ぷつりと潰されて
過ぎた後悔は流して。
怒っているからか、いやきっと怒っているからであろうためにほんの少し頬を上気させているあかり。
組んでいる脚を後ろに、ワンピースの裾を両手で押さえる。
『それに、仕方ねえだろ。こんな服を着るのは久々なんだし、宙に浮きながらなんて初めてだし……』
それを言われたそうなのだろうが、もう少し気を遣ってほしい。
その状態が不慣れだというのであれば宙に浮くのをやめればいいし、服装だって自由のはずだ。
そう伝えるも、
『嫌だよ。ふわふわ浮くのってなんか楽しいし、この服だって着てたいし』
それでいて俺に見るなというのだから、わがままだ。
『こんな何も比較対象のない場所で空を飛んでも、あんまり飛んでるって実感がなくてさ。よくわかんねえけど飛んでるんだなって確証はあるんだけど、せっかく飛んでも見下ろせるものが何もないとな』
その点、俺がいると変わるらしい。
『やっぱ、目の前に人がいると浮いてる感じがするんだよな。楽しいんだよ、お前は変わらず地面に立ってて、俺だけ好きに浮くことができるこの優越感は』
「勝手に優越感を覚えるのやめろよ」
少なくとも今の俺には飛べないことがわかっているので、あかりの気持ちは知れない。
だが、楽しいと感じているのはたしかにそのようで、俺の目の前で浮いて以降、思い出したように浮く頻度が増えている。
俺に見られるという心配さえなければ、きっともっと高くまで飛んでいることだろうと思える。
「じゃあせめて服を」
『それもやだ。ゆうなからのプレゼントだもん。着れるときに着ておきたい』
「ゆうなからもらって嬉しいのはわかるけど、それでもどっちかに……あれ?」
どっちかにしてくれ。
そう言いかけた俺の口は、覚えた違和感をブレーキに停止する。
それは、いくつかの気になる話だった。
「ゆうなからのプレゼントが、嬉しかった?」
『当たり前だろ。彼女だぞ? 彼女からのプレゼント、お前は嬉しくないのか?』
嬉しいに決まっている。
それを所望するあまり、ゆうなの地雷を踏んでしまったこともあるくらいには。
ただ、そうではない。
「ゆうな、そのワンピースをプレゼントした時のあかり、嬉しくなさそうだったって言ってたぞ?」
『あっ……』
不意をつかれたとでもいった様子で、あかりは小さく目を見開く。
が、すぐに考え、小さく「いや、これはもう言ったことか」とぼやいた。
『あー、それな。たしかにそう受け取られちゃってるよな、ゆうなには……』
「ん?」
含ませるあかりに、どういうことか問うと、
『ほら、俺、ゆうなと付き合ってから男っぽくなろうとしてたって言っただろ? 今でもそうなんだけど、ちょうどそれに躍起になってた頃合いに、こんなに可愛い服をもらったからさ、なんていうか、その……意固地になって、ゆうなに突き返そうとしたり、しちゃったんだわ……』
羞恥と後悔の入り混じった表情。
当時の自分を思い出し、それを恥じる気持ちと、ゆうなの気持ちを受け取れなかったことへの後悔なのだろう。
ゆうなに謝りたいなぁ、とつぶやくあかりの言葉は、たしかに心の底から出てきたのだとわかった。
『もらってからずっと、タンスの奥に入れっぱなしだったからな。やっぱりプレゼントは嬉しかったし、お前が代わりに着てるって聞いてから腹が立ってたし。ここなら服も自由にできるのがわかったから、本物を着れなかった分、思う存分着たいんだよ』
ワンピースの裾を押さえ、浮いたままふわりと俺の前で一回転。
それは俺に見せつけるための動作だろう。
先ほどまでの反省を踏まえていたのでパンツが見えることはなかったが、そのせいで見せつけるにはぎこちない動作になっていた。
あかりの言い分は、わかる。
ゆうなとのことを思って男っぽくあろうと強く思っていたところに、そのゆうなから女の子女の子した服をプレゼントされたのでは、素直に受け取れなかったのだろう。
素直でなかったことを自覚している今では、それが後悔となっていることも、着たくなる気持ちもわかる。
先ほど感じた違和感の一つは納得できた。
そう、一つ目は。
「そうは言うけどさ、ワンピース着てない時間も結構あったじゃんか。今の俺みたいな服装して、今のあかりとは全然違う体型で」
『あ、あれは……』
あかりの視線が左に泳いだ。
俺が言うのは、俺がここに来たとき、いきなりドロップキックをしてきたときの姿のこと。
あのときのあかりは随分と大人びた体型になっていて、別の服装だった。
ゆうなにもらったワンピースを着ていたいと言うのであれば、そのときの様子と矛盾を感じたのだ。
『あれもあれで楽しかったって言うか、まあ気分って言うかさ。さっきまではそうだったけど、今はこっちの方がいいって言うか……』
煮えきらず、尻すぼみに消える言葉。
もしかして、弱みでもあるのか?
