みそらとましろ
「ほう、君は実に理解が早いね」
俺達の前に現れた妙齢の女性は、口元に手を当て、にやりと笑う。
その様は妖艶で、ゆうなに向けられていることを理解しつつも、思わずドキリとしてしまう。
俺はゆたかを見上げ、目を合わせる。
ゆたかは困ったような表情で、肩をすくめていた。
「ちゃんと説明しておかないといけないね。特に、理解の早い君に抱かれているお嬢さんは難しいかもしれない」
お嬢さん、と言ってスーツ女性が視線を向けたのは、あかり。
ゆうなが守るように抱かれているため、顔をゆうなの胸に埋め、視線だけを返している。
何も言わないが、その視線が睨みつけるようなもので、怒りを含んでいるのがわかった。
あかりが怒ったら困る、というのは、この場においては俺が一番知っているはず。
慌て、俺はスーツ女性とあかりの間に入る。
「あ、こいつにお嬢さんって言い方は、ちょっと……。こう見えて、俺たちと同い年なんですよ」
「それは承知しているよ。私からすれば、君たちは一回り以上も下だからね、誰も彼もお嬢さんと表現できるのだが、気に触ったのならすまないね。表現を改めよう」
「ひ、一回り以上?」
「いや、もう少し見栄をはらずに答えるなら二回りに近かったはずだね。そういう性分ではなかったはずだが、どうしても控えめな表現が出てしまうよ。すまないね、あきら君、ついサバを読んでしまった」
つらつらと述べる内容に対して、俺は驚く。
ということは、四十歳を超えていることになるのだが、とてもそうは見えない。
言われてみれば少しばかり化粧が厚いように見えないこともないし、ほんの僅かに目元に小じわがあるのは認められるが、決して想定されるような年齢とは一致しない見た目だ。
いや、驚くのはそれだけじゃない。
「俺のこと、あきらって呼びました?」
「おや、違うのかね?」
「合ってますが、どうして俺のことを……」
俺をあきらと認知できる人間というのは、こと今日においては異常だった。
俺は、あかりのいた世界においてはあかりの姿となり、その見た目で認識されてきたのだ。
ゆうなやゆたかでさえ、今の俺の姿を見たとき、知っていたからこそ推測として認識してくれた。
しかし、この女性は俺のことを知っている。
そして、俺はこの女性のことを知らない。
「私はあきら君のことを知っているよ」
女性は、俺の思考を読んだように口を開く。
「先程も述べたように、私は菊池原だ。あきら君が男の姿の世界における菊池原だよ。君たち四人が通っている大学で教授をしていて、ファーストネームは「みそら」と言う」
遅れていた理解が追いついてきたと言うか。
改めて言葉にされ、突きつけられた事実を脳が解釈しようと働き始める。
菊地原先生、と指して頭に浮かぶのは、変態で変わり者で加齢臭の強いおじさん教授。
目の前にいる女性と同じような色のスーツは着ていたが、この女性は見事なスタイルを惜しげもなく見せつけるように着こなしているが、俺の知る菊地原先生にはその要素はなかった。
似ても似つかない人物。
だが、俺とあかり、たくやとゆたかの例を考えると……。
気になって、ゆたかに菊地原先生の下の名前を聞くと、
「私たちの知る先生の名前は「ましろ」だったよ。覚えていたのは、私の部の顧問だったから、というのもあるけれど、それ以上にあまりのギャップがあったからだね」
たしかに似合わない名前だな、とは思うが、それはいったん横に置いておいて。
聞いた二つの名前を頭の中で分解し、再構築――たしかに俺たちの例に漏れず、アナグラムになっていることを確認する。
まあ、別にアナグラムが証明であるというわけでもないんだけど。
疑問は多くあるが、一つ理解が進むと、その中でも大きなものに行き着く。
「どうして、俺の世界の菊地原先生がここに……?」
女性の菊地原先生と会うのは初めてだが、彼女が言うには俺と同じ世界の住人。
思い返せば、最初に声をかけてきたときに「聞き慣れた声」と言っていたのは俺のことで、「知らない子たち」と言っていたのは、ゆたかやあかりのことだろう。
俺のいた世界においては、ゆたかはたくやであり、あかりは存在していないのだから。
それはわかる。納得できる。
しかし、どうして女性の菊地原先生が俺たちのもとにいる?
