの悪い体やぺちゃんこの胸が変わるわけでもなく、諦めるしかないのかなと思いました。




 2時間目。

 僕はレオンさんから数学を教わりながら、何とかして逃避しようとする自分自身と格闘していました。


 数学の不得手な僕にレオンさんの教え方は丁寧で親切で、僕は必死に問題に取り組みました。

 でも勉強を嫌う僕の視線はいつの間にかすぐそばにいるレオンさんに向けられて、驚くほど長い睫毛や綺麗な黒い瞳や高い鼻筋を眺めては目が合って、慌てて視線をノートに落とすのでした。


 触れそうで触れない距離にレオンさんと二人並んで座っていると心臓が音高く飛び跳ねて、気持ちはふわふわ空を漂い、馬車の中でレオンさんが僕を抱きしめたことに向かってしまいます。

 あの時レオンさんは眠くてぼんやりしていて、僕を枕と勘違いしたに違いないと僕は思っています。

 僕も枕を抱きしめて寝ることがあるから、レオンさんが同じことをしてもおかしくないと思うんです。

 それに、僕を妹だとレオンさんは言ってくれた。妹だと思うからこそ、安心して勘違いしたんだと思います。

 僕はリーデンベルク邸に着くまで一生懸命レオンさんを支えたから、枕の役目は果たせたのかな……。


 そうは思いながら――――思い出すと顔が熱くなる僕。


「何か聞きたいことがあるのか?」

 レオンさんが言ってくれたから、今の僕にとって最も大切なことを思い切って尋ねてみようと思い、大きく息を吸い込みました。

「また勇気を吸っているのか?」

 レオンさんは笑っています。

「そんなに俺が怖いのか。俺はべつにお前を取って食おうとは思ってないんだが」


「あの……レオンさん。とっても踏み込んだ質問をしてもいいですか?」

「どうぞ」

「カールさんやフランツさんのグループから抜けるということは……拳闘もやめるんですか?」

「……どうかな」


 レオンさんは、考え込むような表情をしました。

「今すぐは無理だろうが……。潮時かもしれないな」

 レオンさんの言葉に、僕の中で期待の芽がぴょこんと顔を出します。

 レオンさんは拳闘をやめることを考えてる――――。そう思うと、安堵が広がっていきます。

 昨夜だってレオンさんが倶楽部に出掛けるんじゃないかと思うと不安で、出掛けそうにないと分かるとほっとして、落ち着かなかったんです。

 

「これ以上敵を作ると、お前を守りきれなくなりそうだからな」

 レオンさんはさらりと言い、僕は目をぱちくりさせました。

「敵……多いんですか?」

「まあね。今度は俺が踏み込んだ質問をさせてもらう。――どうしてそんなに家事をやるんだ?」

「家事? えっと……習慣です」


 レオンさんは頬杖をつき、僕を見て微笑しました。

「いつから家事をするようになったんだ?」

「えっと……僕の実の母とパパが離婚した後、必要に迫られたというか……」

「新しいママがいた時は? 家のことは、ママがやってくれたんだろ?」

「はい……いいえ……その……最初はそうでした」

「最初の後、ママは家事をしてくれなくなったのか?」


 僕はノートの上で踊る数字をぼんやり眺めながら、出来ることなら話したくないと思いました。恥ずかしく辛い、過去の記憶なんか……。

 でもレオンさんの顔は真剣で、何一つ見逃すまい聞き逃すまいとするかのように僕に見入っています。

 僕は唇を噛み、うつむきました。


「……二人目のママはバネッサさんと言って、すごく綺麗な人で、パパはぞっこんだったんです」

 酒場を経営していた赤毛の美女。八歳だった僕でさえ、うっとり見惚れてしまうほど美しい人でした。


 パパとバネッサさんは愛情あふれる目で見つめ合っていたけれど、僕はその中に入れませんでした。

 バネッサさんの僕に向ける目はとても冷たくて、「お前さえいなければダニエルと二人きりの甘い暮らしが楽しめるのに」と何度も言われました。


 ある晩、僕を施設に入れるようにとパパに懇願するバネッサさんの声が聞こえたんです。

 パパは「うーん、そうだなあ」と迷っている様子で、僕は施設に送られるんだと思って凍りついてしまいました。


 パパと話をしようと思いましたが、もしもパパが僕よりバネッサさんを選んだら――――実のママが僕を置いて行ってその上パパにまで見捨てられたら――――パパの口から施設に行けという言葉が出たら――――そう思うと怖くて足が竦んで、何も聞けませんでした。


「バネッサさんの役に立ちたくて、それで……」

 役に立つ子なら、施設に送られなくて済むと思ったんです。

 バネッサさんに必死にお願いして、家事はそれまでにも少し経験があったけれど、掃除や洗濯の仕方を教えてもらって、何とか家に置いてもらおうとしたんです。


「最初は下手だったけど、少しずつ慣れて……」

 何度も失敗して、バネッサさんに引っぱたかれました。

 それでも施設に送られるよりはましで――――施設がどれほどひどい所か聞いていましたから――――朝起きてすぐパパの朝食の用意をし、学校に行って昼前に走って帰って来て、起きて来たバネッサさんの食事を作って午後は掃除をして、週に二度は洗濯をして、僕なりに懸命に頑張ったんです。