不意に訪れたそれに、俺は思わず楽しくなってきてしまう。
高さを均一に維持していて、もはや浮遊と言うよりもホバリングのようになっているあかり。
そのまま俺から距離を取ろうとしていたので、逃げるその手を掴む。
「なんだよ、もったいつけずに教えろよ。なんでワンピースを着ずに大人っぽくなってたんだよ? つうかあれ、誰かモデルでもいるのか?」
『い、言わねえよバカ! 調子に乗るなっ! ニヤニヤするな、気持ち悪いっ!』
掴んだ手を振り払い、あかりは握りしめた拳をぶんぶん振るう。
あかりの小さく細い腕では怖くないが、それでも当たったら痛そうなので、今度は俺から少し距離を取った。
なにか訳ありらしい。
恥じらう様子の強さから、男装をしていた理由を聞いたときとは違って、わりと安易な理由なのだろうということが推測できる。
あ、もしかして。
「ないものねだりだったり? あかりは身長も胸もないからな。それに比べてさっきの体型はどっちもあったし、あかりと真逆で大人の女性って感じだったしな」
『~~~~~っ!?』
安易な理由は、安易な想像で当たっているようだった。
目を見開き、顔を真っ赤にしたあかりが、言語化できない言葉を叫ぶ。
やっぱり、ゆうなの気持ちがわかってきたかもしれない。
こうもわかりやすくからかい甲斐があるなら、俺の中にそうなかったはずの嗜虐心がくすぐられてしまうというもの。
あかりがゆでダコのような赤みに染まった顔で蹴りを繰り出してくるも、すんでのところでかわす。
つい饒舌になってしまう。
それは、先ほどまでの鬱憤も含まれていたのだろう。
「おいおい、図星だからって蹴ることないだろ? あ、大人の姿だったらもっと脚が長かったはずだから、そっちなら届いたかもな? あと、その服で蹴るとまた見えるぞ?」
『うるせえうるせえ! もうお前しゃべんなあっ!』
ワンピースの裾を押さえる体勢に変わり、空いた片方の手で殴ってくるも、それも痛くない。
殴ってくる場所はだいたい反応できたので、俺は両手のひらでそれを受け止める。
そんな様子も、あかりからすれば怒りのボルテージを上げる要因だったらしい。
殴るのをやめると、また言葉にならない唸り声をあげ、地団駄を踏む。
つい調子に乗ってからかってしまったが、見ればあかりは少女のような体型なので、なんだか子供をいじめているような悪い気もしてきた。
「ごめんって。悪かったよ、冗談だって。自分にないものを求めて憧れる気持ちはわかるけどさ、ゆうなはあかりのその体のことも好きだって言ってたぞ?」
『お前経由でそんなこと聞きたくねえよ!』
まあ、それはそうかもしれない。
本来であれば、ゆうな本人から聞きたい言葉だろう。
今日一日、俺は否が応でもあかりの体の感覚を体験させられていた。
あかりの小さな体がどれだけまどろっこしいか、か弱い力で抗えないことが多いことか。
男の体との比較もあるだろうが、変な表現をすれば、あかり一日体験ツアーを経てきた俺からすれば、あかりがどんなことにコンプレックスを抱くのだろうかという気持ちも想像しやすい。
そして、それを認めてもらいたい本来の相手も。
一方で、ゆうなには、あかりを愛している気持ちの体験もさせられている。
ちょっと歪んでいるような気がしないでもないけど、あかりのことを思う気持ちは本物で。
何度それを羨ましいと思ったことか。
……あ、ちょっとムカついてきた。
「お前も、その体で良かったと思うだろ?」
『そ、そうだよっ、俺は俺の体で満足してるんだよっ!』
動揺の色を見せながら語気が強いのは、きっと気にしているのをバレたくなかったからだろう。
