再来訪する世界
*
真っ暗な世界。
まぶたを開いても、見える光はない。
気がつくと、俺はあの空間に立っていた。
どうやら無事にやって来れたらしい。
見下ろす自分の姿は男のそれ。
懐かしさと、比較して力強さが身に宿ることを実感する。
手を握ったり開いたりして、その感覚を確かめる。
握れば、爪先が平に食い込む。開けば、皮が引っ張られる。
リアルな感覚。
「よし、また来れた!」
力強くガッツポーズ。
それは認識の確認。
ついでに自分の股間についているそれを触ったが、それも確かなものだった。
周囲を見渡す。
黒いもやと表現するしかない、俺の周りを包む暗黒の空間。
周辺に何もないのか、遮られているのか、どちらとも判別できない。
ただ、目を開いているのと閉じている差は感じるし、見下ろす自分の姿は視認できる。
光源の見えないこの場所でそれを成し得ているのが、やっぱり異常だと思えた。
『クソ野郎が。また来やがったな』
不意に女の声。
聞き覚えのあるそれは、あかりの声だった。
『俺が潰してやってから何時間だ? それとも何分か? また性懲りもなくこっちに来やがって』
今度の声がした後、唐突に正面からあかりが登場する。
姿は本来のそれで、服装は白のワンピース。
艶のある黒い紙を垂らし、白くキメの細かい肌。
薄桃色の唇は歪められており、黒く大きな瞳が俺を睨みつけていた。
そういえば、前回ここに来たときも、あかりは急に現れたっけ。
小さな驚きは、そんな理解と共に落ちる。
「まあな。まだ用があったのに無理やり追い出されたら、戻ってくるだろ」
『お前が俺を怒らせるようなことを言うからだろうが』
「あ、それはごめん」
途端にあかりが意外そうな表情をする。
あかりの言ってきたことは、たしかに俺が悪かったこと。
すでに反省していたところなので、そう言われれば素直に謝れる。
が、そんな俺に驚くのはどうなのか。
『ま、まあいいや。お前が謝るってんなら、また潰すのは勘弁してやるよ。で、今度は何しに来たんだ? また膜ってやつを探しに来たのか?』
「ああ、そうなんだけど……」
『ん? だけど?』
あかりの推測は正しい。
世界膜が見つかっても良いし、世界膜そのものが見つからなくても、俺が元の世界に戻れる何かを見つけたい。
ただ、俺が言葉を濁したのは、そのことではない。
(タイムラグがあるのか? それとも……)
首を傾げ、周囲を見渡すが、見える色は黒だけ。
目の前にいるあかり以外、何も見当たらない。
一抹の不安。
煮え切らない気持ちを解消するため、俺はあかりに質問をぶつけることにした。
「なあ、あかり。お前はどうやって俺のところに来たんだ?」
『どうやってって、お前、俺のすぐ近くにいただろ。急にお前の声がして、見たらそこにお前が立ってたんだよ。お前はいつもそうやって現れるからな』
いつも、というのは、俺がここに来た前回までのそれを指しているのだろう。
質問の意図をつかみかねているのか、あかりは不機嫌そうに口をへの字に曲げている。
「いや、俺からしたらあかりの方から急に現れたんだよ。さっきまでそこにいなかったのに、急にあかりの声が聞こえてきて」
『は? そうなの? どうなってんだ?』
それは俺の疑問でもある。
思い返せば、前回ここに来たときはいきなりあかりにドロップキックされたっけ。
俺が男の体に戻れたことに感動していたとき、いきなりあかりの声が聞こえてきて、振り向いたら大人の姿のあかりが蹴りをかましてきていたところで――
思い返した光景にムカつきを覚えるのと同時、気がつく。
「声、か」
特にこれといった根拠はないが、試してみても良いだろう。
そう思い、眉も口も曲げて不快そうなあかりに一声かける。
「ちょっと大きな声出すからな」
『は? なんで?』
「ゆうな――っ!!」
あかりへの返答を差し置いて。
どこを向いて良いのかわからなかった俺は、とりあえず斜め上を向き、口元に両手を添えて彼女の名前を叫ぶ。