俺たちと一緒にこの場所に来ようとしていたのは、男性の菊地原先生だった。
その一緒に来るはずだった男性が来なくて、どうして俺たちからすれば面識のない女性の方がいるのだろう、という疑問。
応えるように、女性の菊地原先生がくすりと笑う。
「それじゃあ、さらに理解を難しくする話をしてあげよう。先ほど私は、男性の私と会ってね。私はここを充分に満喫したから、代わりに私が君たちと合流する役割を引き受けたんだ。私は私の探究心について我がことのように知っているからね。だから、私は君たちの知る菊地原の代打というわけだ」
「え、ええと……?」
女性の菊地原先生が宣告したように、その言葉はひどく難解だった。
しかも宣告したということは意図する難しさというわけで、あえてそうするのも理由もわからない。
「みそら先生、わかりやすく説明することはできませんか?」
そう投げかけたのはゆたかだった。
「おや、出会って早々のタイミングでファーストネームを呼んでくれるんだね。久しい理由もあって、年甲斐もなく胸が高鳴ってしまうよ」
「あなたは美しいのでそう思ってもらえるのは光栄ですが、男性と女性という付属で呼び分けるのが複雑性を増しているようなので、使わせてもらっただけですよ。あと、年齢的には守備範囲外です」
「ふふ、そうかね」
ゆたかも、女性の菊地原先生も――ゆたかの表現に乗るならみそら先生か。そのどちらも、初対面とは思えないほど流暢に会話を進めている。
オカルト研究部であったときの二人の会話から、ゆたかからにじむ毒素を除いたようだな、と思った。
「それで、あえて増している複雑性を排除してくれますか?」
「わかりやすくするのは私の趣味に反するが、存在を違えても可愛い教え子の頼みだ。もう少し可愛らしさを付け加えてくれたら、考えてあげるよ」
「可愛らしさ、と言うのは?」
「私はたくや君の無口ショタっぷりが堪らなく好きでね。同質の存在でも君は大きく見た目も性格も違うようだから、たくや君の可愛らしさを模倣するのは無理が過ぎるというものだが、どうにかしてその片鱗でも見せてくれたらやぶさかではないよ」
ペラペラとしゃべるみそら先生の口元は笑っていて、その内容も相まって急に気持ち悪い。
この人、世界が変わってもやっぱり変態だなぁ……。
「ねえ、ちょっと」
そんなやり取りをしている二人と、見ていた俺に声をかけてきたのはゆうなだった。
「そんな不毛なやり取りしてないで、早く話を進めましょうよ。あかりが一番置いてけぼりになっていて可哀想だもの」
たしかに、この場でこの状況を一番に理解できていないのはあかりだ。
菊地原先生が揃ってから、と思って先延ばしにしていたが、その待ち人があまりに衝撃的で、するはずだった話をできていなかったことを思い出した。
見ると、ゆうなに抱き寄せられっぱなしになっているあかりの様子は大人しい。
俺の知るあかりの性格だったら、ゆうなが抱きしめて離さないのに突っぱねてそうなものだと思っていたが、あかりはされるがままで、自分からゆうなの服をその小さな手で握りしめていた。
「それに」
そんなあかりのそぐわない様子を不審に思っているとき、ゆうなは言葉を続ける。
「みそらさんの言っていたことは私が大体わかったから、その悪い嗜虐趣味に付き合う必要はないわ」
「ほう」
感心したように相槌を打ったのは、当人であるみそら先生だった。
「答えは全て伝えているからあまりに意外というほどではないが、やはり君の飲み込みの速度は驚嘆に値するね。私の楽しみを一つ減らされてしまうことは、やや残念でもあるがね」
挑発的な笑みを浮かべながら、みそら先生は実に流暢にしゃべる。
その流暢さは男性の菊地原先生によく似ていると思うのだが、口にすると人物が変わるだけで印象が大きく違う。
ゆうなが「嗜虐趣味」と表現したこともあって、なかなかどうしてサディスティクな人に見えてきた。
俺はゆうなに問いかける。
「ゆうな、わかったのか? いろいろ言われすぎて、俺にはさっぱりなんだが」
「私はオカルト否定派だからね」
返事は問いに対する直接的なものではなく、自身にまつわるものだった。
「どうしてもおかしなことを言われると否定するための思考がぐるぐる回っちゃうんだけど、今は逆によく理解できるみたい」
そう聞いて、好きと嫌いは表裏一体という誰かの言葉を思い出す。
「ま、こんなに自信満々に言っておいて、私の推測が間違ってたら笑い者になっちゃうけどね」
そう前置きして続けるゆうなの説明は、あかりへの説明から開始された。
*
それは俺が自分の部屋で目覚め、改めてゆたかと菊地原先生を部屋に招いてから、次の行動に関する相談をしていたときのこと。
この場所、俺が「世界の隙間」と表現し、菊地原先生が「ミステリースポット」と呼称するおかしな空間にみんなでやってきたのは、菊地原先生の提案だった。
睡眠薬――と言ってもドラッグストアで市販されているもの――を買おうと立案していた時点で、菊地原先生はこう考えていたらしい。
果たしてミステリースポットに影響されるのは、あきらとあかりだけなのか、と。
菊地原先生が言う仮説はこうだった。
