ハジマリ
気付いたら目の前に少女がいた。それも体中を真っ赤に染めている。俺は一瞬かかわりを持つべきかどうかを思案した。こんなご時勢だ。面倒ごとは世の中にゴマンとある。家に帰ってゲームをするか、ネットサーフィンでもしてたほうがマシだ。
なるべく女の子を見ないように気をつけて歩く。足早にさるのはなんだかカッコ悪くて嫌だった。……それにしても体中を真っ赤にしてこんな人気の無いところにいるなんて、一体どういうわけだ? しかも短パンにTシャツで。寒くないのだろうか?
……いや、こういうことは気にしないに限る。家に帰れば暖かいベットと何不自由ない暮らしが待っていて、俺はその生活を壊す気なんて毛頭無いんだ。適当にやってても暮らしていける自分の身分を手放すなんて、気が狂っているとしか思えない。そうだ、見てみぬフリをしよう。そうしよう。
でも気になってしまう。こういうのを野次馬根性というのだろうな。好奇心は猫をも殺すというがまさにそれだろう。好奇心が本当に猫を殺すかどうかは知らないが、野次馬が事件に巻き込まれるのはよくある話だ。山火事を見に行って自分が焼かれたり、人の喧嘩を見てたらそれに巻き込まれただとか、バカみたいな話は腐るほどある。俺までそんなバカになる必要は無いんだ。
……でもちょっとかわいかったよな……。って俺はバカか! そういうのがバカな証拠なんだ! いいんだよ、忘れちまえ。家帰ってテレビでも見て適当になんかやって寝て……そうすれば明日になってすっかり忘れてしまうはずだ。そうだ、それが一番いい!
……でも最後にもう一度だけ見てみたいな。一目だけ見てみるのもいいだろう。どうせちょろっと見るだけだ。
俺は真っ赤な少女を見てみた。とたんに心臓が跳ね上がる。可愛かったからではない。
――その子が俺のことを確かに見ていたからだった。
まるで蛇ににらまれたカエルのように俺の体はすくみあがってしまった。虚ろで生気の無い目をしている。上半身はほとんど真っ赤だ。腰まである黒のロングヘアーまで真っ赤に染まっている。ぽかんとだらしなく空いた口はなにかを求めているようにも、なにかを呟いているようにも見える。
怖い……怖すぎる。幽霊? いや俺は霊魂なんて信じない、でも!
……これはやばい、やばすぎる。もうどうしていいか分からない。なんで俺の足は動かないんだ? す、すくんでいるのか? 幽霊にびびってるのか? いや、幽霊なんているはずが無い! ただの真っ赤な少女に過ぎないじゃないか! でもとにかく尋常じゃない。早く逃げなければ。
「……っ!」
俺は息を短く吸うと、その反動で一気に走り出した。もうがむしゃらに走った。足がもつれて転びそうになったにもかかわらず走り続けた。悪夢から逃れたい一身で走り続けた。
例えるなら、道端で拳銃を持ったおっさんにいきなり襲い掛かられるみたいなものだ。いつもの平和が突如として破られた恐怖。後ろから忍び寄られてばっさり切られたような驚愕。俺は頭であれこれ思いつくままに考えながら走った。走って走って走りぬいた。体が自然と家まで向かっても、意識はずっと恐怖に張り付いている。
見慣れたマンションが見えてきた。ちょっとは安心したのと体が疲労困憊していたのとで、俺は立ち止まって一息ついた。
周りを見渡すと電気のついた家がチラホラと見える。街灯は規則正しく並び、歩道と道路を照らしていた。
ここは住宅街だ。なにかあっても助けを呼べば誰か出てきてくれる……。そんな安心感が俺の心をほっとさせる。
「なんだよ……あれ」
真冬だというのに体中に汗がべったりと張り付いている。真冬の汗ほど気持ちの悪いものは無い。じめっとして、嫌な汗だ。熱くなった体を少しでも冷ますためゆっくり歩き出してみる。
気になって後ろを振り返るがもちろん誰もいない。足音もしないし、人の気配があるようにも思えない。
「嫌なもんみたな……」
思いつくままに口から言葉が出る。いつもはこんな思いつきで何かを言ったりはしない。でも今は、言わずにはいれない。
さっき起こったことを反芻してみよう。帰る途中近道をしようと思い立って、いつもは使わない道を使ってみたら、真っ赤な少女が死んだような顔をして立っていた。まるで階段の類の話だ。たぶん小学生でもいまどきこんな話しないだろう。
夢を見たのだろうか? ほとんど風邪も引かなければラリ公でもない俺がか? ありえない。
では本当に幽霊だったのだろうか? ……ありえるか……いややっぱりありえない! オカルトな話は映画や作り話だけで十分だ! 実際にいるとは思えないというか思いたくない!