あまりにわかりやすい。
ゆうなやゆたかからしたら、きっとこんな風に見えてたのだろう。
そりゃあ、あんなにも表情が読みやすいと言われるわけだ。
俺が思いついたのは、経験から生じる実体験。
「憧れはあるかもしれないけどさ、あかりは今の体の方がいいと思うぞ? あの大人びた姿になったら、ゆうなからいじめてもらえなくなっちゃうかもしれないぞ?」
『は、はあっ!?』
あかりの体の中にいたときには、わからなかったこと。
自分の体になって、わかったこと。
それは、あかりの体の癖だった。
今日の出来事を振り返ると、なんと肌色成分の多いことか。
そのほとんどはゆうなのもの、そしてゆうなによるもの。
逐一思い出されるのは、ゆうなに攻められ、否応なしに縮こまるしかなかった記憶。
情けなくもあり、違和感もある。
「今の体に戻ってみたら、はっきりしたよ。ゆうなに怒られたり、攻められたり、抱かれたり……今日一日いろいろあったけど、そんなことをされるたびに妙に泣きやすかったり、びびったりしたんだよ。やっぱあれ、あかりの体のせいだわ」
思い返すのは、今日の俺の振る舞い。
ひょんなことで泣いてしまったり、体が強張ってしまったり、自分の意図しない体の反応が多かった記憶が多くある。
元の体に戻っている今と比較すると、体から生じる心の圧迫感というか、感情の自由度が違う気がする。
俺らしくない振る舞いは、きっと小さくか弱い体によって引き起こされていた感情だったのだろうと思った。
一方で、あかりは常にその体で生きてきた。
そして、“あの”ゆうなと恋人関係にある。
ということは、
「あかりは自分の小さな体を、ゆうなに好き勝手されて喜べるんだろ? ここに来るためにってお願いしたら、ゆうなは気絶するまであかりの体をよがらせることができたってことはさ、前にもそこまでやられたことがあるってことだろ?」
経験がなければ、あんなことを軽くやってのける理由がない。
「もちろんその相手はあかり。ゆうなはあかりのことが好きなんだから、本当に嫌がってることをやるわけがない。つまり、そういうことなんだろ?」
『お、おま……っ』
「体の大きさが力関係に直結するとは思わないけどさ、もしあかりがあんな大人びた体になったら、ゆうなもきっといじめづらくなるだろうしな。小さくて可愛いその体のほうが、ゆうなと相性がいいんじゃないか?」
ないものを憧れる気持ちはわかる。
大学に行く前、鏡であかりの姿を見た俺が感じた感情もそうだった。
わかる、理解できる、共感する。
でも、俺からすればあかりの容姿は充分に優れていると思う。
年齢不相応の幼い見た目からくるコンプレックスを抱く気持ちも体験してわかっているが、俺からすればそんな憧れを抱かなくて良いと思う。
フォローが主で、ムカついた嫌味も少し。
そういった気持ちで俺の言葉に、あかりは眉尻を釣り上げて怒っていた。
『お、お前……お前、なぁ……っ!』
あかりの気持ちを理解しているつもりでの言葉だったのに、どうしてそこまで怒るのだろう。
疑問を解決する言葉は、怒りに震えるあかりから告げられる。
『気絶するまで、ゆうなと、寝たのかよ……っ!』
記憶を逡巡し、気がついた。
言ってはいけないことを、思わず言ってしまったことに。
「ちょ、待った待った――」
ぷつり、と音がしただろうか。
気がつくと、あかりは例の大人の姿に。
服装もシャツとパンツルックに変わっており、足も地面についている。
言うなれば、より動きやすい状態に。
あ、やべ。手遅れだったかも……?