ビクリとしたあかりの反応。
一瞬、身をすくめた後、遅れて両手を自身の両耳に。
怪訝そうに俺を見上げるあかりの口が開くか早いか、
「あ、誰かいた」
――聞こえてきたのは、別の声。
あかりの右斜め後ろ。
暗闇だったはずのそこから、にわかに現れる人影。
淡いピンク色のニット生地のトップスに、深い色合いのスカート。
肩まで伸びたふわふわの茶髪で、身長は俺とあかりの中間程度。
ふわりと柔らかい雰囲気を漂わせて登場したのは、ゆうなだった。
『……っ!?』
あかりがその長い髪を振り乱しながら、ゆうなの方へと振り向く。
表情は見えないが、息を呑むその声から、相当な驚きがあったのだろうことが伺える。
「……もしかして、あかり?」
『ゆ、ゆうな、か……?』
ゆうなのそれは、窺うようなもの。
あかりのそれは、確認するようなもの。
互いのそれが交差した後、一つの息の間。
「やっと会えた……!」
どちらからともなく発した言葉を皮切りに、ゆうなとあかりが抱き合う。
俺から見えるのはゆうなの顔だけだが、それはとても安堵した様子で目を閉じており、見ているこちらも気持ちが和らぐ思いがした。
「良かった、本当に良かったわ……。もうあかりに会えないんじゃないかって、不安だったの……」
『俺も……俺だって、ずっと、ゆうなに会いたくて……っ』
あかりの声が震えている。
抱きしめているゆうなの手はあかりの背に回っていて、あかりの着ている白のワンピースのシワを深くしていた。
微笑ましさもある反面、目の前で見せつけられると、妬ける気持ちもあるな……。
ゆうなに抱きつき、すすり泣くあかり。
あかりの頭や背を優しく撫で、包み込むゆうな。
そんな様子をしばらく眺めていると、ふとしたタイミングでゆうなが顔を上げ、俺と目が合う。
ゆうなが小さく首を傾げる。
「あきら、よね? その姿を見るのは初めてだわ」
「そうだよ。これが俺の本当の姿だ。落胆したか?」
「まさか」
ゆうなはあかりの頭をぽんぽんと優しく叩き、
「卑下するほどじゃないわよ。私の好みじゃないけどね」
いたずらっぽく笑うゆうなの言葉に、俺も小さく笑う。
『な、なぁ、どうしてゆうながここに?』
声をあげたのはあかり。
ゆうなに抱かれている胸の中から、少し喋りづらそうな鼻声。
「そうね、それを説明してあげたいのだけど、その前に……」
ゆうなが俺に目配せをする。
意図は理解できたので、俺は首を横に振った。
「今から呼ぶよ。そしたら、たぶんすぐに出てくる」
俺の推論が正しいかどうかは、二度目のこれを試せばハッキリするだろう。
先ほどあかりにした忠告をもう一度口にしてから、俺は大きく息を吸う。
それは大きな声を出す前準備。
視線を斜め上にしたのは、やっぱりどこを向いて良いのかわからなかったから。
「ゆたか――っ! 菊地原先生――っ!」
「おや、男性の声だね」
叫んで間もなく聞こえてきたのは、ゆたかの声。
声の方向は、俺の後ろ。
振り向くと、そこにはすらりと背の高い女性、ゆたかが立っていた。
タイトなジーンズと黒いシャツからスタイルの良さがよくわかり、背丈は男の俺よりも一回りも大きい。
細く長い手足も相まってモデルのように見えるのだが、シャツに書いてある意味不明な字面が本人の残念さを際立たせているよう。
「やっぱりゆたかは、俺が男に戻っても、俺より背が高いんだな」
「その表現をするということは、君があきらかい? なるほど、本来のあきらはこういう人だったんだね」
ゆたかを正面に見据えると、ゆたかの顎のあたりが俺の目線だった。
口元はもう少し上で、目を合わせるにはさらに見上げなければいけない。
あかりの体だったときはもっと顕著だったが、男の体でなおこの身長差は圧巻だった。
男の体であるとき、ゆうなのことは見慣れていたので違和感はなかった。
あかりは、対面するのが初めてだったので、それも同じ。
