プロローグ
時計台の鐘が鳴った。あたりは一面真っ暗闇で、いつもはついているはずの街灯は皆消えている。あたりは物音ひとつせず、唯一聞こえてくるのは遠くから響く鐘の音だけだ。いつもより鐘の音が不気味に響いて聞こえるのは私の思い違いではないだろう。不気味な音色は精神をイラつかせはするものの、怯ませはしない。ざまあみろだ。
髪の間を通り抜ける風が冷たくて、帽子を持ってこなかったのを後悔した。あと熱めのミルクティーも持ってくるべきだったか……。いずれにせよ後悔したって遅い。今度はどちらも用意しよう。仕事を終えたあとミルクティーで一息するのも好きだけど、やっぱりこう寒くてはどうしようもない。まあ、真冬なのに短パンとTシャツで歩き回る私が言うべきことじゃないのかもしれないけど。でもこの格好が一番動きやすいのだからしょうがない。それに私はそもそも厚着が好きじゃない。街を歩くたびにそう思う。
でも、そのポリシーもこう寒いとあっては捨てなくちゃ。背に腹はなんとやらというヤツだ。ヒロコはそんな私を「茹で過ぎたアルデンテ」と呼ぶが、私の知ったことではない。どうやら芯の無いヤツと言いたいのだろうけど、茹で過ぎたらアルデンテじゃないし、ヒロコはいつも適当だ。
『適当って言うんじゃないわよ』
突然頭の中に愉快な声が聞こえた。ヒロコの声だ。どうやら自分のことを適当と言われて喜んでいるらしい。私とヒロコの付き合いは長いけど、彼女の思考回路はまったく理解できない。適当と呼ばれて喜ぶ人なんて普通いるかしら……?
『じゃあなんて言えばいいのよ?』
『別に、なんと言ってもいいわよ。だって人をなんと言おうと個人の自由だし。ただ悪口はいけないわね、悪口は。育ちの悪さがばれちゃうわよ?』
『別にヒロコは傷ついてないじゃない。むしろ喜んでるみたいだし。だから悪口じゃないわ』
『モチロン傷ついてるわよー。もう、心が八つ裂きよ』
愉快な声は相変わらずだ。どうやっても傷ついているようには思えない。
『嬉しそうじゃない……ぜんぜん』
『だってここ最近自分のことを「適当なヤツ」だなんて言ってくれる人なんて、いないしー。だから傷つき半分、嬉しさ半分って感じかな』
『やっぱり嬉しいんじゃない』
『でも半分傷ついてるわよ?』
でもさっき心が八つ裂きになったって言ってたじゃない……なんてことは口にしない。面倒だからだ。
『……そんなことより、もっと大事なことがあるんじゃないかしら?』
『うんうん、あなたの知りたいことは分かってるわよ、藍』
『はやく教えて。今すぐ』
なんだかイラついている。ヒロコとの会話が原因ではない。鐘の音が、大きくなっているのにイラついているのだ。さっきまで遠くを飛んでいたハエが、耳元に近づいてきた時のような、あの不快感に似ている。
ハエは嫌い。でもこの鐘の音のほうがもっと嫌い。ハエなら叩き潰せるのに、鐘は叩き潰せない。それが余計私をイライラさせる。
『近いわね。その先五十メートルほどの所に「ある」わ。あまり詳しいことは分からないけど、藍の実力なら十分勝てるわよ、きっと』
どっちよ。
『きっと、なのか、十分、なのかハッキリさせてちょうだい』
『うん、言葉のままよ。じゃあがんばって』
愉快な言葉はそこで途切れた。腹立たしい回答ね……。
『……』
止まって軽く深呼吸してみる。少しは落ち着いたみたい。でも不快感は相変わらずだし、今度はそれに緊張感が混じって、私のイラつきは止まろうとしない。
ヒロコが勝てるといったら私は確実に勝つことができる。なぜならヒロコは嘘を言わないからだ。だから恐ろしい。きっとと言われることが恐ろしい。それに腹が立つ。自分勝手な怒りなんだけれど……。
私はいつの間にか歩き出していた。たまに私にはこういうことがあるのだ。感情や思考に気をとらわれすぎて、体が動き始めているのに気がつかない。そしてそういう時は決まって、緊張しているときだ。嫌ね、ほんと。
四六メートル二三センチ進んだ。うるさくてうるさくて仕方がない。鐘の音があたり一面大合唱している。
気持ち悪い。頭が割れる。帰りたい。でも帰れない。
うるさすぎてなにも考えられない。意識を保つだけで精一杯。はやく、はやく、仕事を終わらせないと。このままでは頭が張り裂けそう!