『お前は何度俺の彼女と寝れば気が済むんだよっ!』
俺が言ってたことは、思いの外当たっていたらしい。
明らかに長くなった手足、動きを制限しない服装により、そのキレは何段階も増す。
あかりが繰り出してきた今度の蹴りはかわせなかった。
横腹に食い込む足先。
蹴られた後に見て気づいたのだが、あかりはハイヒールを履いていたよう。
硬い爪先で蹴られたものだから、俺は蹴られた方向にもんどり打って倒れる。
「ぐあ――ッ!?」
い、痛い……!
腹が、腰が……!
『あああもう、怒った! 俺は怒ったからな!』
倒れ込む俺の目の前。
大人の姿になったあかりは俺の顔の目の前に足を踏み降ろし、カツーンと高い音を響かせる。
踏まれるかと思った俺は、条件反射的に目を閉じる。
が、続く事柄はない。
……何も、来ない?
身構えて頭を抱えた俺だが、来るであろう衝撃に備えていただけ。
俺は疑問を抱えて顔を上げると、目の前にいたはずのあかりがいなくなっていた。
いない。消えた。どこにも見えない。
倒れた体勢から立ち上がって周囲を見渡すも、見えるのは黒い景色だけ。
前後左右、さてはと思って天を仰ぐも、その姿はない。
「あ、あれ……? あかりはどこに行った?」
『上だよ』
「わっ――!?」
不意な声。
腹の底に響くような、全身に感じる爆音の声。
声音は大人の姿になったあかりのそれなのに、その声量が飛び抜けて大きい。
人が出せるレベルの声量ではないし、それでいて喋り方は叫ぶようなものでもない。
何事か理解できない。
突然あかりの姿が消えたと思えば、とんでもない大きな声だけ聞こえてくる。
見渡しても、それを発したであろうあかりの姿は見えなくて――
(う、上……?)
あかりの言っていた言葉を理解し、不意に見上げた上空。
真っ暗な空間……だったはずが、少し、ほんの少し、なにか違うものが見える気がする。
『ふっ――』
それはあかりが息を吐いた音だったと思う。
本来感じるよりもずっと大きな音で響いたそれを聞いた直後、見上げていた空から強い風が吹き付けてくる。
急な強風に対応できず、俺はその風に押されて尻餅をついた。
「……あっ」
今度の声は俺から。
空から降り注いだ強い風。
真っ黒な空間が、その風によって徐々に薄まり、俺と“それ”との間の暗闇が晴れていく。
……どうしたら理解できるのだろう。
俺が見上げた、その遥か先。
とてつもなく巨大なあかりの顔が、こちらを覗いていることを。
「で、デカ……!?」
一口にデカいと表現するだけでは到底足りない。
見上げている視界のほとんどが、あかりの顔によって占められているほどの巨大さ。
その顎の位置でさえ、俺から見れば上空。
下に続く首、鎖骨は見えるが、さらに下は地面によって遮られていて見えない。
地面――そう認識していたそれが変貌していたことに、視線を下ろして気づく。
俺が尻餅をついている地面だったはずのもの。
それは、あまりに巨大の手の平だった。
『ついでにお前の用事も済ませといてやるよ』
上空の巨大すぎる唇が動く。
大きすぎる声量が全身を揺さぶる。
遅れてきた強風が、熱を帯びて湿っぽいことを感じる。
今起きている全てに理解できないまま、体に叩きつけられていく。
『これだけ大きくなったんだから、お前の探しものもまとめられるだろ』
見渡す限りのあかりの顔。
その同じ高さ、俺からすれば遥か上空に、もう一つの影。
俺の地面を成すのとは、逆の手。
『この中に世界膜があったら、一緒にぺちゃんこだよな?』
突如、空から迫る巨大なあかりの手。
平は下向きに、俺のいる地面と合わさるように。
俺が唯一理解できたのは、巨大すぎるあかりが、その両手で俺を潰そうとしているということだった。
「ちょ、ま、待てあかり――ッ!!」
対比して、あまりに矮小な俺の言葉が耳に届かなかったのか。
それとも聞く耳を持たなかったのか。
叫ぶ俺の制止も虚しく、天井――あかりの手の平が落ちてきた。
『反省しろ浮気野郎。俺のゆうなに手を出してただで済むと思うなよ!』
唐突すぎる幕切れに、俺はぷつりと潰された。