では彼女は何者だったのか? 人を殺した後だったとか? あの赤いのは血だったのかもしれない。なにかが原因で人を刺してその返り血を浴びていたのかも……。しかしカノ上半身は赤くないところを見つけるのが難しいくらい真っ赤だった。上半身ほどではないが下半身もほとんど真っ赤で、とうてい人の返り血を浴びてああなるとは思えない。
じゃあなんだ?
いや、考えるのはやめよう。考えたところでしょうがない。それにこんな馬鹿みたいな話考えたところでなにか意味があるとは思えない。せいぜい今夜悪夢をみる確率があがるくらいだろう。
やめだやめ。人間無駄なことに労力を使うほど愚かな事はない。どうしようもないことをどうかしようとしたって無意味なことだ。昔は魔法とか使えたらいいとか本気で思ってた時期もあったし、唯我独尊を貫いた時期もあったけど、できないことは当然できない。当たり前のことだ。
途端、高校や中学の頃の恥ずかしい思い出が甦ってくる。特に中学時代キレて学校の窓ガラスを殴って割ろうとして結局割れなくて恥ずかしい思いをしたのは今でもいい思い出だ。忘れたくてもこの思い出だけは時々思い出すことがある。他にも恥ずかしい思いではいっぱいある。強くなりたくて空手初めて、カッコつけたくて町のチンピラに戦いを挑んだら完膚なきまでに叩きのめされたりとか、思い出すだけで体中が痒くなって泣きたくなる。
……あー嫌なことを思い出してしまった。そんな恥ずかしい思い出はゴミ箱にでも捨ててしまおう。
気持ちと思考を切り替えて輝ける未来に顔を向けるんだ! そうだ、俺には未来がある!
なんて、また恥ずかしいこと思ってるな俺……。欝だ。死ぬか。
「あー、俺ってバカだ」
何をいまさらなセリフを吐いてみる。空にはあんなに丸い月が輝いているのに、俺の心中は薄暗い。嫌なことを思い出してしまったからだ。
――あれ……?。
「なんで、街灯が消えてるんだ?」
どう考えてもおかしい。先ほどまでついていたはずの街灯が全部消えている。故障だろうか? いつの間に消えていたのか? 全然気付かなかった。いくら考えることに集中していたってこうも真っ暗なら普通気付くはずだ。いつの間に消えたのだろう。いや、それより何かがおかしい……。
おかしいといえばさっきまで点いていた周りの家の灯りも全部消えている。唯一この俺を照らしているのは空に浮かぶ満月だけ。
ヤバイ……なにかがヤバイ……。
俺は一目散に走り出していた。暗闇から逃げるように、恐怖から逃れるように渾身の力をこめて走り出した。
呼吸はすぐに苦しくなった。息を吐くたびに肺が潰されたかのように痛んだ。まるで喘ぐように息を吸った。でも全然足りない。どれだけ吸っても酸素が足りない。どれだけ吸っても息が苦しい。立ち止まりたい。走りたくない。でも怖い。怖くて怖くて立ち止まれない。
ヤバイ、ヤバスギル。ナンダアレハ? フツウジャナイ。ナニカオソロシイモノガセマッテイル。シヌ……シヌ!