目の前になにかが見える。暗闇の中にソレは浮かび上がっている。まるでゴミ袋のように地面にうずくまっている。
……邪魔よ、あなた。あなたなんて、いなくなれ……!
ソレに手をかけ、思いっきり引っ張った。少し抵抗しているようだけど、気にしない。頭が痛くて、痛くて。
そのまま後ろに引っ張り、投げ飛ばす。重くも無ければ、軽くも無い。ただ手がヌルヌルするのが気になった。いや、気にしない。
ピクリとも動かない。まるで死んでしまったように動かない。
そのまま立ち上がらないで欲しかった。そのほうがやりやすいし、気が楽だ。
ずっ、と体が勝手に動いた。頭ががんがんして、まるで私の意志なんて無視するように体が動く。ずっ、ずっ、と動かなくなったソレに近づいている。意識が朦朧としている。私の体じゃないみたい。
ソレは余りにも不気味で気持ち悪い。気持ち悪くて吐きそうになる。腐った心臓みたいだ。腐ったトマトみたいだ。ぐじょぐじょと腐敗してつんとした臭いがする。もう気分はこれ以上ないくらいに最低最悪。頭も痛くて、目の前には一ヶ月放置した生ゴミみたいに臭うソレがいる。
息が荒くなる。衝動的にソレを蹴った。ぐにゅりとして嫌な感触だ。ぴゅっと赤黒い血みたいなものが飛び散った。気持ち悪くていらいらして何度も何度も蹴る。何度蹴っても飽き足りない。何度蹴っても不快感は増すばかり。
よくみるとソレには口がついていて、よく分からないけど呼吸しているみたいだった。口というよりもゴミ袋にあいた大きな穴みたいな感じだ。もしかしたら呼吸してないのかもしれない。でも気持ち悪い。心臓に口があって呼吸しているのを想像するだけで気持ち悪い。
衝動に任せて踏みつける。でも潰れない。何度も何度も踏みつける。そうするとちょっと気が楽になった気がした。頭はがんがんして気分は最悪だけどなんだか楽しい。
何度も何度も踏みつける。
何度も何度も。
調子に乗って口に手を突っ込んで引っ張ってみる。なかなか弾力があって裂けそうに無い。それでも引っ張ってみると突然ソレは痙攣したみたいにびくりとはねた。死んでいると思っていたのに生きてたなんて……。
急に口が収縮した。物凄い力だ。エレベーターの扉を無理やりこじ開けるみたいに、閉じようとする口を開く。いつの間にか鐘の音は聞こえなくなっていた。
もう終わりなのね……。残念。やるせない気持ちが私の胸にいっぱいにつまっている。さびしくてさびしくてしょうがないわ。
心がさびしさでいっぱいになってしまって、そんなさみしさをまぎらわせたくて、力いっぱい衝動に任せてソレを引き裂く。まるで赤い水の入った風船が破れたみたいにあたりに赤い液体が飛び散って、私の顔を濡らした。
気付いたら両手に握っていた残骸を放り投げていた。周りには街灯が灯っている。道行く人の姿もチラホラと見える。でも私には気付いていないようだ。
体がだるい。喪失感で体中がいっぱいになっている。帰りたいけど歩きたくない。早くふかふかのベットに入って眠りたい。
……ねむ……た……