俺とあかりの入れ替わりを起こしたのは、ミステリースポットによる影響が強いと考えられる。
そしてその場所は俺の部屋にあったから俺とあかりに影響を及ぼしたものであり、必ずしも個人に限定されるものではない可能性がある。
つまり、その場所で特定の条件を満たせば、俺以外の人物もミステリースポットに行けるのではないか、という話だった。
その可能性の話は、俺が元の世界に戻るのに役立つメリットもあると、菊地原先生は言っていた。
俺が伝えた限りのあの場所の情報から、まだ探索すべきことややり方はいくらでもあるそう。
あかりはもう充分に出口らしきものがないか調べたと言っていたが、それはあかりにとって「出口」と思えるものを探そうとしていたに過ぎず、探索者が変われば、まだ見つけられる可能性もあるとのこと。
もしあかりが出口だと思えないようなものが世界をまたぐ何かだった場合、あかりはそれを認識せずに見逃しているかもしれない、という話だ。
たしかにあの空間はあまりに暗く視界は開けていなくて、なのに目の前にいたあかりの姿はしっかりと視認できる常識外の空間だった。
そんな場所にある何かであれば、それが俺たちが想像するような見た目であるとも限らないのだろう。
そして、その探索のためには人手は多いに越したことはない。
未知の空間で、姿かたちのわからないものを探索しようというのだから、できるだけ多くの人数で探したほうが効率的だという話だった。
ただ、できる限り多くと言っても、今から他に友達や協力者を集める、ということは難しい。
この深夜帯に俺の家まで来れるかどうかという問題や、来てくれたとしても協力を得るためには俺の置かれている現状を説明するなどの時間がかかってしまう。
時間をかけるなら、俺の部屋よりも、あかりのいたあの空間で。
幸いなことに、あかりが言っていたようにあの空間での時間の流れは現実のそれと比べてかなり差があるようで、俺がさっき戻ってきたときの体感と経過時間に大きな開きがあったことを利用したい。
つまり、今時点で状況を理解しているゆうな、ゆたか、そして発案者の菊地原先生を伴って、またあの空間に行くのが適切だろうとのことだった。
その菊地原先生の提案を聞き、まずゆたかが即断で賛同してくれる。
「私は予め聞いていた部分もあったからね。あきらとあかりのためだし、協力を惜しむつもりはないよ」
こうして理路整然としているゆたかが味方でいてくれるのは、心底ありがたかった。
対し、ゆうなはかなり悩んだ様子。
その理由を聞いてみると、
「あかりのためにも協力してあげたい気持ちはあるんだけど、やっぱりどこか信じられない……いや、信じたくないという気持ちがあるのよね」
それはゆうなが俺に語ってくれた、ゆうな自身の反省にかかわること。
ゆうなはオカルトを信じたくない。その思いを強く持って生きてきたからこそ、曲げられない意思がゆうな自身が悔いてしまう行動を招いたと言っていた。
今度はそんなことをしないように、と考えるようにしているとゆうなは言うが、しかしそう簡単にいかないとも言う。
「だから、信じるか信じないかは別にする。ただ寝るだけでそんなことが起きるなら、今朝まで一緒に寝てた私に関係なかった理由がわからないわ。けど、今は否定するのをやめて、考えるのもやめることにする」
諦めのそれではない。
あえて目をつむるというのは、ゆうなにとってどれほどの思いのことなのだろう。
「私もそろそろ眠たいからね。今日はちょっと気が立つことが多かったから、よく寝るためにその睡眠薬をもらうわ。きっとその後に何があっても、私は夢だと思うでしょうね」
「はは、ゆうなは面白いね」
言葉を受け、楽しそうに笑ったのはゆたかだった。
それは屈託のない笑み。
「意地悪を言うわけではないんだけど、なかなかに厄介な性格をしているんだね、ゆうなは。これまでのあきらの話を聞いているのに、実際に行動を起こすとなったらそういう表現をするんだね」
たしかに意地悪を言うニュアンスではなく、なんだか感心している雰囲気。
返すゆうなも、どこか楽しげ。
「あら、人の心って矛盾ばっかりなのよ。しかも、現実に逃げることは大得意だからね。あなたたちみたいに、現実以外のことに目を向けるほど余裕がないのよ」
なんだかふざけているようにも聞こえるゆうなの声音は、今日聞いたたくさんのゆうなの声よりも清々しかった。
「さあ、それでは向かおうではないか」
そう告げる菊地原先生に、俺たちは頷く。
行くと言っても、場所は変わらないわけで。
ゆうなが人数分用意してくれた水と、同じく用意された睡眠薬を口に放る。
錠剤のそれを飲み込むとき、いつもより飲みづらく感じたのは、あかりの喉が細かったからだろうか。
そして、どうやら今日の俺はとことん疲れていたらしい。
たった一日に満たない時間で過ごすには、あまりに濃密な出来事の数々があったのだ。
さっき意識を失ったばかりだったはずだし、いつもならまだ寝るような時間ではないのに、効果は弱いかもしれないと言われていた市販の睡眠薬を飲んですぐ、俺は眠りにつき――
四度目のあの場所へ、再び訪れることになったのだった。