どこまで走っても辺りは真っ暗闇。どれだけ走っても家にたどり着かない。まるで同じところを何度も何度も繰り返し走っているみたいだ。どこまで行っても闇。どこまで行ってもゴールじゃない。解放されない恐怖。なにものかが背後からべっとりと迫り来る直感。
死ぬかもしれない。そう思った。それは紛れも無い事実のようだった。
「や……っ!」
声にならない声が吐き出される。俺の意思じゃない。俺の意思はとっくに吹き飛び跡形も無くなっている。あるのは本能だけ。俺を殺そうとしているヤツから逃れたいという、単純明快な本能だけ……!
息は完全に上がりきり、足はガクガクと痙攣を起こしている。まるでこれ以上走るのを戒めるかのように、心臓が急激に痛くなった。思わず胸を抑えてその場に跪いてしまう。体中がカッと熱くなっている。血管が膨張して皮膚の下を蠢いている。
まだ走れるだろうか? いや、もう走れない……。
あたりを見渡すとやっぱり暗い。いつの間にか月まで暗くなり始めている。本当に真っ暗になるのも時間のうち……。
――鐘の音が聞こえてくる
ぼーん、ぼーんとどこからか重苦しい鐘の音が聞こえてくる。くぐもってよく聞こえない。ただ一定のリズムで鳴るソレは、あきらかに大きくなっていた。
徐々に、近づいてくる。
徐々に、ハッキリと聞こえてくる。
徐々に、心臓が締め付けられる。
徐々に、うるさくなっていく
……まるで鐘の音の大合唱だ。頭蓋骨が割れるかと思った。脳がすり潰されるかと思った。あまりにもおぞましく、うるさい。死にたくないのに、この騒音から楽になれるならいっそ死にたい。そう思わせるほどうるさかった。
頭が割れそうだ。
鼓膜が破れそうだ。
心臓が破裂しそうだ。
気が狂いそうだ。
のた打ち回れるならのた打ち回りたい。でも疲れきった体がそれを許さない。俺にできることといえば吐捨物を吐き出すことぐらい。八方塞で、どうしようもない。絶望とはこういうことを言うのだろうか……?
気付いたら誰かが俺を覗き込んでいた。暗いからか、やけに顔の表情が分かりにくいと思ったらのっぺらぼうだ。ぎちぎちと小刻みに震え、気色が悪い。
化物だ。でも今の俺にはどうだっていい。気が狂いかけているんだ、幻覚くらいみるさ。
のっぺらぼうの顔に突然大きな口が開いた。顔の半分もあろうかというほどの大きな口だ。とがった歯が規則正しく並んでいる。人間のそれとほとんど同じだ。つらつらとひかる唾液が歯をつたり、顔を伝って俺の体に落ちてくる。なにをしようとしているのか、俺にはまったく理解できない。
理解したくない。そもそもそんな思考力は俺にはもう無い。鐘の音がうるさくて、考えることなんてできない。
いいんだ、このままどうなろうと。俺の知ったことか。もう意味が分からない。どうしようもない。痛くて苦しくて涙が出てくる。こんな苦しみから逃れられるなら、死んだっていい。
「……はやく……はやく殺せよ……」
思わずもれる嘆願の声。嘘偽らざる願いだ。
でもやっぱり死にたくない。
死にたくない死にたくないしにたくないしにたくないしにたくないシニタクナイシニタクナイ!
「情けないわね、あなた」
まるで春風のように爽やかで、海のように穏やかな声が聞こえた。
次の瞬間、のっぺらぼうは吹き飛ばされていた。なにが起こったかはわからない。ただ爆発のようなものが一瞬見えたような気がした。
なにが起こったかわからない。鐘の音は相変わらず響いている。ほとんどなにも変わってはいない。
しかしただひとつ、ただひとつだけ違うところがあった。。
――体中を真っ赤に染めた少女が、そこにいた。