奏でられたるは月の光〜或る特攻隊員とフッペルのピアノの物語
私はドイツ・フッペル社製のピアノです。
今、私がいるこの地、佐賀県鳥栖市には1930年頃に来ました。
当時は私を買うのに家一軒が立つとまで言われていたようですが、地元の婦人会の方々が寄付を募って私を呼び寄せて下さいました。到着したときには町をあげて歓待していただいたことを、まるで昨日のように覚えています。
戦争が始まってすぐの頃は、まだまだ国内も明るい雰囲気でした。軍部も国民を悲壮な気持ちにさせないように、明るい世相を作ろうとしていたぐらいですからね。昭和8年(1933年)なんて、神戸では「国際大舞踏会」が開かれてて、そのポスターには「オールナイト」なんて書かれてたんですから。私も学校で、子どもたちと思う存分明るい曲を歌ったりしたものです。
ですが、それも昭和16年(1941年)に、日本がアメリカとの戦争に突入した後にはどんどん規制がかかるようになりました。アメリカの音楽は当然禁止。わずかにイタリアやドイツの曲は咎められませんでしたが、素人さんには海外の曲はすべて「敵性音楽」に聞こえてしまうせいか、なかなか軍歌や唱歌しか歌うことができなくなってしまったのです。
そんなある日の事です。あれは5月だったか6月だったか、二人の青年将校が小学校を訪ねてきました。対応したのは当時新採の上野先生という女性の先生でした。聞けば、わざわざ私を探して、吉野ヶ里の目達原駐屯地から線路を伝って歩いてこられたとのこと。10kmはあるんじゃないでしょうか?私も何事かと思って聞き耳を立てました。
「自分たちは、音楽の勉強をしていたのですが、出撃する前に本物のピアノを弾きたくて、各学校を訪ね歩いてきました」
「途中の学校にもあったのではないですか?」
「いえ、ほかの学校はオルガンかアップライトしかありませんでした。立ち寄った学校の先生からここにならあると伺ったので、ここまで訪ねてきたのであります」
「そうですか……わかりました。こちらです」
「おお、ありがとうございます!」
初めに椅子に腰を下ろした青年は、目を瞑って深呼吸をし、それから鍵盤の感触を思い出すかのように指を動かした後、静かに曲を奏で始めました。
ピアノソナタ第14番「月光」。ヴェートーベンの曲です。
その調べは時に静かに、時に激しさを以って紡ぎだされます。青年は思いのたけをすべて込めるかのように、その曲を弾き切りました。
空間に広がっていく静かな調べに、子どもたちは身じろぎせずに聴き入っています。青年の指は、優しく、時に激しく鍵盤の上を動きます。それは彼の思いと共に、人生をも表しているようでした。
次いで座った青年は、「お前、お子さんたちがいるのにそんな重い曲を弾いたらいかんよ。僕は少し軽い曲を弾こうじゃないか」と言って、指をパキパキと鳴らしたと思うと子どもたちにウィンク。まるで軽やかにスキップをするような調子で鍵盤を叩き始めました。
こちらの青年が爪弾いた曲は、「マズルカ」と「ワルツ」。ショパンの曲です。
子どもたちも手拍子で応援です。
演奏が終わると、彼は胸に手を当て、深々とお辞儀をしました。
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「ありがとうございました。これで心残りなく出発できます」
「……お気をつけて。ご武運をお祈りします」
「ええ。では失礼します」
青年たちは、上野先生から受け取った白百合を持って、また目達原の基地へと帰っていきました。先生は涙を流しながらその後姿を見送りました。
当時の目達原基地と言えば、陸軍航空隊の基地です。そこは、特別攻撃隊の飛行訓練をするところです。彼らの言う「出撃」とは、生還できるあてのない片道の出撃だという事を、先生もわかっていたのです。
彼等がその後どうなったのかは、私も知りません。ただ、時折上空には名残を惜しむかのように戦闘機が旋回し、南の空へと消えていきました。
彼らもその戦闘機に乗っていたのでしょうか。
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それからしばらく経った頃。
広島、それから長崎に新型爆弾が落とされて間もない時のことです。鉄道の要衝である鳥栖は、8月11日に激しい空襲にさらされました。
私が置かれていた鳥栖国民学校にも爆弾が落下し、校舎が機銃掃射を浴びました。奇跡的に私は無事だったのですが、空襲警報解除後、すぐ近くにこども達6名の亡骸が運ばれてきました。
どさり。
私の目の前に置かれた、さっきまで笑っていた子たちの亡骸。もう踊ったり笑ったりする姿も見ることができません。
なぜ、彼らが尊い命を散らさなければならなかったのか。この時ほど私は自分で音を奏でられない我が身を呪ったことはありません。この子たちの盾となれなかった我が身を呪ったことはありません。
「終戦の詔」が出たのは、4日後です。もう勝敗は決していたはずです。なぜ、市民を攻撃せねばならなかったのでしょうか。今でもあの日を思うとやりきれなくなるのです。
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戦後50数年を経て平成の世の中となり、老朽化した私は調律もされず、一つの足は折れてしまい、学習机で支えられながら体育館の片隅で子どもたちを見守っていました。使えないピアノなんて、場所をとるばかりです。当然処分するという話がもちあがりました。それも仕方ないことです。私は静かにその時を待っていました。
しかし……
「ああ…懐かしい…!」
そこにいらっしゃったのは、年老いた上野先生だったのです。
上野先生は私が廃棄されると聞いて、いてもたってもいられずにわざわざ会いに来てくださったのでした。そして、あの戦争中の思い出を鳥栖小の子どもたちに語り、私の保存を訴えてくださりました。それがきっかけで、放送局による取材、番組制作があり、番組を見た人々から、私の保存を願う声が上がります。ついには多くの方々からの支援もあって、映画まで作られることになったのです。
ああ、そうでした。映画とは違うところが一つ。あの時の青年たちは、幸いなことに死地に赴かなくてもよくなったようで、その後音楽関係の仕事に携わっていたと伺いました。再会は果たせないままでしたが、本当に良かったです。
上野先生はその後、平和への思いを語る活動の中で倒れられました。しかしその思いと願いは、今も皆様の中で受け継がれています。
私はピアノ。
人は私を「フッペルのピアノ」「月光のピアノ」と呼びます。
私はピアノ。
私は歌う。今日も平和への祈りを音に乗せて。
私はピアノ。
私は今もこの地にて、あの日の事を語り継いでいます。
私はピアノ。
私は今日も世界に平和が訪れることを願っています。