「そんなに上手には出来なかったけれど、何とか役に立てるようになって……」

 そのうちバネッサさんは僕を施設に送ろうとは言わなくなり、冷たい目で見る代わりに無視するようになりました。


「九歳になる頃には、簡単な料理なら作れるようになっていました。……でもパパの浮気が原因で……」

「離婚することになった――――」

「――はい」

 実際には、怒り狂ったバネッサさんが家を出て行ってしまったんですけど。


「三人目のママの時は? その人も家事をしなかったのか?」

「しなかったというより、出来なかったんです。ママはジュリエッタさんと言って……あの、パパと結婚した時、ジュリエッタさんのおなかの中には赤ちゃんがいたんです。それで……」


 裕福な海運国であるベネルチアでも指折りの大きな貿易会社で,商才を発揮していたジュリエッタさんはパパより五歳年上で、決して美人ではなかったけれど有能そうな女性でした。


 妊娠して結婚した後とても体調が悪そうで、僕は家事はもちろんパパがシェフだという学校の友だちに頼んで、栄養のつく料理を教わっては作っていたんです。


「でも、赤ちゃんが駄目になって……そのせいでジュリエッタさんは精神的に不安定になって……」

 ううん、本当は違う。赤ちゃんが出来たから結婚したんだと、後でパパから聞かされました。ジュリエッタさんに仕組まれたとも。


 結婚したくなかったのに結婚することになって、パパは家に帰って来なくなりました。ひどいパパです。

 ジュリエッタさんはおかしくなって、流産してしまって、その後も家の中で暴れたり僕を叩いたり――――。


 その頃の僕は事情を知らなかったからママに嫌われたくなくて、出来ることなら好きになってもらいたくて――――小さくなって嵐が過ぎるのを、ジュリエッタさんが落ち着くのを待ちながら――――ママに気に入ってもらえるよう必死に家事にいそしんでいたんです。


「結婚して半年経たない頃、パパが他の女性と一緒に暮らしてるっていう噂がジュリエッタさんの耳に入って……それで……」

「離婚することになった、と」

 僕は、うなずきました。その頃すでに仕事に復帰していたジュリエッタさんは家を出て、僕は一人取り残されました。


「話したくないことが、たくさんありそうだな」

 レオンさんの黒い瞳が、僕が話さなかった部分を読み取ろうとするかのようにじっと僕に注がれて、僕は魂の底まで見透かされているような落ち着かない気分になりました。


「いつか、話す気になったら話してくれ。ひとつ気になるんだが……。お前、必死に頑張らないと家族の一員になれないと思ってるだろ」

「えっ、そんな……」

「今もそう思ってるんじゃないのか? だから、せっせと掃除や料理に励むんだろ?」

「えっと……えっと……その……」

 どう説明すればいいんでしょう。自分でも分かっていないことを、人に説明するのは難しいことです。


「俺もここに来た時、そう思ってたんだよ。八年ほど前のことだ。俺の母親は俺を産むとすぐに亡くなったから、母親というのがどういう人種なのか分からなくて、とにかくいつも父親に言われていたように、勉強にもスポーツにもその他のことにも努力しようと思っていたんだ。そしたらある日、ディリア母上が俺のところに来て――――」

 レオンさんは、可笑しそうに微笑みました。


「あの人は言ったよ。自分は人間としても母親としても、ろくな生き方をして来なかった。そのことをこの先色んな人から聞くだろうけれど、何を聞かされても母親として認めてほしい。その代わり俺がどんな人間だろうと何をしようと、息子として認める。そういう取引きをしないかと、持ちかけられたんだ。お互い、ありのままを認め合おうということなんだろうな。お陰で俺は、肩の力が抜けた」

 そうして、僕の目を覗き込みます。

「母上はお前にも、同じことを言うだろう。俺も、同じことを言う」


「でも僕の場合、いえパパと僕の場合ですけど、追い出されるかもしれなくて……」

 パパの浮気の虫が騒いだら、ディリアさんに追い出されるでしょう。

「ああ、なるほど」

 レオンさんは僕の思いを察したように、にっこりしました。


「パパには出て行ってもらおう、もしも母上を傷つけたなら。だが、お前はここに残るんだ」

「そういうわけには……」

「お前のパパは、一人でも生きていける。お前はここで暮らすんだ。学校で学び、レディとしての教育を受ける」

「もしもパパが追い出されることになったら、僕がここに置いてもらえるとは思えないんです。ディリアさんだって、そこまで寛大ではないでしょう……」

「どんな問題にも、解決方法はあるものだよ。方法は俺が考える。心配しなくていい」


 レオンさんの表情は穏やかだけれど真摯で、目は真剣で、全身から力強さが発散されていて、僕はレオンさんなら信じられると思いました。

「どうしてなんですか? ――どうして、そこまでしてくださるんですか? 僕は、あなたの役に立つようなことは何もしてないのに」

「役に立つからじゃないんだ。俺は、お前が好きだ。好きな人間のためなら、何とかしようという気になるだろ?」


 僕が好き――――。

 その言葉は深く深く僕の心の底に沈んでいき、ゆっくり弾けて僕の世界を薔薇色に染めました。

 僕は言葉を失い、表現できない感動で咽喉の奥が熱くなり、目の奥も熱くなって、ぱちぱち瞬きしながらレオンさんを見つめました。

 「一人じゃないからな、エメル」

 レオンさんの言葉が、僕の心を震わせます。僕はしゃくり上げながら手で涙をぬぐいながら、何度もうなずきました。

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