ただ、ゆたかに関しては、あかりの体のときに初めて会い、その視線からの見え方に慣れていたので、男の体に戻った状態で見ると不思議な感覚がする。遠近感がずれるみたいな感じ。
『ゆ、ゆたかまで……?』
「やあ、あかり。元気だったかい?」
あかりの声に反応して、ゆたかは俺の後ろ、あかりの方へを目を向ける。
その視線はとても優しいもので、伴う微笑みも同様の色を帯びていた。
俺もあかりの方へと振り返ると、あかりはゆうなに抱きしめられている体勢のまま顔だけをこちらに向け、さらに疑問を深めていた。
『ゆうなも、ゆたかも、どうしてここに? いや、どうやってここに……?』
「説明したいんだけど、菊地原先生が来てからな」
もう一人、来るだろうと思っていた菊地原先生が来ていない。
あかりは俺の声が聞こえて、いつの間にか俺が現れたと言っていた。
俺も、あかりの声が聞こえて、そしたらあかりが目の前に出てきた。
声から始まっていたことに気が付き、試しに名前を叫んでみたら、その通りにゆうなとゆたかが出てきてくれた。
そのことに、俺は非常に安堵する。もしかしたら、この場所には俺しか来られないんじゃないかという不安もあったので、二人が来られたことを確認できて、本当に良かったと思う。
しかし、ゆうなたちがこの場所に至るまでの発案をしてくれた菊地原先生が来ない。
もう一度、俺は叫ぶ。
「菊地原先生――っ! ここですよ――っ!」
やっぱり対象の見えない相手に向かって叫ぶときは、どこを向いて良いのかわからない。
あかりたちやゆたかの方に向くのもあれなので、誰もいない方向に向き直して、その斜め上に向かって声をかけた。
……それから少しの間。
一向に姿を見せない菊地原先生。
ぐるりと一周見渡してみたが、どこにも姿がない。
「こ、来ないな……」
「あきら、私たちを呼んだときもそうしたのかい?」
俺はゆたかの問いに頷く。
「名前を呼べば出てくるって確定しているわけじゃないんだけどな。声が聞こえたら現れたって共通点があったから、やってみただけなんだけど」
「なるほどね。それでも、先生は出てこないのか」
悩む様子で、もしかしたら来られなかったのかもしれないね、と付け加えるゆたか。
「まあ、先生がいなくても、私とゆうながいるんだ。これで一つの仮説は立証できたと言ってもいいと思うし、話を進めていこうか」
「あら、聞き慣れた声と、知らない子たちだね」
言葉を並べ始めたゆたかの後ろから、声。
流れから考えると菊地原先生だったであろうそれは、俺の耳には全く違うものに聞こえる。
なぜならば、その声音は女性のものだったから。
「なるほど、合計で四人。推測ではあるが、君たちの正体がわかったよ」
そう声をかけてくる女性の方向へ、全員が向く。
見えたのは、妙齢と表現できる女性の姿。
やや赤みがかった長い髪を頭の後ろできっちりと結わえ、キリッとした切れ長の目、細い鼻筋、赤く塗られた唇が大人の女性といった雰囲気を醸し出している。
着ているのは、体のラインに沿った紺色のスーツ。
ジャケットの中は胸元の開いたカットソーで、その内側から盛り上がるボリュームはこの場にいる誰よりも大きい。
下はタイトスカートで、脚は濃い色のストッキングに身を包み、真っ赤なヒールのある靴が映えていた。
「だ、誰ですか……?」
かなりの美人。
俺たちよりも年上に見えるが、果たしていくつなのか想像しづらい外見の女性だった。
「ああ、そうだね。自己紹介しておいた方が良いだろう。きっと驚くだろう、いや驚いてほしいね。――私が菊地原だよ。君たちの知る外見とは大きく違うかね?」
……はい?
脳が理解を受け付けない。
菊地原、という名前が指す人物像とあまりに不一致で、思考が止まってしまう。
「えぇと……」
口にしたのは、ゆうな。
そちらを振り向くと、抱きしめたままのあかりを守るように、やや警戒した様子だった。
「あなた、“別の世界の”菊地原先生ですか?」